「そんなホラーじみた話が本当にあるんですか? ホラーじゃなくて法螺を吹いているんじゃないでしょうね」
「とんでもありませんよ。確かな情報です。これでも苦労したんですよ。カネも随分使ったし」
 小林は向きになり、顔に赤みがさした。
「冗談ですよ。あなたの情報収集力を信用しますよ。お礼もきちんとさせてもらう」
「そりゃどうも」と小林はほっとした顔をした。
「しかし警察も大変だなあ。そんな話が世間に通るはずもない。暗殺を主張するにしても場所が場所だけに」
「そうなんです。当局は苦慮していると思いますよ」
「小林さん、あなた自身はこの荒唐無稽な話を信じるんですか? 頭が突然消え失せたなんて話を」
「そりゃまあ、実際にこの目で見たわけじゃないしねえ。あ、でも情報自体は確かですからね」
「もし仮にですよ、この話が本当だとする。人間の頭が急にこの世から消えてしまうとする。あなたはどんな動機と方法でそんなことが可能だと思われますか?」
 広瀬は世間一般の人間がこのことについてどう思うのか興味があった。
「うーん。そうですねえ。動機については、まず恨みですかね。あと殺し屋の仕事とか。そうだ、こんなのはどうですか。殺されたのは逮捕されるようなことをしでかした国会議員でしょ? つまり公僕たる者がすべきでない行いをしたということで天誅(てんちゅう)が下されたとかね」
「ほお、それはなかなか面白い見方ですね」
 広瀬は小林の言葉にぴんとくるものがあった。
「ではつぎに、殺人の方法についてはどうですか」
「これは私の手には負えませんよ。ミステリーの専門家にでも謎を解いてもらわなきゃね」
「そうですね。密室殺人の謎とかね。でも、もしあなたの言うように天誅が下されたとしたら、下した者は人間ではなく神だとしたらどうです?」
 小林は一瞬きょとんとした顔つきで広瀬を見た。
「神ですか」
「いやまあ、神でなくとも鬼でもいいんですが。つまり大いなる存在によって天罰が下されるってことですよ」
「それなら不思議はないですかね。突然に頭が消え失せたりしても」
 小林の表情が不安げになったので、広瀬はこのあたりで切り上げることにした。
「いや、小林さん、ちょっと冗談が過ぎました。真相究明は世界一優秀だと評判の日本警察におまかせしましょう。どうもいろいろお世話になりました」
「いやどうも。あのう、あなたは本か何かお書きになってるんですか?」
「まあそんなところです。ちょっと心惹かれたものですから。これは改めて言うまでもないことでしょうけど、あなたが何らかの情報を私に提供したということは決して漏らさないようにお願いしますよ」
 広瀬はそう言って小林に釘をさした。
「わかっております。どうぞご安心を」
「では謝礼を」
 広瀬は小林に相場よりかなり多めの金額を渡した。小林は何度も礼を言いながら帰っていった。
 広瀬は窓際にたたずんで雨のベールに覆われた空を眺めた。これで当面の為すべきことができたと思った。
 自分が殺した議員に対して同情はなかった。あの時もしテレビのニュースに登場しなければ、いや、もしおれの目に触れなければこんなに早く、こんな形で死ぬこともなかったかもしれない。しかし、もしは無意味だ。あれが、あの男の自分で選んだ人生だったのだ。
 あの男にも家族がいるだろう。家族のことはどうでもいいのかという声が聞こえてきそ
うだ。しかし家族の在り方は一様ではない。自分の夫が、父が、息子が無惨な死に方をしたからといって十人が十人悲しむわけではなかろう。むしろ溜飲が下がる思いを抱くケースもあるのが人間関係ではないだろうか。そして、あの男のケースがどうであろうとかまわない。
 あの男は苦しんで逝っただろうか。もしかしたら、未だ自分が死んだことを知らないのかもしれない。あの男の頭部は一瞬のうちに原子の単位にまで解体された。意識が脳のみにあるのなら、その時点で彼の意識は無に帰したはずだ。脳が瞬時に脳でなくなれば苦痛を感じることもないだろう。しかし意識が首から下のどこかに宿っている場合は話が別になる。
 そしてさらなる疑問は、頭部が原子の単位にまで解体された時、魂と呼ばれるものも一緒に解体されたのか、あるいは肉体は霧散しても魂は残って、意識や情報を保ったままで未だ存在しているのかということだ。解らない。
