「魂は全身に宿るんじゃなくてですか?」と月香は沙弥の横顔を見た。
「もちろん体全体もカバーしてるけど、同時に各部分にも独自の形で宿り、その部分特有の働きをサポートしているんじゃないかと思うのよ。まあこれはわたしの考えだけど」
「広瀬さんはただ単に水晶体核を破壊しただけじゃなく、その部分の魂をも消滅させたのかもしれませんね」
「わからない。わからないことだらけよ。さっきも試したように、わたしたちは無機物の物質化には成功してる。有機物も林檎など植物体の物質化には成功した。でもここでチェックだけど、植物も魂の働きがないと本来の機能が果たせないとしたら、物質化した植物体はただのダミーということになるわ。いつもこの問題に突き当たるのよ。つまり魂の問題に」
 沙弥はそこまで話すと腕組みをして目をつむり、しばし考えこんだ。
 月香はポケットから金貨を取り出すと左の手の平に乗せ、アズロをじっと見つめたあと目を閉じた。一瞬のちに月香は右の手の平にわずかな重みを感じて目を開けた。見るとそこには左手のと同じ金貨があった。
「やった」と月香は叫び声をあげた。
 沙弥が驚いて目を開けると、目の前に差し出された月香の両手があり、各々の手には同一の金貨が乗っていた。
「やったわね。おめでとう」
 そう言って沙弥は月香と抱きあった。
「ありがとうございます。沙弥さんのアドバイスのおかげです。あ、それともちろんアズロのね」
 月香はアズロの方を見てウインクした。
「さあ、ちょっと小休止よ。わたしの部屋でお茶しましょう」
「はい」
 二人は研究室を出て沙弥の部屋に向かった。

 その頃、広瀬は新宿にいた。JR東口のロータリーでタクシーを降りると、通りをはさんだ向かいのビルの壁が動いていた。巨大なテレビ画面の中で赤い髪の男たちが歌い踊っている。広瀬は横断歩道を渡り、ビルに挟まれた小路を歩いて行った。たしかこのあたりの地下にジャズ喫茶があったはずだと思い探してみたが、見当らなかった。
 当時、狭い階段を下っていくと木製のドアからサックスの音が漏れていた。重たいドアを開けると音の塊が外に飛び出してきた。ジョン・コルトレーンの『至上の愛』がかかっていた。薄暗い照明の店内に入り、空いた席に腰を下ろす。アルバイトらしい若い女が注文を取りにくる。大音量のため、女の耳元で声を発する。コーヒー。女は水の入ったグラスを狭い小さなテーブルに置いて立ち去る。おれは内ポケットからショートホープを取り出しながら周りを見回す。煙草の煙がたなびく店内には、目を閉じ体をゆらして音楽に聴き入る客がひしめいていた。壁の薄いボロアパートに住んでいるおれにとって、音楽喫茶は好きなレコードを大きな音で聴ける唯一の場所だった。店にいる他の奴らも同じようなものだったろう。
 ジャズ喫茶はとうの昔に潰れてしまったのかもしれない。広瀬はその場を離れて、メニューがロールキャベツのみの洋食屋に向かった。待ち合わせの時間にまだ間があったので、もしその店がまだあれば軽く食べようと思ったのだ。
 新宿は大学時代によく遊んだ街だった。キャンパスが新宿から出ている私鉄沿線にあったので、この街に繰り出すことが多かったのである。その時分によく食べにきたその洋食屋も探し出すことができなかった。見当をつけて歩き回ってみたがだめだった。
 広瀬は時の流れをあらためて感じながら少し歩き、待ち合わせの喫茶店に入った。二階に上がってみると部屋の中央に長方形の大きなテーブルがあった。その片隅に座ると、正面の窓の外に一本の木が立っており、幹から伸びた枝の葉に午後の陽がチラチラと反射していた。
 ウェイトレスに、コーヒーとフレンチトーストを頼むと、窓の外を眺めながらしばらくぼんやりとする。やがて注文の品がきて、彼はゆっくりと飲食を始めた。
 広瀬が二杯目のコーヒーを飲み終えたとき、彼の横に誰かが立った。
「お待たせ」
 見ると髭面の男が笑っていた。江藤だった。
「やあ久しぶり」
 広瀬は手を差し出した。
「お久しぶりです。滝ではお世話になりました」と江藤も握り返す。
