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 沙弥が初めて広瀬の農園を訪れた日から、彼女の人生は一変した。勤めていた公的機関の嘱託の仕事を辞めた沙弥は、広瀬の農園に通って物質化の体験を重ねた。家族には、園芸の仕事を覚えて将来的には店を持ちたい旨話して、なんとか納得させた。広瀬は家族を持たず、農園の仕事はパートを雇って運営していて、彼らに対しては沙弥を品種改良事業のスタッフだと紹介していた。
 沙弥はイメージの物質化の訓練をほぼ毎日行い、しだいに腕を上げていった。より正確なイメージングをするためには物質の成り立ちから勉強する必要があることに気づいて、沙弥は物理、化学、生物、地学などの自然科学に関する本を読み始めた。勉強したことを実際に試せるシステムを持っていることが、こんなにも学ぶということの面白さを喚起するとは意外だった。
 広瀬も農作業と並行させて物質化のトレーニングを続けた。彼の場合、物質を消滅させることへも意欲をみせたが、なかなか成果を出せないでいた。
 初夏のある日、二人は農園にある大木の下に設けたベンチでアイスティーを飲んでいた。広瀬が大型の魔法瓶に入れた紅茶とクーラーボックスに用意した氷を持参していた。初夏とはいえ汗ばむほどの陽気で、ときおり吹く爽やかな風と冷たい飲み物がありがたかった。
 ベンチに併設されている木のテーブルにグラスを置きながら広瀬が言う。
「実はこの前から考えていたことだが、会社作らないか?」
「会社ですか?」
 口に含んだ冷たい液体を飲み込んだあと、沙弥は驚いた調子で言った。
「そう。おれたちが取り組んでいるこの前代未聞のプロジェクトをより効果的に発展させるためには、素人体制ではだめだと思うんだ。会社を立ち上げて利益を出しながら、より突っ込んだ研究をしていくべきだと思う。大げさではなく、おれたちが日々研鑽していることは今後の人類の運命を左右することなんだ」
「それはわたしもそう思うけど」
「沙弥ちゃん、とにかくシステムを作ろう。アズロは今のところ健在だが、いつまた急に姿を消すとも限らない。今後もっと体験を重ねたら、おれたち自身の力で物質化などができるようになるのか、それともこれは全てアズロの力によるものなのか、現時点ではわからない。いま四の五の言っても始まらないから、できるだけ早くシステムを構築しよう」
「それで、どうやって」
「まず、君とおれとで有限会社をつくる。比較的低資金で設立できるからね。会社は研究部門と営業部門から成り、前者はイメージの物質化などについてさらに研究し、後者は研究資金を捻出するために金を儲ける」
「お金儲けって、どんな方法で?」
「それを君と相談しようと思って」
「だって二つ部門があって、社員が二人しかいなくて、どちらがどっちやるの?」
「まあ兼務になるだろうなあ」
「わかった。わたしが研究資金つくる」
「どうやって?」
 つくると言ってはみたものの、沙弥に具体的なアイデアがあるわけではなかった。一瞬考えた沙弥は、
「物質化する」と言った。
 広瀬は沙弥の大胆な提案に呆れながらも、腑に落ちるものがあった。
「おいおい、偽札でも作るのか」
「違うよ。紙幣は通し番号があるし、何かと面倒なことになりかねないわ。貴金属よ。金やダイヤモンドをつくるよ」
「そうか、その手があったか。しかし、言うは易しだよ」
「そうね。でもがんばってみる」
 沙弥は手にしたグラスを額にあてた。水滴とガラスの冷たさが心地よい。ふっと顔を上げると、彼方の山々が午後の陽射しに霞んでいた。さーっと風が立ち、果樹園の方に吹き去っていった。
 それから数か月のあいだ、沙弥は確実なイメージを求めて四苦八苦した。
 とりあえず金から始めることにして、99.99%以上という純度を持つ地金型金貨のメイプルリーフ金貨を用意した。サイズは最大の1オンスとした。金貨は換金が容易であり、流通量世界一のメイプルリーフ金貨なら少々の増数も目立たないという利点があった。
 さらに書籍やインターネットなどで自然科学的情報を集めたり、錬金術について調べたりした。
