「月ちゃんは?」
 沙弥は広瀬を見据えて訊いた。
「天に還った」
「嘘、嘘でしょ?」
「嘘ではない。仕方がなかった」
「うそよ」
 沙弥は叫び声を上げた。
 広瀬は左手に籠を抱えたまま、右手で沙弥を抱きしめた。沙弥は空いた右手の拳で広瀬の肩や胸を打ちながら叫び続けた。広瀬はじっと彼女を抱きしめていた。沙弥と、広瀬と、月香の服。それは三者が身近に集った最後の場面だった。やがて沙弥は少し落ち着いてきた。反対に広瀬の震えは増していた。
「あのとき」と広瀬は沙弥を抱いたまま話し始めた。
「おれは自分を見失う寸前だった。滝の落下点にある平石に足を乗せようとした瞬間、自分の名前を呼ばれたような気がした。さらに今度ははっきりと呼ばれた。振り向くと、月香がこちらに向かって手を振っていた。おれは驚いて一歩月香の方に踏み出した。とたんにおれは彼女を解体しなくてはと思った。おれは、馬鹿な、月香を解体するなんてと思った。するとおれは、彼女もイメージの力が使えるから、おれは解体されるかもしれないと思った。危機的状況なのは自分でわかっていた。分裂が激しくなっていた。おれは、月香がそんなことをするはずがないし、万一解体されたとしても別にかまわないと思った。おれは、そんなことをさせてたまるか、おれの邪魔は決してさせないと強く思った。おれは危険を感じて滝の方に向き直り、平岩に足をかけて瀑布の中に入った。しばらく激しい水流に全身を打たれていると自分が戻ってくるのがわかった。頃合いを見計らって滝から出てみると、月香の姿は無かった。おれは、よろめきながら彼女の立っていた辺りに歩いて行った。流れのそばの岩場に月香の服と靴があった」
 話し終わると、広瀬は呻きながら沙弥を抱いていた腕を外して籠を沙弥に渡した。そうして小走りに滝壺まで引き返し滝の中に入った。
 沙弥は月香の服に顔を埋めて泣いた。微かに彼女の香りがした。秘書採用の面接のときに初めて会って以来の日々が思い起こされた。これが彼女の人生だったというのだろうか。何らかの力によって本来の流れから強引に引き離されたのではないだろうか。自分の愛する男の手に懸かって果てたのは不幸なことだったのか、それとも幸せだったのか。
 沙弥は月香への愛をあらためて感じていた。あなたの魂は今わたしの魂と融合したわ。あなたはわたしで、わたしはあなたよ。沙弥は月香の服を籠から出して小脇に抱えると、滝壺の方に下りていった。
 広瀬は滝の中にいた。すでに体力の限界を超えていた。普通の人間が、そうそう長いこと滝に打たれていれるはずがなかった。
 おれももうじき終りだと広瀬は思った。こうして滝の中にいても、ときどき、おれでないおれが顔を出し始めていた。アズロに意識を向けると、奴は変わらずそこにいた。ただ、内部にアクセスしようとしても無駄だった。
 広瀬は、おれがおれでいれるうちに沙弥の手によって解体されたいと思った。遅かれ早かれおれは死ぬ。このまま意識を保てたとしても、もう体がもたないだろう。あるいは、それまでにおれはおれでなくなるかもしれない。そうなった時、おれでない者が人類の解体を実行したとしたら、生身の肉体を持ったおれもまた無事では済まないだろう。
 沙弥は月香の服を抱えたまま水に入り、広瀬の方に近づいていった。もうこれ以上悲しい思いをするのはたくさんだった。自分の力で広瀬の危機をなんとか救えないものかと思案していた。広瀬が自分の無意識に乗っ取られて、その結果人類の一掃が行われ、わたしと広瀬の二人きりになったってかまわないとさえ思った。
「沙弥」
 水の壁の向こうから広瀬の声がした。
「沙弥」
 もう一度、声がした。
「ここにいるわ」
 沙弥は声のする方へ一歩進んだ。
「いいか、沙弥、よく聞いてくれ」
 広瀬は流れから顔を突きだして声を上げた。一区切り喋ると、また壁の向こうに引っ込む。
「もう滝の中でしか」
「おれ自身を保てない。それも」
「もうじき。沙弥」
「おれを解体」
「してくれ」
 広瀬は途切れ途切れに先程考えたことを沙弥に説明した。どのみちおれは助からない。ならば沙弥の手によって解体され、宇宙に還っていきたいのだと。人間への天誅が中途半端になってしまったが、そんなものを必要とする程度の人類ならば、いずれそれなりの結果がでることだろう。おれは余計なことをしたのかもしれないな。もう時間がない。おれがおれであるうちに。
「さあ、はやく」
「いやよ」
 沙弥は大声で叫んだ。
「あなたまで失うなんて耐えられない」
「失いはしない。おれは」
