「ほんとはこいつにも断わらなくちゃいけないんだが。どうやら煙草が嫌いみたいだから」
 広瀬は室内照明の方に顎をしゃくりながら言う。
「こいつって?」
「今日の話の本題は、こいつなんだ」
「この斬新なデザインの照明器具のことですか?」
 沙弥の言葉を聞いて、急に広瀬は笑い始めた。なかなか笑いはおさまらず、煙草をもみ消してさらに笑い続けた。沙弥が半ば呆れて見守っていると、ようやく平静になった広瀬はハンカチで目の涙を拭った。
「いやあ、すまない。あなたは、ほんと最高です。この半年間、眉間に皺をよせて取り組んできた自分があほらしくなったよ。世紀の大発見だ、この世を変えられる、俺はその使命を持って生まれてきたのだ、などと大上段に構えていましたが、何か肩の力が抜けてしまった。しかし、斬新なデザインの照明器具だって? こいつが?」
 ぷっと吹き出した広瀬は、また笑いの波に呑み込まれてしまった。ひとしきり笑ったあと、やっと気が済んだのか彼は話し始めた。
「単刀直入に言います。こいつは照明器具なんかじゃない。彼は、あるいは彼女は、生物です。しかも地球上のものではなく、多分どこかの星雲のどこかの惑星からやって来たのだと思う。やって来たといっても宇宙船でではなく、恐らくトランスポーテイションだろう。つまり空間の瞬間移動ですね。どうしてそんな芸当ができるのかわかりません。もしかすると高次元のワープを使って」
「ちょっと待ってください」
 広瀬の話に沙弥が割り込む。
「何がなんだかちっともわからない。いったいどうなっているんです? なんでわたしにこんな話を? からかってるんですか?」
「いや、からかってなんかいない。これは事実なんだ。私は半年前こいつに出会って以来、誰にもこのことを話しはしなかった。私自身まだ事情がよく呑み込めていなかったせいもあるが、こんな夢みたいな話をしても気が狂れたと思われるのがおちだよ」
「じゃあ、なぜわたしに」
「それが私にもよくわからないんだ。先日ある実験をやっていて、どうにも進展がなく絶望的な気分になっていた時、ふっとあなたのことを思い出した。そうだ、あの人なら助けになってくれるかもしれない、ふとそう思ったんだ。私一人でこの事実を抱え込むのが苦痛になったのかもしれない」
 広瀬は何かを思いだしたのか、少し表情を曇らせた。そして、部屋の奥の地面で青白い光を放っているものを眺めやった。
「わたしは自分で言うのもなんですが、ごく普通の平凡な女です。まあちょっとばかり好奇心が旺盛なとこはあるけど。でも都会で生き抜く根性もなく、なにか専門的なものを身に付ける根気もなく、市民運動をする熱意もないようなそんな女です。あなたが何を望んでいるのかよくわかりませんが、わたしは多分ミスキャストです」
 沙弥はそう言うと、椅子から立ち上がった。
「すみません。わたしはこれで」
「待ってください」
 広瀬も慌てて立ち上がり、悲痛な声を出した。
「お願いです。もう少し話を聞いてください。これはもう私の個人的なこだわりではないような気がします。うまく言えませんが、神というか、大いなる存在が人類に託した一つの試練だと思うのです。そんな大変なことに、なぜ自分が関わっているのかはわかりません。私一人では微動だにしなかった運命の車輪が、あなたという存在を得たことでようやく回り始めたように思います。私は変わり者として見られていますし、私自身それをよしとしてきました。でも、決して人から後ろ指を指されるような生き方はしてこなかったつもりです。どうか私を信じてください。あなたに危害を加えるようなことはありません。私はただ仲間が欲しいのです。お願いです。このとおりです」
 広瀬は、そう言って深々と頭を下げた。
「よしてください」
 厄介なことになったなと沙弥は困惑していた。思えば、広瀬から電話で頼まれたあのとき、なぜ承知したのだろう。思慮深い人間なら、よく知りもしない男の奇妙な誘いには乗らないに違いない。わたしはやはり軽率な女だろうか。でも、あのグリーンショップでの男のまなざしが、わたしの深いところにある何かを揺さぶったような気もする。あれはいったい何だったのだろう。
