「沙弥さんの方はどんな感じですか?」
「わたしのエクササイズ?」
「そうそう」
「今日の見学を思い立った理由でもあるんだけど、イメージの力を医療に使えないかなと思っていろいろ試しているの」
「具体的に何か成果はありました?」
「さっき月ちゃんも言ってたけど、細胞の解体と生成が可能ならかなり医療の役に立つと思うのね。たとえば癌細胞の解体ができれば、患部をレーザーで焼いたり抗癌剤で押さえ込んだりせずに済むでしょ。それからウィルスね。これは画期的なことになるわ。エイズなども撲滅できるわよ。あとはイメージのメスで手術が出来るかな。解体できるということは、その箇所をイメージで限定してやれば鋭いメスで切り取るのと同じだからね。
 細胞の生成に関しては、皮膚や臓器の一部、網膜など人体の中で治療に必要な部分の組織を作るということよ。細胞同士の拒絶反応がでないようにコントロールできれば、素晴らしい成果を上げると思うわ。
 あと、可能性は無限にあるわね。神経細胞や免疫システムなどにも働きかけられるはずだし、もっと言えば魂への影響も考えられる。精神病全般への治療効果が期待できると思うわ」
 沙弥は一気に喋ると、カプチーノの泡で唇を濡らす。
「なんだか夢が広がりますね」と月香は言った。
「でもね、ものごとには両面あるから、今あげたことはそっくり武器にも使えることになる。きっと究極の武器になると思うわ。そして生成よりも解体の方が容易だということであれば、極端な話、地球そのもの、いえいえ全宇宙そのものを無に帰せれるかもしれない。宇宙は自らが生み出した存在によって消滅するのよ」
 沙弥は、自分から出た言葉でありながら、その発想に驚いていた。
「さあ月ちゃん、そろそろ行きましょ。少し辺りを散歩してもいいし。爽やかな午後じゃないの」
「いいですね。じゃ少し歩いてから院内に入りましょうか」
 月香はレジで支払を済ませ、沙弥と共に舗道まで下りた。思ったより陽射しが強くて、二人は眩しさに目を細めた。肌に心地よい風が吹き抜けていった。彼らはゆっくりと歩き始めた。

 服を脱いで手術着に着替えた沙弥と月香は、看護婦に控え室から手術室へと案内された。手術はすでに始まっており、二人は邪魔にならない程度の距離を保って見守った。
 今日のオペは肝臓癌の摘出手術だった。男性の腹部が開かれており、執刀医の持つ鋭いメスの先端が手術灯の光に一瞬キラッと輝いた。
 沙弥は目を閉じた。手術の様子を見るのが怖いのではなく、精神を集中させて患者の体を探ってみるつもりだった。
 肝臓に意識を持っていくと癌に冒された患部がわかった。さらに全身に意識を廻していくと、何箇所かに転移が見つかった。沙弥は研究所にいるアズロに意識をシンクロさせてから、転移した癌細胞をすべて解体した。それらの細胞は意識の視界からふっと消滅した。また肝炎ウイルスに感染していると聞いていたので、それを特定して解体した。続いて沙弥は肝臓の細胞に意識を向け、その細胞のサンプリングを始めた。今回の手術で切り取る部分に補填するつもりだった。
 やがて執刀医が患部を切除した。トレイの上に赤黒い塊が置かれる。目を開けてその大きさを確認した沙弥は、開腹部が元に戻されたのを見届けたあと、まず肝臓の縫合部をイメージのメスで切り開き、次いで肝臓の細胞を物質化して補填した。拒絶反応を用心してしばらく様子を見ていたが、問題なさそうだった。
 手術は無事終わり、沙弥と月香は執刀医を始めスタッフに丁寧に礼を述べて病院を後にした。
 辺りはもう黄昏れており、夕風が立っていた。二人はタクシーを拾って帰途についた。
「どうやら、たくさん成果があったみたいですね」
 タクシーの後部座席に並んで座りながら月香が沙弥に話しかける。
「そうなの。すごく自然な感じで、やろうとしたことは全部できちゃった」
「消してしまったんですか?」
 運転手の耳がある手前、月香は言葉を選びながら尋ねた。
「目を閉じていると、問題の箇所がわかったの。数ヵ所に分散していたから、みんなまとめてね」