「おまえの一部になるんだ」
「できない」
「頼む、沙弥。わ」
「わかって」
「く」
 沈黙があった。しばらくして滝の中で人影が動き、広瀬が水の壁を割って出てきた。彼は沙弥に一瞥もくれずに彼女の横を通って岸に上がり、岩に座り込んだ。両膝の上に両肘を乗せて、そのままの格好でじっとしていた。
 沙弥は水に入ったまま、男を見つめた。姿形は広瀬に違いなかったが、それは沙弥のよく知る広瀬ではなかった。広瀬という人間を通してたどり着ける遙かに遠く深い場所にあるなにかが、広瀬というこの世への出口までやって来ているといった感じだった。
 彼は自分の無意識に敗れ去ったのだろうか。もし生きながらにして自己というものが肉体から消滅すれば、それはもう自分ではないことになるのだろうか。もしそうなら肉体というものは、ただの容器に過ぎないことになる。自己というものは魂と同じものだろうか。今の広瀬は自分の無意識に支配されているらしい。この場合でも魂は独自に広瀬の肉体に宿っているのだろうか。
「あなたなの?」
 沙弥は男に近づきながら声をかけた。
「体力の消耗が激しい」
 ふいに男が口を開いた。広瀬と同じ声色だったが、何かが違っていた。沙弥は以前バンドでギターを弾いている友人から聞いた言葉を思い出した。楽器ってさ、同じものを弾いても弾く人によって全然音色が違ってくるんだ。これにはびっくりするね。  
「少し回復させないと難しい」
「何が難しいの?」
 沙弥は流れに立ったまま、そう訊いた。
「奴らは数が多すぎる」
「奴らって誰?」
「もうじき六十四億になろうとしている」
「だから誰なの?」
「人間」
 男は地面を見つめていた視線を沙弥の方に向けた。そのまなざしは幻のように執え所がなかった。
「あなたも人間じゃないの」
「おれは小さい頃から人間でいるのが苦痛だった。なぜおれは花や木でないんだろうと思っていた」
「あなたがなりたかった花や木は、人間を殺そうとなんかしないわ。彼らはただ育ち、花を咲かせ、ふたたび大地に還っていくわ」
「おれは花や木にはなれない。だからせめて彼らに代わって大地や空の環境を汚す奴らを駆除したいと思ってきた」
「それはあなたの手前勝手な言い分よ。この地球上には一つの例外もなく不必要な生き物はいないわ」
「いや、おれはそうは思わない。人間はこの地球には必要ない存在だ。奴らは唯一地球を破壊できる存在だ。おれが思うに、人類はどこか他からやって来たのだろう。奴らは早く還りたいんだ。こんなところに居たくないんだよ。奴らに地球に対しての、他の生物に対しての愛がないのがその証拠だ」
 沙弥は男の言うことにも一理あると思いながら聞いていた。
「もし仮にそうだとしたら、故郷に還れるように手助けをすればいいじゃない」
「だめだ。そうすれば他のものが犠牲になる。何も人間だけが特別ではないんだよ。微生物も、メダカも、野の花も、空を舞う鷲も、みんな宇宙の奇跡だ。おれは、この美しい青い星を守りたいだけだ」
 沙弥は男の目に複雑な愛憎の光が宿っているのを見た。彼は本当に人間を見限ってしまったのだろうか。
「あなたは誰なの?」と沙弥は訊いた。
「おれは、おれは広瀬という男だ」
 彼は他人事のように答えた。
「さあ、少し力が戻ってきた。ちょっと試してみよう」
 男はすっくと立ち上がると目を閉じ、顔を少しうつむけた。十数秒後に男は大きく深呼吸をした。そして足元をわずかにふらつかせながら、ふたたび岩に腰を下ろした。
「何をしたの?」
 沙弥は嫌な予感がした。
「君の故郷を、おれのでもあるが、自然に戻した」
「なんですって?」
「東京ドームのときとほぼ同じ人口だからな。試すのには手頃だった」
 沙弥は怒りで目の前が真っ白になった。冷静にならなければと頭の一部では思いながらも、自分の育ってきた町の様子や、両親、友人などの顔が蘇ってきて、絶望的な怒りが身を震わせた。意識を故郷に向けてみたが、そこには海風の吹く荒野があるのみだった。
「許せない」
 沙弥は男を解体しようと決意した。東京にいるはずのアズロに意識を飛ばしてみたが、彼はそこにいなかった。沙弥は動揺した。アズロ、あなたはいったい。彼女は研究所の内部、近辺、東京、日本、地球全体にと次々に意識を向けてみたが、アズロにアクセスすることはできなかった。
「どうして?」
 わたしは独りぼっちになってしまった。わたしを助けてくれる者は誰もいない。月香も、広瀬も、アズロも、両親も、友人たちも、みんないなくなってしまった。沙弥は、そう思うと泣けてきた。涙が次から次へと頬を伝った。彼女の足下には落下した滝の流れがあった。履いているブーツに水が浸入し、下半身が冷え始めていた。
