職探しの日々から見えてくるものは

Kyushoku Blues_640


 駐車場に車を入れると、助手席にある履歴書の入った茶封筒をちらっと眺めたあと、おれは大きく深呼吸をした。これからアポなしの求職活動を始めるところだ。
 車から下りて二十メートルほど離れた建物を見やると、竹竿に取り付けられた縦長の幟が風にはためいていた。幟にはこの会社のトレードマークである小動物が描かれてある。おれは駐車場を横切って建物に入っていった。
「失礼します」
 店内では中年の女性が事務仕事をしていた。おれを見て怪訝な顔をする。
「突然なんですが、店長さんにお目にかかりたいのですが」
「はあ」と事務員は気のない声を出した。
「折り入ってお話が」
 おれは精一杯のにこやかな笑顔をつくる。
「少々お待ちください」
 事務員は仕事を中断し、いったん部屋を出て、外階段を登っていった。おれは荷物の受付カウンターに置いてある荷札やチラシに目をやりながら待った。
 二、三分後に事務員は戻ってきて、今下りてきますからと言った。おれは礼を言い部屋を出て、外階段の下で店長を待ち受けた。しばらくして店長は階段を駆け下りてきた。
「お忙しいのに、すみません」とおれは言った。
「どんなご用件でしょう」
 店長は小柄で誠実そうな男だった。年齢は三十代の後半といったところだろうか。
「実は仕事を探しているのですが、こちらで配達要員を募集しておられないかなと思いまして」
「正社員は募集していないんですよ。パートなら一人分空いてますが」
「お願いできますでしょうか?」
 おれは内心やったあと思いながら、そう訊いてみた。
「ただし、この辺りでの募集はないですよ」
「は?」
「梅木町だからねえ」
「そうですか」とおれは溜息をついた。
 梅木町は、ここから車で一時間ほど走ったところにある山間の町である。
「地元で募集を始めようとしてたところです。交通費が出せないから、ちょっとね」
 確かにガソリン代のことを考えると割に合わない。それに往復の時間だって。
「わかりました。またこの辺で空きが出たらお願いします」
「いいですよ」
 そう言って店長は名刺をくれた。エリア支店長という肩書きだった。
「じゃあ、連絡先を書いといてもらおうかな」
 彼はそう言って、メモ用紙をくれた。おれは住所、氏名と携帯電話の番号を書いて支店長に渡し、礼を言って建物を出た。
 車に乗り込むと、七月中旬の太陽に熱せられた車内の空気がむっとおれを包んだ。エンジンをかけて国道に乗り出し、市の中心部にあるハローワークに向かう。これまで足を踏み入れたこともない施設が、今や日参する場所になっていた。人生何が起きるかわからない。だからこそ面白いんだ。そう自分に言い聞かせなければ、足下の床が崩れ落ちて、奈落の底に吸い込まれてしまうような気がした。
 ハローワークの駐車場は満車だった。今時どこの店でも、こんなに繁盛してはいない。おれはそう思いながら近くに路上駐車し、ハローワークの中に入っていった。
 ガラスの自動ドアが開くとすぐ受付カウンターがある。顔なじみの女性職員に挨拶して、ハローワークカードを提出する。名刺大の紙片で、氏名、求職番号などが記載してある。
「座ってお待ちください」と女性職員は言った。
 おれはソファの置いてあるフロアに進んだ。入って左手に新着求人が掲示してあるボードがある。その前には大勢の人がひしめいていた。中年の男女に交じって若者の姿が目に付く。こんな仕事の無い時期に、これから長く長く生きねばならない彼らが、壁に貼られたわずかな求人票を食い入るように眺めている。おれ自身が他人からどう見られているのかは棚に上げて、彼らの様子におれは胸が痛くなった。
 新着用ボードとは別に、職種別に分類してある棚をざっと見て回る。透明なファイル入れに入った求人票は雇用が成立すると引っ込められるが、棚からファイルが無くなることはない。そうそう毎日新しい求人が出ている様子もなく、つまりは人気のない求人先が存在するということだ。あるいは一旦姿が見えなくなっても、すぐにまた棚に並んでいる求人もある。おそらく労働条件が悪くて人が居着かないのだろう。毎日のようにこれらのファイルに目を通していると、そんなことが見えてくる。
 おれはソファに座って、ワンフロアになっているハローワーク内を見渡す。少なくない数の職員が働いている。彼らとて労働者には違いない。労働者が労働者になりたい者に労働の機会を紹介しているというわけだ。そんな当たり前のどうでもいいようなことを考えていると、名前を呼ばれた。
 相談カウンターに行って椅子に腰掛ける。
「よろしくお願いします」
「今日はどんな?」と担当の男性職員が話を切り出す。
「これをお願いしたいのですが」
 おれはA4版のコピー用紙に印刷した求人情報を差し出した。ハローワーク・インターネットサービスというサイトがあり、そこで求人情報が検索できる。前日午後六時時点の情報を元に毎朝更新しているとのことだ。おれは朝一番に検索し、適当なものがあれば印刷して持参していた。もっとも、朝出た求人がその日の内に決まることもあり、その場合はサイトへの掲載はない。故に、午前中のハローワーク通いは欠かせない。
「伐採作業員ですね」
「はい」
「これ、期間限定の臨時だけど、いいの?」
「ええ、かまいません」
 山の頂上付近に立っている送電線に接近している樹木の伐採・下刈り作業を行う仕事である。午前八時から午後五時までの勤務で、時給700円だ。
「チェンソー及び草刈機の特別教育修了者に限るとありますが、あなた講習受けてますか?」
 目も体も大きな彼は五十代後半くらいだろうか。
「いいえ。でも、山での仕事は前にちょっとやったことがあるんです。その時に取り扱いのレクチャーは受けましたけど」
 おれは、何とか条件をクリアしようと必死だった。
「実際に取り扱ったの?」
「いえ」
「ちょっと難しいかもしれないねえ。電力会社の下請けだし、労災の関係でけっこう指導が厳しいから」
「そうですか。でも、一度訊くだけ訊いてもらえませんかね」
 男性職員は軽く頷くと、電話を取ってダイヤルした。結果は、特別教育修了者でないと採用できないというものだった。おれは彼に礼を言ってハローワークを出た。
 帰宅するにはまだ早すぎた。今日はこれ以上の求職活動をする当てもなかったから、行き付けのカフェで時間を潰すことにした。店の前面によしずが立てかけてあり、そこに苦瓜の茎が這っていて、涼しげな雰囲気を醸し出していた。おれは中に入って、アイスカプチーノを注文した。
 マスターは三十代前半くらいで、何度もトルコに渡っているとのことだった。当然のように店内は中東の香り漂うエスニックなインテリアになっており、食事メニューもカレーを中心とした品揃えだった。飲物はコーヒー類の他にヨーグルトドリンクのラッシーなどがあった。
「マキちゃん最近どうしてる?」とおれはマスターに訊いてみる。
「元気みたいですよ。時々は来てくれます」
「まだバンドやってるのかな」
「どうでしょうね」
 マスターはそう答えると、ちょうど終ったCDをかけ替える。エキゾチックな旋律が、広くはない店内を素速く満たしていった。
 この町にはパチンコホールも多いが、バンド活動をしている若者の数も多い。いや若者ばかりでなく、若い頃からずっと趣味で音楽を続けている中年もおれを含めて少なくなかった。人口数万人の町で暮らしていける収入があれば、仕事に費やす以外のエネルギーを発散する対象が必要だということだろう。その対象は、パチンコであり、飲酒であり、スポーツであり、音楽だった。