「頭を上げてください。わかりました。もう少しお話を伺うことにします。でもそれが終ったら帰らせてくれますか?」
 これを聞いて広瀬はぱっと頭を上げ、顔を輝かせた。
「もちろんです。お送りしますとも。ありがとう。ありがとう」
 広瀬は、ほっとした様子で何度も礼を口にした。彼は椅子から立ち上がり、部屋の隅に置いてあった籐のバスケットからポットと紙コップを取り出し、コーヒーを用意して沙弥に差し出した。
「これで少しは温まるよ」
「ありがとうございます」
「じゃあ、あまり時間もないので、要点だけ話します」
 自分も紙コップに口をつけると、広瀬は話し始めた。
「あなたが照明器具だと思ったこの未知の生物、というか私は地球でいう植物に近いものだと思っているのですが、こいつを私は今アズロと名付けました。自分一人のときはこいつでも良かったのですが、あなたと話すときにいつまでもそうはいかないような気がしてね。アズロというのはイタリア語で水色のことです。ほんとはアズッロと発音するのですが、アズロの方が言いやすいかなと思って。あなたもよろしければそう呼んでやってください。
 アズロは人間の意識、別の言い方でいうと思いを物質化してくれるんです。サポートしてくれるといった方がいいかもしれない。さっきあなたにお見せしたように、今のところ林檎を出現させるのが精一杯なんです。別に林檎でなくともいいのでしょうが、果樹を育てている関係で林檎が一番イメージしやすくてね。つまり、脳でリアルにイメージできさえすれば、どんなものでも物質化が可能だと思います。
 たぶん思いというものもエネルギーであり、思いの集中があれば、ある状況を作り出すことができるのでしょう。思いは一種のプログラムといえるかもしれません。そのプログラムに基づいて、場のエネルギー状態や物質を構成している素粒子に作用する。そして望む現実を創り出す。ただ、よほど強い思いでないと作用しないのです。だから、この世で何かを得たいと願うなら、強くしかも持続して思い続けないと事は成らない。ところが、アズロは何らかの力でもって思いを増強してくれる。例えていうとドーピング剤やパワーブースターみたいな働きをしてくれるんです。
 このことに気づいたのは偶然でした。アズロが私の目の前に突如として現れた半年前からこっち、どんなふうに現れたかについてはまた改めてお話しますが、とにかくそれ以来ずっとこいつと一緒に過ごしてきました。最初は恐る恐る観察し、少しずついろんなことを試し、いろんなことがわかり、一緒にいることにあまり違和感を感じなくなっていきました。
 ある日いつものようにこの部屋にやって来たとき、ライターを忘れてきたことに気づきました。煙草はポケットにありましたが、長年愛用してきたオイルライターを忘れたのです。吸えないとわかるといっそう猛烈に吸いたくなって、そのライターのことを強く思い浮かべました。なんせ二十年以上愛用しているものなんで、細部までありありとイメージできます。ふと気がつくと、持ち込んであった机の上にそのライターが乗っていました。あれっ? 持ってきてたのか、なんか勘違いしたかなと思い、手に取って煙草に火を点けました。その時点ではそれ以上考えることなく終ったのですが、家へ帰ってみると台所のテーブルの上にライターがあったのです。その瞬間、思わず右手で胸ポケットを押さえていました。そして手の平が金属の堅さに触れたとき、背筋に冷たいものが走りました。混乱したままライターを取り出し、テーブルの上に置きました。驚いたことに全く同一のライターがそこにあったのです。長年の使用で付いた傷跡もそっくりそのままありました。しかし気を落ち着けてじっくり比べてみると、わずかながら違っていました。
 何が起きたのだろうと、その日はずっと考え続けました。寝ずに考えて夜も白々明けてくる頃、朦朧とした頭に閃くものがありました。もしかすると、あいつのせいかもしれない。おれは煙草が吸いたくてたまらず、今ここにライターがあったらと強烈に思っていた。もしかしたらあいつが、おれの頭の中のイメージを読み取って、この世に出現させたのかもしれない。そういえば、中国に物を空間から取り出す超能力者がいると本に書いてあった。ライターが完全に同じでなかったのは、おれのイメージが完璧でなかったからだろう。そんなふうに思えたんです。私はすぐに家を出て農園に行きたかったのですが、どういうわけかあいつ日中は活動を休止するので、しかたなく夕方まで待つことにしました。といっても眠ってしまったのですが。
