沙弥はテーブルについたまま、しばし思考を巡らせる。広瀬や月香が身近にいるときには意識しなかったことだが、こうして独りになってみると、いま自分が置かれている立場に驚きを感じる。ほんの二年半前までは山と海の狭間にある小さな町で平穏に暮らしていたのだ。きっかけがあったにせよ、なぜわたしはあの穏やかな日々を後にしたのだろう。特別不幸というわけでもなかったし、家族の中に居場所がなかったわけでもない。広瀬という男に女として惹かれたのは確かだったが、それだけの理由でふたたび故郷を離れたとは思えない。アズロに象徴されるあの世的な力との出会いが、わたしの心の奥深く眠っていた何かを目覚めさせてしまったのだろうか。あるいはもっとシンプルに、生来の好奇心の強さが全ての原因だったかもしれない。わたしはわたしをもっと識りたかったのかもしれない。
「お待たせしました。今夜はカモミールティーにいたしましたが、よろしかったでしょうか」
 中川はテーブルの上にカップやポットの乗ったトレイを置いた。
「ありがとう。そんな感じのものがちょうど欲しかったの」
「ではミルクも添えてありますので、お好みでどうぞ」
 中川は一礼すると立ち去った。
 立ちのぼる香を楽しみながら、沙弥は熱いハーブティーをゆっくりと飲んだ。

 ホテルの外にあるレストランで食事をしたあとプロムナードを歩いていると、近くにあるテレビ局のビルの方に大勢の若者たちが向かっていくのに出くわした。辺りはすっかり暮れていた。広瀬と月香は、自然とその流れに加わって歩いていった。ビルに続く長い階段を登っていくと、上がりきったあたりに大きなスクリーンが設置されており、音楽番組が放映されていた。どうやら東京ドームで催されている有名なアイドルグループのコンサートの生中継らしかった。チケットを入手できなかった連中が、しかたなくここで観ているのだった。二人も若者たちに混じって、しばらくの間スクリーンを眺めた。
 ドームの一箇所にステージが組まれ、無数のライトが当てられていた。赤、青、黄、緑などの照明に彩られたステージ上をアイドルたちが歌い、踊り、跳ねていた。彼らを見つめる五万人規模の観客は、ドーム内をびっしりと埋め尽くしていた。ステージ上だけでなく、ときおり観客席の様子も映しだされた。アイドル達と同じようなヘアスタイルをし、同じような格好をした若者たちが、全員同じ仕草で腕を突き上げ、同じタイミングで叫んだ。
 広瀬はそんな様子を眺めながら、こいつらはまるでブロイラーだと思った。独立した個を持った尊厳ある存在なんかじゃない。もっと違った在り方はできないものだろうかと強い違和感を覚えた。そんな若者たちの有様は彼らだけの責任ではあるまい。先達としての大人がそんなふうに導いたに違いなかった。
 純粋に音楽を楽しんでいる彼らにしてみれば、そんな一人のおやじの勝手な言い種など眼中に無いはずのことだった。自分で稼いだにせよ、親からせしめたにせよ、きちんとチケットを買い、きちんと並び、そして今好きなアイドルを前にして陶酔した時間を過ごしている。誰からも文句をつけられる筋合いはないはずだった。
「ホテルに戻ろうか」
 広瀬はスクリーンに見入っている月香に言った。
「それとも、もう少し観るかい?」
「もういいわ」
「君はまだ二十代だし、ああいったのに興味があるのか」
「まあ音楽は大好きだから。でもあたしの好みはもっと大人っぽいやつ。それにあたしはロック少女だったから」
「へえ」
 広瀬は月香を促して階段を降り始めた。
「おれは農業系の大学に通ってたんだが、いたな、そういえば、バンドやってる奴らが。あまりそういうのが似合う学校じゃなかったけどさ」
 月香は笑って言った。
「あなたは何をしていたの?」
「女の尻を追いかけてたよ」
「まっ」と月香が目をむく。
「冗談だ。もしそうなら、もっとまともな男になれたのだが。実際には植物と宇宙に現を抜かしてたってところだ」
「そうなの」
 月香は、この人にもそんな時代があったんだと感無量だった。そのとき、ふと気づいて月香は広瀬に言った。
「ねえ、急に静かになったんじゃない?」
 二人は同時に階段の上方にあるスクリーンを振り返った。