 しかし今は事情が違ってきている、とおれは思う。生活の糧を得るための仕事に就けない若い連中が大勢いるのだ。学生はいざ知らず、働く必要のある者が仕事をしないで趣味に走るのは無理がある。毎日のようにハローワークに通い詰めても、なかなか就職先が決まらないという現実は、精神的にかなりのダメージを受けると思う。失業という状態は人間の尊厳を少しずつ蝕んでいくような気がすると言ったら大袈裟だろうか。
「立木さん、今は?」とマスターが訊く。
「バンドのこと?」
「ええ」
「週一で練習してるけど、何か落ち着かなくてね」
「何かあるんです?」
「仕事が決まんないからさ」
 そう答えてグラスの中身をストローで吸い上げたとき、テーブルの上に置いた携帯電話が鳴った。おれはそれを掴んで立ち上がり、店の外に出た。
 発信者を確かめると、公衆電話からだった。
「もしもし」とおれは応答する。
「わたし」
 少しハスキーな、それでいて決して大人っぽくはない声が聞こえてきた。
「なんだユリか」
「なんだは余計でしょ」
「どうした」
「なによ、久しぶりに話すのに、もう少し嬉しそうにしたら?」
 おれは唇を少し尖らして脹れっ面をするユリの顔を思い浮かべて苦笑する。
「それより、ケータイどうしたんだ?」
「それなのよ。トイレに落としちゃって」
「またかよ」
「またって、三度目じゃない」
「それを、またっていうんだよ」
「あのね」
 ユリは話題を変える。
「鈴子のケータイ番号訊こうと思って」
「いいけど。言おうか?」
「ちょっと待ってメモするから」
 電話の向こうでユリが筆記の用意をしている音がする。おれも電話帳を表示して鈴子の番号を探す。電話機を耳に当てると、いいよというユリの声が聞こえた。
「じゃ、言うぞ」
 おれはもう一度電話帳を見たあと、番号を告げた。
「ありがと」
「メルアドは?」
「夕方には新しいの手に入るから、鈴子にメールしてもらうよ。急ぎの用があったし番号だけ訊いたの」
「そうか」
「うん」
「そういえばユリのメル友で、ほら誰だっけな、交通誘導員やってた」
「ああ、朱美ね」
「あの子どうしてるかな」
「どしたの? 立木さん、朱美に気があったの?」
 ユリはからかい口調で言った。
「そういうわけじゃないが、今日たまたま同じように路上で交通誘導してる若い子を見かけたからさ。彼女も福岡でがんばってるのかなと思ってたところなんだ」
「朱美はもう辞めたよ」
「へえ、なんで?」
「あ、ごめん、もう切れるから、また夜にでもかけるよ。じゃね」
 おれが返答する前にビーッという音とともに電話は切れた。おれは電話機を折り畳み、ドアを開けて店内に戻った。そして、氷が溶けて薄まったアイスカプチーノを飲み干すと、勘定を済ませて店を出た。
 普段ならスーパーで夕食の食材を買って帰るのだが、小学生の息子は祖父母の家へ泊まりがけで遊びに行っており、明朝も直接登校することになって、今夜の賄いは一人分でいい。ならば有り合わせの材料でパスタでも作ろうと、そのまま帰宅した。
 本を読んだり夕食をとったりして過ごしたあと、おれはシャワーを使った。浴室から出てみると携帯電話の着信記録にユリの名前が残っていた。かけ直すと留守電になって、メッセージを録音しろとおねえさんの声がする。機械に向かって喋るほどタフな神経を持ち合わせないおれは、そのまま電話を切った。
 あとでまたかかってくるだろうと、冷蔵庫のところまで行き、缶ビールを持って部屋に戻った。
 おれは椅子に座って机の上を眺め渡した。ノートパソコン、プリンター、電話機、本、電気スタンド、香を焚く器、PC用スピーカー、ハードロックカフェ土産のグラスに差した筆記用具などが雑然と置かれている。そして左端にはプリントアウトしたコピー用紙が山と積んである。求人情報だ。仕事探しを始めて、もう半年になる。おれはその求人情報の山を見ながら、成立に至らなかった幾つかの求職活動を思い出した。
 その中の一つに、牛乳配達の仕事があった。ハローワークが個別に発行している求人情報のチラシに載っていたものだ。それによると、職種は常用の配達員、年齢は二十歳から四十五歳。賃金は14万から17万円。就業時間は午前七時から午後五時。休日は日曜日他となっていた。おそらく既に採用済みだとは思ったけど、何となく気になったので駄目元で問い合わせてみることにした。
 電話をかけると社長が電話に出て、その求人はもう決まったが、よければ一度面接に来いと言うので、おれはその日の午後に会社まで出かけていった。国道沿いに建つ社屋に入ると、顔見知りの青年が二人いた。一人はバンド関係の知人で、片方はおれの友人の嫁さんの弟だった。ここで働いていたのかと少し驚いた。社長は五十も半ばの精力的な感じのする男性だった。おれは応接室に通されて、いろいろと話を聞いた。
「今は宅配が主なんだ」と社長が言う。
「大口のスーパーなどにはメーカーが直接卸すようになったからね。ある時期から宅配に重きを置くように方針を変えたんだ」
「一日何軒くらい配るんですか?」
「コースによるけど、だいたい午前中に250軒くらいだな。午後はそれより少ないが。歩合制でやってる女性などは、一度に400軒ほど配るよ」
「歩合制ってことは、正社員ではないということですか?」
「そう。うちは歩合契約でやってる人も多いよ。一日置きに週三日働いている。勤務時間も、朝だけとか午後のみとか色々だねえ」
「そうなんですか。ところで」とおれは一番訊きたかったことを口にする。
「いま空いてるコースはないのですか?」
「一応埋まってるけど、1コース空くかもしれないな」
「ほんとですか?」
「ちょっと問題があってね。その人と話し合う必要はあるが」
「もし、そのコースが空けば、お願いできますか?」
 ここぞとばかりに、おれは自分を売り込んだ。
「まあしかし、どうなるかわからんな」
 社長は眼鏡を外して、ポケットから出したハンカチで拭った。
 おれは、あることを思いついて提案してみた。
「よければ、いちど見学させてもらえませんか?」
「見学?」
「ええ。配達の車に同乗させてもらえたら」
「いいけど、仕事は朝早いぞ。みんな六時にはここを出ている」
「かまいません」
「そうか。じゃあ、明日来てくれ」
「何時頃ですか?」
「まあ六時前かな」
「わかりました。よろしくお願いします」とおれは軽く頭を下げた。
 翌日の早朝、おれは軽トラックの助手席にいた。荷台部分に保冷コンテナが取り付けられており、中には瓶入りや紙パックの牛乳、ヨーグルトなどの乳製品が満載だった。運転しているのは実直そうな青年だった。制服らしい半袖シャツと作業ズボンに、スニーカーを履いている。
 靴はスニーカーでないと、この仕事は務まらないことが程無くわかった。つまり小走りで一軒一軒、牛乳受けに配達して回るのである。運転、停車、小走り、発車という動作が延々と続いていく。なかなか大変な仕事だ。
「よく覚えてますね」とおれは感心する。
 彼は各家に届ける品名と本数を完全に記憶していた。しかも曜日によって変化があるという。いったい何週間、いや何か月したら覚えられるのだろうか。
「慣れですよ」
 彼はさらりと言った。
