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「見て、庶民は虫のようなものよ」
 カフェの窓から道路を行き交う人の流れを見下ろしながら、彼女は言った。テーブルの上には、コーヒーカップとソーサーが2セットと、シフォンケーキの乗った小皿が二つある。
 庶民は多分そういう言い方をしない。なら、彼女は庶民ではないのだろう。私の顔色が変わったのに気づいたのか、彼女は言い添えた。
「わたしは愛情を持って言ってるのよ、誤解しないでね」
 今年の桜はひときわ見事だったな、と私は脈絡もなく、すぐ近くにある桜並木を思い浮かべた。大きな屋敷の建ち並ぶこの辺りの住人たちも、毎年この並木道を歩くのを楽しみにしているに違いない。
「ところで、あなたは何をしてくれるの?」
「車の運転とか、買物やお掃除くらいしか、できそうもないですが」
「そう。運転はお願いするかもしれないけど、家の雑用は通いの人がいるから。それより、あなた頭良さそうだから、ブレストの相手になってね」
 私が首を傾げると、彼女が説明する。
「ブレーンストーミングのことよ。集団思考法の一種なの。話相手になってくれると有難いわ」
「私にできるでしょうか?」
「大丈夫よ」
 そう言ったあと、彼女はふたたび窓外に目をやった。
 仕事を探していたある日、アシスタントを募集してるわよ、と知人が声をかけてくれた。三年ほどスーパーのレジを打っていたが、貧血が酷くなって半年間休養し、またレジの前に立つ気がしなくて、何かしたことのない仕事に就きたいと思った。
「時間給でしょうか」と私は訊いてみた。
 こちらに向き直った彼女の黒目がちな瞳が一瞬金色に燃えたように見えて、私は目をしばたいた。
「きちんとさせていただくわ」
 そう言っただけで具体的な話にはならなかった。
 それから彼女は頭の中で聞こえる声について語った。私にはそういった経験がないので、曖昧に相槌を打つことしかできなかった。やはりクリエイターと呼ばれる人たちには、普通の人間には計り知れない面があると思った。
「ケーキ、もう一つずつ食べない?」
 突然、彼女は言った。
「ここはショコラも美味しいの」
 ダイエットを始めたばかりだったので一瞬迷ったが、なんだか甘い物を食べたい気分だったので同意した。彼女は店員に声をかけてケーキとコーヒーを追加注文した。
 それから話題は健康法のことに移り、ショコラを食べながらしばらく話した。
 彼女がトイレに立ったとき、私の携帯電話にメール着信があった。見ると、三沢さんからだった。
 彼は友人を通じて知り合った一風変わった人で、人のオーラが見えるということだった。私が失恋して落ち込んでいたとき、きみの魂の前側はズタズタになってるよ、でも後ろは無事だし、きっと立ち直れるから、と言ってくれた。
 メールを読んで私は動揺した。
〈悪いことは言わないから、たとえどんな非難を浴びようと、すぐにそこを離れた方がいい。きみの流れから逸(そ)れている〉
 なぜ、このタイミングでメールが届いたのだろうと思ったら、とたんに背筋が寒くなった。私は携帯をハンドバッグにしまうと、店内を見回した。トイレのドアが開いて彼女が出てきたが、電話がかかってきたらしく、そのまま店の入口付近で話し始めた。
 私は乾いてきた口を水で潤し、さきほど彼女がしたように窓際から下の道路を眺めてみた。午後の陽光の中を、買物カゴを手にした女性や若いカップルが歩いていた。
 そのとき視界に一匹の虫が現れ、窓ガラスに留まった。何という虫なのか知らなかったが、頭と羽を動かしながら私を見ていた。もしこの虫と私とが違っているとしたら、それは何だろうと考えてみたが、よくわからなかった。
 私は自分の飲食代をテーブルの上に置くと、席を立って出口へと向かった。




 近鉄線の下市口駅からバスに乗り換えて天川村に向かった。バスは川に沿ったり流れから遠ざかったりしながら、しだいに高度を上げていった。隣に座る槙さんは窓の外を流れる新緑の風景を眺めている。私は山の稜線の上に広がる青空と白い雲を、ぼんやりと見つめていた。
 槙さんはスーパーで働いてたときの仕事仲間で、なんとなく馬が合い、私が辞めたあとも時々連絡を取り合っていた。私が就職に苦戦してるのを知ってなのか、奈良県にある天河神社へ参拝に行くが、気晴らしに一緒にどうだい? と誘ってくれた。一泊すると聞いて少し迷ったが、同行することにした。
 神社近くの停留所でバスを降りて橋を渡り、平凡な感じのする町並みの通りを歩いた。手が触れ合ったのをきっかけに私たちは手をつなぎ合った。
「あそこにそびえているのが弥山(みせん)で、頂上に天河神社の奥の院があるんだ」と槙さんが指差しながら言った。
 私はこれまで特に神社に関心があるわけではなかったが、ここに来る道すがら聞いた槙さんの話から、少しずつ興味を抱き始めていた。
「修験道発祥の山はどれ?」と私が尋ねると、彼は違う方向を指して「あれが山上ヶ岳(さんじょうがたけ)」と答えた。
 私が釣られて見上げると、山の緑とのコントラストも鮮やかに真っ青な空があった。私は思わず立ち止まって見入ってしまった。どれほどの間そうしていたのか、隣でクスクス笑う声がして我に返った。
「きみは、よほど空が好きとみえる」
 槙さんは半分呆れて半分面白がってるような顔で私を見た。
「小さい頃から空を眺めるのが好きなの。地上にあるものより空に惹かれるんだ」
 自分でも、その理由がわからないけどと思いながら、そう言った。
「恐がりなんだね」