 熱狂に渦巻く客席の一角が突然ぽこっとへこんだ。まるで麦畑に現れるミステリーサークルのようだった。何が起きているのか誰も気づかない。一瞬のちに、また離れた場所がへこむ。そしてまた別の場所が。へこんだ場所には衣服や靴が折り重なって落ちていた。
 そのようにして客席の全てがへこんでいった。嵐のような歓声がしだいに収まり、最後には演奏する音だけになったとき、眩しいライトを浴びながら歌っていたアイドルグループのリーダーは異変に気づく。そのとき右隣で歌う仲間の体がふっと崩れ落ちるように見えなくなった。足下には、自分とお揃いのステージ衣装と靴が、まるで抜け殻のように落ちていた。


      12

 月香が帰ってきた。すっかりやつれて目の下は隈になっていた。ろくに眠っていないに違いなかった。
 沙弥はあえて何も訊かずにソファに横にならせ、熱いココアを作って飲ませた。飲み終えた月香は、沙弥がブラインドを下ろして部屋を薄暗くすると、やがて寝息を立て始めた。
 沙弥は月香にまた会えただけでも嬉しかった。彼女に恨みはなかった。いや、むしろ愛していると言った方が当たっていた。掛替えのない魂の妹だった。
 沙弥は、ここ数日間で何が起きたのか、ある程度わかっていた。世の中の動きを把握しておくために、テレビ、ラジオ、ウェブ、新聞、雑誌などからの情報収集に努めていたからだ。東京ドームで起きた集団失踪事件も知っていた。五万人の人間が一瞬のうちに消え去っていた。五万人といえば、沙弥の生まれた町の人口とほぼ同じだった。
 事件に広瀬が関わっていることは間違いなかった。しかし、急に理由のない殺戮に向かったとも思えなかった。彼の天誅プロジェクトは、その是非はともかく、かなりの成果を上げていたからだ。だが、天誅の対象が無差別となると話は別になる。月香が目覚めたら、じっくりと詳しい話を聞かなくてはと沙弥は思った。
 夕方になってから、沙弥は中川に頼んでスープ主体の胃に優しい食事を作ってもらい月香の目覚めを待った。眠る月香の横に座っていると、かつて奈良近辺に遊んだことが思い返された。どこか風光明媚な土地で三人一緒に平凡に暮らせたらと、ふと思った。わたしたちは、もう引き返せないところまで来てしまったのだろうか。
 月香が目覚めたのは午後八時を過ぎていた。よほど疲れていたに違いなかった。沙弥は料理を温め直して月香に食べさせた。最初は食欲がないようだったが、とりあえずスープを飲んでもらったら少しずつ食べれるようになった。やがて食事を終えて一息ついたとき、沙弥は月香に話ができるかと訊いた。もしまだ疲れていたり、その気にならなければ明日でもいいと言った。彼女はソファにもたれたまま、大丈夫ですと言って話し始めた。

 月香と広瀬が階段の上方にあるスクリーンを振り返ったとき、歓声はすっかりなくなっていた。すぐに歌声も途切れて、バックの演奏も一部のシーケンス楽器を除いて聞こえなくなった。スタジオにいるアナウンサーは、どうしたんでしょう、機械の故障でしょうかなどと言ったあと、いったん生中継を中止しますと告げた。
 月香は、何かあったのかしらと広瀬を見て言った。広瀬は表情が変わっており、部屋に戻ろうと言って歩き始めた。どうかしたの? と訊くと、ちょっと気分が悪くなったから部屋で横になりたいと言った。
 ホテルに戻ってベッドに入った広瀬は、そのまま昏睡状態になった。彼は寝入り際に月香に、心配しないでいいから決して医者など呼ばないようにと言い置いた。それから広瀬はずっと眠り続け、ときどき大きくうなされた。
 結局、広瀬は丸二日間目覚めなかった。月香は、ろくに眠らずに付き添っていた。起きているとき月香はテレビと新聞をチェックして、東京ドームでの集団失踪事件を知った。
 あの巨大な建物内部にいたあらゆる人間が行方不明になっていた。奇妙なことに、各人が身につけていたと思われるもの、つまり衣服、アクセサリー、腕時計、ベルトなどは全て残されていた。衣服には下着も含まれていて、しかも脱いだ形跡はなかった。要するに人間の中身だけが忽然と消え失せたように思われた。
 マスコミは当然のごとく、この奇妙な事件とスサノオとの関連性を騒ぎ立てていた。しかしスサノオの天誅に対し好意的な見方をしていた者達は、これはスサノオではなく他の何者かの仕業だろうというコメントを述べていた。