 広瀬は急に空腹を覚えたので、階下のレストランに出かけて軽く食べることにした。夕食は研究所に戻って沙弥や月香と一緒にとるつもりでいた。二人とも連絡を待っているだろう。
 イタリアンレストランに入ると、広瀬はビールとピッツァを注文した。そういう時間帯なのか、店内は比較的空いていた。先に出てきたビールを飲みながら、広瀬は頭の中で今後の計画を練り始めた。
 彼は近々マスコミに流すつもりのメッセージの文章を考えていって、最後に差出人の名が要るなと思った。思った瞬間にスサノオという名が脳裏に浮かんできた。なぜそんな名が浮かんできたのかわからなかったが、なかなかいいじゃないかと使うことにした。
 あとは周知の方法だった。メッセージを流すのは一度きりにするつもりだった。Eメールやファクスよりも古典的な郵送という手段がいいように思えた。
 パソコンのワープロソフトで文を書いてプリンタで印刷する。同じく宛名を印刷した事務用封筒に四つ折りにして入れる。あとは都内の少し離れた地区で普通に投函する。一連の作業時には指紋が付かないよう手袋を着用する。テレビ局、ラジオ局、新聞社、雑誌社、インターネットの有力サイトなど複数のメディアに送付する。あとは徐々に天誅を実行しながら、事の周知徹底を待つことにしよう。
 食事を終えた広瀬は、部屋に戻って沙弥に電話を入れた。
「ずっと待ってたのよ」
「悪かったな。情報屋の情報収集が手こずったみたいで、ついさっき会って報告を受けたところなんだ」
「そう。お疲れさま。それで何かわかったの?」
「うん。今夜はそちらに戻るんでその時に詳しく話すけど、議員は頭を無くして死んだようだ」
「というと?」
「首から上が消えてしまったのさ」
「あなた、まさか」
 電話の向こうで沙弥が息を呑むのがわかった。
「そう、そのまさかなんだ。最初から意図してやったことではないがね。とにかくもうじき帰るから」
「わかったわ。夕食は食べるでしょ?」
「ああ、今ちょっと腹に入れたけど、そちらに着く頃までには熟れるだろう。じゃ、またあとで」
 広瀬は電話を切ったあとフロントに連絡し、チェックアウトすると伝えた。部屋を出るときに振り返ると、高層ビル群の窓に灯りがともり始めていた。一つ二つと増えていく小さな輝きは、まるで四角いクリスマスツリーを想わせた。広瀬はエレベーターでフロント階まで下りて支払を済ませると、ホテルの玄関からタクシーに乗り研究所に向かった。

 広瀬の目の前には、沙弥と月香の目を見開いた顔があった。どう考えをまとめていいのか戸惑っているふうだった。三人一緒に夕食を済ませたあと、広瀬は食後酒を飲みながら沙弥と月香に昨日と今日の出来事を話して聞かせた。タイ料理店のテレビで議員逮捕のニュースを見たこと、そのとき感じた思い、そして情報屋から聞いた話、そういったことを詳しく伝えた。
「それで」と沙弥が口を開いた。
「あなたはどうするつもりなの?」
「どうするって、自首するかってことかい?」
「まあ、それも含めてだけど」
「イメージの力で出来の悪い国会議員の頭を吹っ飛ばしましたって申し出るのかい? まあ、そんな荒唐無稽な話でも警察は大喜びするだろうけどな。なんせ署内で、逮捕した容疑者の頭が消えちまったんだから、どうコメントしていいのか四苦八苦しているだろう。今日の時点でも詳しい報道はされていないんじゃないか?」
「その通りです」と月香が言った。
「現在調査中というコメントが繰り返されています」
「おれはさ、今回のことで心に決まってくるものがあったんだよ」
 広瀬は二人を交互に見て話を続けた。
「おれは二年半以上前にアズロと遭遇してイメージの力を使う能力を得た。そして沙弥と出会い、月香とも出会って、二人にも同等の力を持ってもらうことができた。これがどういうことを意味しているのかは解らない。ただこういう現実があるのは確かだ。
 おれたちはアズロを除けば今のところ三人しかいない仲間だ。少なくともおれはそう思っている。そして今のところと言ったが、三人以上にはならないという確信がある。おれたちはどういう因縁かは知らないが、出会うべくして出会ったと思っているんだ。おれは自分に選民意識を持たなきゃならないほど自信が無くはないんだが、やはり何らかの役割を負わされたかなという思いはある。誰に負わされたのかは知らないがね」
