「そうか。ま、あまり無いのも問題だと思うけど、自分が必要とする以上あっても銀行が喜ぶだけだろうしな。必要とする額ってみんないったい幾らくらいなんだろう。
 それにしても、長者番付のニュースをときどき流してるが、富むものは限りなく富んでいて、貧しいものは一生わずかな金を得るために人生を使う。同じ人間という種なのに何という差だろうな。社会のシステムとして、貧しい者は富むものに仕えており、富む者もまた仕える者を必要としている、そんな図式がみえる」
「仕えたくなくても仕えざるを得ないでしょうし。あるいは仕えているという認識すらないのかもしれないけど」
「青いと言われるだろうが、おれは一度この世界をリセットして、全く新しい価値観を持った人間たちの世界を再構築したいと思うときがあるよ。しかしそのことが、この地球にとって、あるいは人類以外の生物にとって、歓迎されることなのかどうかは疑問だけどね。もしかして、人類はこの地球に居てはならない存在なのかもしれないな」
 広瀬はそう言うと、深いため息をついた。
 沙弥はあらためて広瀬の顔をまじまじと眺めながら、この人はまるで自分が神であるかのような発言をしていると思った。
「さてコーヒーもいただいたことだし、上に行ってアズロの顔を見ることにしよう。君も来ないか? 物質の解体を試してみよう」
「わかったわ」
 沙弥は月香に電話して研究室にいるからと言い、広瀬と二階に上がった。研究室は沙弥と広瀬以外は入室禁止になっている。
 久しぶりに会うアズロであったが、そんな感じがしないのはなぜだろう、常に身近な存在として意識しているのかもしれない、と広瀬は思った。二十畳ほどの部屋は薄暗く、低めの室温と乾燥ぎみの湿度に保たれている。アズロは前回見たときと同じたたずまいだった。そしてアズロを目にするたびに広瀬は、初めて遭遇した日の壮大な夕焼けの色を思い出すのだった。
「先日はありがとう。助かったよ」
 声に出して広瀬は礼を言った。
「おかげで命拾いしたし、何よりも悲願が叶ったからね」
「わたしからもお礼を言わせてもらうわ。ありがとう」
 沙弥も親しみを込めてそう言った。アズロは淡い青の光を放ちながら、いつものようにただそこに居た。
「さてと」
 広瀬は机の引出しから金貨を一枚取り出して、沙弥に手渡した。
「こいつを手の平に乗せて解体してごらん」
「できるかなあ」
「できるさ」
 そう確信しているといった自然な口調で広瀬は言った。
「いいかい、いつもしている反対をすればいいんだ。原子の単位にまで下りていけば十分だろう。イメージでもって、それらの原子をバラバラにするんだ。
 君が金貨を組成するプロセスをたどってみると、まず金をつくるために必要な原子を出現させる。どうしてそんなことができるのかは解らないけどね。多分空間に存在しているものをイメージで抽出するのだろう。次にそれらの原子の集合体から分子をつくる。そして分子を組み合わせて物質である金をつくるわけだ。ある一定の質量および形体になるように調整するのは、もちろんイメージでだ。
 今度はその逆をやればいい。イメージは鮮やかに一瞬でだよ。気をつけるのはそれだけだ」
 広瀬はそれだけ言うと、部屋の隅にある椅子に腰を下ろした。
 沙弥は左の手の平に金貨をのせたままアズロの間近まで進み、じっと動かなくなった。金貨を見つめたまま沙弥の頭に浮かんできたのは金貨が消えるイメージではなく、幼い頃の情景だった。
 沙弥が小学校一、二年の頃、家の近所に少しばかり年上の男の子がいた。ときおり気が向くと、沙弥を遊びの輪に入れてくれた。あるとき、ちょっとついて来いという。沙弥が後を追うと、酒屋の裏に積んである瓶置き場に着いた。彼は辺りを見回すと、ラムネ瓶の入ったケースを一つ抱えてとっとと走り出した。沙弥もあわてて彼に続く。近くの製材所の材木置き場まで来ると、人目につかない物陰に陣取った。彼は大きめの石を拾ってくると、ケースからラムネ瓶を取り出して飲み口の部分を石に叩きつけた。鋭い音がして瓶の口は粉々に砕けた。地面に散った氷山のようなガラスの破片の中に、青緑に輝く球体が浮かんでいた。ビー玉だった。これ買ってもらえんから、彼はそう言って曖昧に笑った。誰にもいうな、という言葉にうなずいた沙弥は、黙ってケースの中の瓶をつかみ彼に差し出した。一本、また一本と瓶が割られていく。そのたびに発する尖った音がラムネ瓶の悲鳴に聞こえて、沙弥は思わず両手を耳に当てた。少し鈍くなった悲鳴の中で砕け散るガラスの破片に、午後の陽がキラッと反射した。