 結局その夜、私の閃きが正しかったことがわかりました。前夜ライターをイメージしたときのことを思い出しながら何度も何度も試しました。なかなかうまくリアルなイメージが出来なかったのです。でもぜったいできるはずだと信じてねばっていたら、とうとう成功したのです。ついに机の上にライターが出現しました。これも他の二つとは微妙に違っていましたが、それでも正真正銘の私のライターだったのです。そのときの驚きと感激は今でも蘇ります」
 ここまで一気に喋った広瀬は一息ついて、コーヒーを飲み干した。
 沙弥はぽかんとしたまま、広瀬と青白く光るものを交互に眺めていた。彼女の日常的思考体系ではとても理解できない内容だった。普段の生活の中で、思いの強さだとか、宇宙だとか、イメージ云々とかを考えることなどなかったからだ。
 沙弥にはこれといって、どうしても成りたいもの、どうしてもやりたい事があるわけではなかった。自分が特に不幸だとは思わなかったが、さりとて心身が震えるような喜びを感じているわけでもなかった。漠然とした不足感はいつもあった。もしかすると、わたしは自分が本当は何を望んでいるのか自分自身でもわかっていないのかもしれないと沙弥は思った。
「話を急ぎ過ぎでしょうか」
 広瀬が沙弥の目を覗き込むように言う。
「いえ。でも、夢のようなお話で、わたしの中にうまく入ってこないような気がします」
「そうだろうね。私もときどき、これは奇想天外な夢じゃないかと思うことがあります」
「でも、そうではないと」
「そうではない。これは現実です。あとであなたも試してみてください。あなたの頭の中のイメージを物質化してみてください。それを体験した瞬間にあなたの何かがきっと変わると思います。実際に思いが何でも叶うとしたら、あなたは何を望みますか?」
 自分を見つめる広瀬の目の光が強まったように沙弥は感じた。何を望むかと訊かれて、沙弥はすぐにその答えを思い浮かべることができなかった。何も言えずに黙ったままでいると、広瀬が口を開いた。
「話を続けますね。あなたが私の問いにすぐには答えられなかったように、私も自問を続けました。何でも願いが叶うとしたら、いったい何を望むのかと。その想像は楽しくもあり、また自分の暗い欲望を刺激するものでもありました。
 望み通りに願いが叶うなら、私は世界の王になれるでしょう。衣食住に渡って贅を尽くし、女に不自由なく、他者を従えることも意のままになる。歴史上の王たちが味わった快楽を私のものにできるのです。しかも彼ら王たちが求めても得られなかったもの、不老不死さえも可能になるかもしれない。
 そんなことを考えるさなかに、こうも思いました。人間が頭でイメージできること、想像できることは全て実現可能ではないだろうかと。というより、この世に無いものが頭に浮かぶことはないのではなかろうか。そんなふうに思えたのです。
 さて、私は未知の生物のサポートによりイメージの物質化に成功しました。物質化は経験を積むことによって、その精度と種類を増すことができるでしょう。しかし、何度やってもどうしても出来ないことがあるのです」
「どうしてもできないこと」
 沙弥はそうつぶやいてから、自分がいつの間にか広瀬の話の中に引き込まれていたことに気づいた。
「そう。それはいったい何だと思いますか?」
「うーん、なんだろ。頭でイメージしたものがこの世に現れるんでしょ? そうねえ、具体的な物じゃなく、ある状況を生み出すのが難しいとか」
「もちろん、それも難しいです。でも、ある望む状況があるとすると、その望ましい状況を一枚の写真として脳内にイメージするんです。静止画の連続が集まって動画になるように、ある状況を細かくサンプリングするんです」
「じゃあ、それもできると」
「ある程度ですが。たとえば今回あなたにここに来てもらうこともイメージしました。結果あなたはここにいる」
「それは、こじつけじゃなくてですか?」