「役割ってどういうこと?」と沙弥が訊く。
「人間の生まれてくる目的はシンプルにいうと、ただ生きて死んでいくだけのことだと思う。だけど、ただ生きるといっても、その生き方は千差万別だ。その千の生き方の中から、自分はせめてこれをやり遂げて、またはやり遂げようとしてこの生を終えたいと思えるものが、その人間にとっての役割じゃないかな。大抵の者はみな自分の役割というものを自覚してはいないようだが、無意識ではそれが知りたいんだよ」
「広瀬さん」と月香が突然言った。
「広瀬さんの役割って何ですか?」
「おれの? おれの役割は地球の用心棒だよ」
「え?」
「要するに、おれの雇い主は人間ではなく地球だってことさ。だから地球の利益を最優先する。地球上のあらゆるものの中で、その構成員も含めての地球自身にとって害になる存在は駆除する役目を担っているのさ」
 広瀬はテーブルの上にグラスを置いた。
「もう、真面目に答えてください」と月香はふくれてみせる。
「広瀬は大真面目よ」
 沙弥はチェリーブランデーの入ったグラスを手にとって一口飲んだ。
「この人は場合によっては地上から人間を一掃しかねないわよ」
「そんな」
「月ちゃん、ほんとによ」
「それなら、あたしたちもですか?」と月香は広瀬に尋ねる。
「どうかな。月ちゃんはおれたち三人だけが生き残った地球を想像できるかい?」
 広瀬は月香をじっと見つめた。月香も視線を返してくる。
「あたしたち三人だけですか? あたし思うんですけど、何事にもバランスが必要なんじゃないかと。よく生態系のバランスが壊されるという言い方を聞きますけど、生態系というのは、ある地域に住むすべての生物群集と、それらの生活にかかわる水・空気・土・光などの無機的環境とを一まとめにして、相互に関連し合う一つの体系としてとらえたものですよね。そうすると、すべての生物群集の一つである人間がいなくなったら生態系のバランスが崩れると思うんです。なぜなら、ある日突然人類がこの地球に現れたわけではなく、他の生物とのバランスを取りながら十万年も生き延びてきたのですから。
 このバランスというのは、何も食物連鎖など目に見える形のものだけじゃなく、エネルギー的バランスもあると思うんです。何十億もの人間のエネルギー体が一度に消滅したら、地球のバランスは大きく狂ってしまうような気がするんです。それともただ肉体が消え失せるだけで、エネルギー体は残るのでしょうか」
 月香は慎重に言葉を選びながらそう言った。広瀬と沙弥は、いささか驚いた顔で月香を見た。
「あれ? あたしって何か変なこと言いました? ちょっと生意気だったりして」
 月香が心配そうな声で二人に尋ねる。
「そんなことない。まったく月ちゃんの言うとおりだわ」
 沙弥は、そう言って広瀬を見た。
「なるほど。地球上の全てのものは相互に影響を及ぼし合ってるということか。何一つ、誰一人として傍観者でいることなんてできないんだな。バランスの問題は、いいヒントをもらったと思ってる。ありがとう」
 広瀬は軽く頭を下げた。
「そんな大袈裟な」と月香は照れた。
「おいおい、話が脱線しちまったな。脱線させたのはおれだけど。えーと、自首するかどうかってことだよな」
「やっと思い出していただけました?」と沙弥は皮肉っぽく言った。
「自首などしないさ。それどころか、これをきっかけにやってみようと思うことがある」
「どんなこと?」
「馬鹿げたことだ。たぶん何の意味もないことだ。それは最初からわかっているのに、なぜかやってみたいんだよ」
「だから何をするの?」
 沙弥は少々苛立った言い方をした。
「天誅を下すんだよ」
 広瀬は、その大時代な物言いに自分で苦笑した。
「簡単にいうと、とりあえず政治家や公務員といった職業をリスキーなものにするんだよ。恐怖でもって、本来のあるべき姿である無私の精神を徹底させるのさ。つまり、ちゃんと真面目に仕事をしなければ自分の頭を失うんだ。予告もなしに。まったく癪にさわる話だよな。誰かに自分の命を左右されるなんて、おれだって頭にくるよ。でも天罰ってそんなもんだろう。しかし最後には政治家や公務員のなり手がなくなるかもしれないな」