 むろんアズロのサポートがないと実現できないことで、アズロと相対して過ごす時間も多く取った。夏になる前に広瀬はビニールハウス内の小部屋をプレハブに建て直し、照明と冷房装置を取り付けていた。その中にこもって熱心に試行錯誤を重ねた沙弥は、アズロのサポートもあって十月の末についに金貨の物質化に成功した。
 広瀬は、すぐに金貨を換金するために海外に飛んだ。沙弥の創った金貨の量は半端ではなかったので、不審を招かないように複数の場所で換金した。その前に、当面の資金を得るために日本でも少量を換金した。
 こうして潤沢な資金を手に入れた二人は、活動の拠点を東京に移すことにした。地方の小さな町の狭い世間で、はたから見たら何をやっているのかわからない活動をするのは得策でなかったからだ。
 広瀬は東京の農業大学を出ており、沙弥もかつて都内で働いていたから、二人にとっては馴染みのある土地だった。それに郷里の町には飛行場があり、一時間あまりの時間で帰ることができた。
 広瀬は、農園を管理運営してくれる者を見つけて無料で貸した。収穫の利益は全てその人のものとした。広瀬としては農園の荒廃を防げればそれでよかったのである。
 沙弥は両親の説得に手間取った。いちどは東京に暮らし、都会生活に疲れたからと郷里に帰った経緯があったから、なぜ結婚もしないでまた都会に出るのかを納得させるのは困難だった。いろいろ考えた末に、園芸のチェーンストアを経営する女社長に見込まれて新しくオープンする店の経営を任されることになったということにした。女社長とは広瀬を通じて知り合ったと話した。母親は、あんたのような世間知らずの呑気者がそんなことできるとは思えないと言ったが、沙弥の熱意に根負けしたかたちになった。
 彼らはまず社屋を探すことにして、不動産の情報を集めた。町中よりもあまり人目につかない場所がいいだろうと東京の郊外中心に探し、良いタイミングで売りに出ていた古い洋館を土地込みで購入した。前の持ち主の手入れがよかったのか味のある古び方をしていて、特に沙弥の気に入ったのだった。それに敷地や建物の外観が、沙弥と広瀬の作った『イマージュ研究所』という会社名にぴったりの雰囲気だったのも、ここに決めた理由の一つだった。
 契約を交したあと、彼らはさっそく改装工事に取りかかり、四か月ほどで完成した。それまでホテル暮らしをしていた二人は、六月始めに入居した。広瀬が沙弥に会社設立の相談をしてから、ちょうど一年が経っていた。
 洋館は広い敷地の奥まったあたりに建っており、芝生の庭の所々には背の高い樹木が植えられている。塀の内側にも、それに添うかたちで並木があった。建物の前は駐車スペースになっている。館は古い外観を保ちつつも入念に手が加えられていた。館の一階は所長室、応接室、秘書室、会議室などに当てられており、二階は沙弥と広瀬のプライベートフロアだった。
 二階には沙弥と広瀬各々の部屋だけでなく、もちろんアズロのための部屋もあった。温度と湿度、それに照明の調整装置を完備していた。広瀬の農園から運んだ土に植えられたアズロは、薄暗い部屋の中でコバルトブルーの淡い光を発していた。この部屋は二階フロアで一番広く、沙弥と広瀬はここに籠もってアズロとともに研鑽を続けることになる。
 一階には、所長室、応接室、秘書室、会議室の他にキッチンと食堂とスタッフルームがあった。彼らは通いの専用コックを雇い、三食をここで食べた。
 他の通いのスタッフとしては、屋内の掃除をしてくれる年輩の女性と、屋外の手入れと雑務全般をこなしてくれる六十代の男性がいた。
 外部的には、会社の経理を担当する会計士と、万一のトラブルに備えて弁護士を確保した。
 このようにして沙弥と広瀬は、イメージの物質化および物質の解体についての研究に没頭できる環境を整えていった。


      4

 開け放したガラス窓から気持ちのよい風が入ってきた。窓の向こうには大きな欅が立っており、重なった枝の間から高く青い空が見える。室内にある大きな木の机には、栞がはさんである単行本、雑誌、電話の子機、鉢植えのサボテンなどが乗っている。そして椅子に座った沙弥の前では、真っ白なカップに入ったミントティーが爽やかな香りと湯気を辺りに漂わせていた。久々にのんびりした時間を過ごしていると沙弥は思った。
 ノックの音がして、沙弥は自分がぼんやりと考え事をしていたことに気づいた。