「こじつけではありません。私は余程強く願ったのでしょう。望む状況が実現したとはっきり言えるのは初めてですね」
「そんなこともできるなんて」
「ええ、驚くべきことです。しかし、どうしてもできないこと、それは消すことです」
「消す?」
 思ってもみなかった意外な言葉に、沙弥はすっとんきょうな声を出した。
「ええ。物質化できたものを今度は消滅させようとしたのですが、どうしてもできないのです。物質化するということは、ある物体を構成する要素をその物体固有の設計図に基づいて組み合わせることだろうと思うのですが、反対に、ある物体をその構成要素単位にまで解体することも可能なはずですよね。つまりそれができたとしたら、物体は瞬時に消えてしまう。というより、人間の目には見えなくなると思います」
「それって、もしかして、今ぴんときたんだけど、完全犯罪が」
「ほう、なかなか頭が回ってきましたね。いや失礼」
 広瀬は嬉しそうに相好をくずした。
「そのとおりです。死体が存在しなければ、犯罪として立証されませんからね。もし人間を消滅させることができれば、この地球も随分と平和になるだろうにね」
「そんな」
「いや、それは冗談として、イメージによる物質化や解体を通じて、私は人間の意識というか心の働きというものを探究してみたいのです。ひいては、私たちは何のためにここに存在しているのかとか、私たちは何処から来てどこへ還っていくのかとか、そんな人間存在の真理を究明したいのです。どうです? なかなかまともな動機でしょ?」と急にくだけた口調になって広瀬が言う。
(10)「あなたに来てもらったのは、先程も話したように、行き詰まった状況に風穴を開けてほしかったから、そして共に歩む仲間が欲しかったからです。なにか重要なヒントをもらえるような気がしたのです」
 そこまで話したあと、広瀬は沈黙した。まるで自分の言葉が立てた波紋が収まるのを待つかのように。
 沙弥は広瀬から視線を外して、暗い部屋の中に青みがかった光を放っているアズロの方を見やった。
 広瀬の言うように遠い宇宙の彼方からやって来たのだろうか。もしそうだとしたら、いったい何のために? アズロがこの世に単一な存在としてあるとは考えられない。きっと同族がいるはずだ。そんな親しいものたちから離れて、こんな場所で何をしているのか。そう想った沙弥は、なんだかアズロが哀れに思えてきた。不気味な感じがしないでもなかったが、沙弥は椅子から離れ光の方へと進んでいった。
 身近でじっくり眺めていると、不思議に心が落ち着いてきた。全身から発する淡い水色の光は、沙弥の魂の奥深くまで射し入るような気がした。しばらく見つめたあとで沙弥は、自分の呼吸周期に合わせてアズロの光が強くなったり弱くなったりすることに気づいた。試しに意識的に呼吸を遅くしてみると、光の強弱もゆったりしたものに変わった。生きている、と沙弥は思わずつぶやいた。アズロは生きている。そればかりか、わたしに反応している。短時間ではあるが、これまでそばにいても心中にあったとはいえないアズロの存在が急にわたしの中に広がったと沙弥は思った。
「見ればみるほど妖しい姿をしてるだろ?」
 ふいに広瀬の声がした。いつの間にか沙弥の横に来て、彼を眺めていた。
「最初アズロが私の前に現れたときは驚いたよ。息も、身体の動きも、心も一瞬で凍りついたようだった」
「それはいつなんですか」
 沙弥は、横に立つ広瀬を見上げながら訊いた。
「半年ほど前の秋の夕暮れだった。あなたをグリーンショップで見かけたのは確か夏の終り頃だったから、それから二か月くらいあとのことだね」
「どんなふうにアズロに出会ったんですか?」
「あの日、この辺りではめったに見れないような壮大な夕焼けだった。紅に染まった空を見上げると、まるでこちらから向こうを見下ろしているような浮遊感があった。仕事を終えた私は農園内にある倉庫に農機具を収めようと歩いていた。そして、あまりに見事な日没の景色に私は立ち止まってしばし見とれていた。放心状態になっていたのだと思う。