「どういうこと?」
「確かに、この世は大変なところだと思う。でもさ、せっかく生まれてきたんだから、できるだけ楽しんだ方がいいんじゃない?」
 槙さんは私の目を覗き込んで、指の腹で私の手の平をそっと撫でた。
「槙さんは恐くないの?」
「この世がかい?」
「そう」
「まあ恐くないと言えば嘘になるが、ここでしか出会えないものがあるから面白いかな」
「ふうん」
 変な人と思いながらも、何だか不思議に心が軽くなった気がした。
 手をつないだまま、さらに歩いて行くと、土産物屋を兼ねた食堂があった。
「小腹が空かないか?」と槙さんが訊いた。
「そうね」
「じゃあ、帰りに寄ろう」
「帰りなの?」
「参拝が先だよ」
 槙さんは笑って言った。
 ときおり爽やかな初夏の風が吹き抜ける静かな町の一角に天河神社はあった。正式名は天河大弁財天社というらしい。手と口を清めてから、小さな橋を渡って境内に入った。階段を登り切った所にある建物に入ると、右手に広い板の間があり、左手に拝殿があった。
「この舞台で能や舞や音楽などを奉納するんだ」
「弁財天は芸能の女神なのね」
「うん。どことなくきみは弁天さんに似ているな」
「まさか」
「いや、似ている」
 弁天さまがどんな顔をしているのか私は知らない。
「ねえ、槙さんはなぜ神社巡りを始めたの?」
「なぜかな。境内に漂う凛とした雰囲気が好きだからかもしれない」
 私たちは能舞台の端に腰掛けて、正面にある拝殿と、その奥にある本殿を眺めていた。吹き抜けになった建物の内部は薄暗くひんやりとしており、外はそれと対照的に明るく輝いている。
「ほら、ここからも空が見えるよ」
 槙さんの言葉に、少し目を細めながら外を見やると、建物のシルエットで切り取られた青い虚空があった。結局はあそこに還っていくのだと思ったら泣けてきた。頬を濡らす涙を見ても、槙さんは何も言わず一緒に空を眺めていた。
 そういえば、私はこの人の身の上をほとんど何も知らないんだ、と今更のように気づいた。




 今日はあの人が来る日だわ、と店内に掛かったカレンダーを見ながら思った。いつも決まって火曜日の午前中に現れるその人は、薄くなった白髪をオールバックにして、地味だけど上等そうな服を身に着けている。
 最初に見かけたとき、ショーウインドー内を物色する彼の背中に声をかけてみた。
「どんな花をお探しですか?」
 振り向いた彼は、ほっとしたような表情で言った。
「家内に買ってやりたいのですが、どれを選んでいいのか」
「奥様は何色がお好きなんでしょう」
「さて、よくわからないな。これまで花など買ってやった覚えがない」
「そうでしたか」
 私は困ったなと思いつつも、顔も知らない奥さんの好みを想像してみた。
 すまないが選んでほしいという申し出に、私は旬の花である百合を主体にした花束をこしらえて渡した。慣れない手つきで受け取った彼は、礼を言うと店を出ていった。私がこの店で働き始めてから三ヶ月目のことだった。
 関西への短い旅から戻った私は、散歩途中に通りかかった花屋の店頭に求人の張り紙を見つけ、その足で面接を受けて採用された。一見華やいで見えた仕事のほとんどは、掃除、水やり、花ガラ摘み、水揚げといった地味な作業だった。仕事に慣れてくると、接客やフラワーアレンジメント、そして企画などの事務的仕事もこなすようになるが、大体において体力勝負の職種ではある。何より手が荒れるのには閉口した。でも元々花が好きだったし、花束などを作るようになって、お客さんに喜ばれると、やりがいを感じてきた。
 あの人は、それから毎週のように店に現れ、花束を一つ買って帰るようになった。中身は私にまかされた。奥様お喜びでしょうねと言うと、彼ははにかんだ笑みを浮かべて軽く頷いた。
 私はカレンダーから目を離して陳列してある花のところに行き、今回の花束のアイデアを練った。いつしか、秋桜の咲く季節になっていた。
 彼が店に入ってきたとき、私は目を見張った。いつものシックな装いでなく、白いスーツに白い靴という異様な姿だったからだ。私はその姿から、映画マジカル・ミステリー・ツアーの中のビートルたちを思い起こした。
「どうなさったんですか?」と私は思わず訊いてしまった。
「今日はお別れに来ました。よくしていただいて感謝しています」
 思いがけない言葉だった。
「引っ越しなさるんですか?」
「まあ、そうですね」
「それは、さみしくなります」
 彼がこの店に来始めてからの日々が蘇った。
「花をお願いします」
「はい」
 これが最後の花束になると思いながら、いつも以上に心を込めて作った。彼の服の色に影響されたのか、自然と白い菊が中心になった。出来上がった花束を手にした彼は、なかなかに決まっていたが、どこか現実離れした感じがあった。
「お世話になりました」
「いえ、こちらこそ。また近くにお越しの際には顔を出してくださいね」
「そうします」
 私は店の外に出て見送った。彼は一礼すると歩き去り、やがて通りの角を曲がって見えなくなった。
 私は店の中に入り、なぜか急に疲れを覚えて椅子に腰を下ろした。しばらくそうしていると、中年の女性客が入ってきた。
「いらっしゃいませ」
 私は立ち上がって接客に入った。
「ねえ、変なこと訊くようだけど、さっき見送ってらした方とはお知り合いなの?」
「いいえ、常連のお客様ですが」
 ほんとに変なことを訊くと思いながら答えた。
「いえね、墓参りに来て、偶然見かけたから」
「ご存じなんですか?」