「わからないわ」と沙弥が言った。
「あなたの考えていることがもう一つわからないのよ。月ちゃん、あなたわかる?」
 月香は、ちょっと考えてから答えた。
「広瀬さんはこの世というものを愛しているんだと思います。生まれてきて物心ついた頃からあるこの世界。家族がいて、友だちがいて、街があり、川があり、花が咲き、雨が降る。空を見れば太陽があり、夜には月と星が輝く。これはいったい何だろうと思ったはずです。たぶん広瀬さんにとって、自分もその一員である人間とその他のものとは同等だと思うんです。これはもちろんあたしの勝手な想像ですけど。
 広瀬さんは成長するに従って学校や社会などの共同体から強いられたことがあると思います。それは、まず人間との関わりを最優先にしなさいってこと。周りの人間とうまくやっていくことが何より望ましいということ。その考え方に違和感を覚えながらも何とか折り合いをつけてやっていて、ふと気づくと、人間はえらい勝手なことばかりしてるやないけと、あれ何で関西弁になるんやろ、とにかくそういった憤りを感じたと思うんですね。人間は自分たちの目先の都合で、明らかに自然を破壊している。ほんとは自分の首を絞めているということを実感しない。ほんまにアホや。だから広瀬さんは、人間も地球環境の一部に過ぎないのだから、その一部が全体にとって有害ならそれを取り除くまでだという考えを持つに至ったのだと思います。
 それと天誅のことですけど、馬鹿げたことで無意味だと言ってましたが、結局人間の本質は変わらないと広瀬さんは思っていますよね。人間の中にはいろんな要素があって時に応じてそれが様々な形で出てくるけど、でも生まれつき心根の優しい人がいるかと思えば、生来無慈悲な人もいる。政治家になるような人は清濁あわせのむ度量を持っているのでしょうけど、油断すると濁の割合が多くなるのだと思います。
 広瀬さんは、志を持ってちゃんと仕事しろと、卑しい心を持って公務に就くなということを世の中に徹底させたいんじゃないですか? 恐怖でもって」
「でも、恐怖で物事の本質は変えられないと思うの。そして行われることは殺人なのよ」と沙弥は静かに言った。
 月香が口を開きかけると、広瀬がそれを制して言う。
「君とおれとは考え方の立脚点が違うみたいだな。おれは、人を殺すのは悪だとは思わない。農薬を散布して雑草を殺すのと、豚を飼育して食うために殺すのと、いったい何が違うのかわからない。
 植物の中には殺すどころか、わざわざ育てて大事にされるものもあるし、動物の中にも家の中で大切に飼われるものもいる。人も同じように殺される者がおり、そうでない者がいる。すべて力のあるものが自身の都合で決めることじゃないのか。
 間引くという言葉を知っているだろう。特定の作物の発育を促すためにあいだの苗を抜くことだが、それを人間に置き換えることもできるだろう。
 また、人間は戦争における殺人と、それ以外の殺人とを都合良く区別してる。大義名分があれば例外が許される程度の倫理なんて最初から破綻していると思うよ。人間が殺人をいけないこととしているのは、己や己が愛する者が殺されたくないからに過ぎない。憎悪する相手を殺したいと思うのは人間の本性として当然のことではないのかな。
 これからおれはイメージの力を使って、少しばかり世の中を揺さぶってみようと思ってるんだ。さっき月ちゃんが言ってたバランスの問題をもっと突き詰めないと、人類抹殺もできないしな。
 もし、おれのやることが宇宙の理から外れているのなら、アズロがおれの能力を奪うと思う。おれはまた、ただの農園主に逆戻りってわけだ。このことも一つの判断材料になるんじゃないかな。
 アズロとはいったいどんな存在なのか、どんな目的を持って現れたのか、おれたちがこれからやることによって少しずつ解ってくるような気がする。君たちは君たちで考え、行動すればよい。万一お互いの考え方が了承できなくなったときは、その時だ。対立も止むを得ないだろう」
「わかったわ」
 沙弥は落ちついた声でそう言った。