 彼は四十代前半で、四輪駆動車の専門雑誌の編集長をやっていた。
「もう随分になるなあ」
「去年の秋でしたからね」
「座ったら」と広瀬は椅子をすすめてから、ウェイトレスを呼んだ。
 コーヒーを注文してから江藤は広瀬に向き直った。
「最近どうされてます?」
「元気にやってるよ」
「研究の方は、はかどってますか?」
「ぼつぼつかな。ここのとこ人体について学んでる」
「人体って、医学の勉強ですか」
「医学なんて大層なもんじゃないよ。人の体の成り立ちというか仕組みを知りたくてね。つまりどういうメカニズムで動いているのかってことなんだ」
「へえ、どうされたんですか」
「うん、ちょっとね」
 ウェイトレスがコーヒーを運んできて江藤の前に置いた。
「たしか研究内容は人間の意識とかイメージとか、そういったものでしたよね。人体のどこにそれらが宿っているのかを見つけようとしてるとか」
 江藤はコーヒーに口をつける。
「なかなかいいとこを衝いてるね」
「そうですか」
「まあ遠からずで、それももちろん知りたいことなんだけど。なあ江藤さん、人間が一番楽に死ねる方法って何だろうな」
「楽にって、肉体的苦痛がないということですか」
「いや、それだけじゃなくて、精神的苦痛もね」
「うーん、何だろな。精神的に恐いのは死ぬことを意識するからですよね。死を針の先ほども思わないで一瞬で死ぬのなら、少なくとも恐怖を感じるそれこそ暇もないわけだし。もし痛覚神経の伝達速度より早く死ぬことができれば、肉体的にも苦痛を感じないだろうし。ここらあたりがポイントでしょうかね」
「江藤さん、相変わらず頭の回転が速いね」と広瀬は感心する。
「とんでもない。滝にあたって頭脳のチューンナップが少しはできたかなと喜んでいたら、都会の垢にまみれてきて半年あまりでこのていたらくですよ、まったく」
 江藤は自嘲気味にそう言うと、髭に覆われた顎を撫でた。
 彼は雑誌編集者と同時にオフロードのレーサーでもあり、滝で初めて会った時もレースに出かける直前だった。精神的にクリアな状態で勝負に望みたいと思い、その方法をいろいろ探し回ったあとに縁あって滝行に出会ったのだという。
「いやいや、なかなかのハイチューンだよ。ところで今の話だけど、楽に死ぬためには一瞬で死ぬことが一番の方法だということだよね。じゃあ一瞬で死ぬにはどうしたらいいんだろう」
「そうですねえ、やはりピカドンでしょうかね」
「それだと爆心地にいるものと離れているものとでは差がでるな。それに人間以外の生物も死んでしまうし、第一地球に優しくないだろう」
「えー? 地球に優しいってのが条件ですか? 面白いな。しかし広瀬さんもユニークなこと考えてるんですね」と江藤は愉快そうに笑った。
「要は、他の生物や地球環境に影響を及ぼさない方法で人間だけを殺すってことですね」
「そう言うと身も蓋もないが、その通りだ」
「しかも時間をかけてでなく瞬間的に」
「そう」
「苦痛を与えないために」
「うん」
「なぜです? なぜ苦痛を与えないことにこだわるんです?」
「せめてもの慈悲だよ」
 真面目くさって言う広瀬を見て江藤はギャハハハと大笑いした。
「いやあ、広瀬さんて面白い人だったんですね。見かけはちょっと強面だけど」
「おい、笑ってないで考えてくれよ」
「わかりましたよ。えーと、あなたは秘密結社の悪玉で、人類絶滅を計画しているということですね。でも、ふつう秘密結社のボスは、世界を征服したあと哀れな人間どもの上に君臨し、この世の春を謳歌したがるような気がしますけど。いいんですか? 誰もいなくなっても。別嬪さんたちも消えちゃうんですよ」
 江藤は少しばかり茶化して言った。
「いいんだよ。おれも消えちゃうんだから」
 広瀬はさりげなくそう言うと、ことばを続けた。
「江藤さん、腹へってないかな。おれ昼飯食いそこねてしまって。さっきトースト食べたんだけど足りなくてさ」
「いいっすよ。何にします?」
「歌舞伎町に、こないだ知り合いに連れていってもらったタイ料理店があるんだが」
「それにしましょう」