 月香は待った。広瀬に訊きたいことが胸に溢れていたが、ただひらすら無事に目覚めるのを待った。
 そして二日後、広瀬は目を開けた。月香は涙を流しながら、よかった、よかったと何度もつぶやいた。広瀬はかなり弱っていたが、月香の肩を借りて小用を足し、水を飲んだ。月香はルームサービスで野菜スープとパンを頼んで広瀬に食べさせた。
 それからさらに一日かけて寝たり起きたりしながら、広瀬は徐々に体力を回復させていった。月香は合間合間に、東京ドームでの事件のことを広瀬に話して聞かせた。彼は黙って聞いていた。そして、いろいろ訊きたいこともあるだろうが、少し考えを整理する時間が欲しいと言った。さらに、月ちゃんもほとんど寝ないで看病してくれたのだから、ここいらでぐっすり眠った方がいいと提案した。
 月香はバスタブに湯をはり、ハーブの入浴剤を入れてゆっくりと浸かった。そして体と神経が解きほぐされたところで、ベッドに入った。月香は、広瀬がどこか遠くに行ってしまうような気がして、あたしのそばに来て腕枕をしてと言った。広瀬は月香に軽くキスをした。そうして自分の腕に彼女の頭を乗せ、そっと抱きしめた。月香は安心して深い眠りに落ちていった。

 月香が自分の叫び声で目を覚ましたとき、目の前には薄暗い部屋があった。全身にびっしょりと汗をかいていた。伸ばした手の先に広瀬はいなかった。月香は急に不安になり布団に潜り込んだ。すると急激に睡魔が襲ってきた。眠りに落ちれば、なぜか二度と広瀬に会えなくなるような気がした。月香は、いやよと声を出して跳ね起きた。つまずきながら部屋の灯りを点けると、室内に広瀬の姿はなく、テーブルの上に折りたたんだ便箋が乗っていた。

「すいませんがお水をください」と月香は沙弥に頼んだ。
「ついでに、あたしのバッグもお願いします。その中に便箋が入っているんです」
「わかった。ちょっと待っててね」
 沙弥はグラスにミネラルウォーターを入れて戻ってきた。そしてハンドバッグと一緒に月香に手渡す。彼女は旨そうに水を飲み干すとグラスを沙弥に返し、バッグから便箋を取り出した。それはホテル備え付けのもので、ボールペンで書かれてあった。月香は便箋を沙弥に差し出した。
「読んでみてください。広瀬さんは沙弥さんにも読んでもらうつもりで書いています」
 沙弥は折り畳まれた便箋を受け取って広げた。青空に直に書いているような闊達な筆跡が紙面に踊っていた。沙弥の胸に切なさがこみ上げてくる。
『高原沙弥様。池谷月香様。単刀直入に話します。結論から言うと、非常に困難な状況に陥ってしまった。おれはどうやら自分自身を制御することが不可能になってしまったようだ。おれが一瞬でも思い描いたイメージは、その時点で力を保ったままおれ自身から離れていき、想像を絶する規模にまで勢力を拡大して発現してしまう。あの東京ドームでの件がその一例だ。
 思い返すに、アイドル達のライブをスクリーンで観ていて違和感を覚えたのは確かだ。世界に目を向けると理不尽で悲惨な人生を送っている子供や若者が大勢存在するのに、こいつらはいったい何をやっているのだろうと思った。しかしその思いが直ちに彼らへの憎悪に変わったという覚えはない。だが結果的にあのような事態を引き起こしてしまった。五万人の人間は原子にまで解体されたんだよ。ただ肉体は霧散したが、魂はどうなったのかおれには解らない。
 いま憎悪はなかったと書いたが、もしかしたらほんの一瞬でも彼らの消滅をイメージしたのかもしれない。無意識でそう願ったのかもしれない。そうなると厄介なことになる。俺は一切ネガティブなことを考えてはならないことになる。しかしおれも人間だから、ポジティブなことだけというのは不可能だよ。
 このままでは同様のことが起きるだろう。それでも構わないということでない限り、それを防ぐには二つの方法しかない。一つはおれ自身を解体すること、もう一つはこの能力の大本であるアズロを解体することだ。その場合は、君たちの能力も奪ってしまうことになると思うが。