「すごいな」
「あと、細胞をサンプリングして、拒絶反応に気をつけて補填したのよ。うまくいったわ。それと」
「まだあるんですか」
 月香は興奮気味に言った。
「ウィルスをね、たぶんC型だと思うけど」
「それは凄すぎます」
「でもね」
 沙弥は、しばらく言葉を探していた。
「でも、うまくいって逆に問題が浮き彫りになったの」
「問題ですか?」
「そう。誰がこの力を使うの?」
「えっ?」
「カフェにいたときにも話したけど、万能の薬は同時に万能の毒でもあるのよ。高い志を持って使わないと、この世は地獄になるわ」
「そうかあ」
「今日わたしが試したことは、広く世間に広まってこそ意味があることよ。たかだか三人の人間が使えるのでは駄目なの。でも誰にでも使えるとなるとこれまた問題でしょ?」
「間違いなく兵器に悪用されますね」と月香は断言した。
「結局さ、とても残念なことだけど、今の人類の魂のレベルでは使いこなせないのかもしれないわね」
 二人の話はしだいに熱を帯び、もう運転手のことなど気にしなくなっていた。しかし運転手はといえば、熱心にカーラジオに耳を傾けていた。
「じゃあ、どうしてあたしたちだけが?」
 月香は事の重大さに初めて気づいたかのように言った。
「大いなる謎ね。一番わからないのはアズロという存在よ。彼はいったい何なの? だってイメージの力が使えるのも彼のサポートあってのことだから」
 沙弥は、あらためてアズロのことは考えてみなくてはと思った。
「アズロが、あるいは彼の背後にいる何者かが、あたしたちを試しているのかしら。あたしたちの魂のレベルを計ろうとしているのかな」と月香は疑問に思う。
「いま思ったのだけど、わたしたち三人にもし役割があるとすれば、あるいは役割を負わされているとすれば、それは人類の魂のレベルアップを促すということじゃないかしら」
 車窓から、点り始めた街の灯を見るともなしに眺めながら沙弥はそう言った。
「そのためにイメージの力を使う能力を持たされたということでしょうか」と月香が訊く。
「もしそうだとして、いったいどんな方法でそれができるのかしら。広瀬は自分のやり方でやると言っていた。わたしはどうすればいいの? 月ちゃん、あなたはどうするの?」
「わかりません。でも早急にそのことを考える必要がありますね」
「そうね。帰ったら彼とも話したいわ」
「広瀬さん、ここんとこずっと部屋に籠もりっきりですよ。集中して何かをしているみたいです」
「そういえば、数日前何か手伝ってあげたんじゃなかったっけ?」
「ええ、マスコミ関係の住所をリストアップして、封筒に宛名を印刷して、切手を貼った状態で渡しました」
「マスコミ関係って、たとえば?」
「新聞社、出版社、テレビ局、ラジオ局、インターネットの有力ポータルサイトなどですね」
 月香は指折り数えてそう答えた。
 タクシーは甲州街道を都心から遠ざかっており、遠からず目的地に着くはずだった。カーラジオでは音楽番組が終って、ニュースが始まったところだった。
 先日来多発している殺人事件に関係していると思われる怪文書がマスコミ各所に届いており、警察は事実確認を急いでいるとの発表を行いました。なお、多発している殺人事件の詳細についてはまだ明らかにされておりません。
 沙弥と月香は顔を見合わせたまま、アナウンサーの声に聴き入っていた。やがて月香が沙弥の耳元で囁いた。
「封筒を用意したとき、薄いゴム手袋を着けるように言われたんです。けっして素手で触るなと」
「とにかく帰りましょう」
 沙弥は、そう言って前方に向き直った。
 彼らは念のために帰路の途中にある私鉄の駅でいったんタクシーを降り、そこで客待ちをしていた別のタクシーに乗り換え、二手に分かれて帰宅した。さらに直接研究所に乗りつけず、手前で車を降りた。タクシー内の会話から万一足がつくのを用心してのことだった。
 研究所に着くと、広瀬は在宅していた。ちょうど食事時だったので三人は夕食のテーブルを囲んだ。いつものようにコック長の中川が暖かい食事を出してくれた。