 二人は勘定を済ませたあと、連れだって外に出た。時刻は夕方に向かっていたが、歌舞伎町が極彩色のネオンに覆われるのはもっと後のことだった。
 靖国通りを渡って歌舞伎町に入りしばらく進むと、右手にタイ料理と書いた看板が見えてきた。店は二階にあり、彼らは狭い階段を上った。店内に入ると香辛料の香が満ちており、タイ人のウェイトレスが一人と客が三人ほどいた。広瀬は江藤の了解を得て料理を適当に選び、タイ製のシンガービールも一緒に注文した。届いたビールを注ぎあって乾杯する。
「改めて、どうも久しぶり。いちど会いたいと思ってたんだ」と広瀬が言う。
「どうも、どうも。滝にもまた行きたいですね」
 江藤は喉を鳴らしてビールを飲むと、こりゃ旨いやと言った。
「それはそうと、聞きそびれてしまったけど、レースはどうだったの?」
「おかげさまで準優勝でした」
「それはすごいね。確か国際的な大会だよね」
「密林レースでは一応世界大会です」
「そりゃ、おめでとう」
「ありがとうございます」
「知り合いが活躍するって、何か嬉しいものだな」
 湯気の上がった最初の料理が二皿出てきた。広瀬は取り皿を江藤に渡し、自分も皿に盛る。
「広瀬さんも世界征服がんばってくださいね。期待してますよ」と江藤が陽気に言った。
 店の奥の高いところにテレビが設置してあり、コマーシャルが終ってニュースが始まった。二人で辛いタイ独特の料理をつつきながら観るともなしに観ていると、代議士逮捕の模様が映しだされた。
 口利きに伴う収賄罪に問われたその男は、身の潔白を証明するために議員は辞めない旨のことを言っているらしい。画面に映ったその男の顔は、どう贔屓目にみても身の潔白が証明されるとは思えないような卑しい顔をしていた。広瀬の中に激しい憎悪が湧き起った。
 中途半端な悪党め。どうせなら人間社会の善悪などとは百万光年かけ離れた絶対的な悪であればいいのに。絶対的な悪人はきっと美しいだろう。少なくとも卑しい顔をしてはいまい。あんな顔なんて消えてしまえばいいんだ。
 そう思った広瀬は、はっとした。その男の首から上がふっと無くなったビジョンをみたからだ。確かな手応えのようなものを感じた。これはもしかすると、もしかするかもな、と広瀬は腹に定まってくるものがあった。テレビのニュースは生放送ではなかったので、その場で結果はわからなかった。しかし何かが起ったのなら、臨時ニュースが流れるだろう。
「広瀬さん、どうしたんですか。テレビに目が釘付けですよ」
 江藤が広瀬の目の前で左手をひらひらさせて言った。
「いや何でもないよ。ちょっと考え事をしていたんだ」
「恋人のことでしょう」
「恋人か。美しい日本語のひとつだね。残念ながらそうじゃない」
「ほんとかな」
「そうだ。恋人といえば江藤さんこそ、その後どうなったの?」
 広瀬はウェイトレスに手で合図しながら言った。彼女がやってくる。
「ビールもう二本。江藤さんも飲むでしょ?」
「ええ、お願いします」
「じゃ、二本ね」
 彼女は頷いてビールを取りに行った。
「結局別れちゃいました」
「そうか」
 広瀬はそれ以上何も言えずに、ウェイトレスが持ってきたビールを黙って江藤のグラスに注いだ。
「あ、すいません」
「江藤さんさあ、ボルネオのダートを猛スピードで駆けているとき、何を思い、何を感じているの?」
 広瀬は話題を変えて、そんなことを訊いてみた。
「レースの間はもちろんレースのこと、コースやペース配分などを必死で考えますが、それはわざわざ考えるというよりも自然な流れとしてあるって感じですね。頭脳はフル回転しているんだけど、どこか一か所醒めていて、その部分が自然と深くコミットしているような気がするんです。自然に抱かれるというか」
「それはおれにもわかるな。自分と他という区別が無くなって、眺めている対象と自分が同一化するって感じだろ。誰かが言ってたように、見るものは見られるものだということが実感できる感じ」
「そうですね。ぼくは滝に打たれる経験をする前と後とでは、自然に対する感受性が変わってきましたね。うまく言えませんが、自然と波長が合うチャンネルが一つできたような気がするんです」