 そのとき、沙弥の手の平にある金貨がふっと消えた。


      6

 広瀬が滝行から戻った明くる日から、沙弥と広瀬はイメージの力をどう応用するかという研究に没頭した。
 必要な情報は、主に書籍とウェブサイトから入手した。書籍はインターネットの通信販売サイトで検索し、適当なものを購入した。またサーチエンジンを駆使して、興味のある分野を扱っているサイトを探した。英語表示のページはURLを月香に示し、概ねどんなことが書いてあるのかをチェックしてもらった。いづれ必要あらば特定分野の専門家に会うつもりだったが、当面は自分たちでできる範囲から始めた次第だった。
 ある曇った昼下がり、沙弥は本を積み上げた自室の机に着いて、発生生物学の本を読み始めた。
 曰く、高等動物の場合は卵子と精子が合体してできる受精卵から個体の発生が出発する。まず細胞分裂によってたくさんの細胞がつくられる。次に適切にコントロールされた細胞分化と形態形成を経て、胚または胚子が発生してくる。発育した胚はやがて孵化して自立生活を始める。哺乳動物の場合は母体の子宮内で発育して、胎仔ができて成長してから出産に至る。雌雄の個体が成長し成熟した後に、卵子と精子をつくることによって次の世代の発生を開始する。生物の発生はこのようなサイクルを繰り返すわけだが、この中で特に、受精卵から始まって動物個体が発生してくる過程のメカニズムを解明するのが、発生生物学である。
 やはり無機物を組成するようには簡単にいきそうもないわ、と沙弥は考え込んでしまった。もう少し言葉の定義を確認しようと、彼女は手元の辞書を引いてみた。
 有機物とは、生物体を構成・組織する炭素を主な成分とする物質。
 生物とは、生活現象を行うもの。生命を有し、栄養を取り入れ生長・活動し繁殖を営むもの。動物・植物の総称。いきもの。
 発生とは、細胞の増殖・分化・形態形成などにより、ある生物系(組織・器官・個体など)が単純な状態から複雑な状態へ発展すること。主に受精卵から出発する個体発生をさす。
 この中で沙弥は、生物とは生命を有し、という部分に注目した。この生命とは、つまりは魂ということになるのだろうか。もしそうだとすれば、細菌、アメーバ、ゾウリムシなどの単細胞生物から脊椎動物門哺乳綱霊長目ヒト科に至るまであらゆる生物には魂があることになる。
 魂といえば人間にしかないと思うかもしれないが、実はそうではないのかもしれない。魂は一種のエネルギーでありプログラムでもあると、生物はこのプログラムに従って進化を続けていくと、そう考えてみることはできないだろうか。
 生命に関するプログラムといえばDNAが挙げられよう。地球上のすべての生物は、細胞内にDNAを持っている。それは情報伝達と自己再生を可能とするシステムである。
 では、そのプログラムはどうやってできたのか。三十八億年前の原始の海の中で自然発生したのだろうか。原始の海の中で多様な有機物が混ざりあって最初の生命体ができたとき、同時に魂も発生したのか。それとも、あらかじめ魂というプログラムがあって、それに基づいて情報伝達と自己再生のプログラムが形成されたのか。もしそうなら、魂はどのように生じたのか。考えれば考えるだけ沙弥の頭の中は混沌さを増していく。
 魂とDNA、これらは同じプログラムといっても、その果たす役割が違うように思える。わたしの直観では、イメージの力をどう応用するかという研究の対象として魂というものに注目した方がいいようだ、と沙弥は思った。
 一方、広瀬は自分の部屋に籠ってイメージによる物質の解体についての考察を続けていた。
 滝の水の一部分を消滅させることができたということは、イメージで空間のある部分を指定できることになる。どれほどの広がりを特定できるのだろう。この部屋くらいか、この町か、日本全体か、地球まるごとか、さらには全宇宙か。