 それから東京ドームの件で気づいたのだが、あんな形でイメージの力を使うと、使った本人も消耗してしまうらしい。あのとき、おれはぼろぼろになった。だから今後同様のことが多発すると、おれ自身無事では済まないだろう。そんなわけでおれはアズロを解体しようと試みた。しかし、奴の中にイメージで侵入することができなかった。この手紙を読んでくれた時点で君たちも試してみるといい。恐らくそれは不可能だろう。理由は解らない。何らかのバリアを張っているのかもしれない。おれ自身のパワーが足りないのかもしれない。
 今から、おれはもう一度滝に行ってくる。精神を鋭利にして再度アズロに挑むつもりだ。しかし万一それに失敗したら、そのときは君たちの力でおれを解体してほしい。
 いつか月香が言っていたバランスということが、やっとおれにも理解できたような気がする。つまりどんな生物も無生物も不自然な形で消滅させることはできないということだ。人類のみを地球上から無理に消してしまえば、他のものも無傷では済まないだろう。どんな存在も一抜けたができない仕組みに、どうやらこの世はなっているらしい。ただ宇宙の大いなる流れに任せるしかないのだとも思う。
 ではまた。広瀬孝之』
 手紙を読み終えた沙弥は、文中で広瀬が言っていたようにアズロに意識を向けてみた。すると体の表面で拒まれることもなく内部に入ることができた。ただ彼を構成しているものが何なのか見当もつかなかった。原子の単位で認識しようとしても、つかみ所がなかった。
「いまアズロの中に入ってみたのだけど」
 沙弥は便箋をたたんで月香に言った。
「どうもよくわからないの」
「あたしも手紙を読んですぐに試してみたんです。アズロの中には入れたけど、でも同じくよくわからなかった」と月香が言う。
「なら、どうして広瀬だけが侵入を拒まれたのかな」
沙弥は月香に訊くというより自問するようにつぶやいた。
「これから、どうしたらいいんでしょう。あたしなりにいろいろ考えてみたけど、混乱するばかりで」と月香が苦しそうに言う。
「とにかく冷静になるのよ。きっといい考えが浮かぶわ」
「はい」
「いいこと。今すぐにでも研究室に入ってアズロと対面したいのは山々よね。あなたもきっとそう思っているでしょう。でも今日は止めよう。これはわたしの直観だけど、今は気持を静めて自分を見つめた方がいいように思うの。この不思議な出会いの意味を考えながら一晩待ちましょう。広瀬のことは彼自身にまかせて余計な心配をしないことが結局彼のためにはいいと思うの。あなたもできるだけ努力して体と心を休めてちょうだい。明日からが正念場よ。いいわね」
 沙弥はきっぱりとそう言うと、さあ、あなたの部屋まで付き添うわと月香の体に手をかけた。
 翌日は快晴で爽やかな朝だった。ダイニングルームで朝食をとったあと、沙弥は気持を調えて研究室に上がった。月香は、まだ眠っているようだった。ほのかな明るさに保たれた室内の片隅には、いつものようにアイスブルーの光で全身を包んだアズロがいた。
 やあアズロ、と沙弥は話しかけてみる。世間では、とんでもないことが起きてるの知ってる? いいわね、あなたはいつもそうやって静かでいれて。ちょっと訊くけど、あなたはいったい何のために広瀬の前に現れたの? 人間を試すため? 思いというものはエネルギーであり力があるんだということを人間に教えるため? その思いの力を使いこなせるかどうかを見届けるため? 広瀬は今その力によって窮地に立たされているのよ。人も大勢死んだわ。現在も殺戮は行われているかもしれない。広瀬は自己をコントロールできなくなってしまったの。アズロ、あなたの助けがいるわ。彼の能力をリセットして。普通の人間に戻して。もちろん彼だけじゃなく、わたしや月ちゃんもリセットして。
 わたしもイメージの力が使えるようになって有頂天になった。この力で何ができるのだろうとわくわくしたわ。でもいろいろ試してみて解ったの。今の人間には、まだ使いこなせない。一部の者だけが使える能力では意味がないと思うの。だからお返しするわ。広瀬の暴走を止めたいの。彼自身たしかに思い上がった行動をとったと思うわ。一時は人類絶滅を願っていたのも確かよ。でも彼も学んだわ。今では地球も含めた全てものが共存していくしか道はないと思い始めているの。アズロ、お願いよ。