 雪の朝には難儀したらしい。車が坂を登らないから、数軒分を歩いて配ったこともあるとのこと。おれの脳裏に、決して軽くはない乳製品の入った箱を抱えながら、振りしきる雪の坂道を歩いていく彼の姿が一瞬浮かんで消えた。
 この日は、朝六時から十一時半頃までノンストップで配達を続け、計230軒近くを回った。
「今日は、どういうわけか道が空いてましたね。混んでるときは、もう二時間くらいかかるときがありますよ」
 午前中の配達を終えて会社に戻る道すがら、彼はそう言って人のいい笑顔を見せた。おれは彼に、急なお願いで迷惑をかけたことを詫び、礼を言った。確かに楽な仕事ではなかったが、もし採用されればやってみようと決心した。従業員の人柄もよく、社内の雰囲気が明るいのも気に入った。
 ところが、数日後に出張から戻ったばかりの社長とコンタクトが取れたときに、いい話にならなかったことを知った。
「確約はできないから、一応他も当たってみた方がいい」
「それはそうしますが、例のコースの他に空きそうなコースはないということですか?」
「そういうことだ」
「おおよそいつ頃わかりますか?」
「まあ、月末か月初めになるだろうね」
「そうですか。わかりました。いろいろとありがとうございました」
 おれは、また新たな仕事を探さねばと思いながら電話を切った。そして、それ以来その会社からの連絡はなかったし、おれもしなかった。こうして、おれの牛乳配達姿が実現することはなかったのである。
 ぼんやりと見つめていた求人情報の山から目を離したと同時に、携帯電話のベルが鳴った。ユリからだった。
「さっきはすまん、電話くれたのに。シャワー浴びてて」
 開口一番おれは詫びた。
「こちらこそ。ちょっと長電話してたから。それより昼間の続きだけど」
「昼間の?」
「朱美のことよ」
「ああ」
「朱美ね、いま中東にいるの」
「中東?」
 おれは思わず素頓狂な声を出した。
「あるNGOのスタッフとして働いてるわ」
「どうなってるんだ」
「話せば長いことながらってやつだけど、彼女があんなハードな仕事してたのは渡航費用を作るためだったの。彼女、気になる人がいたのよ。その人がそのNGOで働いてて、彼女も応募したの。でも欠員がなくて、しかたなく自費で行こうと決めたらしいのよ」
「その、気になる人って」
「あ、立木さん、やっぱ」
 ユリは、ふふっと笑いながら言った。
「そんなんじゃねえよ。おれはユリ一筋じゃないの」
「またまた」
「マジに言ってるのに、本気にしないんだから」
「うふふ」
「笑い事じゃないよ、まったく」
 それは本当にそうだった。ユリに初めて会ったとき、残りの人生を一緒に生きていける人なんじゃないかと思った。
 出会ったのは、あるパスタハウスのクリスマスパーティにバンドで出演したときだった。その店はボーカルの鈴子が家族と営んでいた。ユリは隣の市に住んでいたが、共通の友人を介して鈴子と知り合ったらしい。この日、鈴子の歌を聴きに駆けつけたということだった。
「でね」とユリは話を続ける。
「目標額達成まであと少しってとこで欠員が出たんだって」
「てことは、NGOのスタッフに採用されたってわけか」
「そうそう」
「ふーん、そこまでして会いたかったのか。あ、いや、彼女に興味があるというよりも、その情熱にさ」
「ふふ」
「だから、そうじゃなくて」
「でも朱美にとっては幸運だったと思うよ」
「幸運?」
「うん。詳しくは言えないけど、いろいろ辛いことが重なって自暴自棄になってたのよ、それまで」
「そうなんか」
 おれは瞬時にいろんな想像をした。
「で、ある日その人をテレビで見かけたんだって、海外ドキュメンタリーかなんかで」
「一目惚れってわけか」
「まあ、そんな感じだと思う」
「そんなことってあるのか?」
「あるよ、現に朱美が」
「けど、普通、中東くんだりまで会いに行くか?」
「まあね。でも、それだけ追いつめられてたのよ。なにか突破口が欲しかったんだと思う。きっと人には情熱を向ける対象が必要なのよ。それがあって初めて生きる力が湧いてくるのだわ」
 ユリの言うことにも一理あると、おれは思った。おれの場合、対象はユリということになるのだろうかと自分に訊いてみる。そのとき受話器から流れたユリの声の残響が、おれに答えをくれた。少なくとも現時点において、ユリの情熱の対象は彼女自身に違いない。たぶん今、ユリは特定の異性を必要としてはいない。
「なるほどね。それで彼女は無事彼と会えたのか?」
「うん、会えたみたい」
「そりゃよかった。しかしユリは彼女とかなり親しかったんだな」
「ん?」
「だって過去のいろんな話も知ってるようだし」
「馬が合ったのよ」
「確か、なんとかというので知り合ったんだよな。ほら、おれにも勧めてくれた」
「ミトラネットよ」
「そうそう。それって同好会みたいなもんだっけ?」
 電話の向こうでユリが笑い声を上げた。
「同好会って、その言い方、まるでおじさんみたい」
「立派なおじさんだよ」
「そうか」
「おい、納得するなよ」
 ユリは、さらに笑う。
「同好会というより、友達と交流したり、新しく作ったりするためのネットワークシステムよ。立木さんも始めたらいいのに」
「うん、まあ、そのうちに」
 おれは、前に勧められたときのことを思い出した。日記を書いて公開するらしく、そんなめんどくさいことなどできそうもなかった。ユリも時々は書いているとかで、読んでみたい気もしたが。それはともかく、ユリと朱美はそのミトラネットで知り合って親しくなり、朱美がユリのところに遊びにきたときに、おれにも紹介してくれたのだった。
「そりゃそうと、求職活動の成果を聞かせてくれよ」
 おれは話題を変えた。一番訊きたかったことだった。
「苦戦してるわ」
 ユリの声のトーンが下がった。
「そうか。こないだ言ってた市のイベントの話はどうなったの?」
「結局、東京の業者に頼むことになったらしく、やんわり断られたよ」
「なんで地元の者を使わないんだろ」
「都会のが価値があるんじゃない?」
「な、アホな。問題は中身だろう。それにユリだって東京で活躍してたわけだし」
「実際に向こうで活動してなきゃ駄目みたいよ。それに、わたしみたいなフリーランスじゃ、信用してもらえないわ」
 おれは、どう言葉を返してよいかわからなかった。しばしの沈黙があった。ユリが気を取り直したように言った。
「めげずに営業やるわ。ここでがんばるしかないしねー」
 おれは、ちょっとほっとした。
「しっかりな。応援してるから」
「うん、ありがと。あっ、立木さんごめん。鈴子から電話入ったから」
「わかった。そうだ、明日か明後日そっち方面に仕事探しに行くから、帰りがけに電話するよ」
「OK。じゃあね」
「ああ」
 電話が切られ、おれはまた一人になった。
 おれは椅子から立ち上がって台所に行き、琺瑯のポットに水を入れてガスにかけた。湯が沸くまでの間、コーヒー豆を手動ミルで挽きながらユリのことを想った。
 東京の美大を出た彼女は有名どころのデザイン事務所に入り、なかなかの才能を発揮していたようだ。五年ほど勤めたときに父親が急逝し、そのために母親が精神的に不安定になった。元々母親思いの彼女は放っておけなくなり、思い切って故郷に生活の基盤を移すことにした。
 これらのことはユリと知り合ってからの会話を通じて、少しずつ明らかになったことだった。