「同じ町内なんですよ。半年前に奥さんに先立たれてから、家に籠もりっきり。それが今日こんなところで、しかもちょっとおかしな格好でしょ? あ、そういえば、あの方も同じ霊園にお墓を買ったらしいから、それでだわ」




 平日がお店の定休日なので、町へ出ても週末に比べてゆったりと過ごせるのはいい。人混みは苦手だ。私は朝寝坊を楽しんでからベッドを離れた。外はいい天気。手回しミルで豆を挽いてコーヒーを煎れ、食パンを焼いて遅い朝食をとった。
 あとで近所の図書館に行こうと思いついた。区立の分館なので蔵書の数はそう多くないが、緑豊かな公園の一角にあって、建物内部から眺める木々に心が和む。
 正午過ぎに部屋を出て、徒歩で図書館まで行った。ハンドバッグに入れてある利用者カードを確認してから閲覧コーナーに向かう。めざす本がないときでも、書架を眺めながらブラブラして、ピンときた背表紙に手を伸ばすことにしている。これは誰かも言ってたけど、必要なときに必要な本が呼んでくれるという気がする。
 ブラウジングコーナーは主に年輩の男性で埋まっており、各々は新聞や雑誌を手にくつろいでいる。たぶん定年退職者がほとんどだろうなと思った。彼らが、そのふんだんな時間を楽しんでいるのか、もて余しているのかはわからない。玄関を入って右手には子供コーナーがあり、そこから幼児の話す声が聞こえてきた。毎週土曜の午後には、おはなし会があるらしい。私も機会があれば絵本の読み聞かせなどしてみたいけど、うまくやれる自信はない。
 外国文学の書架で『独り居の日記』というタイトルに目がとまった。著者名はメイ・サートンとなっている。未知の作家だったが、わけもなく心惹かれて手に取ろうとしたら、名前を呼ばれた。声のした方に振り向くと、窓からの光を背に男が立っていた。
「三沢さん」
 私は驚いて言った。
「どうしてここに?」
「リクエストした本を借りにきたんだよ」
「こんなに遠くまで?」
 彼の暮らす町は、ここからかなり離れている。
「行きつけの館になかったから図書館のネットワークで探してもらったら、ここが所蔵してたんだ」
「そうだったの。あっ、いつぞやはメールありがとう」
「うん」
「危機一髪だったかも。どうしてわかったの?」
「なんとなくね」
「情景とか見えたの?」
「いや、見えたりはしない。ふと、あんたのこと思い出したら、やばい感じがしたもんで」
 三沢さんは、いつものように黒いシャツを着て、いつものように淡々と喋る。
「ねえ、座って話さない?」
 私たちは窓際に置いてある閲覧席に腰掛けた。幸い辺りには誰もいなかったので、久々にゆっくりと話せた。
「最近、何してるの?」と彼が訊く。
「仕事のこと?」
「そう」
「花屋さんよ」
「へえ。どんな感じ?」
「一種の肉体労働ね。でも楽しいわよ」
「続きそうかい?」
「生活かかってるからね」
 三沢さんが私を見て苦笑する。
「あなたは?」
「あいかわらずさ。ヒーリングの仕事やったり、バイトしたり」
「ふうん。ところで何の本借りにきたの?」
 彼がどんな本を読むのか興味があったので尋ねてみた。
「一見、児童書みたいなんだが」
 そう言いながら、三沢さんはデイパックの中から一冊の本を取り出した。赤いコートの女の子が雪景色の町の上を飛んでいるイラストが描かれてあった。
「サラとソロモン」
 私は声に出して書名を読んでみる。
「どんな本なの?」
「幸せに生きる方法が書いてあるらしい。一種の精神世界本なんだけど」
「本に呼ばれたのね」
「そうかも」
「三沢さん、幸せになりたいの?」
 彼は、しばらく考えてから言った。
「幸せになりたいというより、幸せでありたいかな。今この瞬間に、何かを願う自分じゃなくて、何かである自分を選ぶのさ」
 なんだか屁理屈っぽいと私が言うと、そうだなと声を上げて彼は笑った。
 偶然の再会だったけれど、私はとってもいい気分だった。窓の外に目をやると、風にゆれる梢と、その彼方の白い雲が見えた




 槙さんが、また旅に誘ってくれた。その内容を聞いたとき、私は思わず笑ってしまった。彼が興味のあることは突飛で面白い。今回の旅の目的は滝行(たきぎょう)だった。長野と岐阜にまたがる御嶽山(おんたけさん)で滝に打たれたあと、旨い蕎麦でも食おう、と槙さんは言った。
 彼の素敵なオンボロ車で高井戸ICから中央道に乗った。中津川ICを下りて国道19号線を北東に進み、木曽福島の川合で左折して御嶽山方面へ。王滝という村を抜け、清滝の入口を過ぎてしばらく登っていくと、道路脇の空き地にバンタイプの車がとまっていた。
「安田さんたちだよ」と言って、槙さんは自分の車をその横に止めた。
 安田さんというのは新興宗教の教祖で、信者や一般の希望者を募っては滝行の指導をしているのだと、ここに来る道すがら槙さんが教えてくれた。
「滝壺の周辺は霊が集まっているから、それを祓(はら)ってくれる先導者が必要なんだよ」
「安田さんて人がそうなの?」
「ああ」
「どうやって知り合ったの?」
「友人のつてさ。そういった方面に詳しい怪しい奴がいてさ」
「槙さんだって、十分あやしいわよ」と私は笑って言った。
 私たちが車から降りると、バンからも数人が姿を現した。
「槙さん、久しぶり」と小柄な中年の男が笑顔を見せた。
「ごぶさたです」
 槙は挨拶したあと、私を紹介してくれた。
「滝は初めてですか?」
「ええ」
「いいもんですよ。きっと病み付きになります」
 安田はそう言うと、他の参加者に引き合わせた。
 初老の男性と、中年の女性三人、眼鏡をかけた三十代くらいの男、それに安田と私たち二人を合わせた八名は、車を置いて細い山道を下っていった。