 彼と彼のスタッフが沙弥たちの専用コックとしてこの邸に通うようになって、もう一年になる。沙弥は中川から食というものの奥深さと楽しさを教えてもらったと思っている。彼の誠実で穏やかな人柄とバランスを取るような味に対する先鋭さは、ある種官能的であり、沙弥のみならず月香にとっても広瀬にとっても満足のいくものだった。
「では、ごゆっくり」
 食後のデザートとコーヒーを出し終えた中川は、そう言って席を外した。
「で、どうだったの? 本日の成果は」
 広瀬がコーヒーを飲みながら口火を切る。
「あら、あなた知ってたの?」と沙弥が言う。
「知ってますよ。君らの行動はちゃんと把握してますよ」
「それはそれは」
「それで?」
 沙弥は肝臓癌の手術を見学し、イメージの力を使って一定の成果を上げたことを広瀬に話して聞かせた。
「まあ大体こんなところかな」
「うーん、大したものだ」と広瀬は心から感心して言った。
「ほんとに」
 月香もしきりに頷いている。
「なに言ってるの。わたしができるということは、あなた達もできるということよ。いま話したイメージのメスなんて、あなたにとっては朝飯前じゃないの?」と沙弥は広瀬に向かって訊いた。
 広瀬は曖昧な表情を浮かべたがすぐに、できるよと言った。
「広瀬さん知ってますか? 怪文書の件」
 突然に月香が切り出す。
「カイブンショって何だ」
「さっき帰りのタクシーでラジオが言ってたのですが、マスコミ各所に最近多発している殺人事件に関連があると思われる怪しい文書が届いているらしいです」
「ほお」
「単刀直入に訊きますけど」と月香は身を乗り出して言う。
「あたしが切手を貼った封筒が怪文書に化けちゃったんじゃないですか?」
「そうだよ」
 広瀬は、あっさりと認めた。
「やっぱり」
「どういうことなの?」
 沙弥は、これは今夜はじっくりと話さねばと思いながら訊いた。
「わかったよ。実際にその怪文書をみてもらった方がよさそうだ」
 広瀬は二階に上がり、自室から二枚のコピー用紙を持ってきて二人に手渡した。日本国民に告ぐ、から始まるその文章を沙弥と月香は各々で読んだ。
『日本国民に告ぐ。本来国民から公選され国民を代表して国政を議するべき任を負った者並びに本来公僕であるはずの者この者たちの私利私欲を肥やす姿公明正大さに欠けた姿勢の醜悪さには目に余るものがある。よって今後に渡って天誅を下す。該当者は心して公務に励まれんことを。つぎに理不尽でナンセンスな法を傘に着人権というものを履き違えて自分の外道な行為に責任を取ろうとしない輩がいる。人を故意に死に至らしめた者は己の死を持って償うべし。よって今後に渡って天誅を下す。また幼き者を教え導いて真っ当な成人にすべき義務を放棄したばかりでなく暴力を持って彼らを虐待する輩にも今後に渡って天誅を下す。日本国民よ気高くあれ。スサノオ』
「これは」と二人とも絶句した。
「始めに書いてあるのは例の国会議員のことでしょ?」と月香が訊く。
「まあね。あの議員を始めとする全ての公職にある者が対象になる」
「次のは具体的にはどういうこと?」と沙弥が尋ねる。
「小学校に乱入して児童を殺傷し、心神喪失を理由に無罪を主張している男と、薬害エイズを引き起した輩、そして少年法に護られて極刑を免れた奴らだよ。そして彼らを始めとする全ての該当者が対象となる」
「では最後のは児童虐待者が対象ということですよね」と月香が念を押す。
「そうだ。今後は児童に限らず、妻なども含んだドメスティック・バイオレンス全般を扱うつもりだけどね」
「でも前者は具体的な対象が特定できるけど、児童虐待をしている者はいったいどうやって特定するんですか?」
「うん、それなんだが、実際成果が上がったのかどうかはわからないんだ。前者の場合は手応えがあったんだけどな。やり方としては、まあいわば自動操縦みたいなものさ。まず最初にプログラムを組むんだ。そしてプログラムを発動させるためのセンサーをイメージで日本中に張り巡らせておく。センサーは、被虐待者が発する助けを求める精神エネルギーをチャッチする。次いでプログラムが発動して、その現場にいる加害者を特定し処罰するというわけだ」