「君も自然に還れ」
 男は沙弥を見てそう言った。
「おれもいずれ、いや遠からずそうなる」
 沙弥は、もはや死ぬのは怖くなかった。月香や広瀬のいるところへ早く行きたいと思った。しかし、この男を許すわけにはいかなかった。
「いやよ」
 沙弥は月香の服を左手に抱え、右手の甲で涙をぬぐった。
「あなたを解体する」
「残念だが、君にその力はない」
「なぜそんなことがわかるの?」
「わかるんだよ」
 そう言って男は立ち上がった。
 やられる、と沙弥は思った。左手の服を見た。目を閉じて月香に話しかけた。月ちゃん、わたしどうしたらいい? わたしにはもう誰もいない。アズロもいなくなって、わたしにはもう力がないの。
 大丈夫、と月香の声がした。あなたは独りじゃない。あなたの得た力は健在よ。
 男がゆらりと一歩前に出て、すっくと立ったまま目を閉じ、頭を垂れた。
 沙弥は身体を右に回して、流れ落ちる滝を見すえた。落下が始まる地点から下方の平岩に激突する地点までを一瞬にしてとらえ、先程とおなじようにして水を解体した。滝壺の周辺から静けさが流れ込む。
 できた。沙弥はすかさず男に向き直り、男の全身から内部に分け入ろうとした。体の細胞を構成する原子の単位までをイメージして、その結合を解くのだ。しかし、男の内部には何も無かった。アズロのときと同じだった。
 滝壺では、ふたたび激しい水音が立ち始めた。
「無駄だ」
 ふいに男が声を上げた。
「観念して祈りを捧げているのかと思い、せめてそれが終るまで待とうとしていたのだが」
「あなたとアズロとはどんな関係なの? 彼はいったい何者なの? 教えて」
 男はそれには答えず、ふたたび目を閉じた。
 なんとかしなくては。沙弥は気を静めようと目を閉じた。ふいに広瀬の声が心の中に響き渡った。失いはしない。おれはおまえの一部になるんだ。あのとき広瀬は切に望んでいた。おれがおれである内に、おまえの手で解体されたいと。そうすることで、おれはおまえの一部になることができると。
 わかったわ、と沙弥は広瀬に言った。ならば、わたしはあの時に戻って、あなたを解体する。そして、あなたとわたしは一つになる。いいえ、あなたとわたしだけじゃない。月ちゃんも一緒よ。あなたも月ちゃんも、わたしと共に生きるのよ。そして、いずれわたしたちはまた会えるわ。
 沙弥の目の前に、白い飛沫と水の壁があった。その向こうに人影があり、沙弥にはそれが広瀬だとわかった。懐かしい波動が伝わってきて、沙弥は思わず涙ぐんだ。
 広瀬は流れから顔を突きだして声を上げた。
「失いはしない。おれは」
 そして一区切り喋ると、また壁の向こうに引っ込む。
「おまえの一部になるんだ」
 彼はまた顔を突き出すと、そう言った。
「わかった」
 沙弥は壁の向こうに引っ込む寸前の広瀬の目を見つめた。広瀬の目には、わかったという声を聞いたからだろう、安堵の光があった。
 沙弥は目を閉じ、広瀬の肉体をイメージし、細胞をイメージし、原子をイメージし、そしてそれを解体した。
 沙弥が目を開けると、左手に月香の服を持ったまま流れの中にたたずんでいた。滝壺の平岩に人影はなく、ただ永遠の水の落下があるばかりだった。
 彼女は歩いて岸に上がった。男が立っていた辺りに白い布が落ちていた。男の、いや広瀬のしていた褌だった。
 沙弥は右手でその白い布を拾い、左手の月香の服と合わせて胸の前に抱いた。そうすることで二人との一体感を得ようとした。しかし胸に込み上げてきたのは孤独感だった。自分一人が生き残ったという現実に打ちのめされた。
 突然、沙弥の脳裏にビジョンが浮かんだ。それは広瀬と同じように自分の意識が何らかの存在に侵食されている姿だった。広瀬や月香がいない今、自分の暴走を止められる者は誰もいないと沙弥は思った。
 いや、そうはさせない。わたしは自分自身を決して明け渡しはしない。たとえ自らの手で生を終えようとも。沙弥は強く強く、そう誓った。
 沙弥は空を見上げた。山の稜線ぎりぎりに太陽が覗いていた。壮大な夕焼けだった。紅に染まった空に誘われるように、彼女は細い山道を上り始めた。
 やがて九十九折りの山道を上り詰めたとき、沙弥は前方に気配を感じた。正面に駐車してある三台の車が見え、その前の地面に何かが横たわっていた。しだいに暮れていく風景の中に水色の光が浮かび上がった。


      了


(四百字詰め原稿用紙換算287枚)