 しばらくすると、ザーとも、ゴーとも聞こえる音が、行く手から這い上がってきた。さらに下って道の角を回ると、そこには落差が三十メートルはありそうな美しい滝があった。
 私が思わず立ち止まって眺めていると、新滝というんだと槙さんが言った。
「下流にある清滝もそうだが、御嶽信仰の信者の水垢離(みずごり)の場なんだ。滝の後ろには洞窟があって、弁財天や不動明王などが祭られている。洞窟の中から滝の裏側を見れるよ」
 滝壺の近くに更衣用の小屋があり、私たちは滝行用の衣装に着替えた。男性は褌のみ、女性は全裸の上に丈の短い白木綿の行衣をまとった。そのあと全員で流れに入った。
 安田さんが九字(くじ)を切りながら先導し始めた。「臨兵闘者皆陣列在前」と呪(じゅ)を唱え、指で空中に横五本、縦四本の線を交互に書く。滝の落下地点に平らな岩があり、そこに轟音を立てながら水が激突していた。
 私は列の七番目で、後ろに槙さんが続いていた。滝を見上げると、木々の緑の上にコバルト色の空があった。なぜ滝に打たれるの? と槙さんに訊いたことを思い出した。
「なぜ打たれるか? そうだな、地球が叱ってくれるような気がするからかな」
「叱られたいの?」
「ああ、厳しいけど、そこに大きな愛を感じる」
 この人は癒されたいんだ、と運転する槙さんの横顔を見ながら思った。
 前の人たちが合掌しながら順番に滝に入っていく。そんなに長くではない。タイミングを逃すと出れなくなるから、もういいと思ったり恐くなったりしたら、すぐに出てください、と事前に安田さんが言っていた。
 そして私の番がきた。振り返って槙さんを見る。彼は、大丈夫だからとでも言うように頷いてみせた。私は滝の方に向き直り、胸の前で手を合わせてから、水の壁に分け入った。
 ドドーンと凄まじい衝撃が頭頂にきて、私は危うくパニックを起こしそうになる。ぐっとこらえて耐えていると、私の体や心にこびり付いている何か重苦しいものが、次々と剥がれ落ちていくような感覚が生じた。
 私はもっとピュアになりたくて、紐に手をかけ、行衣を脱ぎ捨てた。




 久々に美菜ちゃんと会った。彼女は私がスーパーで働いてたときにバイトでレジを打ってた娘で、確か27歳くらいだ。ふっと思い出したから電話してみたの、と少し舌足らずの声で言った。
 私たちは私鉄沿線の駅で待ち合わせ、そのあとバスで十分ほどの距離にある古いお寺まで行った。茅葺きの山門に至る道には、土産物屋と蕎麦屋がずらりと並んでいる。先に本堂や大師堂、釈迦堂などを巡ってから食事にすることにして、私たちは左右の店先を覗き込んだりしながら、山門を目指して歩いていった。
「この寺は縁結びの寺としても有名なのよ」と美菜ちゃんに言う。
「そうなんですか」
 並んで歩く美菜ちゃんは、私より背が高く大柄だ。
「縁結びかあ」と彼女は溜め息をつく。
「なによ、あなたにはもう必要ないでしょ? 素敵な旦那様がいるんだし」
「素敵ですか?」
「あら、聞き捨てならないわね」と私は笑った。
「あんなにのろけてたじゃない」
「結婚当初は楽しかったんです。でも、しだいに何か違うって気がしてきて」
 美菜ちゃんは素直な性格で決して暗い感じではなかったが、そう言われれば少し表情に翳りが見える。
「何かあったの? 彼の浮気とか」
「いえ、たぶんそれはないです。あたしはいつもかまって欲しい方なんですが、彼は仕事で疲れて帰ってきて、会話を億劫がるんです。あたしだって仕事してるんだし、嫌なことだってあるじゃないですか。ちょっと話聞いてもらえると落ち着くんだけど」
「そうよね」
 私たちは階段を上がって山門をくぐった。赤く塗られた柱に茅葺きの切妻屋根が乗っている。ウイークデーだからか、境内は人影もまばらだった。
「家事は分担してるの?」
 私はふと思いついて訊いてみた。
「とんでもない。炊事、洗濯、お掃除まで、みんなやらせてもらってます」
 美菜ちゃんは皮肉っぽく答えた。私も自炊しているから、仕事を終えて買物して帰宅して、さらに料理をする大変さはよくわかる。そんなとき、夫から感謝の一言があれば、疲れなど吹き飛んでしまうのに。ぶっきらぼうでもいい、心がこもってさえいれば。
「そう、大変ね。一度、話し合ってみたら?」
「そんなこと言ったら、ますます不機嫌になっちゃう」
「そうなの? でも、試してみる価値はあると思うわ」
 美菜ちゃんは、うーんと言ったまま黙ってしまった。夫とのあれこれを思い出しているのかもしれない。
 正面に本堂が見えてきた。屋根の下に、白、紺、緑、黄、赤に染め分けられた垂れ幕がある。本尊は阿弥陀如来だとか。
「子供ができたら、彼もきっと変わるわよ」
 私は長い沈黙が気になったので、そう言ってみた。
「あたし、妊娠したくないんです。セックスも好きじゃないし」
 今度は私が考え込んでしまった。幸せいっぱいで結婚したはずのカップルが袋小路に入り、二人の絆を見失っている、そんなイメージが脳裏に浮かんだ。
「結婚って何なんでしょうね」
 美菜ちゃんが声を震わせたので、私は驚いて彼女を見た。切れ長の目から涙があふれていた。とたんに私も切なくなって、泣けてきた。美菜ちゃんだけでなく、彼女の夫の悲しみも私の中に飛び込んできたからだ。片方だけが不幸なはずもない。
 私たちはしばらくの間、泣きながら歩いた。
 本堂、大師堂、釈迦堂と歩を進めるうちに少し落ち着いてきて、おまけにお腹も空いてきた。ねえ、蕎麦の呼ぶ声が聞こえない? と言うと、聞こえますと美菜ちゃんが微笑んだ。
「どこが美味しいんだろ。知ってる?」
「いえ」