「どんな方法で処罰したの?」
 沙弥は心の準備をしながら、そう訊いた。
「さっき君が指摘したとおり、イメージのメスを使って頭頂部から会陰部まで真二つに切断するんだ」
 沙弥はそれを聞いて、じっと広瀬の目を見つめながら更に尋ねた。
「その前のは?」
「頭部解体と免疫システムの破壊、それに頭部を除く身体部分の解体だ」
「あなたは殺人者よ」と沙弥は言った。
「奴らが果して人と呼べるかどうか疑問ではあるがね」
「これからも続けるつもりなの?」
「そのつもりだ。正邪合わさったものが人間ならば、できるだけ邪の部分で生きないように抑止力を働かせることは必要だと思うからね。その抑止力が例え恐怖であろうと」
「でも、当初は人類抹殺を考えていたあなたが、なぜそんなに人間に肩入れするの?」
 沙弥には、そのことが不可解だった。
「肩入れというわけではないんだ。ただ興味があるだけさ。事の成り行きのね。強欲であったり、面白半分に人を殺したり、理不尽な暴力を振るったりすれば必ず命を失うとわかれば、いったい人間はどう振る舞うのだろう。死にたくないから仕方なく無欲になり、優しく思いやり溢れる人間になろうとするのだろうか。それとも天誅ぎりぎりの場所で、やはり欲望を追求しようとするのだろうか。おれは急にそれを知りたくなったんだ。
 それに月ちゃんが言ったように、エネルギーバランスの問題で、人類以外の生物や地球そのものまで人類の道連れにするわけにはいかないからさ。いろんな意味で、もう少し様子をみることにしたんだよ」
 広瀬は淡々と説明し終わると、冷めかけたコーヒーに口をつけた。
「わたしは、やはりその計画は容認できないわ」
 沙弥はそう言うと、月ちゃんはどう思うの? と訊いた。
「あたしは人を殺すのって抵抗があります。特に広瀬さんには、そんなことをしてほしくないです。でも反面、広瀬さんの言う天誅の対象への思いって、平凡に生活している普通の人たちの憤る気持ちを代弁しているのも事実だと思うんです。殺人はいけないことだと表明するのなら、それに相応しい世の中を実現させるよう人類みなで覚悟をもって取り組まなくてはならない筈なのに、実際にはあらゆる詭弁をもって殺人は行われていますよね。
 正直なところ、人間の本質が100%の性善説に立てないものなら、大いなる力によって悪の要素を抑制するという考え方も解る気がするんです。自業自得というのはありだと思います。天罰を下す者が人間だから罪に問われるとしたら、下すものが神ならどうなのでしょう。その場合は、自業自得だから止むを得ないということになるんじゃないかな。おかしいですか? こんな考え方は」
「おかしかないさ」と広瀬が言った。
「おれの考えも、ある程度わかってくれてるみたいだな」
「わたしだって気持ちはわかるのよ、もちろん」と沙弥も応じる。
「でもやはり、いかなる理由、事情があっても殺人を肯定するわけにはいかないわ。肯定すれば人間が人間でなくなるから。動物のように本能のままで生きるのが許されるなら、人間とて弱肉強食、優勝劣敗の価値体系に組み込まれるでしょうね。だけど人間は動物ではないわ」
「あのさ」と広瀬が話を受けつぐ。
「人を殺すのが目的ではないんだ。ただ、死ぬという方がそうでない場合よりも感じる恐怖の度合いが強いと思われるから、目的達成のためには効率がよく合理的だと思うからなんだ。だから、わかった決して命は奪わないから、と言えば君は容認してくれるのかい?」
「ある特定の者が暴力で他者を支配したり操作したりすることは傲慢で野蛮なことよ」
「言葉を返すようだが、まさにそのことがこの世界で行われているんだ。弱者を守る者は誰もいない。弱者は弱者を守れない。弱者を守れるのは志を持った強者だけだ。いったい誰が日々の暴力に苦しむ子供を救ってやるんだ。志の高い大人を一人でも増やすためにも、悪党どもを野放しにしておくわけにはいかないよ。流れを変えるには、少々の荒療治は致し方ないと思うが」
