「なんだか推理ごっこみたいだけど、二つ目はわたしの担当ね」と沙弥が名乗りをあげた。
「なぜせき止める必要があったのか。それはきっとバランスを取る必要があったからよ。日本全体の気のバランスをこの門で取っていたの。ダムの水門みたいなものよ。おそらく今現在もその機能は働いていると思う。だからもしこの門を、というよりプログラムを破壊したら、気のバランスが崩れて日本全体で天変地異が起きるでしょうね。日本がそうなれば、世界もまた無事では済まないわ。なぜなら日本は世界の要であり、かつ部分は全体に繋がっているからよ。日本は世界と連動し、世界は太陽系と連動し、太陽系は銀河系と連動し、銀河系は全宇宙と連動している。どう? この推理は? ちょっぴり国粋主義のスパイスも振りかけてみました」
 沙弥は冗談めかして言ったが、自分でもなぜそんな見解を示せるのかわからなかった。
「なーるほどね」と月香は盛んに頷きながら聞いていた。
 そのとき、広場の右端あたりから足音が近づいてきた。
「こんばんはー」
 沙弥たちが声の方を見ると、男が二人こちらに向かっていた。一人はボアの付いたデニムのハーフコートを、もう片方は黒の革ジャンバーを着て、二人とも目にゴーグルを付けている。
「なにか」
 広瀬は嫌な予感がするなと思いながら言った。
「すいません。ちょっと頼みがあるんやけど」
 革ジャンの男が猫撫で声で言った。
「なんですか?」
 広瀬は沙弥と月香をかばう位置に移動しながら言った。
「カネ貸してくれへんやろか」
「いい若いもんに貸す金はないね」
「こいつのお袋が今にも死にそうなんやけど、手術代があらへんのや」と革ジャンはデニムの男を顎で示して言った。
「ほお、今にも死にそうなら、こんなとこにいないで付き添っててやれよ」
「おっちゃん、ほんまに死にそうなんや」
 革ジャンは声に力を込めて凄んだ。
「わかった」
「そうか、おおきに」
 革ジャンはデニムと顔を見合わせてにたついた、
 広瀬は財布から一万円札を一枚取り出すと、革ジャンの男に差し出した。
「これで何かお袋さんの好物でも買ってやれ」
「おっちゃん、ナメとんのんか。たったそんなもんで手術はできへんで」
「あいにく持ち合わせがそれしかない」
「うそこけ」とデニムが言った。
「たんまり入ってたやないけ」
「お前、人の財布を覗き込む趣味があるのか」と広瀬は鼻で笑った。
「なんやと」
 男は息巻いた。
「まあ待ちいな」
 革ジャンが男をとどめた。
「ほなら、おねえちゃんちょっと貸してんか」
 言うが早いか革ジャンは左方に跳び、広瀬の後ろ側にいた月香の肩先をつかんで引きずり出した。
 広瀬が男に殴りかかろうと動作を起すと同時にヤッという鋭い声がし、月香の裏拳が男の鼻を直撃していた。鈍い音とともに男の鼻柱が潰れ、血が飛び散る。
「このアマ」
 革ジャンは左手で鼻を押さえながら、右手でジャンバーのポケットからナイフを取り出した。ビシッという音がして刃が飛び出る。
 革ジャンの一連の動きに呼応するかのように、デニムもナイフの刃を起しながら沙弥の手首をつかんで手前に引き寄せ、首筋に刃先を当てた。
「動くな、ドアホ」
 デニムは広瀬を睨みつけながら叫んだ。
 さすがに喧嘩慣れしているとみえて、広瀬は彼らの動きについていけなかった。
「ねえちゃん、ええ度胸してるやないけ」
 革ジャンは地面にべっと血の混じった唾を吐くと、ナイフをかざして月香に寄っていった。月香は拳法の構えを保ったまま、じりじりと後ずさった。
「抵抗すな。抵抗すると、あのねえちゃんの喉を切る」
 革ジャンは顎で沙弥を指しながら言った。沙弥はデニムの左手で後ろ手に固定されながら、右手で喉元にナイフを突きつけられていた。広瀬は手が出せずに、じっと隙をうかがっていた。月香はそれを見て、拳法の構えを解いた。
 バシッという音がした。革ジャンはナイフを左手に持ちかえ、右手で月香の頬を平手打ちにしたのだ。口の端から血を流しながら、月香は男を睨みつける。