「じゃあ、店構えを見て、直感で決めようか。自分の直感を信じてあげると、きっといいことあるわよ」
 私たちはふたたび山門をくぐって階段を下り、門前に並ぶ蕎麦屋を物色しながら、ゆっくりと歩いていった。




 仕事を終えて通りに出ると、街灯が夕暮れの舗道に橙色の光を落としていた。今日は遅番だったので、こんな時間になってしまった。さて、晩ごはんはどうしようか、帰宅して作るのも億劫だし、どこかで食べて帰ろう、私はそう決めると、駅近くの商店街に向けて歩き出した。
 学生が多く住むこの町には定食屋がけっこう残っていた。自炊が主な私は、あまりそういった店に入ったことがなかったが、今夜はなんとなく気が向いた。
 ネオンが輝く通りに入ると、居酒屋などに混じって縦長の青い看板が見えた。雑誌で紹介されていた定食屋のチェーン店だった。気軽に入れそうな小綺麗な外観だ。店の入口に陳列ケースがあり、中に各種定食の写真と値段が貼ってある。私はざっと眺めたあと、ドアを開けた。
「いらっしゃいませ、こんばんはー」
 レジの向こうで元気のいい声がした。見ると、かわいい感じの女性が笑顔を見せていた。社員教育がきちんと為されているのだろう。これでは独身男は毎日通いたくなるわねと思いながら、焼き魚定食と冷や奴を注文した。そして軽快なジャズが流れる店内を奥に進んで、窓際にあるカウンター席に座った。すぐに若い男が水を持ってきて、食券を受け取った。
 お客は若者が大半だったが、そう若くはない私でも特に居づらくはなかった。カウンターには適度な間隔で作り付けの椅子が配置されており、各々の席には調味料と箸が置いてある。
 私はあることを思いついて、箸の入ったケースから一膳取り出した。そうして紙袋から本体を抜いて横にし、手前に向けてそっと二つに割った。右手に持って構えると、私の手に槙さんの手が重なって見えた。
 槙さんの箸の持ち方は変だ。子供みたいに短く持つわけではないが、決してスマートとは言えない。というか、どことなく滑稽な持ち方である。
 天川神社に参拝した日に、私たちは吉野の老舗旅館に泊まった。畳敷きの個室に用意された夕食の席で、私は彼に箸の持ち方の特訓をした。
「ちゃんと食えればいいんじゃないの?」
 槙さんがのんびりした口調で言う。
「だめよ、あなたには似合わない。こういうふうに持った方が美しいでしょ?」
 私は模範を示した。
 彼は素直に真似をするが、すぐ元に戻ってしまう。まだ男女になっていない二人が、これからそうなるかもしれない時にすることじゃないかもと思う一方で、何だか心楽しくなっている自分に気づいてもいた。
「おまたせしましたー」
 声がして、カウンターの上にお膳に乗った定食が置かれた。ごはんに、おかずに、おみそ汁に漬け物というシンプルな組み合わせだ。私はさっそく食べ始めた。
 人にあれこれ言うくらいだから、私は食事の際の作法に心得があった。子供の頃に左利きだった私を、母は礼法教室に通わせた。右利きにすることと礼法とを結びつけた母の発想を今となっては微笑ましく感じるが、生まれついた資質をそのまま自然に伸ばされていたらと思わないでもない。
 冷や奴の上には、生姜と削りカツオと刻んだ大葉が乗っていた。大葉の香りが好きだ。豆腐に箸を入れていると、旅館の朝食の膳にあった胡麻豆腐を思い出した。
 私は伏し目がちに、向き合って座る槙さんの箸さばきを見ていた。昨夜の特訓も虚しく、たちまち槙さん流に戻った持ち方で、巧みに柔らかな豆腐を口に運んでいる。お箸を正しく持つことと上手に使いこなすことは別なんだと思いながら、彼の長い指の動きを追った。
 ごはんを少し残して食事を終えると、私は袋に箸を戻してお膳の上に置いた。胸の前で合掌して、ごちそうさまでしたと小さくつぶやく。立ち上がって店を出ると、通りを行き交う人が増えていた。カップルや酔っ払いをかわしながら、私は家路についた。




 帰宅すると、郵便受けに宅急便の不在連絡通知があった。夜9時までは再配達可能とあったので、すぐに連絡して届けてもらった。クール宅急便扱いで、中身は鮎だった。送り主は父で、鑑札を持っている父が自分で釣り上げたものだろう。
 そうかあ、そういえば鮎のシーズンだったわね、と故郷の川を懐かしく思い出した。川の全長は約80キロで、支流も含めて上流にダムがない日本でも指折りの清流と言われている。父の趣味は釣りで海釣りが主だが、鮎のシーズンには仕事の休みごとに川に出かけていた。
 私はお礼かたがた久しぶりに声を聞こうと電話をかけると、すぐに母が出た。相変わらずの大きな声だ。鮎が届いたと礼を言った。
「昨日、有給もらって川に行きんさったんよ」
「へえ、よく出かけとるん?」
「休みごとにね」
「そのぶん世話がなくて、えーわーね」
 そうそうと母は快活に笑った。
「お父さんは?」
「風呂なんよ」
「まだ上がらんの?」
「入ったばっかし」
「じゃあ、よろしく言っといて」
「たまには電話でもしてあげんさいよ」
「うん」
 ここのとこ何ヶ月も連絡してなかったなと反省しながら、そう言った。
 父は母と対照的な口数の少ない人だが、暗い性格ではなく、飄々としたマイペースな感じ。私が離婚のことを口にしたとき、自分の責任において決めればいい、どっちにせよ幸せでいれる道を選んだらええと言った。私はふたたび一人になり、故郷を離れることにした。狭い町の狭い世間だったし、都会での生活を経験してみたくもあったのだ。