 逆にミクロにも向かえる。ピンポイントで特定できれば、レーザー治療のように人体の患部を、例えば癌を消滅させることができるかもしれない。その場合は有機物である細胞をリアルにイメージできるかどうかがだが、同じ有機物である林檎の物質化ができるのだから可能性はあると言える。
 細胞の解体ができるのだとすれば、このイメージの力は生物の殺傷にも使えることになる。生体を構成する全ての細胞をイメージできなくても、その一部でも消滅させることができれば、その生体は生存不可能になるだろう。もしイメージによる生体殺傷ができ、そのイメージの及ぶ範囲を地球全体に展開できるなら、特定の生物を一瞬のうちに殺すことができるだろう。もちろん人類でも。その場合、自分自身も死ぬことになるのか、あるいはその対象の例外を設けることができるのか。
 それにしても、このイメージって奴はいったい何だろうな。さらにイメージを使うことのできるこの私とは? 人間にしか使えないのか、チンパンジーにも使えるのか。猿のことはわからないが、少なくとも人間は宇宙の果てを想像することができる。思い浮かべることができるということは、きっとそこまで意識が届いているはずだ。宇宙の果てだと私が指定する場所が本当にそうなのかどうか知る術はない。しかしイメージできるということは、私の思う宇宙の果ては私の中にすでに在るのだろう。
 いかん、考えが暴走し始めた、ここらでちょっと一休みしよう、と広瀬は掛けていたロッキングチェアから腰を上げた。部屋のコーナーにあるミニバーまで行き、棚からボンベイ・サファイアの青いボトルを取ってワンショットグラスに注ぐ。いつかフランス映画で観たようにストレートでぐいっとひっかけて、息を深く吐き出す。スピリッツはストレートに限るなどと思いながら、グラスをカウンターに置いて窓辺に歩いていった。
 窓から見える庭の立木も、空を埋めつくした薄鼠色の雲も、やがて訪れる寒い季節の気配に満ちていた。故郷の農園でも冬支度が行われていることだろう。
 思えば遠くに来たものだというセリフをどこかで聞いたような気がするが、まったく人生というものは何が起きるかわからない。暮らしに困らないどころではない相当な資産を手に入れ、常識では考えられないような能力を得て、さておれはこれから何をするのか。何もない空間に林檎を出現させたからって、それがいったいどうだというのだ。この世にこれ以上創り出したいものなどあるのだろうか。広瀬は窓外に広がる景色をぼんやりと眺めながら、そんなことを考えていた。
 いつだったか、たまたま見た科学雑誌に、真っ黒な宇宙空間に浮かぶ青い地球の写真があった。陳腐な言葉ではあるが、宇宙随一の宝石、輝ける水の惑星なんてフレーズが頭に浮かんだ。
 この広大な宇宙には、地球と同じような環境で生命の存在する惑星がいくつもあるはずだ、ないという方が非科学的だ、という意見があるらしい。どうしてそんなことが言えるのか。どんなにこの宇宙が広大無辺だろうと、この地球のような星は二つとないような気がする。地上に存在する生物のすべてが全宇宙のオンリーワンなのだ。いや生物だけじゃない。無機物である石や土や水や、空をつくっている大気までがオンリーワンだ。広瀬はこのとき、自分が真に愛情を向けられる対象はこの地球そのものなのだと知った。
 雨の中に咲く紫陽花、蝉時雨の降る木漏れ日の山道、秋口の透明がかった風に揺れる秋桜、銀色の雪上に転々とつづく小動物の足跡、雪解けのせせらぎの音。満開の桜越しに見上げる低い空。
 もちろん、人間の造った人工物も風景には成り得る。そしてまた、人間さえも。風景であるうちはいい。もし人間が風景であることをやめたとき、地球の自然を損なう存在になったとき、おれは授かったこの能力をフルに使ってそれを阻止するだろう。
 午後遅くには雨になりそうな空模様になってきた。広瀬は少し肌寒さを覚えたので、暖炉に火を入れることにした。備え付けの薪を組んで点火する。薄明るい室内の一角が急に祝祭味をおびてきた。広瀬は暖炉前のキリムの上にあぐらをかいた。しだいに勢いを増す炎は妖しく官能的だと広瀬は思った。彼はしばらくの間そうやって燃える火を見つめていた。