「わたしはわたしの直観に従って行きます。あなたはあなたの、月ちゃんは月ちゃんの思うとおりに進んでいけばいいと思う。わたしたちは何かを試されているのかもしれないね。誰にそうされているのかは解らないけど。
 わたしたち三人は、きっと魂の兄弟なのよ。たとえ誰かが死んでも、きっと残りの魂と一つになるから、悲しむことも怖がることもないような気がする」
「魂の兄弟か」と広瀬が言葉をなぞった。
「一つ素朴な疑問があるの」と沙弥が続ける。
「あのね、なぜアズロは最初にあなたの前に姿を現したかということなの。なぜ、わたしや月ちゃんじゃなかったのか。どう思う?」
 広瀬は思案顔で顎に手を置く。
「それは多分おれが一番切望していたからだよ。おれは、ずっと同胞であるはずの人間になじめないものを感じてきた。人間以外のもの、自然や、植物や、動物、昆虫などが心を開ける対象だった。とくに植物という種におれは癒されたんだ。相性が良かったんだろうな。同時におれは宇宙にも心惹かれていたから、その二つの興味が融合して、宇宙のどこかに存在するかもしれない植物的なものに会いたいとずっと願っていたんだ。
 それと、いつまでたっても愚かな行為を止めようとしない人間という種をこの地球上から一掃したい、そのための力が欲しいとずっと思っていた。
 だから、アズロはまさにおれの悲願の現実化なんだよ。でもまあ、これはおれの推論にすぎない。おれだけではなく、沙弥や月香とも関わりを持ったということは、おれの悲願どころではないもっと大きな目的のために現れたのかもしれないな」
「謎ね」と沙弥が言った。
「その大きな目的って何かしら」
 月香は、普段よく動く瞳を宙の一点に据えてじっと考え込んでいたかと思うと、突然叫んだ。
「そうだ」
 沙弥と広瀬は、えっという顔をする。
「思い出したことがあるの。あたしがアリゾナに住んでいたとき、先住民であるホピ族の村をよく訪れてて、長老と呼ばれる老人たちからいろいろな話を聞いたわ。
 それはホピ族に伝わる神話で、それによると過去に三つの太陽の時代があり、各太陽の下に栄えた世界は火、氷、水によって滅亡し、現在の人類はいま第四の太陽の世界にいるらしいのね。この四番目の世界が始まったのは約十万年前とのこと。
 各々の時代に人類は創造主への賛美を忘れ、次第に奢り高ぶるようになり、堕落と悪徳がはびこり、互いに争い殺し合った。創造主は新しい世界を創るために今ある世界を滅ぼした。ただ選ばれし者だけが生き残った。こんな話なんだけど。さっきの広瀬さんの言ってたことって、ホピ神話の創造主の行為と一緒じゃないのかな。
 でも、もし今度人類が滅びるならば、人類だけじゃなく他の生物も、もしかして地球そのものも共に滅びるような気がするの。それは先程あたしが言ったようにバランスが崩れるからなんだけどね」
「しかし」と広瀬。
「だんだん話が壮大になっていくぞ」
 沙弥が月香に言う。
「神話は決してただの作り話ではないと思うわ。世界各地の神話には共通した物語がたくさんあるみたいだし。ホピ族のも興味深いわ。月ちゃん、いい経験してきたわね」
「なんか色々なことが密接にリンクしていく感じですね」と月香が言った。
「さてと、そろそろお開きにしないか。なんだか疲れてしまった」
 広瀬は大きな欠伸をひとつした。
「じゃ、これで解散しましょう」
「お疲れさまでした」
 沙弥と月香は席を立った。
「あ、そうそう、月ちゃん、もしよかったら明日ちょっと手伝ってほしいことがあるんだ。事務的なことなんだが」
 広瀬は急に思い出したように言った。
「いいですよ」
「すまんね。よろしく。では、また明日」
 三人は二階に上がり、それぞれの部屋に入った。それぞれの思いを胸に秘めて。


      10

 大きな一枚ガラスの窓から見下ろす舗道を、乳母車を引いた若い母親が歩いている。陽射しを遮るために乳母車には覆いがかけてあった。
 小綺麗なカフェの窓からそんな光景を眺めながら、沙弥は故郷にいる母のことを考えていた。広瀬と一緒に上京して以来、たまに電話で話すことはあっても顔を見てはいなかった。あれからもう一年半になるが、一度も帰郷していなかったからだ。父と二人っきりになるのがちょっと早くなったねと沙弥は思った。呑気に平和に暮らしていた頃が懐かしくはあるけど、もう二度とあの日々には戻れないと解っていた。この大きな変化が偶然なのか必然なのか沙弥には判断がつかなかったが、逃げ出さずに向き合うことが自分の人生の本流を歩むことだという気がしていた。