「なーんやー、その顔は。われなめとんのか」
 革ジャンは逆上して再度平手で打ち、さらに左膝で月香の鳩尾に蹴りを入れた。彼女は呻きながら両手で腹をおさえ、地面に崩れ落ちた。体を海老のように曲げて苦しむ月香を、革ジャンはさらに蹴り続ける。
「てめえ、許さん」
 広瀬の中で何かが弾けた。
「あなた、待って」と沙弥が広瀬に向かって叫んだ。
「殺しちゃだめ」
 広瀬は声のする方へ顔を向けた。沙弥の首元でナイフが光った。彼はその凶器を構成するものを分子から原子へとイメージしていった。そして原子の単位までイメージできたとき、その結合を解いた。デニムの手にあったナイフは忽然と消失した。
 広瀬はそのまま革ジャンに向き直り、同じやり方で彼の持つナイフを解体した。
「おい」
 そう言いながら広瀬は月香を足蹴にしている革ジャンに近づき、後ろから肛門のあたりに蹴りを入れた。広瀬のブーツの足先が尾てい骨に食い込む。
「なんや」
 驚いて振り向く革ジャンの目を、広瀬の目がとらえた。眼球の外側から順にイメージしていく。角膜、前房、虹彩、後房と進み、水晶体にたどり着く。
 広瀬は、前日たまたま読んだ人体についての本の文章と図を思い出す。曰く、水晶体は薄い水晶体嚢に包まれた水晶体質からなり、水晶体質は水晶体皮質と水晶体核から構成されて云々。
 広瀬は描かれていたイラストを参考にして、革ジャンを着た男の水晶体核を消滅させた。
 革ジャンの視界がすっと暗くなった。急になにも見えなくなったので、彼は電気が消えたのだと思った。彼はゴーグルを外してみたが、辺りは真っ暗のままだった。
「タツ、いるか」と皮ジャンの男は相棒を呼んだ。
 その声が届くと同時に、タツと呼ばれた男の視界がストンと落ちた。男はあわてて沙弥の手を離し、自分の目をこすり始める。
「どないしたんやろ。おい、目が見えへんのや」
 タツは両手で前の空間をさぐりながら、よたよたと歩き始めた。
 広瀬は革ジャンを着た男に近づき、月香がされたと同じように顔に平手打ちをくらわし、腹に膝蹴りを入れ、うずくまった体を蹴り続けた。皮ジャンは悲鳴を上げながら地面を逃げまどった。
「もうやめて」と沙弥が叫ぶ。
 その声を聞いて、ようやく広瀬は蹴るのを止めた。
「カスどもが」
 吐き捨てるようにそう言うと、広瀬は月香を抱き起した。沙弥も駆け寄ってくる。
「月香、しっかりしろ」
「月ちゃん」
 広瀬と沙弥の呼びかけに彼女はうーんと唸りはしたが、意識は朦朧としているようだった。
「おそらく軽いショック状態におちいっているのだろう。ともかくここを離れよう」と広瀬は沙弥に言った。
「はい。でも彼らは?」
「ほっといても死にはしないさ」
 広瀬は月香を腕に抱きかかえて、車の方に歩き始めた。沙弥も後に続く。
 朱雀門前の広場では、恐怖にかられパニックを起した男たちが大声をあげ始めていた。
 月香のコートのポケットに車のキーを見つけた沙弥は広瀬に手渡した。広瀬はドアを開け、後部座席に月香を横たえる。
「さあ、あまりぐずぐずできないぞ。人目につくと少々やっかいなことになる」
 広瀬はエンジンを始動させ、まもなく発車させた。車は新大宮通りを奈良公園の方に向かった。
「ひとまずホテルに戻ろう。なんとかフロントに怪しまれずに部屋まで上がれるだろう」と広瀬は沙弥に言った。
「あなた、なにをしたの?」
 沙弥は運転する広瀬の横顔を見つめて、そう訊いた。
「目の水晶体核を解体した」
「え?」
「つまり、奴らの目はもう一生使い物にならないってことだ。奴らは君に感謝すべきだろうな。もし君が殺すなと言わなければ、目だけでは済まなかったろう。おれはあのとき奴らを殺すつもりだったからね」
「どうして? 月ちゃんを酷い目にあわせたから?」
「さあね。生きていても仕様が無い奴らだと思ったからじゃないかな」
 そんなふうにさらっと言う広瀬を見ながら沙弥は、わたしはいずれこの人と決定的に争うことになるかもしれないと思った。