 やがて、月香から内線電話があった。荷物が届いているとのことだった。どうやら広瀬がインターネット上で注文した書籍らしかった。お持ちしますと言うので、そうしてもらうことにした。
 ノックがあって月香が入ってきた。
「失礼します」
「ありがとう」
「えー、もう暖房ですか?」
「もうって、なんか肌寒いんだよ」
「やはりお歳でしょうか」
「おいおい」
「なんて嘘ですよ。広瀬さんは実年齢よりずっと若く見えますよ」
「おれの年齢って、君知ってるのか?」
「いえ、まあ大体は」
 そう言いながら月香は小包を持ったまま広瀬のとなりにしゃがみこんだ。ミニスカートから滑らかな膝頭がのぞいている。広瀬には、スカートの奧へと続く白い肌が自分を誘っているように思えた。昨日沙弥から、月香は自分に気があると聞いたせいだろうかと広瀬は思った。
 月香が広瀬の横に立て膝をついて座ると、煙草の匂いがした。彼女はその匂いが嫌いではなかった。父親がヘビースモーカーだったせいかもしれない。こどもの頃、彼はよく月香の手を引いて近所に散歩に出かけた。彼女が見上げると不精髭の顔が笑いかけ、風に乗って煙草の香がした。
「炎を見てると落ち着きますよね」
 月香は薪から立ちのぼる炎のゆらめきを見つめて言った。
「落ち着くね。火には不思議な力がある。全てを焼き尽くす火を聖なる浄化のシンボルと見なしている宗教は世界中にあるんじゃないかな」
 月香が見ると、広瀬の横顔が炎を映して燃えていた。広瀬は決してハンサムというわけではなかったが、深みのあるいい顔をしていた。少なくともあたし好みの顔だと月香は思った。
「こうしていると時間がゆったり流れますね」
「ああ、時間ってさ、自由自在に伸び縮みするの知ってるかい」
「時間がですか?」
「そう。君にはこんな経験ないかな。とても大切な約束があったとしよう。絶対に遅れてはならない約束なんだ。君は突然、今からでは間に合わないことに気づく。どうあがいても約束の時間にはそこに行けないことに気づく。でもまだいくばくかの時間は残されている。君はとにかく駄目元でその場所へと向かう。君は恐くて途中で時計は見ない。どうか間に合いますようにと君は祈る。心臓は今にも破裂しそうに鼓動している。君はなんとか約束の場所に行き着き、相手の向かいの椅子に座る。どうしたの? と相手は訊く。そんなに荒い息をして。遅れると思って、と君は言う。だってまだ五分もあるよ、と相手が言う」
「わたしにはないけど。広瀬さんにはあるんですか?」
「うん、何度がそういう目にあったけど、いつも不思議と間に合ったな」
「ふーん、不思議ですね」
「ふしぎ、か」
「不思議といえば」
「え?」
「広瀬さんて不思議な人ですよね」
「よねって、同意を求めてるの?」
「ご自分では、そう思われませんか」
「おれのどんなところが不思議なのかな」
「だって、何をしてらっしゃるのか」
「はは、わからないか」
 広瀬は頷きながら笑った。
「だって、ここにいらっしゃる時はたいてい研究室に入り浸りでしょ。たまに顔を見れても、すぐにどこかへ外出されるし」
「気になるのか?」
 そう訊いて、広瀬は月香の目の中を覗き込んだ。
「ええ」
 沈黙が二人を包んだ。
 月香には広瀬の瞳の中で青い炎が燃え上がるのが見えた。
 広瀬の右手がすーっと伸びて月香の頬に触れた。熱っぽい頬が広瀬の顔に近づき、月香の唇が広瀬のそれに重ねられた。同時に月香は両手を広瀬の肩に置く。最初はそっとふれあい、ゆっくり左右に動かし、舌先がチロチロと相手のを求める。やがて舌は複雑に絡みあい、月香は声をあげ始めた。広瀬は月香を抱き寄せ、キリムの上に横たえようとする。
「まって」と月香は唇を離しながら言った。
「ドアをロックしてくる」


      7

 白熱灯の柔らかく暖かい光に照らされた石畳は、上の方にまっすぐ伸びていた。白い息を吐きながら沙弥、月香、広瀬の三人は東大寺二月堂へと続く坂を登っていた。夜になりかなり冷え込んできたが、防寒をしっかりとしてきた彼らは別段寒がりもせずに、しっかりとした足取りで歩いていた。