 沙弥はアズロに話しかけながら、いつの間にか泣いていた。頬を伝う涙の滴に、アズロの発する青い光が映って煌めいた。沙弥はアズロに意識を向けて彼の中を覗き込んでみた。しかし相変わらず、その内部には無限の空間が広がっていた。
 沙弥は、そんなふうにアズロと向き合っていたが、やがて月香がいつまでたっても姿を現さないことに気づいた。沙弥は研究室を出て月香の部屋に行き、ドアをノックした。何度かノックしても返事が無く、しかも気配も感じられないので、彼女はドアノブを回してみた。鍵はかかっておらず、沙弥は中に入った。室内に月香の姿はなかった。机の上に白いA4サイズの紙と黒の水性ペンが乗っており、ごめんなさい滝へ行きます、と書かれてあった。


      13

 沙弥の運転する86年式メルセデス500SLは、中央道を名古屋方面に向かっていた。古い車だったが腕のいいメカニックにより整備されており、調子は上々だった。広瀬と何か車を買おうという話になったとき、沙弥は以前からそのスタイルが好きだったこの車を希望した。広瀬があちこち手を尽くして探してくれ、程度のいい中古車を金に糸目をつけず最高の状態にまでチューンナップしてくれたのだった。
 季節は梅雨に向かっていたが、雨の続く日々にはまだ間があった。庭先や野にある紫陽花の株は、開花の準備に余念がないことだろう。高速道路から望める山の斜面は、色合いの異なった緑のパッチワークだった。普段ならば快適なドライブが楽しめたはずだった。
 沙弥が何気なくカーラジオをつけると、先日の東京ドームでのことを話題に何人かが交互に発言していた。どうやら緊急特番が組まれたようだ。おそらく日本中が、いや世界的規模でこの事件に注目していることだろう。コメンテーターの一人が、新種の大量破壊兵器ではないかと言った。他の一人は、いや冗談抜きでこれはアルマゲドンの前兆かもしれないと不安げな声をだした。さらには、タイムスリップかもしれないと言い出す者まで現れた。とにかく遺体が皆無なので犠牲者の正確な身元確認は不可能だった。ただ大量の衣服が残されており、それを元に作業が進められているようだった。日本近辺の国々でも、この事件によって一気に緊張が高まっていた。
 沙弥は東京を発つ前に故郷の両親に電話を入れて無事を伝えた。これまでめったに連絡しなかったのだが、なぜか声を聴かせて安心させたいと思ったのだった。
 カーナビをオンにして中央道を順調に走った500SLは、中津川インターを下りて国道19号線を北東に進み木曽福島方面に向かった。さらに木曽福島の川合辺りで左折して御嶽山方面に登っていった。王滝村に入り、清滝入口を過ぎてしばらく登ると道路脇の空き地に見覚えのある車が二台停まっていた。一台は広瀬の四輪駆動車、もう一台は月香のワゴンタイプのスポーツカーだった。沙弥もその隣に車をとめる。
 ドアを開けて車から出ると、清々しい山の空気が辺りに満ちていた。いつか広瀬から聞いた新滝は、ここを少し下ったところにあるはずだった。沙弥は見当をつけて細い山道を下り始めた。ある程度地形を予想して、ジーンズにワークブーツという装いだった。広瀬は、あのときと同じように滝に打たれているのだろうか。月香は、はるばる駆けつけて何をしようとしたのだろう。そして、このわたしは。
 九十九折りの山道を下るにつれて水の落下する波動が伝わってきた。ごーっという音がしだいに大きくなる。岩角を曲がると、目の前に壮大な滝があった。切り立った崖を背景に白い飛沫の帯が天と地を結んでいた。そして水の砕け散る滝壺の中に一人の男が立っていた。広瀬だった。
 彼は、かなりの高みから落ちてくる大量の水を身じろぎもせずに全身に受けていた。見ている沙弥の方が息苦しくなってきた。沙弥は以前広瀬から聞いたことを思い出した。滝から出るのにも体力がいる。力を使い果たすと水の壁から外に出られなくなってしまうのだと。
 沙弥は急に不安になってきた。もしかしたら広瀬は滝から出るに出れなくなっているのではないだろうか。あんな凄まじい水流の中に長時間とどまっていたら死んでしまう。何とかしなくては。そう思いつめた沙弥の視線が滝壺からそそり立つ水柱をとらえた。それはまるで白い竜が天に向けて飛翔しているかのようだった。沙弥は一瞬アズロに意識を飛ばし、次いで竜の全身に照準を合わせた。彼女は竜のからだの原子単位にまでイメージで分け入ると、それを解体した。数秒の間水流が途絶え、辺りに静寂が広がった。