「人間の体は複雑に連係し合った有機体だから、無理に全部を破壊しなくてもポイントを押さえるだけで充分なんだ。今回そのことがよく解ったよ」と広瀬が言った。
「充分って、なにが充分なの?」
「生存を危うくするにはってことさ」
 沙弥は、広瀬が二月堂で人間は地球にとって厄介な罪深い存在かもしれないと言ったことを思い出していた。今回の事件が呼び水になって何かが起きるに違いない、そんな予感が沙弥を不安にさせた。
 車をホテルの地下駐車場に入れた広瀬は、月香を横抱きにして沙弥とともにエレベーターに乗り込んだ。部屋のキーは持って外出したので、フロント階でエレベーターを乗り換えて部屋まで上がった。
「とにかくわたしの部屋に運んで」と沙弥は広瀬に言った。
 広瀬は沙弥の部屋のベッドに月香を横たえた。
「あなたはお湯とタオルを用意して。わたしは服を脱がすから」
「わかった」
 広瀬は浴室に行って湯を出し始めた。沙弥は手早く月香の着ているものを脱がせ、下着のみにして布団をかけた。月香の腹部や背中は紫色の痣が無数についており、腫れ上がっていた。広瀬が湯気のでているタオルを数枚持ってきた。
「体拭くから、あなたあっち向いてて」
 沙弥はそう言うとタオルを受け取り、顔の汚れから拭き取っていった。唇の端がわずかに切れて、流れた血が赤黒くこびり付いていた。
「ねえ、悪いけど消毒液と切り傷用の薬を調達してきて」
「包帯はいいのか」
「そうね、包帯よりもバンドエイドの方がいいと思うわ」
「わかった。すぐ戻るよ」
 広瀬は背を見せたまま部屋を出ていった。
 沙弥は首を拭いたあと布団をはぐると、片方づつ手を拭いていった。間近でみる月香の裸身は美しかった。その名のように月光を思わせる透明な白い肌をしていた。その白さの中に赤紫の痣が、ヨーグルトに散らしたブルベリーのように浮かんでいる。タオルを取り替えて延髄に当てていると、うーんという呻きとともに月香が目を開いた。しばらくは焦点が定まらなかったが、やがて沙弥の顔を認めたようだった。急に記憶が蘇ったのか、上体を起そうとする。
「いいのよ、そのままで。もう大丈夫」
 沙弥は月香を押しとどめながら優しく言った。
「あ、ああ」
 月香は何か言いたそうだが、うまく言葉にならない。沙弥はぴんときて、待ってて今お水をあげるから、と言った。冷蔵庫の中からミネラルウォーターを取ってコップに注ぎ、空のコップと共に月香のそばに戻った。仰向けに寝た月香の首を支えて少し起し、コップから水を飲ませる。
「最初は口に含んでから吐き出しなさい。きっと血が溜まっているわ」
月香は言われたとおりに、沙弥が用意した空のコップに赤黒い液体を吐き出した。口の中の傷に水がしみるのか、彼女は顔をしかめた。二、三度それを繰り返したあと、月香は喉を鳴らして水を飲んだ。
「ゆっくり、ゆっくりと飲むのよ」
 沙弥は、月香の体に触れるのは今日が初めてだと思った。わたしはなぜそんなふうに思うのだろうと首を傾げながら、沙弥は月香と最初に会った日のことを思い出した。

 東京で土地と建物を購入し研究所を設立する際に、雇うスタッフのことを広瀬と相談した。衣食住担当者についてはスムーズに話が進んだが、問題は研究所のスタッフだった。アズロの存在があるために、外部の人間を加えるのはリスクが大きかった。かといって沙弥や広瀬が事務的な雑用までこなしているわけにいかなかった。どうしても秘書が一人は要る、というのが二人の結論だった。
 求人方法をどうするかという次の課題を広瀬がクリアした。それは東京に住む外国人を対象としたメディアに募集広告を載せるというものだった。今後の展開を考えても、日本語以外の言語に堪能な人材の登用は意義深いと思われたからだ。特に英語を駆使できる能力が求められた。しかし日本語にも堪能であることは必須で、結果的には日本語のネイティブで、バイリンガルな者がいいだろうということになった。