 今回の奈良行きのきっかけは月香だった。魂や霊性といったものに興味を示し始めた沙弥が、ねえどこか不思議なというか、霊的なというか、聖なるというか、そんな体験のできそうなところ知らない? と月香に訊いた。彼女は奈良市出身だったので、この地域内にある幾つかの場所を勧めてくれたのだった。
 彼らは新幹線で京都まで行き、近鉄奈良線に乗り換えて奈良市に入った。JR奈良駅近くのホテルに投宿した三人は、翌日の夜に二月堂と朱雀門に出かけることにした。
 沙弥は、奈良にいる間に東大寺二月堂と朱雀門はどうしても見ておきたいと思っていた。奈良観光のパンフレットを眺めていたとき、この二つの建物に強く惹かれたのだ。
 ちょうどその頃、奈良はライトアップキャンペーンを行っており、東大寺大仏殿、興福寺五重塔を始めとする市内十数ヵ所の歴史的建造物がライトアップされていた。
 他に参詣客もいない夜の境内に、彼らの足音が渡っていった。風は止んでいた。見上げる空には輝く月があった。薄ぼんやりと照明に浮かび上がる石段をさらに登って行くと、静寂の中に御堂が浮かび上がっていた。年が改まると、ここで修二会(しゅにえ)が行われる。これは東大寺の僧侶が、二月堂の本尊十一面観音に、すべての人の罪を悔い改めて国家の安泰と人々の豊楽を祈る法会であり、東大寺お水取りとして一般に親しまれている。
 大きな松明を抱えた練行衆(れんぎょうしゅう)が御堂の内陣を駆け抜けていく。火の粉が暗闇を舞い落ち、人々は水を求めて手を差し伸べる。そんな幻想を抱きながら、彼らは沈黙の境内を歩いた。
 二月堂の下に到着し、階段を上がって,辺りが見晴らせる内陣に出た。境内の建物の向こうに町の灯りが見渡せた。
「静かね」と沙弥が遙かを眺めながら言った。
「こんなところに来ると、沈黙ほど豊かな音はないってしみじみ思うわ」
「ほんとにそうですね」
 月香も沙弥と並んで、夜の闇に浮かぶ灯りを見つめていた。
「しかし、人っ子一人いないとはこのことだな。どこかに警備員が待機してるんだろうけど」
 広瀬は男の本能が発動したのか、自分たちの置かれた状況判断をしていた。
「場所の記憶について本で読んだことがあるけど、ここにいるとそのことを実感するわ」と沙弥が言う。
「場所の記憶って何ですか?」
「土地や建物には、そこにいたものや、そこで起ったことなどの情報というか記憶が残っているということなの」
「なにか霊的なものが存在してるってことですか? 地縛霊とか、屋敷に取り憑いている悪霊とか」と月香が訊く。
「そうじゃなくて、ただ記憶の残り香みたいなものがあるということだと思うわ」
 広瀬が遠くを眺めながら言う。
「そういう話を聞くと、この世で生きているすべてのもの、この世で起るすべてのことは、みんなエネルギーの発現だという気がしてくるね。エネルギーの波動が、時の流れに風化せずに残存しているのかもしれないな」
「じゃあこの地球上で、記憶が残っていない場所はどこにもないってことになりますよね」と月香が広瀬を見て言った。
「そうだね。この地球という惑星は四十六億年分の記憶から成り立っているともいえるだろうね」
「ここにたたずんでいると、この二月堂で起ったことだけではなく、古の都にあった喜びや悲しみ、憎しみや愛情などの様々な思いが、四方から波のように押し寄せてくるのを感じるわ」
 沙弥はそう言って目をつむった。
「そういった思いは主に人間の発するものだ。彼らは発生以来しだいに雑草のように地上にはびこり、自分たちこそが万物の霊長だと勘違いをしてしまった。そうして、いま生態系のバランスは壊されつつある。人間は、この地球にとっては厄介な罪深い存在かもしれないな」
 広瀬は、静謐な空で透明な光を発している月を見上げた。
「わあ、広瀬さんたら、まるで自分は人間じゃないみたいな発言してる」と月香がからかうように言った。
「そうね。人間じゃないのかもね」
 ひとりごとのように小さく言った沙弥は、さあそろそろ次に行きましょうと二人を促した。
 彼らは車をとめた場所まで引き返し、車に乗り込んだ。月香が兄から借りてきたジャガーだった。