「どうぞ」
「失礼します」
 ドアを開けて入ってきたのは秘書の月香(つきか)だった。二十六歳になったばかりのスレンダーな女である。背は沙弥より高く、形のいい尻をスリムジーンズに包んでいる。英語に堪能だ。
「所長、ようやく広瀬さんに連絡が取れました」
「そう、やっとつかまったのね。ご苦労様。で、どこにいたの?」
「岐阜県の御嶽山(おんたけさん)です」
「御嶽山?」
「ええ。なんでも滝行をやってらしたとか。滝行ってなんですの?」
「まったく、もう。連絡しといてくれればいいのに」
 沙弥は半ば諦めた口調でそう言ってから、月香の問いに答えた。
「滝行というのはね、山伏や修験者が、けがれを取ったり魂の浄化をしたりする目的で滝に打たれて修行することをいうらしいわ」
「へえ、そうなんですか。広瀬さん山伏になられたんですか?」
「そうじゃなくて、たぶん精神を研ぎ澄ますためじゃないかな。以前彼から聞いた話だけど、滝ならどこのでもいいという訳にいかなくて、しかも先導者と一緒でないと危険らしいのよ」
「そうなんですか。でもどうして危険なんです? 滝壺に落ちるとか」
「滝はとても神聖な場所なんだけど、それ故いろんな霊が集まるんだって。先導者はそういう人間に害を及ぼす霊を追い払って、結界を張って、安全を確保するらしいわ。あなた、立ってないでそこ座りなさいよ」
 沙弥はソファを指さして言った。
「ありがとうございます。では遠慮なく」
 ソファに座った月香は、興味津々で沙弥を見やる。
「所長、よくご存じですね」
「だから、聞いた話だってば」
「でも、その手の話をよくされますよ。こないだも神社のことを言ってらした」
「そうね。最近その手の話が多いかもしれないわね。必要に迫られて」
「何かおありですか」
「人間の心というか、魂というか、そんなものの実体を知りたくて、目に見えない世界のこと少しかじってるのよ」
「なんか意外な感じがします。若くして研究所の所長さんで、美しくエレガントで」
「なにも出ないわよ」
「本当です。所長のような素敵な方の下で働けて光栄です」
「ありがとう。でも若いってとこはサービスかな。あなたより一世代上なのよ」
「見えませんよ。全然」
「まあいいわ。ありがたく受け取っておくわ。それより、彼にもういちど連絡とって伝えてほしいの。新しいプロジェクトの話を詰めたいから、できるだけ早めに戻ってくださいって」
「わかりました。では、さっそく連絡取ってみます。失礼します」
 月香は肩のあたりまで伸ばした髪を揺らして、階下の秘書室まで降りていった。
 カップから飲み残しのミントティーの香りが立ちのぼってきた。 
 さてと、そろそろ下に降りようかな。広瀬が帰ってきたら新しいプロジェクトの話をしなきゃならないし、その準備でもしよう。そういえば、明日は『イマージュ研究所』の代表として人に会うのだった。やはり彼が所長を務めるべきだわ。そんなことを考えながら、沙弥はカップを片づけ始めた。
 研究所を設立するにあたって、どちらが所長になるかで二人はもめた。なりたいからでなく、なりたくないからだった。沙弥は自分より年上で男性の広瀬が適任だと思ったが、広瀬が言うには、もう男というだけで表に出るという時代ではない、これからは力のある女性がトップに就いて、男はそれをサポートするという新しい価値観を持つ必要がある、自分たちはそれの先駆者となろう、などという解るようなわからないような論理で煙に巻かれてしまった。結果、沙弥が所長として就任したというわけだ。広瀬は研究員として『イマージュ研究所』に所属し、沙弥と共に研鑽を積むことになった。
 沙弥は窓を閉めようと窓辺に行き、庭を見下ろした。使用人の柴田が、そろそろ散り始めた落葉樹の葉を掃き集めているのが見えた。
 そのときとつぜん沙弥は、郷里にある小高い山に登って眺め見た秋の海の色をなぜか思い浮かべた。あのとき自分が何を感じ何を思っていたのか思い出そうとしたが、記憶の中の自分は濃いミルク色の霧にまぎれて見えなかった。


      5

 滝行から広瀬が戻った。秘書の月香が連絡をとってから一週間ほど経っていた。約ひと月ぶりの再会だった。まるで憑き物が落ちたようなさっぱりした顔をしていると沙弥は思った。あるいは実際に憑依していた何かが離れたのかもしれなかった。