 次々と出てくる大皿に盛られたタイ料理を平らげていきながら、彼らは話し続けた。
「喫茶店での話を蒸し返すようだけど、安心の中で死のうと思ったら自然と一体になった状態が最適かもしれないな。江藤さん、レースの最中に一瞬で死ねるならそう悪くないんじゃない?」と広瀬が言う。
「そうですね。願わくば隣に可愛い人がいれば申し分ないですね」
「そりゃいいね。では、江藤さんの理想の死に方をインプットしておこう」
「よろしくお願いします」
 そのときテレビ画面の上部左端に文字が現れ、右に向かってスクロールを始めた。臨時ニュースだった。本日午後三時半頃、口利きに伴う収賄罪で逮捕された○○××衆議院議員殺害さる。詳細は不明。

 沙弥と月香は、沙弥の部屋でクッキーをつまみながら紅茶を飲んでいた。室内にはFMラジオから軽快な音楽が流れている。二人の話題は、やはり今後のことについてだった。
 もうカネに不自由はしない。金銭で手に入る大概の望みは叶う。さらに常識では考えられないような能力を身につけている。ではこれから何をするのか。死を迎えるまでの日々をどう過ごすのか。あるいはただ死を迎えるのではなく、それに挑むのか。この能力を駆使して不老不死に挑んでみるのも一興かもしれない。
「そんな大層なことでなく、もっとわたしたち女性にとって役立つことに使えないかしら」と沙弥が言う。
「たとえば?」
「たとえば美容に。あなたにはまだ実感できないかもしれないけど、肌ってやはり衰えるから」
「しっかりと実感してます。してますよ」
「そう?」
「もう二十七ですよ」
「もうじゃなく、まだでしょ?」
「沙弥さんだって、そんなにきれいな肌してるじゃないですか」
「化けてるのよ」と沙弥は胸の前で両手を垂らした。
 月香はそれを見てクックッと笑い始め、笑いが止まらなくなった。
「ねえ、笑ってないで聞いてよ。イメージの力でなんとかならないかしら。老化のメカニズムを調べて、細胞を活性化させるかなんかしてさ」
 しばらく笑っていた月香は、ようやく笑いが静まり沙弥に言った。
「老化についての本を前に読んだことがあるんですが、問題はDNAに老化のプログラムが組み込まれているかどうかでしょ?」
「老化のプログラム?」
「一個の細胞がその中にあるDNAの設計図に従って細胞分裂を繰り返し、最終的にはある一定の形になるわけですよね。だから最初の細胞からみると成長しないことには役目は果たせないことになる。成長するって結局は老化していくってことだから、老化のプログラムは予めDNAの中にあるのでしょう。
 でも今話題に上っているのは、ある一定のところで老化の足踏みをさせられるかということですよね。誰も一生幼児のままでいようとは思わないはずだから。要するに女として一番美しいと思える時点で成長というか老化をストップしたいわけじゃないですか。そのようにDNAのプログラムを書き換えればいい。問題はそれをイメージの力でできるかどうかってことかな。
 ところで、細胞はあたしたちが生きている限り常に分裂を繰り返して生まれ変わっていますよね。一つは死に、新しい一つが生まれる。でも全く新たな個体になるのではなく全体としてはある一定の個を保っている。それはもちろんDNAにプログラムされているのでしょうけど、全体としてある一定の個を保たせている力っていったい何でしょうね」
「それは個々の細胞に宿った魂の力かもしれないわね」
 結局いつも魂の問題にふれることになるんだと沙弥は思った。
「では」と月香が訊く。
「魂って、いつの段階で宿るんでしょう。卵子が受精したとき? 子宮の中である程度まで成長したとき? それとももっと前の段階で? つまりまず魂がやって来たから受精したとか。うーん、わからない。あったま痛くなってきました」
「魂のことは、わたしもよく考えるのよ。でも、ちっとも結論がでないの。あなたの言うように、あったま痛くなってくるわ」
 そう言って沙弥は月香と顔を見合わせて笑った。
「でも月ちゃん、あなた博識ね」