 フリーランスとして活動を始めたユリだったが、人口の少ない地方は産業の規模も小さく、したがってデザイナーとして糧を得る機会に乏しかった。デザインといってもポスター制作やチラシなどのグラフィックデザインが主だった。
 地方ではまだまだデザイナーにデザインをまかせるという発想が浸透しておらず、たとえばポスター一つ作る場合でも、印刷会社にまかせっきりということが普通だった。もう少しデザインという概念が一般的になったら、印刷会社お抱えのデザイナーというポジションをゲットできるかもしれないけどね、とユリが言ったのを思い出す。
 一大決心をして戻った故郷には自分の力を発揮できる環境がなかったので、ユリは東京時代に知り合ったクライアントから仕事を回してもらうこともあった。それでも、地元出身ということもあり、友人知人を通じて少しずつ仕事が入り始めたが、それだけで食べていくには少々無理があったので、とりあえず何かの職に就くことにしたのだった。
 しかし残念ながらユリも苦戦中とのことで、おれは自分の状況に加えて、好きな女の幸運をも祈る毎日というわけだ。
 豆を挽き終えてドリッパーでコーヒーを淹れ、おれはカップを持って部屋に戻った。ソファに座ってコーヒーを飲みながら、水野に連絡しなきゃなと考えていた。ユリに電話で言ったとおり、明日から新たな求職活動を行うつもりだった。
 二か月ほど前、銀行員である音楽仲間の水野が県東部に戻るのに同行したことがあった。彼は単身赴任をしており、週末には家族の待つ県西部のこの町に帰っていた。
 同行の折りに、おれはローカルテレビ局の番組制作部門の企画制作部長と知り合った。水野は仕事がら顔が広く、挨拶がてらテレビ局に立ち寄ったのである。もしかしたら仕事があるかもしれないと気をきかせてくれたのかもしれない。口八丁手八丁な調子のいい奴だが、おれの求職活動を応援してくれていた。
 部長はおれと少し話したあと、君が気に入ったよ、と言った。そして、ちょうど県西部に文化活動のコーディネイターが欲しいと思ってたところだ、もしかしたらお願いするかもしれない、と付け加えた。しかし具体的な話になったわけではない。
 テレビ局を出たあと水野は、期待していいんじゃないか? 部長は県の文化振興事業の顧問をしているから、予算が付いたら県の臨時職員になれるかもしれんぞ、と言った。
 悪い話であるはずもなく、おれはそれから二か月近く待ってみた。もちろんハローワークには顔を出していたが、これといった求人もなかったので、部長の話への期待がどんどん膨らんでいった。だが、部長からは何の連絡もなかった。水野にも一、二度訊いてみたが、ちゃんと考えてくれてると思うから、もう少し待ってあげてくれという返事だった。
 けど、あまりいつまでもブラブラしているわけにもいかず、ついに求職活動を再開したのがここ数日だった。
 コーヒーを飲み終えたあと、おれは携帯電話をとって水野に電話をした。留守電が応答したのでいったん切り、メールに切り替えた。いちど会いたい旨を部長に伝えて会見をセッティングしてほしい、と書いて送信した。明日にも返事があるだろうと思った。
 開け放した窓の網戸から風が入ってきた。クーラーは好きでないので、なるべく自然の涼をとるようにしている。しかし今年は猛暑になるらしいから、熱帯夜をクーラーなしで過ごすのは無理だろう。いろんな意味で熱い夏になりそうだ。そんなことを思いながら、おれは眠りについた。

 翌日の昼前に予想通り水野から電話がかかってきた。相変わらずの、でかい声だ。おまけにせっかちに話すので、つられておれの心拍数が二割増しになる。
「さっき連絡が取れて、会うそうだ」
「そうか。いつ?」
「今夜だが、来れるか?」
「何時だ?」
「七時半にJR駅前の根本って和食屋で」
「これから出ても間に合うな。おまえも同席してくれるんだろ?」
「それが今夜はおれも約束があってな。すまんが一人で行ってくれ」
 水野は感情豊かに、すまなさがる。その情に厚い感じが、幅広い人脈を構築している一因になっているのは間違いない。
「わかったよ」
「部長だけでなく、もう一人同席するらしい」
「へえ、誰かな」
「映像制作会社の経営者とか」
「おまえ知ってる人か?」
「名前は聞いたことがあるが、まだ会ったことはない」
「ふうん。同席って、その人は何のために来るんだい?」
「たぶん、おまえに頼む仕事に関係あるんじゃないかな」
「ならいいが」
 おれは電話を切ったあと、実家に連絡を入れ、息子をもう一晩預かってくれるよう頼んだ。そして急いで出かける用意をした。
 サマースーツにネクタイと洒落込もうかと思ったが、やめておいた。ふだん着慣れないものを身に付けると、心の自由度が損なわれる気がする。服装は生活スタイルや生き方と連動しているから、あるがままの自分をみてもらいたければ、いつものファッションの方がよい。もちろん、その場にふさわしい服装というものは当然あるだろうけど。着るものを普段着と余所行きに分けるよりも、どんな気持で何をするかによって決める方がピンとくる。そんなわけで、今日のおれの出で立ちはポロシャツにKENNETH COLEのパンツ、靴はラッセルモカシンにした。
 外にでると、晴れ渡った空の所々に薄い雲が浮かんでいるのが見えた。おれはサングラスをかけ、車を出した。県東部の県庁所在地へは、ノンストップで約三時間半の距離である。ときどき左手に海を望みながら二車線の国道を走っていった。
 臨時の県職員になれたら時々はこの道を通うことになるのだろうか、などと取らぬ狸の皮を数えながら、一方で、おれは安定が欲しいというよりも、ただ生活の糧を稼ぐ仕事が欲しいだけだよなぁと考えていた。
 安定を望むのが目的なら、以前の職を辞めはしなかった。一応公的機関の職員で、定年までの安定はほぼ保証されていた。よほどのことがない限り職を失うことはないはずだった。では、なぜ辞めたのか。これまで何人もの人たちに訊かれた際に、ようやくやりたいことが見つかったからだ、と答えてきた。けれども、その本当の理由に最近になっておれは気づいた気がする。
 それは不幸からの脱出だった。何を不幸と呼ぶかは人によって異なるだろう。それは相対的なものかもしれない。ただ、今わかっているのは、当時のおれは幸せではなかったということだ。そのことを思うとき、おれは昼休みに職場の屋上から近くの山や町並みを眺めている自分の姿を思い出す。そのときにはわからなかったことだが、今の自分より比較にならないほどの恵まれた境遇にいながら、おれの心は途方に暮れていた。そのことを思うとき、おれはいつも小さく泣きそうになる。
 海のそばに建つ道の駅にトイレ休憩に立ち寄ったあと、さらに小一時間走って目指す市内に入った。JRの駅近くにあるホテルにチェックインし、時間に余裕があったのでホテル内のカフェで本を読んで過ごした。
 街が夕暮れ色に染まってきた頃、おれは部屋に戻ってさっとシャワーを使ってから待ち合わせの店に向かった。
 駅の南口の近くにその店はあり、外観は特筆すべきものはなかったが、店内に入ると和な雰囲気に満ちた空間が迎えてくれた。部長の名を告げると、二階の予約席に通された。二人はまだ来ていなかった。
 テーブルの上には三人分の箸と箸置きがセットされていた。メニューを手にとって見ると、表には『諸国お勝手料理 根本』と書かれてあった。メニューをめくると、高知の鰻や北海道の鮭を使った料理、いくら丼などが載っていた。