 広瀬が、かっと目を見開くのがわかった。彼は沙弥を認めると立っていた平岩からすっと降りた。とたんに広瀬の背後に轟音と共にふたたび水の壁ができた。白い褌のみを身にまとった広瀬は、滝壺を渡って沙弥の方に歩いてきた。
「来たのか」
 広瀬は全身から滴を垂らしながら沙弥を見つめた。唇が紫に変色しており、顔は不精髭に覆われていた。
「来たわ」
 沙弥は広瀬と向かい合って立っていた。久しぶりに見る広瀬の顔だった。
「あまり時間がない。手短に話そう」
「どういうこと?」
「また滝に入らねばならん」
「なぜ?」
「おれ自身の意識を保つためだ。滝に打たれると何とか自分自身でいられる。滝から出ると、まもなくおれは消えてしまう」
「あなた、何を言っているの?」
「おれの無意識が、おれを支配するんだ。そいつはおれ自身ではあるが、おれの手には負えない」
 広瀬の全身が細かく震え始めた。
「あなた寒いんじゃないの?」
「いや寒いからではない。とにかく、あまり時間がない」
「無意識が支配すると、どうなるの?」
「奴は自分の望みを叶えようとする」
「望み?」
「人類の一掃だよ」
「まさか」
 沙弥は一歩踏み出して、震えの止まらない広瀬を両腕に抱きしめた。
「濡れるから」
「いいの」
 沙弥の体から柔らかさと暖かさが伝わってきた。広瀬は徐々に薄れていく理性的な自己を必死で保ちながら言った。
「沙弥、よく聞いてくれ。大切な話だ。いま言ったように、おれの無意識はこの地球を人類のいない楽園にしようとしている。この望み自体は、おれがずっと昔から持っていたことだ。単純に人間がいなくなれば、おれの愛する植物や自然が侵されることもなく地上はずっと平和になるだろうと思い続けていた。しかし今では、全ての存在の共存によってしか地上の楽園はあり得ないということに気づいている。だが、おれの無意識はどうやらそんなことは信じていないらしい。イメージの力を使って奴は勝手に暴走を始めたんだ。それに気づいたのは東京ドームでの一件だった。あのあと、おれは極端に体調が悪くなって寝込んでしまった。まる二日眠り続けていたらしい。目が覚めたとき、月香が何が起こったのか教えてくれた」
「月ちゃん? そういえば月ちゃんどこにいるの?」
「あとで話すよ。先に話を聞いてくれ」
「わかった」
「おれは月香から聞いたことで気づいたんだ。おれであっておれでないものが、おれを支配しようとしていると。おれは直観で、このままでは取り返しのつかないことになると感じ、自分を保つために滝に打たれることにした。かつての体験を思い出して、あれなら何とかなるんじゃないかと判断した。おれは置き手紙をしてここに来た。
 来る道すがら、なぜこんなことが起こったのかをずっと考えていた。多分おれが一連の天誅を行ったことが最大の原因だろうと思った。それらの行為によって、おれが感じた以上のものをおれの無意識は感じてしまい、理性によって辛うじて保たれていた巨大なダムが決壊を始めたのかもしれない。
 滝に打たれてみると最初はいい感じだった。意識がシャープに研ぎ澄まされる思いだった。しかし滝から出てしばらくすると、何かがおれをじわじわと侵食してくるのを感じた。そこでまた滝に打たれると、おれ自身が蘇るような気がした。
 そんなことを繰り返しているうちに、おれははっと気づいて絶望的な気分になった。意識が保たれる時間が少しずつ短くなっていたんだ。そんな折りに月香がやって来た。滝に入る寸前に、つまり、その時点での侵食が最大だったときだった」
「月ちゃんがどうかしたの?」
 沙弥は急に胸騒ぎがして、広瀬の背に回していた両腕を外すと彼の顔を見た。
「ついておいで」
 そう言って広瀬は石段を登り始めた。沙弥もあとに続く。少し行くと小屋があった。滝行をする行者が着替えに使う小屋らしかった。広瀬は中に入って脱衣籠を持ってきた。差し出された籠には見覚えのある服とパンツとブーツが入っていた。月香のものだった。さらによく見ると、籠の隅に下着とアクセサリーがあった。


アズロ 10