「ずっと音沙汰なかったから心配してたのよ」と、沙弥は開口一番に言った。
「すまなかった」
 広瀬は本当に申し訳なさそうに謝った。
「ぎりぎり自分を孤独の状態に追い込む必要があったからね。電話一本入れればすむことなんだろうけど」
「わかるわ。いえ正確にいうとわかるような気がするわ。それで何か得るものはあったの?」
「それなんだ。一刻も早く話したくてウズウズしてたんだが、もう少し自分の中で整理できてから言おうと思ってね。それで今日まで我慢していた」
 広瀬と沙弥は社長室のソファに向かい合って座っていた。広瀬は月香がいれてくれたコーヒーを一口飲むと、大きく深呼吸した。
「旨い。生き返るね」
「それで、話したかったことって何?」
 沙弥は手にしていたカップを置きながら好奇心いっぱいの顔で訊く。
「結論からいうと」
 広瀬はそこで言葉を切った。
「なによ、焦らさないで」
「物質の解体に成功した」
 そうあっさりと言ってのけた広瀬は、沙弥に手を差し出した。
「すごーい。すごい、すごい。ついに出来たのね」
 歓声をあげながら沙弥は広瀬の手を両手でつかみ、上下に激しく動かした。
「ああ。やっとできたよ」
「どうやって?」
「話せば長いことながら」
「いいわ、長くても」
「結局、せっぱ詰まらなければ事は成らないの証明になった感じだな」
「どういうこと?」
「君も知ってるとおり、おれは一年半以上もイメージによる物質の解体に取り組んできた。なのにいっこうにその糸口がつかめなかった。一方、君の方は着々と物質化の腕を上げ、おかげでこうして立派な研究所を持つまでに至った。正直、おれは君に軽い嫉妬を覚えたよ」
「そんな。あなたがいたからこそ出来たことです」
「おれは何度も気をとり直して、正確なイメージができるよう努めてみた。しかし色々な方法で試してみても一向に成果は上がらなかった。そんな悶々とした日々の中で、ひょんなことから滝行に出会ったんだ。それまでに滝にあたった経験はなかったが、なにか大自然の力がうまく作用するような予感がして試すことにした。滝行に関して調べるうちに、岐阜にある御嶽山の滝がいいらしいという情報が入った。さっそく付近にいる先導者をあたってみたら、定期的に滝行の会を催している人がいた。その人に連絡をとって参加することになったのだが、彼が事前に現地入りしてゆっくりすることを薦めてくれたんだ。こちらにはいい温泉や旨い地酒があるからってね」
「さては、それに惹かれたな」
「そういうこと。いや、そうじゃなくて、一人でゆっくり自分を見つめる時間が欲しかったんだ。しかし、ゆっくりできたのはいいが張りつめたものが無くなってしまい、細かくイメージする能力が低下してきたように思えた。
 そうこうするうちに滝行の日がやってきて、先導者を含む男女数名のおれたち一行は車で御嶽山に向かった。目指す滝の近くに駐車すると、歩いて山道を下った。滝壺に近づくにつれて水の落下する音が辺りの空気を震わせ始めた。岩の角を曲がると目の前に美しい滝があった。落差は優に三十メートルはありそうだった。
 滝のそばの小屋で私は全裸になり、褌を身に着けた。その上に白装束を羽織り、祈願の文字を書いた縦長の木札を腰に差し、草鞋を履いた。心の位置が変化したのか、とたんに激しい水音が脳髄を震わせ、滝の飛沫が吹く風に乗って顔を濡らした。
 この滝は修験者達にとっての霊場で、春、夏、秋はおろか真冬の雪の中でも滝行は行われているらしい。いつか話したと思うけど、滝壺の周りは霊的密度が高く、邪なるものを祓うしかるべき先導者の助けが必要なんだ。
 おれたちは先導者の声に促されて滝壺の底へと降りていった。そして凄まじい勢いで落下する滝に向けて歩いていく。落下地点に平たい岩があり、その向こうで先導者が、『臨兵闘者皆陣列在前』と唱えながら九字を切っている」
「あなたってほんとに語りが上手いわね。おもわず物語の世界にトリップしてしまうわ」
「おいおい、これからが佳境なんだけど」
「ごめんなさい」
 咳払いをひとつして、広瀬はふたたび話を続けた。