「すいません。ちょっと遅れちゃった」
 声と共に月香がテーブルに近づいてきた。
「大丈夫よ。まだ時間あるでしょ?」
「ええ。約束は午後二時だから」
「じゃあランチしてから行きましょ。たしかここ食事もできるはずよ」
 そう言って沙弥はテーブルにあったメニューを手に取った。二人は本日のパスタとサラダとコーヒーのセットを注文した。
「でもよく許可が下りたわね」と沙弥が言う。
「ええ。話の持って行き方がよかったんだと思います。そういうことなら喜んでと執刀医が言ってました」
 月香は一足先に病院に行って根回しをしてきたのだった。
「そういう場合、患者さんの許可はいるのかしら」
「もちろん要ると思いますが、病院側が話をつけてくれたみたいです」
「そうなんだ。親切ね。きっと月ちゃんの感じが良かったからだわ」
「またまた冗談ばっかり」
 気持ちよく晴れた初夏の天気に相応しく、月香はトレードマークのスリムジーンズにノースリーブを着ていた。だいぶ伸びた髪をポニーテールにしている。沙弥は薄いグリーンのワンピース姿だ。
「ねえ月ちゃん、あれからイメージを使う訓練は続けているの?」
「ええ、やってますよ。無機物に関してはけっこういけたんだけど、有機物はまだまだ難しいです」
「どの程度までできたの?」
「単細胞植物や単細胞動物、たとえばバクテリア、藻類・菌類の一部とか、アメーバ・ゾウリムシなんかのコピーには成功したんです。顕微鏡を覗きながら、イメージでコピーするんです。結局クローンを作るということなんでしょうけど、複雑な生物になるとやはり個体そのものをいきなり物質化するのは無理な気がします。まずある個体にイメージで受精させて、育てるのはその個体に任せるという方法になりますね。でも林檎の先例もあるしなあ」と月香は思案顔だ。
「林檎の場合は植物だし、形状からしてイメージし易いからでしょ、きっと」
 そこへ注文の品がきた。サラダとパスタが同時にテーブルに並んだ。二人は食べながら話を続ける。
「丸ごと物質化するって、どんなメカニズムでそれが行われるのかな」と月香が言う。
「たぶん林檎を構成する細胞の一個一個をイメージしていくのではないと思うの。たとえ林檎でも細胞の数は半端じゃないでしょ? だからトータルでイメージするんだと思うけど、いったいそんなことが可能だろうかと考えたの。これはわたしの仮説なんだけど、ビジュアル的にイメージするというよりも林檎の持っている情報そのものをエネルギー的にイメージして物質化するような気がするの」
「なるほどね」
「だからどんな情報を使うかによるよね。つまり漠然とした林檎という情報なのか、ある一定の、たとえば目の前にある林檎の情報なのかによって、現れる林檎は違ってくると思うわ」
 沙弥は話しているうちに次第に考えがまとまってくるのを感じていた。
「でもたとえ目の前にある林檎でも、まるっきり同じ情報を抽出してコピーできるものなのでしょうか」と言いながら、月香はフォークとスプーンで器用にパスタを口に運ぶ。
「そっくり同じ情報を取り出すのは難しいんじゃないかしら。なぜなら、どうしてもイメージの揺らぎが生じると思うから」と沙弥もフォークを使いながら答える。
「じゃあ、広瀬さんが物質化したという林檎も、見かけは似ているけどオリジナルとは違ったものなんですね」
「そうだと思うわ」
「てことは、動物や人間の丸ごと物質化なんてした日には、見かけはそのものでも中身は違うモンスターが現れる可能性が高いことになりますね」
「モンスターかどうかは置いておいて、中身が違うというのは100%そうだと思うわ」
「やはり創り出すってことは大変なことなんですね。壊すのは簡単だけど」
「そうね。生物の発生一つ取ってみても、気の遠くなるような長い時間がかかっているしね」
 パスタを食べ終えた彼らは、食後のコーヒーをブレンドからカプチーノに変えてもらった。


アズロ 08