 間もなく階段を上る足音がして、部長が顔を出した。後ろには中肉中背の男が続いている。
「お久しぶりです」とおれは立ち上がって挨拶した。
 部長は、その男を紹介した。
「山田です」と男は名刺を差し出した。
「立木です。よろしくお願いします。あいにく名刺を持ち合わせていませんので」
「いや、かまいません」
 山田はフランクに言うと、席に着いた。
「じゃあ、始めますか」
 先に着席していた部長は、そう言うと呼び鈴を押した。すぐに着物姿の女性が現れ、注文を取り始めた。
「先に飲物を伺いましょうか」
「どうします? まずはビールで乾杯といきますか」と部長が山田に訊く。
「そうですね。立木さんは?」
「私もビールで」
「生あるよね」と部長が女性に言った。
「ございます」
「それじゃあ、生三つ」
「かしこまりました」
「それと、料理も頼んじゃおうよ。あっさりコースという手も」
 部長は山田とおれを交互に見た。
「おまかせします」と山田が言い、おれも相槌を打った。
 女性が去って間もなく、若い男の従業員がビールを運んできた。おれたちはさっそく乾杯し、喉を鳴らしてビールを飲んだ。
「立木さんには先日初めて会ったんだけどね」と部長が山田に向かって言う。
「なぜだか気に入って。そのうち何か一緒に出来たらなあと思ってるんですが」
 山田は頷いたあと、ジョッキを傾けた。
「よろしくお願いします」
 おれは内心、きたきたとガッツポーズをした。
「あちらで活発に活動されてるとか」と山田。
「まあ、ぼつぼつやってます」
「どんな方面ですか?」
「市民グループに入ってまして、コンサートや美術展、それに地芝居などをやってきました」
 今はグループを離れていたが、活動をしてきたのは事実だった。
「そうですか」
 山田はふたたび頷いた後、ビールを飲み干した。
 そのとき、お待たせいたしましたという声と共に料理が運ばれ、おれたちは食べ始めた。
 おれの話題になったのを幸いに、一気に仕事の話をまとめたいと意気込んだのはいいが、そのあと部長は山田相手に映像制作の話を始めた。おれは食べながら彼らの話を聞いていた。部長は饒舌に話し、山田も負けず劣らず活発に持論を展開した。
 コースの料理が次々と運ばれて来た。それは、諸国お勝手料理という看板通りに工夫を凝らしてあり、味の方もなかなかのものだった。
 それはいいとして、肝心の話から話題がずれたままで、一向に元に戻らない。なんかおかしいなとは思いつつ、わざわざ会おうと言ってくれたわけだし、この話が終ったら仕事の件に移るだろうと期待して待っていた。
 しかしコースは終盤に差し掛かったようで、お茶漬けが出ますが何になさいます? 鮭と海苔と梅がございますが、と先程の女性が訊いてきた。
 その瞬間、そのうち何か一緒に出来たらなあと思ってるんですが、という部長の言葉を思い出した。そして、さすがのおれも気が付いた。部長には、おれに仕事を紹介する気などない。今日の会食は、もともと山田とするつもりだったのだろう。たぶん水野から言われて、仕方なくおれを同席させたに違いない。
 そんなおれの判断が間違ってなかったことが、間もなく証明された。食事を終えて席を立ち、レジ前に並んだとき、部長は言った。
「割り勘にしましょう」
 おれは唖然とし、急に脱力感に襲われた。おれなら、おれが部長の立場なら、期待を持たせるような発言をし、先方からの申し出にせよ会見を承知し、油代と宿代を使わせ、そして何よりも自分を頼りにしていることがわかっている求職中の人間に食事代を払わせはしない。少なくとも、そう申し出るだろう。
 おれは他人の厚意を当然のごとくあてにするような男なのか? 自分の価値判断を他人に押しつけているエゴイストか? そう自分に訊いてみる。
 水野の顔が浮かんできた。調子のいいこと言いやがって、と罵ってすぐに、その言葉に乗せられたお調子者はこのおれだ、と自分を罵った。
 水野に悪気がないのはわかっている。奴なりにおれのことを思いやってくれたのだ。そして、部長にも悪気などないのかもしれない。ただ、他人にどんな思いをさせているかということに無頓着なだけかもしれない。
 おれは財布を手にしながら、自分の甘さを思い知っていた。

 明くる日は雨だった。空がおれの心情を汲んで泣いてくれたのかもしれない、などとロマンチックなことを思ったり思わなかったりしながら、おれはホテルを発って以前から知っている珈琲店に向かった。そこで朝食をとるつもりだった。
 焦げ茶色のトーンでまとめられた店内は、落ち着ける感じで好みだった。おれはオリジナルブレンドの珈琲とホットサンドを注文した。木枠の窓ガラスの向こうに見える植え込みの葉っぱが雨滴を受けて光っている。雨もたまにはいいもんだ。珈琲とサンドがきた。ちょっと深煎りの香り高い珈琲をすすりながら、おれは今後のことを考えた。
 もうツテに頼るのは止めよう。やはりハローワークで地道に探すしかないか。そうはいっても、求人の絶対数が少ないしなぁ。こうなりゃ、都会に出稼ぎに行くことも選択肢の中に入れるべきかもしれない。しかし、それはなかなかに難しい。なぜって、おれには息子がいるし、それにユリだっているじゃないか。まだステディな間柄じゃないが、好きな女に会えなくなるのは辛い。今だって、たまにしか会えないけどな。そうだ、帰りに顔が見れるかどうか連絡してみるか。
 おれは携帯電話を取り出すと、メールを書いて送信した。しばらくして、おれがサンドを食べ終った頃に返事があった。求職活動楽しんでる? と書いてあった。あいつらしい言い方だと思いながら、楽し過ぎて泣きそうだ、と書いて送信すると、二時頃なら時間取れるから風花亭で会おうよ、とレスがあった。ゆっくり走っても待ち合わせ時間までには余裕があった。おれは持参した文庫本を読んだりして、のんびりしたあと店を出た。
 海岸に沿った雨の国道は、濃い灰色の空の下を西に伸びていた。カーオーディオでCDを聴き始めたものの、何だか気が乗らなくて消してしまった。黙々とハンドルを握っていると、聞こえてくるのはフロントガラスを掃うワイパーの音、エンジンの音、そして路面の水を切って進むタイヤの音。それらの単調なノイズもやがて耳につかなくなり、心の声が立ち上がってきた。
 おまえはそこで何をしているのか、と声は訊く。仕事を探しているんだよ、とおれは答える。
(何の仕事をしたいのか)
(何でもいいんだよ)
(何でもいいのか?)
(仕事があるだけで有難いご時勢なんだ)
(おまえは、その何でもいい仕事をして満足なのか?)
(いや、そんなことはない)
(では、満足できる仕事をすればよい)
(そういう仕事を一日も早くしたいから、こうして走り回ってるんだ)
(それが何であるか、おまえはわかっているのか?)
(ああ、わかってはいるけど、いつになったらその仕事に就けるのか見当もつかない)
(仕事は、しなくてはならんのか?)
(おれは資産家じゃないから、食うためには働かねば)
(資産家だったら働かないのか?)
(少なくとも時間の切り売りはしなくてすむ)
(では、ふんだんな時間を使っておまえは何をする)
(一生の仕事をするさ)
(その仕事は、充分な時間があればできるものなのか?)
(いや、そうとは限らない)
(ならば、あと何が必要だと思うのか)
(経験と洞察だよ)
(ほぉ)
(世の中でする様々な経験と、人生に対する洞察だ)
(それはいったいどうやったら身に付くのかね?)