 雇用条件が良かったので大勢の応募者があったが、どうも今一つぴんとくる人材が現れなかった。アンドロイドでも造るかと冗談を言っていた春のある日、月香が面接にやってきた。
 スリムフィットなブルージーンズに白いシャツを合わせていた。少し暑い日だったので、コットンセーターを腕にかかえていた。ジーンズにシャツという平凡になりかねない装いをしていても、彼女には華があった。むしろそのシンプルさが、彼女の利発そうな美しさを引き立てていた。沙弥は一目で気に入り、特に仕事の話はせずに一緒にお茶を飲んだ。話の中で彼女は少しずつこれまでのことを語った。
 彼女は奈良市内の高校を卒業したあと、アメリカにいる従姉を頼ってアリゾナ州に渡った。従姉は東京で働いていたときに知り合ったアメリカ人と結婚して渡米していた。十も歳上だったが、彼女がまだ小さい頃から可愛がってくれていた。従姉は一部屋提供してくれ、彼女はそこから地元の高校に通い、さらにカレッジに進学した。
 彼女はネイティブ・アメリカンの伝統や文化に興味を持ち始め、彼らの持っていた高い精神性に魅せられていった。
 カレッジを出たあと、両親の希望もあって帰国し、東京で外資系企業に就職した。数年勤めたが、何か飽き足りないものを感じて昨年末に退職した。しばらく奈良に帰ってのんびりしていたが、また活動的な気分になったので東京に戻った。そして仕事を探していたときに、この募集が目にとまったのだった。
 雑談しながら二杯目の薄荷茶を飲み終えたときに、ではさっそく明日から来てねと沙弥は彼女に言った。

「どう、落ちついた?」と沙弥は月香に訊いた。
 月香はわずかに首を振ってうなずいた。
「災難だったわね。でも、あなたがあんなにお転婆娘だとは知らなかったわ」
 沙弥は、月香が男を殴りつけた光景を思い出してくすっと笑った。
「ごめんなさい」と月香がかすれた声で言った。
「謝ることないわよ。とても勇敢なこと。男だってなかなかできないことよ。あ、無理して喋らなくていいからね。明日またゆっくり話しましょ。これだけ訊かせて。体はかなり痛むの?」
「いえ、大丈夫です」
「広瀬がみたところ内臓に損傷はないみたいよ。でも明日病院に行って精密検査しましょ」
「広瀬さんは?」
「消毒液や塗り薬を買いにいってるの。もう戻るはずよ」
「あの男たちは?」
「広瀬がやっつけたわ。でもその話も明日ね」
 そのときドアがノックされた。沙弥は入口まで行って覗き穴で相手を確認したあと、ドアを開けて広瀬を招き入れた。
「ごくろうさま」と沙弥がねぎらった。
「月ちゃん、どう?」
 広瀬は開口一番そう言った。
「気がついたわ」 
「そうか、よかった」
 広瀬は月香に近づくと、よおと言った。
「大変な目にあったな」
 月香は、そんな広瀬をじっと見つめていた。広瀬は彼女の枕元に座って言った。
「お転婆め」
「所長にも同じこと言われたわ」
 そう言って月香は少し笑った。とたんに痛いと声を上げた。笑うと、傷ついた腹筋が痛むのだろう。
「じゃあ、傷を消毒してやってくれないか」
 広瀬は包みから買ってきたものを取り出しながら沙弥に言った。
「あなた、してあげて。わたしはお風呂の準備と、それからお酒も用意するわ。気が高ぶっているから、少し飲んでリラックスしましょう」
 沙弥はそう言うと、バスルームに消えた。
「助けてくれたの?」
 月香はシーツから手をだして広瀬の方に伸ばした。広瀬は両手でその手を包みこむ。
「おれじゃないよ。鞍馬天狗が疾風のように現れて悪を倒し、疾風のように去っていった」
「ばか、それを言うなら月光仮面でしょ」
「いやまてよ、暴れん坊将軍だったかもしれん」
「もう。でも、おおきに」
「ああ」
「いったい何が」
「その話は」
「明日またゆっくりでしょ?」
「よくわかってるじゃないか。さて、消毒しますか。ちょっと染みるかもしれんが」
 広瀬はコットンに消毒液をしみ込ませ、唇の端から当てていった。月香は一瞬顔をしかめたが、何も言わずにじっとしていた。唇のつぎに手の甲を拭いたあと、広瀬はシーツをはいで思わず息を呑んだ。鳩尾から脇腹にかけて痣だらけになっていた。