「おれたちは順番に滝に入っていった。経験者二人が先に行き、私はその次だった。息を整え、気合いをかけながら滝の落下地点にある平岩に乗った。ざーっ、どーん、と物凄い衝撃がきた。息ができない。はるか高みから落ちてくる水が次々と切れ目なくおれの頭頂に襲いかかる。身体にこんなショックを感じるのは生まれて初めてだった。全身の皮膚が、細胞が、次々と剥がれ落ちていくかのようだった。
 初心者は一分も入っていられないと聞いていた。無理をしないで、もう少しいけるかなと思えるうちに出るように言われていた。滝から出るには力が要るので、決してぎりぎりまでいてはいけないとも注意されていた。
 おれはもういいだろうと思い、滝の外に一歩踏み出そうとした。動かない。身体がいうことをきかない。呼吸もできない。まだ入ってそんなに時間が経っていないはずだ。油断したのだろうか。先導者は見守ってくれているはずだが、こんなに早く出るとは思わないかもしれない。おれはパニックに襲われていた。猛々しい滝のエネルギーに押し潰される気がして恐くなった。何とかしなくてはと焦って動こうとするが、水の壁はびくともしなかった。このままでは溺れてしまう。
 そのとき急に静けさが来た。自分の外部と内部で時間の流れる速度が変わったかのようだった。身体に受ける衝撃も、大きな水音も、周りにいる人間の気配も、みんな遠くに感じられた。
 突然、閃くものがあった。水を消そう。落ちてくる水を解体しよう。滝壺へと落ち始めた水流の長さ二メートルほどを瞬間的に消滅させよう。そうすれば、その分の空間が下に来たとき滝から抜けられるに違いない。いったいどうやって、などと考えている暇は無かった。ただやるのみだった。アズロのことを思い浮かべた。できると思った。数秒後におれは滝の外に出ていた」
 話を中断した広瀬は、しばらく無言だった。沙弥も何も言わずに広瀬を見つめていた。隣の部屋から、月香のハミングが聞こえてきた。
「言葉にすると長く感じるかもしれないが、これはごく短時間のことだったろう。この体験のあと、おれは確かなものを得たと思った。滝から抜け出せたのは偶然ではなかったと証明したい気がした。
 おれはその日疲れ果てて宿に戻ったとき、物質の解体を再現しておかなければと強く思った。すぐにでも横になって眠りたかったが、そうすると白日夢で終わるような予感があったからだ。
 おれは部屋に備えてあるガラスコップに水を入れ、畳の上に置いた。水は水素と酸素の化合物だが、水道水だから不純物も含まれている。元素は一種類のみの原子によって作られる物質だ。それらの元素を構成する原子の単位までイメージして、消滅させて無に帰すというよりも結びつきをバラバラに解体するようイメージできれば、その物体の特性は失われて空間から消えたように見えるはずだ。いや、無くなりはしないが実際に消えるんだ。
 おれは昼間の体験から、頭で考えたりじっくりとイメージするのでは駄目だとわかっていた。イメージは鮮やかに一瞬、という言葉が浮かんできた。極度の疲れで頭が朦朧としていたのが幸いしたのか、おれは余計なことを思う余裕もなく、最後の気力をふりしぼってコップの中の水が消える様子をイメージした。同時におれはアズロを感じようとした。できた、という手応えがあったと同時に、コップの水は無くなっていた」
 ここまで話して、広瀬は冷めてしまったコーヒーに口をつけた。
「新しく淹れ直しましょうか?」
 沙弥は広瀬の口元を見ながら訊いた。
「ああ、お願いできるかな」
 沙弥は内線で秘書室を呼び出し、コーヒーの追加を頼んだ。
「でも聞けば聞くほどすごい話ね。イメージで原子を組み合わせて物体をつくり、あるいは原子の結合を解いて物体を解体することができるなんて。いったい人間がする、このイメージって何だろうね」
「何だろうな。思うってことが、もうそれだけでエネルギーを持ってるってことだろ? このエネルギーでもって原子の組成や解体を行うわけだろ? いや待て、これができるのはアズロがいるからだ。普通の人間には出来やしない。少なくともこれまではできなかった」
「じゃあ、アズロって何ってことになるんだけど」
「この世のことは99%がわからないんじゃないのかな。おれたちが、これからそれを探究していくわけだ」
「そうね。ねえ、わたしにも消すことができるかな」
 少しばかり自信なさげに沙弥が訊く。
「できる」
「ほんと?」