 自問自答とはいえ、おれは答えに詰まってしまった。どうしたら身に付くのか。それからユリの住む町に近づくまでの二時間あまり、おれはずっと考えていた。
 おれは自分の人生の本流に乗っているだろうか? もしそうなら、何があってもこのまま進めばいい。本流に乗るとは、たぶん自分の運命を生きるということだろう。しまいには、そんなことまで頭の中で渦巻き始めた。おいおい、それよりもまずは当面の仕事を探すことだろう、ともう一人のおれが言った。その途端に現実が四方八方から押し寄せてきて、おれは押し潰されないように必死で耐えねばならなかった。
 待ち合わせのカフェに着くと、店の前にユリの車がとまっていた。ブルーのフィアットパンダで、エクステリアはフェンダーアーチ以外は直線というデザインだ。無骨というよりも独特のキュートさがあり、ユリによく似合っていた。
 その横に駐車して店内に入ると、窓際の席で本を手にしたユリが顔を上げた。そして、みせた笑顔が暗い雨の午後を明るく照らした。
「元気そうじゃないか」
 おれは言いながら向かいの席に座った。
「まあまあよ。立木さんは?」
「おれ? おれは最高な気分」
「そう? 最高にはほど遠いって顔に書いてあるけど」
「いや、ユリに会えたからな」
「わたしに会うとサイコーなの?」
「そりゃ、そうさ」
「じゃあ、もっと元気だしなさい」
 ユリは文庫本をテーブルの上に置くと、メニューを取っておれに差し出した。前回会ったときには肩のあたりまであった髪が短くなっていた。
「食事する?」
「ああ、腹ぺこだよ」
「わたしも」
「食ってなかったんか」
「だって一緒に食べようと思って」
「そうか、わるいな」
 ユリのそんな気持が嬉しくて、ちょっとウルウルする。ここんとこツイてないから、たまにはいいこともなきゃやっとれん。おれはメニューを見るまでもなくカレーセットを注文した。ここの売りの一つで、辛く旨い。食後に付くコーヒーに合わせて自家製ケーキも注文した。ユリも同じものを頼んだ。
 この店は国道から少し引っ込んだ場所にあり、広い庭に面して建っていた。内部はカフェとギャラリーになっていて、絵画や焼物や織物や写真など常時なんらかの展示を行っている。建物の外観だけでなく、内部もシックな装いで素晴らしい。おれたちのお気に入りのカフェだ。時間があるときにここに来て、旨いコーヒーを飲みながら、窓から見える庭の緑や空の青をぼけっと眺めるのが好きだ。適度なボリュームでクラシックや民族音楽などが店内に流れているのもいい。
「ところで、苦戦してるんだって?」
 食事しながら、おれは話を切り出す。
「うん。ほんと今は仕事ないよー」
「知ってるよ。男もないが、女もそうなの? 事務とかありそうな気がするが」
「ないない。だってさ、事務員増員できる会社なんて今時ないし、いま事務やってる人はなかなか辞めないし」
「そうか。じゃあ朱美ちゃんみたいに路上の華になるか」
 おれは冗談のつもりだったが、ユリは真面目な顔で答えた。
「わたし、一応それも調べたの。でも、それさえも無いの。いま公共事業減ってるらしくて、道路工事も閑古鳥が鳴いてるんだって」
「なんて時代だ」
 おれは、げんなりしながら言った。
「しかし、もしその仕事があったとしても、やるわけにいかんだろ?」
「なんで?」
 ちょっと小首を傾げて疑問文を口にするユリは、とてもチャーミングだ。
「だって、お母さんが知ったら心配するだろ? 危険だし、日に焼けて埃にまみれるし、嫁入り前の娘がやることじゃないって」
 ユリは少しの間考えてから言った。
「そうねえ。そうかも。狭い世間だからなあ」
「知らない土地でやるならまだしもな」
「うん。それに、わたし朱美ちゃんみたいな明確な目的と情熱がないから、きっと務まらないと思う」
「ユリの目的って、夢と言い換えてもいいが、デザインで一旗揚げるってことじゃないの?」
「うーん、デザインは好きだし、そこそこの才能はあると思うけど、それを使って何をしたいのかが見えてこないの」
 ユリは目を伏せてテーブルを見た。カレーはまだ半分しか減っていなかった。おれに向かって元気を出せと言うユリ自身が、そのことばを必要としているように、おれには思えた。
「気持はわかるよ。おれも似たような思いでずっと生きてたからさ」
「そうなの?」
「そうだよ。だから言えるんだが、諦めないで探してたら必ず見つかる」
「いつか?」
「そう、いつかさ」
「駄目よ」とユリは少し大きな声を出した。
「え?」
「いつかは永遠に来ないわ。私がオバさんになっても」
 私がオバさんに、というフレーズを、ユリは小さな声で歌った。こういうところが彼女のユニークさであり、おれはそんなユリが好きだった。
「あー、でも、わたしいつまでこの町にいるんだろう」
「いたくないのか?」
「だって、母のことがなかったら帰ってないもん。あのまま東京にいたよ」
「そうか」
 おれは急に寂しさと孤独を感じた。おれという存在はユリにとって、ここに留まる理由にはならないんだと思った。
「どうしたの?」とユリはおれの顔を覗き込んだ。
「いや、何でもない。それより聞いてくれよ」
 おれは昨日の部長事件について、面白可笑しく話した。ユリは笑いながら聞いていたが、おれが話し終えると諭すように言った。
「立木さんは人を信じ過ぎるのよ。世の中いい人ばかりじゃないよ」
「そうかな」
「そうよ。もっとその人の本質を見抜ける目が必要だと思う」
「耳が痛いな」
「そういうわたしも、そんな目なんて持ってないけどさ」
 ユリはスプーンで掬ったカレーを口に運ぶ途中で、ふっと動きを止めて言い添えた。
「でも、立木さんのことは解ってるつもりよ。あなたはいい人だわ」
「いい人か」
 その言葉は嬉しいような残念なような複雑な思いになるぜ、とおれは胸の内で呟いた。だいたい、いい人という感想が最初に来る男女関係はセクシーじゃない、という偏見がおれにはある。できれば、セクシーでワルっぽいが意外にいい人というのが望ましい。
「いい人はいいね」
「ユリはダンサーか」
「どういうこと?」
「小説の会話に、そんなのがあったな」
「あ、わかった、伊豆の踊り子だ」
「大当たり」
「では景品をください」とユリは片手を差し出した。
「では拙者のキスをば」
 おれはユリの手を取って引き寄せ、唇を付けようとした。
「だめよ、くすぐったいわ」
 おれは、ユリの手がおれの手を離れスローモーションで遠ざかっていくのを見ていた。これが俺たちの縁なのだろうか?
「母上どんな感じ?」とおれは気を取り直して訊いた。
「だいぶ元気になったわ。でも、まだまだ生きる意欲みたいなものが希薄ね」
「生きる意欲か。ふつう連合いに先立たれて抜け殻になるのは男の方だと決まっているんだけどな」
「母は父にぞっこんだったからね」
「なんだか羨ましい気がするよ。そんなに愛することのできる相手に、この世で会えるなんて」
「そうね」
 ユリは、その瞳に吸い込まれて、その中で微睡みたくなるような目でおれを見た。だが、その目が見ているのはおれじゃなく、おれを通り越した他の誰かのような気がした。残念なことに、彼女のまなざしに手応えを感じられない。
「でも、いいかげんにしてほしいと思うことも多いんだ。いつまでも覇気のない態度を取られると、わたしだって自分を犠牲にして帰ってきたんだからって、つい思っちゃう」
「犠牲なの?」
「その言葉はふさわしくないかもだけど、正確に言えば、もちろん自分が納得したいからそうしたわけだけど、でもやっぱり、わたしが諦めたものも多いわ」
「そうか」
 頷きながらおれは、親と子の問題ってのは親子の数だけありながら、その本質は案外同じだよな、と考えていた。
 そのとき、カフェのママがコーヒーとケーキを運んできた。
「立木さん、久しぶりね。どうしてたの?」
 ママはテーブルの上にカップとケーキ皿を並べながら言った。
「ここんとこ職探しでバタバタしてました」
「あらそう、いいの見つかった?」
「いえ、苦戦してます」
「わたしも苦戦中」とユリ。
「お二人さん、気が合うじゃない」
 ママはアハハと快活に笑った。