 ここで話が途切れ、彼らはしばらく黙ったまま各自の物思いにふけっていた。夜が音もなく通り過ぎて行った。やがて、長い間支配していた沈黙を沙弥が破った。
「イメージの力を使って人間を殺傷することは、やはりどう考えても容認できないわ。きっと他にも方法があるはずよ。わたしはそれを見つけるわ」
 沙弥は広瀬と月香を見つめながらそう言った。強い意志を秘めた口調ながらも、深い悲しみを内包しているかのようだった。
 広瀬はそれを聞くと黙って立ち上がり、沙弥と月香を一瞥したあと部屋を出ていった。月香も少し遅れて立ち上がり、沙弥に一礼すると広瀬の後を追った。
 沙弥は宙を見つめたまま椅子に座って長い間じっとしていた。とうに夜半を過ぎ、朝の光の訪れるまで。


      11

 警視庁はマスコミ宛に送られてきた怪文書の全文を公開し、一連の殺人事件を狂信的な個人または何らかの団体組織による計画的な犯行と断定した。そして広く国民に情報の提供を呼びかけた。現時点では何の手がかりも得られていなかった。
 マスコミはこの事件を連日のように扱い、テレビのワイドショーや週刊雑誌などでは何度も特集が組まれた。スサノオの行動を快挙だと喜び、溜飲を下げた者も少なくなかった。そして文書の内容を分析し、次は誰の番だろうと予想する記事や特番まで現れる始末だった。
 その後も不定期に犠牲者が出たが、死者の割合はわずかだった。しかし考えようによっては死よりも恐怖を覚える痛ましいダメージを受けていた。犠牲者の男女比率は男性の方が高かった。
 死亡以外の一例としては、目が見えず耳が聞こえず言葉が喋れなくなる三重苦、男根の消失、四肢の消失などがあった。
 国会議員や官僚で辞職する者が相次いだ。公僕としての役目を果たしていないと自己評価したということになろうか。
 また、児童虐待やDV、学校でのイジメなどの発生件数も激減した。誰も自分の命を賭してまで、そういった行為をする者はいなかったのである。
 しかし殺人事件が無くなったわけではない。自分も死んでもかまわないから相手を殺したいと思う、そういう状況に陥っている人間は、やはり世の中にはいるものだ。とはいえ一般的には、このスサノオの監視の視線は犯罪の抑制になった。
 警察はスサノオからの次の連絡を待ったが、最初の文書が届いて以来コンタクトは無かった。日本国民よ気高くあれ、という文面から右翼団体が徹底的に調べられた。スサノオという名から、神道関係者および須佐之男命を祭神とする全国の神社が捜査の対象になった。しかし警察は為すすべを知らなかった。仮に容疑者が捕まったとしても、物的証拠が無かった。
 この一連の事件は大きな社会的混乱を招いたが、社会全体が恐怖におののいたというわけではなかった。テロのような無差別殺傷ではなく、社会常識的な行動を取っているうちは何の問題もないということが周知されたからだ。
 ある意味、人間の行動をこのような大いなる力のコントロールに委ねることは楽なことだった。たとえそれが恐怖による管制だとしても、その審判の基準が理不尽なものでない限り、安心して任せることができるだろう。人として真っ当に生きるということが決して損なことではないと思えるだろう。歴史上このような状況を実現させた存在が果たしていただろうか。
 日本におけるこのような状況は他の国でも話題になり、各国から取材記者が続々と来日した。自分の国にもスサノオが現れて、腐り切った世の中をまともにして欲しいと発言する記者も多かった。

 沙弥は、こんな世の中の反応をしばらくの間観察していた。犠牲者のうち死者の割合が減ったことに、広瀬の思いを感じた。実際に犯罪激減などの効果も現れているようだった。しかし沙弥は、どうしても彼の行動を支持することはできないと思った。なぜなら、それは宇宙の流れから逸脱したことのように思えたからだった。