「こいつは酷いな」
 独り言のようにつぶやいた広瀬は、親指の腹で痣を撫でてみた。彼は手の平を腹部に当てた。しばらくそうしていると、手の平全体がびりびりと痺れたようになってきた。
「温かくて気持ちいい」と月香は目を閉じたまま大きく息を吐いた。
「ねえ、胸が窮屈なの。ブラ取って」
「彼女に取ってもらえ」
「いやよ。あなたがして」
 広瀬が黙っていると月香は、沙弥さんのことを気にしてるの? と訊いてきた。広瀬が何も答えずにいると、早くしてと言った。
「わかったよ」
 広瀬は月香を横向きにして背中のホックを外した。取ったブラジャーを枕の下へ押し込み、そばにあった月香の服で胸を覆った。ふたたび手の平を腹部に当てていると沙弥が戻ってきた。彼女は二人の様子を一瞥すると、室内にあるミニバーのところに行って広瀬に訊いた。
「ねえ、何か飲む?」
「いいね。ジンがあるかな」
「あなたの好きな青いやつはないみたい。ゴードンというのでいい?」
「それを頼む。ストレートで」
「わかってるわ。わたしは何を飲もうかな」
 沙弥が物色していると月香が声をかけた。
「あたしにもいただけますか?」
「え、あなたは」
「少しでいいんです。体の中が寒くって」
「わかったわ」
 沙弥はチューリップグラスを二つとショットグラスを一つ用意して、ショットにはジンを、チューリップにはコニャックをそれぞれ注いだ。彼女はグラスをベッドまで運び、サイドボードの上に置いた。
「ありがとう。では、いただくとするか」
 広瀬は手を伸ばしてジンの入ったグラスをつかんだ。沙弥は月香の首や背の下に枕を入れて上体を起し気味にさせ、手にグラスを持たせた。自分も右手に持つ。三人は互いに顔を見合わせながら軽くグラスを合わせた。
「お疲れさま。長い一日というか、夜だったわね」
 そう言って沙弥はブランデーに口をつけた。広瀬は一気にグラスを傾け、おかわりをしにミニバーまで行った。最初の一口が傷に沁みたのかいささか表情を変えた月香だったが、そのまま少しずつ飲んでいった。
「これをいただいたら今夜はもう休みましょう。月ちゃんは、このままここで眠るといいわ。念のために、わたしも一緒にいることにします」と沙弥は二人に言った。
「おれは?」
「あなたはドアの外で寝ずの番よ」
「やっぱり」と言って広瀬は笑った。
 それから彼らは、明日からの予定について少しばかり話をした。朝一番に月香を病院に連れていき、精密検査をすること。その結果と月香の体調を考慮して、東京に戻る日程を決めること。そして明日の新聞をチェックすることをなどを確認した。
 やがて広瀬は自分の部屋に引き上げ、月香もさすがに疲れたのか眠ってしまった。沙弥はゆっくりとお湯に浸かったあと、窓辺にたたずんで夜空を見上げた。雲ひとつない清明な高みから月が黙って見下ろしていた。


      8

 研究室のドアを開けて中に入った沙弥は、部屋の奥でアズロに向き合っている月香に声をかけた。
「どんな感じ?」
 月香は肩越しに振り返ると、にっこりとした。
「いい感じですよ。でもコインの模様を正確に出すのが難しくて」
「それはたぶん時間をかけすぎるからよ」
「どうすれば」
「キーワードは、鮮やかに一瞬よ」
「鮮やかに一瞬ですか」
「必ずできるから、焦らないでね」
 沙弥は月香から見本のコインを受け取ると、左の手の平に乗せた。
「いい、見てて」
 そう言うと沙弥は目を閉じた。次の瞬間、右の手の平に左と同じコインが出現した。
「体験を積むと、特に集中しなくても出来るようになるから」
 月香は二つのコインを手にとって比べてみた。
「すごい。全く同じです」
「イメージの物質化はコインに限らないんだけど、コインは練習対象として最適なのよ。それにうまくいけば、そのまま活動の資金になるしね」
「必ず成功させますから」
「あまり力まないで楽しみながらやってね」
「はい」
 月香はそう言うとアズロにも話しかけた。