「とんでもないです。あたしみたいなのが博識といわれた日には、博識が悲観して自殺しちゃいますよ」
 二人はさらに笑い転げる。沙弥の部屋から見える窓の外は、光の色合いが徐々に移ろって、夕方と呼ぶには少々早いくらいの時刻になっていた。
「月ちゃん、たまにはワイドショーでも観ようか。博識になるわよ」
 沙弥はそう言ってリモコンを取り、テレビをつけた。いきなり現れた画面ではレポーターの男が興奮した声で喋っていた。
 詳しいことはまだわかっていませんが、議員が警察署内で殺害されたのはほぼ確実とみられています。警察は、現在状況を把握中なのでコメントできないと発表していますが、それにしても前代未聞のこの事件の真相は、いまだ厚いベールに覆われたままです。
 沙弥と月香は互いに相手の目を見ながら何か言いたそうで言えないといった表情をした。沙弥はリモコンを操作して他のチャンネルに変える。警察署の前に大勢の報道陣と野次馬が詰めかけていた。今度のレポーターは女性で、甲高い声を不自然にひそめながら喋っている。
 これは正式に発表されたものではありませんが、議員はどうやら首を切られて殺害された模様です。ただ不思議なことに首の行方がわかっていないとの、これは未確認情報ですが、そういった噂も飛び交っているようです。以上、現地から中継でお伝えしました。
「偶然ではないわね」と沙弥は月香に言った。
「普段ほとんど観ないテレビを、あなたと一緒に観る気になったのは」
「どういうことですか?」
「なんか感じるのよ。この一見猟奇的な事件の裏には、きっと何かあるわ」
「なにかって?」
「うまく言えないわ。でも敢えていうと、このことで歴史の流れが大きく変わったという気がするの。どう変わったのか、光へか、闇へか、それはわからないけど」
 沙弥はテレビを消して携帯電話を手に取った。広瀬にかけたが応答がない。沙弥は、ケータイなど監視されているようで不愉快だから持ちたくないという広瀬を説得して、ようやく持ち歩いてもらっていた。ふらりと出かけたまま何日も帰らない性行のある広瀬だから、かつて急な用事があったときに往生した経緯があった。留守番電話サービスには申し込んであったが、彼がわざわざ聴くとも思えなかった。
「まあいいわ。後でまたかけてみる」と沙弥はテーブルの上に電話機を置いた。
「広瀬さん?」
「うん。でないから、またあとでね」
「急用ですか?」
「今のニュースのことで彼と話がしたくて。あの人まだ知らないんじゃないかしら」
「今日はどちらに?」
「たしか新宿で人に会うって言ってたような気がする。滝のときに知り合った人らしいわ」
「女の人ですか?」
「さあ、どうかしら。どうして?」
「いえ、ただ訊いてみただけです。さてと、あたしは秘書室に戻ります。夕食のときにまた」
 月香がカップを片づけようとすると、いいわよ後でわたしがやるからと沙弥が止めた。ごちそうさまと言い置いて月香は階下に降りて言った。
 沙弥はソファに座ったまま事件のことについて考えた。さっきレポーターが言っていたのが本当だとすると、警察は当分の間報道管制を布くだろう。警察署内で殺人事件が起ったということは当然警察内部に容疑者がいる可能性もあるということで、しかも被害者を逮捕した矢先のことでもある。詳しい情報を入手するのは難しいに違いない。なにかいい方法はないものかと沙弥は思案をめぐらせた。
 突然、テーブルの上の携帯電話が鳴った。急いで出ると、広瀬ののんびりとした声が聞こえてきた。
「連絡待ってたのよ」
 沙弥は、議員が殺された事件のことを知っているかと訊いた。広瀬は、今まで友人と話していたので知らないと答えた。沙弥はテレビで観た内容を話し、なぜだかわからないけど事件の詳細を知りたいので情報を集めて欲しいと頼んだ。広瀬は、今まだ一緒にいる友人は出版関係の仕事をしており、情報屋のつてがあるかもしれないから当たってみると言った。
「何かわかったら電話するよ。もしかしたら今夜はそちらに帰れないかもしれないから、おれのことは気にしないでくれ」
「わかったわ。気をつけてね」
 そう言って沙弥は電話を切った。