 出発の数日前に、父は私を釣りに誘った。父のお古の胴長を履いて流れに入った。並んで竿を振っていると、梅雨の晴れ間の湿っぽい風が川面を渡ってきた。父は順調に釣り上げていたが、私はさっぱりだった。それでもしばらく続けていると、ようやく小さな鮎が掛かった。喉から針を外して魚籠に入れようとしたら、父から待ったがかかった。
「若いんは離してやりんさい。そうすりゃあ、もっと大きくなって戻ってくるけえ」
 私は半分しぶしぶ半分は納得して、前途ある若鮎をリリースしてやった。
「むやみやたらと竿を振ってもだめだ。川を読んで鮎の気持ちを感じてみんさい」
「わかった」
 私は鮎の心情を想像してみたが、彼らが釣られたくなんかないと思っているのは明らかだった。ただ、石に生えた苔を食べ、自由気ままに泳ぎ回っていたいに違いない。そう思うと、もはや釣りはできなくなった。私は岸に座って、父の竿さばきを飽きずに眺めていた。
「あんたは、どうしとるん。ちゃんと食べとるんかね?」
「心配せんで。自炊しとるし」
「そうかね。ええ人はおるん?」
 そう訊かれて、一瞬詰まった。私にとって、いい人とは何だろう。もちろん母の言ってる意味はわかるけど。
「どうかな。いるような、いないような」
「そう。体に気いつけてやりんさいよ」
「お母さんもね。お父さんによろしく」
 私は電話を切ってから、ベッドに仰向けになって、ぼんやりとしていた。頭の中に浮かんでくるのは、故郷の川の澄んだ水の流れだった。そして音が聞こえ、風が吹き抜けるのを感じた。父の声がして、小さな鮎が流れに戻っていった。
 突然、私はそのときの父の気持ちがわかったような気がした。若い鮎をリリースすることと、娘を遠く送り出すことを重ね合わせていたのでは? いずれ大きく成長したときに、また帰ってこいと願っていたのでは? そのときの父の寂しさを感じて、私は涙ぐんだ。
 明日の仕事帰りに七輪と炭と竹串を買おう。そうして、父が釣った鮎を塩焼きにして頂こう。それが、私と父との絆を確認する一番のやり方に思えた。鮎を冷蔵庫にしまう前に指先でそっと触れると、その柔らかさが心に沁みた。




 めずらしく夜半に目が覚めた。しだいに焦点が合ってきた視線が捉えたのは、薄明るい室内の様子だった。ブラインドの隙間から淡い光が射し込んでいる。そういえば今夜は満月だったと思った。
 私はベッドから起き上がり、枕をヘッドボードに当てると、背中をもたせかけた。普段の私は一度寝入ると朝まで目覚めないタイプなので、なぜ今夜に限ってと不思議な気がした。物音一つしない静かな夜で、降り注ぐ月光が立てる神秘的な音が聞こえるようだった。
 突然、美菜ちゃんが言っていたことを思い出した。それは、満月に向かって財布や預金通帳を振ると、思いがけない臨時収入があるというものだった。美菜ちゃんは実際にやってみて、ある程度の成果を上げたらしい。残念ながら私はまだ試したことがなかった。今から起き出して窓を開け、夜空で輝く月に願ってみようかしら。私は半分本気でそう思った。
 臨時収入も魅力的だけど、私の切実な願いは、これから何をして生きていけばいいのかを知りたいことだった。
 故郷を離れてもう四年になるが、私は未だに進むべき道を見つけられずにいた。今の仕事のやりがいが無いというわけじゃない。花は好きだし、お客さんに応じて花束を作り、笑顔で受け取ってもらえるのは、とても嬉しい。でも、それは、生活の糧を得るための仕事としては恵まれているに過ぎないとも言えた。
 私の中に通低音としてある正体不明の苛立ちが、自分の道を見出すことによって消えていくような気がするけれど、果たして私の道などというものがあるのだろうかとも思う。
 しばらく目を開けていると、室内の見え方が変わったことに気づいた。月が動いたからかもしれない。私はベッドから下りて窓際に行き、ブラインドを上げた。休みの日にピカピカに磨いたガラス窓を通して見上げた空に、丸く大きな月が輝いていた。雲や星の姿もなく、彼女は独り占めした天空を透明な光で満たしていた。
 ふいに私の感情がゆれた。まるでこの世で一人ぼっちになったような孤独感が込み上げてきた。私は動揺し、急に息苦しさを覚えて、急いで窓を開けた。とたんに、夜の大地を包んでいた冷気が部屋の中に流れ込んできて、私は少しだけ落ち着いた。
 いったい私はどうしたというのだろう。覚えてはいないが、何か印象的な夢でも見ていたのかもしれない。ある本に、夢は空想の産物ではなく、肉体を離れた魂によるリアルな体験だと書いてあったが、私の魂は一足先に未来を覗き見てきたのかもしれない。未来の私は、ふと立ち止まった街角で昔のことを思い出し、過ぎ去った日の私に何らかのメッセージを送るだろうか。
 私は窓から身を乗り出して、目に入る空の面積を拡げてみた。
「きれいね」
 誰に言うでもなく、つぶやいてみる。
 知らない世界というものは確かにあるものだと思った。ぐっすりと眠っている頭上で、毎夜毎夜さまざまな空模様が展開していて、私はそれを味わうこともなく過ごしていたのだ。そのことが残念という気はしなくて、ただ小さな希望の芽が生じたように感じた。生きていくことは未知に出会うことで、それがどんなものであれ、私は受け入れてみようと思った。
 なんだかスピリチュアルな心地になっていた。金色の光に満ちた夜空に浮かぶ月のマジックだろうか。私はあらためて月を眺めた。遙かの昔から地球に寄り添って暗い夜を照らしてきた彼女を、いや彼かもしれないが、美しいと思った。姿形だけでなく、その在り方を心底美しいと思ったのだ。
 私は小さな溜め息をつくと、窓を閉めてブラインドを下ろした。それから、ふたたびベッドに入ると、窓の方を見やった。ブラインドの隙間から射し入る月光が、薄闇に幾筋もの道を描いていた。