「アズロ、君の助けも大いに必要だからね。よろしく頼むぞ」
 その言い方を聞いて沙弥は笑い出した。
「あなたたち、何時の間にかいいコンビになったわね」
「ええ。彼は寡黙だけど、あ、これ喋れないからってオチはないんですよ」
「わかってるわよ」
「寡黙だけど、話しかけるとそれに応えてくれるような気がするんです」
「そうね」
「それになんといってもアズロは美しい。ほんとにきれいな水色の光ですよね」
 月香は目の前で発光している存在を見つめながらそう言った。
「月ちゃんにアズロを初めて会わせたときから美しいって言ってたものね。恐がりもせずに」
「ええ。いい出会いだったと思います。それに嬉しかったです。あたしは信用してもらえたんだって」
「あなたは、奈良でのあの夜以来、特別な人になったのよ」
 沙弥は、あれからもう半年になるんだと懐かしく思い出していた。
 朱雀門で月香が暴行を受けた翌日に、沙弥と広瀬は月香を病院に連れていって精密検査を受けさせた。幸いに、内臓、骨、神経ともに異常は見受けられなかった。
 各種の新聞チェックも行ったが、あの男たちに関することは、この時点では特に記事にはなっていなかった。
 それから三日ほど同じホテルに滞在したあと、彼らは奈良を後にした。月香が兄から借りていた車は、キーをフロントに預けておき、あとで彼に取りに来てもらうことにした。顔の腫れがまだ少し残っていたので、余計な心配をかけたくなかったからだった。
 東京に戻って月香の傷が癒えたころ、沙弥と広瀬は彼女に、あの夜何が起きたのか話して聞かせた。そしてなぜ広瀬がそんなことができたのかを説明した。彼らは月香にアズロを見せ、広瀬はかつて沙弥にしたように月香にも順を追って話をした。月香はごく自然にそれを受け入れた。こうなることは予め決まっていたみたいね、と沙弥は言った。月香はイメージの物質化などの体験を少しずつ積みながら、秘書業務をこなしていった。
「奈良の夜ですか。あの男たちは、あれからどうなったんでしょう。もう二度と目が見えることはないっていう話ですよね」と月香が沙弥に訊く。
「どうしたかしらね。たとえば、彼らが大声で騒ぎ立てていると、近くの誰かが警察に通報し、パトカーがやってきて彼らを保護する。ナイフを持ったどう見ても人相の良くない男たちが、自分たちは暴行を受け、おまけに目も見えなくされたと主張する。誰にやられたのかという問いに、男一人に女二人だと言う。おまえらがちょっかい出したんじゃないのかという警察官に対し、いや自分たちは被害者だと、一人は実際に暴行を受け、何よりも二人とも目が見えなくなったのだと言い張る。その男女の特徴を訊かれた彼らは、おっさんと若い女二人だと言う。この若い女二人ってとこアンダーラインね。そして女の中の一人は空手を使ったと言う。彼らの話を聞いていた警察官はだんだんあほらしくなってきて、とにかく調書は取ったから今日のところは帰れと言う。こんなところかな」
「なるほど、きっとそんなことだったんでしょうね。でも広瀬さんが消してしまった目の水晶体核でしたっけ? それって、イメージを使ってまた元には戻せないのかな」
 月香は自分に問いかけるように言った。
「月ちゃん、あの男たちに同情しているの?」
「同情というわけでもないのですが、今後ずっと目が見えないのも気の毒かなと」
「ははあ、消した水晶体核をふたたび物質化できないかってことね」
「そうです」
「広瀬ならできるかもしれない。彼がイメージで消したのだから、つくる場合にもイメージし易いでしょ?」
「それもそうですね。でも、まったく同じものがつくれるのかしら」
「それはどうかな。少なくとも構造的に問題のないレベルにはなるでしょう。ただ」
「ただ、なんですの?」
「そこに魂と呼ばれているものが入らなければ本来の機能が発揮できないとなると厄介ね。なぜなら少なくとも今のところ、わたしたちは魂をつくった経験はないから」
 沙弥はアズロをじっと見つめた。


アズロ 06