「できるよ。やってみたらいい」
 広瀬はあっさりとそう言った。
「君はすでに物質化ができるんだ。解体も必ずできる。あとでアズロも一緒に試してみよう。金貨を消してみるんだ」
「わかったわ。やってみる」
 ノックの音がして月香の声がした。
「失礼します」
「どうぞ。入って」
「コーヒーをお持ちしました」
 そう言いながら月香がドアを開けた。二人分のカップとコーヒーの入ったポットをテーブルの上に置く。
「ありがとう」
「どうぞ熱いうちに」
 月香が立ち去ろうとすると、広瀬が声をかけた。
「月ちゃん、いろいろ手間を取らせたね」
「いえ」
「それなのに土産も買ってないんだ」
「とんでもありません」
「そう言えば、わたしもお土産もらってないわ」と沙弥がおどけて言う。
「君には土産話をしただろう」
「はいはい、美味しくいただきました」
「じゃあ、あたしにもお土産話を」と月香が言った。
「滝行のことなんかお聞きしたいなと思います」
「へえ。君、滝行なんかに興味あるの?」
 意外だという顔で広瀬は月香を見た。
「なんか面白そうじゃないですか。世界中に滝があるのに、精神的な動機でもって滝に打たれるなんてことをするのは日本人だけじゃないのかな。中国あたりでもあるのかな。自然とこんなにダイレクトに皮膚感覚でコミットするなんて、なんだか素敵ですね」
(18)「あなたも一度体験してみたら」と沙弥は笑いながら言った。
「特に真冬に氷柱の下がる気温の中で行う滝行は格別らしいわよ」
「えーっ、冬にもやるんですか? あたし寒いの苦手なんです」
「まあ暖かい季節から始めたらいいさ。なんて偉そうなこといってるが、おれも今回が初体験だったんだ。冬にもできるかどうか自信がないな。滝行のことは、また改めて話すよ」
「はい。楽しみにしています。では、あたしはこれで」
 月香は一礼すると秘書室に戻って行った。
「面白い子だね」
 広瀬は、新しいコーヒーをカップに注ぎながら言った。
「彼女、あなたに気があるわよ」
「おいおい」
「これは女の直観」
「まさか」
「ほんとよ。でも思うのだけど、好きとか嫌いとかいうのは精神の作用でしょ。心の働きといってもいいけど。イメージを抱くのも心。どちらもエネルギーを持っているわよね。心っていったいなに? まだ発見されていない未知の元素からできているのかしら。それがわかれば、心をも組成したり解体したりできるかもしれない。そうなれば、生物さえも作ったり消したりできるようになる。そう思わない?」
「もしそんなことができるとしたら、それができる者は正に神ということになる。君は神になりたいのかい?」
「そうじゃなくて、わたしはただこの世の秘密を知りたいの。あなたに出会うまでは、わたしは自分がいったい何を望んでいるのかわからなかった。というか、わかっていないということさえわからなかった。今は、わたしのいるここっていったい何なの? 死ぬまでには絶対知りたい、というのが願いなの」
「そういったことは、誰もが一度や二度は考えることだろう。しかし、それ以上考え続けることなしに、その思いは日常の些事に紛れてしまうのがおちだ」
「そうね、生活していくということは大変なこと。自分の全エネルギーを、そういった直接生活の糧には結びつかないことに費やす余裕はないと思う。わたしだって、ついこないだまでは時給七百円の嘱託の仕事をしてたのよ。でも今は違う。もうお金を得るために時間を割く必要はないわ。必要ならいくらでも調達できるわけだし。
 わたし、このお金を持ってるということについて改めて考えてみたの。例えばわたしがどこかの町中にいるとする。その時のわたしが、一文無しで仕事もなかなか見つからないという状態と、銀行の口座には十億円が入っているというのとでは、わたしの中で何が違うのだろうってね。お金がないときに誰か知り合いに出会ったら、わたしは顔を伏せるだろうか。自分が惨めだと感じるだろうか。それとも今はただお金がないというだけで、わたしの価値はそのことによって変わりはしないと堂々と振舞えるだろうか。反対に、有り余るお金がある場合にはどうだろう。余裕を持った態度で知人に応対するだろうか。それとも今度は人として尊敬されているかどうかを気にするだろうかとか、そんなことを考えたの」


アズロ 04