「こんなんで気が合っても」とおれは情けない声を出した。
「いっそチーム組んだら?」
「チーム?」
「立木さんは文章書くんでしょ? それでもってユリちゃんは絵を描くんでしょ? 二人で組んで絵本とかつくったら? 大人向けの絵本なんていいと思うけどなあ」
「絵本ですか」
 ママ独特の発想が、いつもながらに面白い。
「わたし絵というより、デザイン畑なんです」とユリが言った。
「あら、あなた絵もちゃんと描けるわよ。あたしの目に狂いはないわ。それに、美大で一通りのことは学んだんでしょ?」
「ええ、まあ」
 二人のやりとりを聞きながら、おれはママの言った言葉について考えていた。ユリとチームを組む。好きな女とのコラボレーション。書店の台の上に、おれたちの合作本が平積になっているシーンが脳裏に浮かんだ。それはもちろん夢のような話には違いなかった。しかし、夢は二種類あることに、おれは薄々気づいていた。それは、実現したところから何かが始まる夢と、実現した時点で何かが終る夢だった。
 それは、ある状態になることを願う夢と、ある関係性に到達することを願う夢と言い換えてもいいかもしれない。前者の主体は自分にあり、その状態が実現した時点で夢は叶ったことになるが、後者の主体は自分と他者であり、ある関係性になった時点で、そこからようやく始まる。
 夢は単体であるというよりも、複合的だ。明確に自分の夢に優先順位をつけるためには、自分の夢は何なのかをしっかり把握している必要がある。おれの中では、ユリとの合作絵本を出版することよりも、彼女と特別な関係になることの方がプライオリティーが高かった。その上でコラボ作品を生み出せれば言うことはない。おれにとって夢とは欲望の別名なのかもしれない。
「試しにやってみなさいよ」
 ママの声がおれに向けられていることに気づいて、慌てて返事をした。
「そうですね。がんばってみます。でも、その前に当面の仕事を見つけなきゃ」
「そうかあ。ねえ立木さん、どんな仕事探しとるん?」
「まあ、主に体使うやつですね。商品のルート配送とかあるといいんだけど。時間早く経つから」
「ふうん。事務系は? あなたパソコンなら御手の物でしょ?」
「この辺りで男ができる事務仕事なんてないですよ。それに、男女雇用機会均等法とやらで、一応男性にも応募の権利はあるけど、実際に求められているのはほとんど女性なんだから。求人側も職安の連中も表だって男は駄目だといいやしないけど、おれも最初そのあたりの事情に疎かったから、ずいぶん無駄足踏みましたよ。こちらは正確な情報を教えてもらった方が助かるのに。まったく建前ばかり言いやがって」
 おれはママと話しながら、無駄足のことを思い出して、だんだんと腹が立ってきた。曖昧であることの良さも理解しているつもりだが、それがどんなに自分にとって厳しかろうと、おれは事実を知る方がいい。
「あ、いらっしゃいませ」
 入口のドアが開き、三人の中年女性が入ってきたのを見て、ママが言った。
「じゃ、ゆっくりしてってね」
 ママは急いでおれたちのテーブルから皿をトレイに乗せると、キッチンに入っていった。入れ違いに、この店を手伝っているママと同年輩くらいの女性が出てきた。交代で食事をとったのだろう。
「さっきの話だけど」とユリが言った。
「どの話?」
「ほら、ママさんが言ってた絵本の話」
「ああ」
「楽しそうね」
「うん」
「立木さん、お話作ってみる?」
「おれ、フィクションはまだ書いたことないしなあ。絵本の文章って、文体や修辞なんかの出る幕はないよな。くっきりした物語がそこにあって、それで事足りてる。そんな強い物語性なんて、もうすでに出尽くしているような気がするけど」
「そうかもね。でも、立木さんが書けば、やはり立木さんを通じてしか現れない何かが姿を見せるんじゃない? 表現って、そういうことだとわたしは思う。大本は同じでも、先っぽは千差万別なのよ」
「大本ってなんだろ」
「わからないけど、愛だと思いたいわね。もしかしたらナッシングかもしれないけど」
「大本が無なら、おれたちや、この世はいったい何なんだい」
 この手の話を久々にすると思いながら、おれはユリを見ていた。
「わたしには、よーわからん。ねえ、そろそろ行かなくちゃ」
 ユリは白い小皿に乗ったショコラケーキの最後の一切れを口に入れた。おれも冷めかけたコーヒーを飲み干す。
「なあ、八月の末にまた鈴子の店でライブやるんだ。聴きにきてくれよ」
「何日?」
「たしか二十七日」
「そっか。でも、そのあたりから東京に行くんよ」
 途端におれの心がザワザワし始める。
「え、そうなの?」
 誰かに会いにか? という言葉をぐっと飲み込む。
「少し営業してこないと、こっち仕事ないし、乾上がっちゃうよ」
「そうか。そうだよな」
 ほっとすると同時に、おれの心はまるで急降下と急上昇を繰り返すジェットコスターのようだと思った。
「がんばってこいよ」
「うん、ありがと」
 ユリは、そこでとびきりの笑顔をくれた。
 おれたちはママにさよならを言ったあと店を出た。雨足は弱まっていたが、まだ止みそうもなかった。二人は各々の車まで小走りで戻り、運転席に滑り込んだ。
 シートベルトを着けてユリの車を見ると、雨に滲んだウィンドウガラスの向こうにユリの横顔が見えた。すぐにその顔はこちらを向き、ひらひらする片手が別れを告げた。おれも手を振って挨拶すると、残る思いを断ち切るように車を出した。おれの町まで四十分のドライブだ。これまでで最も長く感じる四十分になりそうだった。
 自宅に帰り着くとほぼ同時に、息子も学校から戻ってきた。二泊離れていただけなのに、ずいぶん顔を見ていないような気がした。
「おかえり。今夜は何にしようか」
 おれは子育てだけでなく、炊事、洗濯もやっている。
「パスタがいいな」
 彼は鞄を机の上に置くと、テレビをつけてゲームの用意を始めた。
「なにパスタだ?」
「ペペロンチーノ」
「わかった」
 キッチンで食材をチェックすると、いくつか無いものがあったので、買物に行くことにした。息子に声をかけて家を出る。
 市の中心部にあるショッピングセンターのフロアには、まだそんなに人がいなかった。夕方五時を過ぎると、仕事帰りに立ち寄る人で急に混んでくる。おれも勤め人だった頃は毎日ここに寄って買物をしていた。
 おれはメモを見ながら通路を歩く。太さ1.6ミリのブイトーニのスパゲティーニ。大蒜。ブロッコリー。レタス。トマト。シーチキン缶。とりあえずこんなところだ。食品のレジを済ませたあと、同じフロアにある酒屋で麦芽100%のビールを買った。
 帰宅すると、息子はまだテレビゲームをしていた。
「おい、適当なところで止めろよ」
「わかってるよ」
 いつもお馴染みのやりとりをしたあと、おれは缶ビールを飲みながら、夕食の支度にかかった。
 パスタを茹でる専用の鍋に水を入れて火にかける。これは鍋の内側に水切りの穴が空いた小さめの鍋が収まっていて、茹で上がったらそのまま引き出せばいいので便利だ。
 次に、まな板の上で大蒜を刻む。二口コンロの片側にフライパンを乗せ、胡麻油を適当に注ぐ。いつもはオリーブオイルを使うのだが、今日は変態パスタにするつもりだった。
 油が熱してくると、広口瓶の中に入れてある鷹の爪を片手で掴み出してプライパンに投げ入れる。本数にして十数本くらいだ。中身を出すと辛くなり過ぎるので、そのまま使う。そして刻んだ大蒜も入れる。しばらく弱火で煮出していると、唐辛子や大蒜のエキスが油に溶け込んでくる。その状態になったら、いったん火を止める。
 そうこうしているうちに湯が沸騰する。おれは塩を鍋に入れ、パスタを少し捻ってから垂直に湯中に落とす。こうするときれいに円形に広がる。株のままのブロッコリーも鍋に放り込む。麺の茹で時間は九分。その間にサラダをつくる。
 レタスを流水で洗いながら、手で適当な大きさに千切ってザルに入れる。まな板の上でトマトと、さっと茹でたブロッコリーを切る。そしてそれらを大皿に盛って、一部にシーチキンを乗せる。これは息子の好物だ。