 ずっと上方を向いていたせいで首の痛みを感じ始めたとき、前方に気配を感じた。あれっ、と思って正面を見ると、十メートルほど前方の雑草の生えた小道に何かが横たわっていた。夕焼けを見続けた残像かなと思い、目をしばたいてみたが、やはり何かがあるようだった。黄昏に溶け込んでいく土色を背景に淡い光が見える気がした。まさか人魂でもあるまいと思いながら近寄ってみた。私の本能はただならぬものを感じてはいたけど、怖いという気はしなかった。
 三メートルくらいまで近づくと、横たわるものの全体が見渡せた。一見して、この世のものではないとわかった。その形状はこの地球上にあると思われるどんなものにも似ていなかった。そして全体が、ぼーっと青白い光に包まれていた。山道で魔物に出くわした時のように、もう引き返せないと何故か思ったよ。私は覚悟を決めてさらに一歩踏み出した」
 沙弥は、臨場感あふれる語り口で話す広瀬の横顔と、目の前にいる話題の主を交互に見比べながら聞いていた。この人が図書館の読み聞かせボランティアに入って絵本や物語を読んでくれたら子供達は大喜びするだろうなあ、と思ったりした。
「どう? 少しは感じがわかってもらえるかな」
「なんか話に引き込まれてしまいます。その時わたしもそこにいたような気がします」
「そうか。かなり冷え込んできたね」
「ええ」
「私の上着をよかったら」
 そう言って広瀬は紺色のダウンパーカを脱ごうとした。
「いえ、いいんです。大丈夫ですから」
「でも」
「ほんとに。それより、続き聞かせてください」
「わかった。それから、そいつを見下ろす位置まで行って、警戒しながらよく観察してみた。おそらく生物だろうと思った。地球でいうところの動物というより植物に近いように感じた。なぜなら、下部と思われる方の端が細かく枝分かれしており、それが根に見えたという理由からだけど。根の部分から上方に向けて、今あなたが目にしているような曲線を描いて縦長に身が伸びていた。多肉植物の変種といった趣だったが、なにより驚いたのは全身から発光していたことだった。その生物自体の色は白もしくはごく薄いグレーかもしれなかったが、発光色はクリスタルな青だった。私は、辺りが暗くなると共に強さを増すその美しい光に見とれていた。
 どれほどの時間見つめていただろうか。私はふと、光が弱まっていることに気づいた。さっきまで輝いていた光が、今は夕闇に溶け込んでしまいそうだった。こいつは弱っている。私は直観的にそう感じた。最初は気味悪く思っていたけど、しばらく一緒にいるうちにある種の親しみを感じ始めていた。私は思いきって、その光るものに手を触れてみた。意外なことに温もりはなく、むしろひんやりとしていた。あなたも触ってみたらわかるが、感触は弾力がなくて硬質な感じだ。
 一番びっくりしたのは、その重さだった。このままにしておくわけにはいかないと思い、とりあえずビニールハウスの中に運ぼうと両手で持ち上げたとき、あまりの軽さに驚いた。全長は一メートル以上あり見かけも大きいのに、拍子抜けするほどの軽さだった。きっと、体を構成する素材が特殊なんだろうな」
「ふうん」
 沙弥は、目の前のアズロに触れてみたいと思い始めていた。躊躇する気持ちはもちろんあったが、持ち前の好奇心がむくむくと頭をもたげてきたのだった。それに沙弥は、これまで知らなかった自分に出会ったような思いを味わっていた。いま起きている常識では考えられない出来事を意外に淡々と受け入れている自分に驚いていた。わたしはこれまで自分自身のことに目を向けてこなかったのかもしれない、自分のことをよくは知らないんだと思った。
「それか、実際には重いのだが地球の重力に逆らう力を持っているとか。とにかく、羽のように軽い彼を両手にかかえて、最寄りのビニールハウスに運んだ。運んだのはいいが、どうしていいかさっぱりわからず、サボテンの隣に穴を掘ったんだ。そうして根と思える方を穴の中に入れて植えてみた。結果、どういう理由かは今でもわからないけど、彼の光はまた元の輝きにまで回復した」
「よかった」
「その日以来、彼との二人三脚が始まったというわけです」
「そして、イメージの物質化に行き当たるんですね」