 久々に弟からメールが届いた。元気でいるから安心してほしいと書いてあった。二つ違いの弟は日本のNGOに属していて、現在南スーダンで井戸を掘る活動をしている。
 二十年あまり続いたスーダン内戦は2005年にようやく和平合意がなされたあと、周辺国から難民が帰還し始めたが、水の確保の問題などで、未だに多くの人が故郷に帰れないでいるらしい。故郷の村に戻った人たちも、内戦で井戸が壊されたり水が枯れたりしていて、遠く離れたナイル川まで茶色に濁った水を汲みに行かなければならず、その水をそのまま飲み水や炊事に使うため、コレラなどの病気が発生しているとか。蛇口をひねれば安全な水がほとばしる日本では考えられない苛酷な状況だという。
 この一年間の緊急支援で38本の井戸と八つの公衆トイレを作ったという文面の背後に、困難に耐えた誇らしさのようなものが透けて見えて、よくぞここまで歩いてきたわね、と思わず涙ぐんでしまった。
 弟は引きこもりだった。不登校を繰り返したあと高校はどうにか卒業したが、進学や就職の意志は無かった。そして短期間のアルバイトを渡り歩いて数年を過ごし、以後自宅に引きこもってしまった。父や母は当然のごとく心配し、何とか社会に出そうと骨を折ったが、対人関係を非常な苦痛に感じることが見て取れて、自殺でもされるよりはと、しばらく様子を見ることにしたようだった。
 あるとき私は彼に尋ねてみた。
「何が辛いの?」
 弟は即答しなかったけど、断片的な言葉を拾ってみると、自尊心を持てないことに苦しんでいるように思えた。
 人と関わるにはエネルギーを要するが、弟にはその力が不足しているのかもしれなかった。どうしたらその力を得れるのだろうと考えてみたが、私自身にもそれが十分にあると思えず、答を出すことはできなかった。
 私が離婚して故郷を離れることになったとき、弟は一言、行くんか? と言った。群れに逸(はぐ)れて雨の野にたたずむ若い羊のようなまなざしだった。私は後ろ髪を引かれる思いで家を出たが、やがて都会での暮らしにまぎれて、弟のことはあまり思い出さなくなった。
 こちらに来て二年が過ぎた頃、突然に弟が訪ねてきた。驚く私に、彼は都内にあるNGOの面接を受けるんだと告げた。その組織は、紛争や災害、貧困などの脅威にさらされている人々への支援活動を世界各地で展開しているということだった。
 あまりに唐突な弟の行動に、私はうろたえてしまった。
「どうして、そんな気になったの?」と私は訊いた。
「掘ってみたいと思った」
「何を?」
「渇いた土地に井戸をさ」
 ネットで偶然覗いたサイトで、アフリカで井戸を掘る支援活動をしている日本人たちがいることを知ったという。長年引きこもってきた人間が、そんな遠い国の苛酷な環境で使い物になるのかなと思ったが、弟なりに今の状況から脱したいと願った上での決断だろうと、応援したい気持になった。
 幸運なことに彼はそのNGOに採用され、国内研修を経て現地に派遣された。
 雨季に入ったので井戸掘りの作業は休みだけど、次のプロジェクトのために調査をしているんだ。村々を巡っていると、周囲に水がなくて遠方まで歩いて水をくみに行っているケースもあって、胸が潰れる思いだよ。身近に飲み水や炊事に使う水がないなんて想像できるかい?
 そんなふうにメールの文面は続いていた。
 弟は幸せだろうかと考えてみる。水の乏しい環境は彼にとっても快適であるはずもなく、ぎりぎりのところで生きているに違いない。けれど、そんな日々を通して初めてわかることもあるのだろう。
 もしかして弟が掘り続けているのは、自分の心という深い深い井戸なのかもしれない。ふと、そう思ったりする。




 日本酒が旨い季節になったから久々に一杯やろうかと槙さんから電話があった。とはいえ、彼は年間を通して日本酒を飲んでいるのだが。
 槙さんは、かつて臨時仕事として蔵人(くらびと)をしたことがある。蔵人というのは杜氏(とうじ)の下で酒造りをする職人さんで、槙さんは釜屋(かまや)といって酒造米を量ったり洗ったり蒸したりする担当だった。それまで日本酒はそんなに好きではなかったが、もろみを搾っただけの生酒を味わって以来、旨さに気づいたんだよと言っていた。
 私たちは中央線の中野駅で待ち合わせ、早稲田通り沿いにある居酒屋に入った。店内には西郷隆盛の肖像画が飾ってあったので、もしかするとオーナーが九州ゆかりの人なのかもしれないと思った。テーブル席が空いていたが、槙さんの希望でカウンターに並んで座った。私もその方が落ち着ける。
 とりあえず生ビールを注文したあとメニューを見ていると、ビールとお通しが出てきた。さつま揚げと野菜の煮つけだ。さっそく乾杯をしてグラスを傾ける。旨い。そのあと相談し合って、からし蓮根と、さつま揚げと、牛もつ煮込みを頼んだ。
「もつ煮は南部鉄瓶で煮込んであるんだ。ここの名物だよ」と槙さんが言う。
 ビールのあとは酒に切り換えて、出てきた肴をつつきながら、ゆっくりと味わった。酒は熊本の美少年を選んだ。やや辛口で私の好みだ。
「なあ、女ってみな酔っぱらうとガードが緩みやすくなるんか?」
 いきなりの問いに、どう答えたらいいのか迷った。槙さんは時々突拍子もないことを言う。
「その女っての中に私も入ってるの?」
「いやさ、こないだ仕事場で若い奴と話してて、そんな話を聞いたから」
 槙さんによると、その彼は、あるとき年上の女と飲みに行ったのだが、帰りにキスをしたら、すんなり応じて、結局最後までいったという。片思いの人がいるとかで、普段は気軽に話をする同僚って感じだったらしい。