 沙弥は広瀬とは別の方向でイメージの力を使っていくという課題に取り組んでいたが、なかなか糸口がつかめずにいた。肉体にではなく魂に働きかけることも考えてみた。魂を操作して人間から暴力性や残虐性を無くすことはできないだろうかと思案した。しかし、その行為と広瀬のそれとの間にどれほどの差があるだろう。やはりこれも宇宙の流れから逸脱した行為には違いないと沙弥は思った。

 広瀬は月香と共に研究所を去り、都内のホテルに滞在していた。搬入したノートパソコンを使って、インターネット上のサイトから処罰対象者を選ぶ上での基本情報を得た。その情報に基づいて、必要があれば月香が資料集めに奔走した。
 今回の一連の事件が海外でも話題になっていることを広瀬は知っていた。いずれはアメリカを始めとする世界各国で日本と同様なことを行いたいと思っていた。
 警察は相変わらすスサノオ逮捕に向けて捜査を続けていたが、その対応は腰砕けだった。警察の上層部からして、いつ自分に天誅が下されるやもしれないとびくびくしていた。しかし、警察の本分として捜査を打ち切るわけにもいかず苦境に立たされていた。
 広瀬と月香は適当な間隔で都内のホテルを移動した。今回移ってきたのは台場にあるホテルだった。部屋から海が見え、視線を上に転じると夕映えの中に未来的な都市の景観があった。
 広瀬はシャワーを使ったあと、テラスの椅子に座ってビールを飲んだ。湿気を帯びた温い風が吹いており、眼下の海面には数隻の白い船が黄金色に輝く波間に浮かんでいた。
 やがて月香も浴室から出てきた。洗髪した髪をタオルでくるんでいる。
「いいわね、ビール。あたしも頂こうかな」
「冷蔵庫にあるから」
 月香は缶ビールを持ってテラスにやって来た。
「こんなにのんびりするのって久々」
「そうだな。ここんとこ緊張の日々だったからな」
 月香は缶を傾け喉を鳴らすと、美味しいと言った。
「沙弥さん、何してるかしら」
「気になるのか」
「気になるよ、そりゃ」
「そうか」
 広瀬は、しだいに透明な青に変化していく風景を見つめていた。
「あんな形で研究所を出てしまったから」
「後悔しているのか?」
「そうじゃないけど」
「月ちゃんは、なぜ残らなかった」
「あなたと一緒にいたかったからよ」
「おれは殺人者だ」
「あたしも共犯よ」
「君が直接手を下したわけではない」
「でも沙弥さんのように反対もしてないわ。理由はともあれ実際に人が死ぬという事実を見ないようにしているの。その動機についてはシンパシーを感じるけど」
 月香は缶を片手に、波に漂う水鳥を見つめた。その白い羽がゆっくりと揺らめく様に、月香はなぜか永遠をみた。
「もしおれが暴走を始めたら、少なくとも君がそう感じたら、君の手によっておれを解体してくれ」と広瀬は唐突に言った。
 月香は驚いて広瀬を見る。
「いまなんて?」
「だから、おれを解体」
「ちょっと待って。何を言い出すのかと思えば。もっとましなジョークにしてね」
 月香は少し腹を立てていた。
「ジョークではない。いま急にそんな予感がした」
「そんな」
「なぜだろう。なぜかな」
「あなた疲れてるのよ。いくらアズロの助けがあるにしても生身の人間がすることだもの。イメージを駆使するって、もしかしたら肉体にもかなりのダメージを与えているのかもね。それに肉体だけじゃなく魂へのダメージも大きいのかもしれない」
「そうだな」
「着替えて食事に行き、戻ったら早めに休みましょう」
「そうするよ」
 広瀬は素直にそう言って、飲みかけのビールを飲み干した。

 もう少し召し上がりませんか、とコック長の中川が沙弥に勧めた。
「いえ、けっこうよ。ありがとう」
 沙弥はデザート用スプーンを置いて言った。
「では、食後のお飲物をお持ちします」
 中川は厨房に戻っていった。
 沙弥が一人で食事を取るようになっても、彼はそのことについてはおくびにも出さなかった。ただ毎日心のこもった料理をテーブルの上に並べてくれた。


アズロ 09