 結局その日広瀬は戻って来なかった。沙弥は月香と二人で夕食をとった。専属コックが腕に縒をかけて作ってくれた。普段広瀬がいるときは三人でゆっくりと食事をする。
 半年前の奈良以来、月香はこの邸に住むようになった。それまでは都内のマンション住まいで、ここまで通勤していた。孔雀門前での事件は沙弥、広瀬、月香の結びつきを強める方向に働き、月香は他の二人にとって大切な仲間になった。『イマージュ研究所』という看板はかかげていたが、対外的に営利活動をする必要はないので秘書の仕事もそう煩雑ではなく、研鑽に支障は来さなかった。それで月香は引き続いて秘書的、事務的な業務に携わることになった。邸の二階の一室を彼女好みに改装しプライベートな部屋とした。
 これで三人各々の部屋を持ち、各々の役割分担もできたことになる。すなわち、沙弥が研究所所長、広瀬が主任研究員、月香が総務部長というふれこみである。第三者からみると、何をやっているのかよくはわからないが、何か知的な活動を行いながら優雅に暮らしている人たちということになるのだろう。
 夕食を終えた沙弥と月香はしばらく寛いでいたが、どうやら広瀬は今夜戻りそうにないので、早めに休むことにした。
 夕方から天気が崩れた空は夜半になって雨を降らし始めた。時おり風を伴った雨足が、イメージの物質化に成功し新しい一歩を踏み出した月香と、何かが起りつつある気配を敏感に感じ取ってナーバスになっている沙弥の眠る窓辺を一晩中叩いていた


      9

 新宿の高層ビルにあるホテルの一室で目覚めた広瀬は、ベッドから出てカーテンを開けた。窓の外は雨だった。もうすでに正午近かった。
 昨日沙弥と電話で話したときにはもう議員の死を知ってはいたが、どんな状況だったのかは不明だった。広瀬にしても詳細を知りたかったので、江藤に情報屋を紹介してもらい、警察が手元に置いている情報を何とか入手してくれるように依頼した。いつでも動けるように新宿に宿を取り日付が変わるまで待ってみたが、情報屋からの連絡はなかった。やはり相当手こずっているのだろう。いずれにしても夜が明けてからの話だと判断し、午前二時頃ベッドに入ったのだった。
 広瀬はシャワーを使ったあと、ルームサービスの食事を頼んだ。この時点で初めて新聞をチェックしてみたが、議員殺害に関する記事の内容は、予想通り不自然なほど情報が少なかった。おそらくテレビでも同じことだろう。警察の動揺ぶりが伺えた。
 この事件の犯人は自分に間違いないと広瀬は確信していた。彼は、どんな具合に自分の力が発現したのかを知りたかった。偶然の出来事ではあったが、いずれ何らかの形でこういったことは始まったような気がした。いよいよ時代が大きく変わり始めたのだと思った。
 広瀬がホテルで待機していると、午後遅くに江藤から電話が入った。ある程度の情報が掴めたらしい。広瀬は情報屋とホテルの部屋で会うことにし、その旨伝えてもらった。
 情報屋は一時間ほどでやって来た。彼は小林と名乗った。むろん本名ではあるまい。ずんぐりとした中年の男だった。広瀬は椅子を勧め、さっそく本題に入った。
「まず死因を聞かせてください」
「なんと名付けたらいいのか。頭部欠損によるショック死とでもいえばいいんでしょうかね」
 小林は戸惑いの面持ちだった。
「頭部欠損ですか。具体的には?」
「つまりこういうことなんです。昨日の午後から取り調べが始まりました。まあ一応現職の国会議員なので、特別に部屋が用意されたようです。部屋には議員を含めて五人の男がおり事情聴取が行われていたのですが、午後三時半頃ふっと議員の頭部が消えたらしいのです。頭を失った胴体は椅子に座ったままで、首からは血が噴出し続けたそうです」
「そりゃ凄い光景だな」
「そして不思議なことに、床にでも転がっているはずの頭部が見当たらないんです」
「どういうことです?」
「ですから、忽然と消えてしまったということです」
 なるほど、と広瀬は心の内で頷いた。まあ予想していたことではあったが、実際にこうして確認できたことは大きかった。


アズロ 07