「それは、その人が彼を好きになったからじゃないかな。別にお酒のせいではないんじゃない?」
「そうかな。そういえば、普段はジーンズ姿なのに、その夜に限ってスカートを履いてたと言ってたが、これってやる気満々だったってことか?」
「槙さん、ちょっと露骨過ぎない? たまには、おしゃれして出かけたいものよ」
 私が軽く睨むと、槙さんはばつが悪そうに横を向いた。
「お酒を飲んで好色になるのは、むしろ男性の方じゃない? だって、その彼から仕掛けたわけだし」
 そんなふうに言いながらも、私はある情景を思い出していた。
 私がスーパーのレジを打っていた頃、槙さんは当時バイトに来ていた美菜ちゃんも一緒に自宅に招待してくれた。ダッチオーブンで鶏の蒸し焼きを作ってくれるという。その珍しい料理を食べつつ、私たちは大いに飲んだ。
 はっきり言って私は強いが、槙さんもかなりのものだ。そんなに飲めない美菜ちゃんがうたた寝をしている横で、私たちは競うようにビールをあおった。
 やがて槙さんは日本酒に切り替えると言って、浴槽に湯を張った。
「一升瓶と一緒に入浴するの?」
 私は冗談のつもりだったのだが、槙さんは、よくわかったな、燗をつけるにはこれが一番なんだ、と言って一升瓶を持って、さっさと風呂場に消えた。なんて変わった人だろうと思う一方でユーモラスな感じもして、私は笑いながら一人で飲んでいた。
 だけど待てど暮らせど戻ってこないので、まさか溺れたのではと心配になって覗きに行ってみた。
 浴室のドアを開けると、槙さんは湯に浸かったまま眠っていた。左手で中身の減った一升瓶を抱え、バスタブの縁にかけた右手には湯飲みを持っていた。
 私は隣に座る槙さんの横顔を見ながら、飲んで好色になるよりいいかもと思ったけれど、少し残念な気もした。




 改札を抜けると見慣れた待合室があったが、一歩外に出ると駅前の様子はすっかり変わっていた。
 駅を背にした左手には大きなホテルやビルが建ち、正面の町並みも小綺麗なものに変身していた。これが母の言ってた駅前再開発の成果なのねと思った。高校時代によく通っていたお好み焼き屋や大判焼きの店は、まだあるのかしら。それらの古めいた店構えの方が、目の前に広がるモダンな町並みより豊かな気がするのは、なぜだろう。久々の故郷の目新しい風景からは、あまり生命力を感じられなかった。
 私はタクシー乗り場に向かったが、ちょうど海岸行きのバスが来合わせたので、それに乗ってしまった。急に海が見たくなったのだ。白と薄紫に塗られたバスが橋を渡るときに下流側を見ると、真新しい橋が架かっていた。そこは毎年八月に花火大会が行われる場所だった。今年の夏は、どんなふうにやったのかな。
 川を越えて少し走ると、空港入口という看板があった。この町には小さな空港があるから空路を利用することもできたが、一時間半ほどであっけなく帰るのは何となく抵抗があった。もうこの町で暮らすこともないだろうと思いながら去った故郷だったが、父が認知症になり、介護疲れの母が体調を崩す状況に至っては戻らざるを得なかった。
 私は空港ができるまでの交通手段だった鉄道を使うことにして、新幹線、在来線と乗り継いで帰った。単線をのんびりと走るディーゼル列車の窓から山や田園の風景を眺めていると、子供の頃からこれまでの思い出が蘇ってきて切なくなった。
 空港入口を過ぎると、まもなく右手に海が開けた。風が出てきたのか、深緑の海面に白い波頭が立っている。バスは三里あるという長い直線道路を進んでいく。直線が左カーブになる辺りから振り返って望む海と海岸線の景色は、思わず見とれるくらい美しい。
 バスがカーブを越えてすぐの停留所に止まったので、私は運賃を払ってバスを降りた。そして海の方に引き返し、海辺に建つペンションの横手から海岸に下りて、波打ち際まで歩いていった。沖の方から吹いてくる少し冷たい潮風を大きく吸い込むと、懐かしい海の香りがした。
 私は砂利の上に座り、水平線を右から左へと見渡した。正面より右手のいつもの位置に島があり、左端には海面から突き出た岩が見えた。この岩の付近に夕陽が沈む。快晴の今日は、きっと見事な日没が見れるに違いない。
 私は夕方までここにいたいと思ったが、寒くなりそうだったし、何より両親が待っていたから、また改めて来ることにした。それに、これからは、その気になればいつでも来れる。でも、また日常が始まれば、身近に豊かな自然があることを忘れがちになるかもしれない。
「日常かあ」と私は声に出してみる。
 母が元気を取り戻したら、父の介護を母と分担し、短時間のパートを探してみよう。これまでの経験を生かすなら、フラワーショップがいいかもしれない。人口が数万規模の地方では就職への門戸は狭いだろうけど、地道に探せばなんとかなると思う。
 私は仕事のことや、これから始まる両親との暮らしに対して、あまり心配はしていなかった。七年に及んだ都会生活で得たものは、人生に対する肯定的な気分であり、根拠のない明るさだった。
 失ったものは槙さんと身近で生きるということだが、失ったと言えるほど得ていたのかどうか。
 私は立ち上がり、尻に付いた砂を払った。太陽の降下につれて海の表情が移ろっていく。私は平べったい小石を拾い上げて海面に水平に投げた。石は幾つもの波の頂を滑り、沖に向けて飛んでいった。
 深呼吸をしてから歩き出すと、砂浜と国道が接した辺りに見慣れた人影が立っていた。走り出す私の背を海風が押す。