「うん。それまでもいろいろあってね。例えば、人目に晒すわけにいかないから、新しくハウス建てて不透明なビニール張って、それがここなんだけど、そのハウスの中にもう一つの子ハウスを組み立てて、というのは、ある一定照度以上の光を浴びるとダメージを受けて弱ってしまうことがわかったからさ。それで黒いビニールで覆ったこの部屋を用意したんだ」
「地球の植物のように太陽の光を必要とはしないのかな。つまり光合成を行わないでエネルギーを得ているということですか」
 沙弥は、先生が嫌いでその科目が好きになれなかった生物をもっと勉強しておけばよかったと思いながら、光合成という言葉を使った。
「どうやらそうらしい。どんな方法で生きていくエネルギーを作っているのか、よくわからん。もうけっこう長いこと一緒にいるが、いっこうにわからないね」
「それってまるで長年連れ添った奥さんについての感想みたい」と沙弥は笑いながら言う。
「奥さんとは長年連れ添ったことがないからなあ」
 別に言葉尻をとらえたふうでもなく、広瀬はさらりとそう言った。
「あ、ごめんなさい。そんなつもりでは」
「いや、こちらこそ。私は半人前の人間だからね」
「そんな」
「さあ、そんな話はいいんだ。かなり冷えてきたし、ずいぶん遅くなってしまった。申し訳ないね。今日のところは、ここまでにしようか。こんな言い方は、あなたにまた参加してもらえるという楽観論に基づいているのですが」
「うーん。正直言って気が重いです。実はあまりにも現実離れしたことなので、わたし自身が事の重大さをよくわかってなくて、それでけっこう平気な顔をしていられるんじゃないかって、自分自身を疑ってるところがあります」
「まあ、無理ないよ。誰だってそうだと思うよ。あなたはまだ冷静な方だ。他のやつだったらきっとパニック起して騒ぎ立て、今頃ここら中に警官や新聞記者や野次馬がうようよしてるさ」
 広瀬は吐き捨てるように言った。
「わたしが秘密を暴露するかもとは思わないんですか?」
「思わない。私はあなたを信用するというよりも、あなたという人を選んだ私の直観を信用するよ」
「もしあなたがご自分への信頼を無くしたとしたら、わたしはあなたにとって厄介な存在になりますね」
「自分自身への信頼を無くすときは、私が私でなくなるときだ。そんなことはあり得ないよ」
 広瀬は、そうきっぱりと言い切った。
 自分自身への信頼か、と沙弥は広瀬のその言葉を心の中でかみしめてみた。生まれてこの方そんなことを考えてみたこともなかった。
「今すぐに結論を出さなくてもいいから、時間をかけてゆっくり考えてみてください。一刻を争うことでもないからね。ただ、私は確信しています。私たちが人類の未来を左右することになるだろうと」
 おごそかに言い放つその台詞を誰かが聞いたとしたら、なんて鼻持ちならない偉そうなことを言う奴だと反発するだろうな、と沙弥は思った。でもこんな状況に身を置いていると、そんなに変だとは思わないのが不思議であり、また心配な点でもあった。
「よく考えてみます。それにしても未だ夢の中にいるみたいです。とっても濃い時間でした。では、そろそろ失礼して」
 沙弥は、最後に思い切ってアズロに触ってみようと手を伸ばした。手の平が表面にふれた。ひんやりというより冷たかった。室温と同じくらいかもしれないと沙弥は思った。感触は柔らかな磁器といった感じ。指の間からブルーの光が漏れて、沙弥の白い手を妖しく染めた。
 すぐに手を離そうと思ったが、なぜか離しがたい気がしてそのままじっとしていた。気持ちがゆったりと落ち着いてきた。異常な出来事に緊張を保っていた沙弥の神経がゆるみ、リラックスしてきた。
 同時に体もゆるんだのか、急に寒くなってきた。寒気が足下から這い上がり、背筋を凍らし、体の末端へと抜けていった。寒い。沙弥は胸の中でそうつぶやいた。寒い。マフラーがあったらな、と本気で思った。彼女は冬にはマフラーを愛用していた。幼い頃から首周りを暖かくするのが好きだった。高校に入学した年の冬に、母親がカシミアのいいものを買ってくれた。以来ずっとそれを大切にしていた。沙弥はその柔らかな温もりをリアルに思い出していた。
 突然、差し出していた手に何かがふわりとかかった。沙弥の部屋のソファに置いてあるはずのワインレッドのマフラーだった。


アズロ 03