「あなたが使ってお兄さん大丈夫なの?」と沙弥が訊いた。
「いいんです、たまのことだし。兄は昔から英国車フリークで、オースチンのミニから始まっていろいろ乗ってましたね。でも歳とってくると、やはり紳士はこれだろうと、このジャガーを手に入れたんです。もちろん中古ですけど。けっこう古いものですが、調子は悪くないみたいです」
 沙弥と広瀬を後部座席に乗せて、月香は新大宮通りを朱雀門へと向かった。
 朱雀門は、百三十ヘクタールに及ぶ平城宮跡の南西側に建っていた。平城宮の正門にあたり、一九九八年に復元されたという。
 月香は、朱雀門の近くにある公園の脇に車をとめた。車を降りた彼らは、暗い公園内を門の方に歩いていった。植え込みを抜けると、広場の向こうに、ライトアップされた巨大な門が暗闇を背景に赤く浮かび上がっていた。
 門は地面から一段高く設けられたコンクリートの基壇の上に立てられていた。正面から見ると、朱に塗られた六本の太い柱に支えられる形で屋根が造られており、その上方にも小さめの朱い柱がやはり六本立っている。そしてその柱が大屋根を支えていた。柱と柱の間は壁になっていて、要するに一般的にイメージされる門というよりは建物だった。地面からてっぺんまで二十メートルはありそうだった。
「美しいわね」と沙弥が立ち止まって言う。
「妖しくもあるな」
 広瀬も立ったまま、じっと見つめた。
「いま奈良はライトアップキャンペーンをしていますが、この朱雀門は通年日没から午後十時までライトを当てているんです」
 月香はそう説明した。
 三人は横一列に並んで、未舗装の広場をゆっくりと門に向かって歩いていった。
「あまり人がいないのね。観光シーズンではないからかな。せっかくこうして素敵にライトアップされてるのにね」と沙弥が言った。
「地元の人がわざわざ来ることはめったにないですね。たまにカップルを見かけるけど」
「ということは、君もカップルでよく来てたってこと?」と広瀬が月香に言う。
「広瀬さん、もしかして妬いてくれてるんですか?」
「いや、気を利かせたつもりなんだけどな。こんなムードのある場所に一人で来るのは、ちょっと寂しいかなと思ってさ」
「お心遣い痛み入ります。でもここが復元されてからは、よく一人で来てましたよ。理由はわからないけど、門をじっと見てると懐かしいような気持ちになって心がざわざわしてくるんです」
「月ちゃんは、お姫様だったのかもしれないわね。奈良の都の」と沙弥が言った。
「ねえ、二人とも気づかない? あの門からこっちに向けて何かの流れを感じるんだけど」
 沙弥は門を指差した。
「流れって?」と広瀬が訊く。
「何らかのエネルギーかなあ。うまく言えないんだけど、巨大なエネルギーの流れがあの門の向こう側からこちらに向かっていて、でもあの門があるから、そこでせき止められているような感じがするの」
「これはおれの勘だが、それは地球のエネルギーの通り道かもしれないな。ここでは地球の気が縦にではなく横に流れてるんじゃないか」
 広瀬は、たったいま自分で言ったことを検証しているふうである。
「あたしが門に惹かれたのはそのせいでしょうか。でも考えてみると、そんな強大な流れをせき止めているなんてすごいですよね」
 月香はあらためて門を見やった。
 まもなく彼らは門の真下に到着した。下から見上げると二重の屋根と朱く塗られた柱が存在感をもって迫ってきた。
 月香が口を開く。
「素朴な疑問が二つあります。一つ目は、もしこの門に地球の気をせき止める働きがあるとすれば、これは復元されてるわけですから、その機能をも復元したことになると思うのですが、そんなこと出来る人間がいたのかなってこと。二つ目は、なぜせき止める必要があったのか。この二点なんです」
「最初の疑問点だが、この門自体にせき止める力があったのではなく、おそらくこの場所にそういったプログラムがなされていたのだと思う。だから建物が新しくなっても、その能力は変わらなかったわけさ。では誰がそのプログラムをしたのかって問題が出てくるだろうが、それはわからない。たぶんイメージの力を自在に扱うことのできた何者かだ」と広瀬は答えた。


アズロ 05