 パスタが茹で上がると、内鍋ごと引き上げて湯切りをする。そのままフライパンにあける。ガスを点火し弱火にして、パスタとエキスを和える。隠し味として粉末コンソメ少々を混ぜる。和え終ると、平皿に盛って粉末パセリを振りかける。鷹の爪の深紅とパセリの緑がパスタを彩ってくれる。
「おーい、できたぞ」
 おれはワンフロアになっている部屋のテーブルにランチョマットを敷いて、その上にフォークとグラスを置いた。そして出来上がったパスタとサラダを運んだ。冷蔵庫から缶ビールも取り出す。
「飲むか?」
 ゲームを止めて席に着いた息子に、いつものように訊く。
「もちろん」
 おれは二つのグラスにビールを注いだ。
「じゃあ、いただこうか」
 おれたちはグラスを合わせて、食事にかかる。
「プハー、うめえ、やっぱパスタにはビールだな」
「おい、それが小学生の言うセリフか?」
「小さい頃から飲ませたのは、おやじじゃんかよ」
 ごもっともです。
「じーちゃんとばーちゃん、元気だったか?」
「超ゲンキやった」
「ほんまか」
「うん」
「そうか」
 おれの両親は少し離れた場所に暮らしていた。けっこうな年なので、いずれは一緒に住むことになるだろう。おれの離婚の際には心痛をかけてしまったが、近くに孫がいることは、きっと生きる張り合いになっていると思う。
 息子は長男で、離婚のときには次男と共に元妻が引き取ったが、小学校四年になると不登校になり、おれと暮らしたいと、こちらに戻ってきたのだった。次男も長い休みには遊びに来ていて、両方の家庭の交流は続いていた。
 食事を終え、洗い物をしたあと、コーヒーを淹れて飲みながら、明日からの戦略を練った。とりあえず、またハローワークに出かけて求人情報を探そう。そしてどうしても仕事が見つからない場合は、都会への出稼ぎについても検討してみようと思った。

 次の日は快晴になった。前日の雨を忘れそうになるほどの日射しが眩しかった。息子を学校に送りだしたあと、おれは家を出た。ハローワークが開く九時には間に合う時間だった。朝一番に乗り込めば何となくいいことが、あるとも思えなかったが、あると思うことにした。
 市内に向かう国道を走っていると、海の方角の空に入道雲が浮かんでいるのが見えた。夏の朝独特の生命力に富んだ光が大気中に満ちていた。
 ハローワークに着いたのは九時を少し回っていた。駐車場は、すでに八割方埋まっていた。おれはサングラスを外して助手席のシートに置き、四箇所の窓を少しずつ開けてからエンジンを切った。
 建物に入り、新着情報を掲示してあるボードの前に行った。すでに大勢の人が眺めていた。おれも彼らに混じってボードを見る。代り映えのしない内容だった。ちょっとよさそうなのがあっても、たいがい年齢制限で引っかかる。あるいは、明らかに女性の募集だと思われるものとか。
 しかし今朝、幸運の女神はおれに微笑むことを忘れなかった。求人票を順々に見ていくと、雇用促進対策特別事業という文字が目に飛び込んできた。それは森林組合からの求人で、海岸の防風林の整備をするというものだった。ただし四十日の期間限定だ。それでも仕事にありつけるのは有り難い。おれは、さっそく受付カウンターに行って相談を申し込んだ。
 ソファに座ってしばらく待っていると、名前を呼ばれた。今日の担当者は中年の女性だった。
「よろしくお願いします」
「どうぞ、おかけください」
 おれは椅子に座った。
「何かありましたか?」
「森林組合のをお願いしようかと」
「ああ、森林組合ね。特別事業ですから、期間限定ですよ」
「かまいません」
「じゃあ、連絡を取ってみましょう」
 彼女は電話をかけ、いつもお世話になっております、ハローワークでございます、と話し始めた。
 三日後の午後二時に、おれは森林組合の事務所にいた。町外れの川のほとりにある平屋の建物だった。待合室に使われている部屋に案内されて入ると、ざっと見て十四、五人がすでに来ていた。ほとんどの人は、このまますぐにでも現場に行けるような服装だった。年齢的にも、一人の青年を除いて、みんなおれより年上のようだった。
 間もなく一人ずつ名前が呼ばれ、面接室に入っていった。肉体労働のプロたちを差し置いて採用になるだろうかと、おれはいささか弱気になっていたが、まあなるようになるだろうと、すぐに持ち前の呑気さが戻ってきた。
 結局一時間近く待たされて、おれの番になった。面接室に入ると長机に二人の男が座っていた。おれは挨拶したあと履歴書を渡した。
「今回は応募をありがとうございます。私は所長の長沢です。こちらが課長の石川です」と年輩の方が隣のメガネの男を手で示しながら言った。
「よろしくお願いします」
「これまで、こういった仕事はされたことがありますか?」
 所長は課長と共に、おれの履歴書を見ながら訊いてきた。おれの前職が、およそ肉体労働とはかけ離れたものであることからの質問だろうと思った。
「森林関係は初めてですが、肉体労働ならかなりこなしてきました。京都時代には鳶職もやりましたし」
 おれは、けっしてヤワではないということをアピールすることが、この仕事にありつくために必要だと踏んで、食い下がった。
「そうですか」と所長は課長と顔を見合わせた。
「苅り払い機やチェーンソウは使われたことがありますか?」
 今度は課長が尋ねてきた。
「いえ」
「まあ今度の仕事は全員が使うこともないからね。事前に講習会もあるし。ただ機械は持ち込みになるんです」
「え?」
「あなたは苅り払い機かチェーンソウをお持ちですか?」
「いえ、持ってません」
「わかりました。二、三日中には文書で合否を通知できると思います」
 おれは挨拶をして部屋を出た。そしてその足で車まで戻り、市の中心部に向かった。海へと流れる川面に陽光が反射して煌めいているのが見える。なんとか無職状態から脱け出して、おれの懐もキラキラと輝やかせたいもんだと思いながら、眩しい夏の午後を走っていった。
 市の中心部に入ったところで、おれは鈴子の店に寄ってみようと思い立った。なんだか旨いコーヒーを飲みたい気分だった。店の近くにあるショッピングセンターの駐車場に車を置いて、おれは店内に入っていった。
「こんにちは」と鈴子が笑顔を見せた。
「よぉ」
 おれは片手を上げて、鈴子やカウンター内にいる彼女の兄のタカシに挨拶すると、カウンター席に座った。
「カプチーノを」
 水とメニューを運んできた鈴子に注文すると、携帯電話を開いて、簡単な近況をユリにメールした。
「おまたせしました」
 しばらくして鈴子が頼んだ品を持ってきた。
「夏は忙しいだろ?」
「はい。稼ぎ時ですから」
 長い髪を頭の上でお団子に結っている鈴子は、いつものように快活に答えた。
「日曜の夜はどんなかな。練習に出れそう?」
「少し遅れるかもですが」
「かまわないよ」
「じゃあ、できるだけ早く行きますね」
 バンド練習はベースの須山が経営する工場の二階の部屋で行っている。日中は従業員の休憩所として使っている広さ八畳ほどの部屋だった。
「立木さん、仕事決まりました?」とタカシが話しかけてきた。
「まだなんだ。今日一件面接してきたけど、どうなることやら」
「そうですか。うまくいくといいですね」
「うん」
 おれはカプチーノを飲みながら、タカシがまだ高校生だった頃のことを思い出していた。
 当時おれは県民会館の小ホールを使ってロックコンサートを主催していた。おれの地元にはどういうわけかアマチュアバンドの数が多く、成人と学生合わせて五十バンドくらいあった。タカシは高校生バンドの一員としてそのコンサートに参加してきた。パートはベースで、バンドの音はパンクに影響を受けたものだった。
 彼は高校を卒業したあと東京に行ったらしかったが、いつのまにか帰郷して家業のパスタ店を手伝い始めていた。
 妹の鈴子も同様に、おれ主催のコンサートに出てくれて知り合ったのだが、兄の辿ったコースをなぞるように一度東京に出て、再び帰郷してきた。
 おれが思うに、彼らはそれぞれの夢を抱いて都会に出ていったんじゃないだろうか。地方に育った者にとって、都会はまだまだときめきの対象だ。情報が均一化され、地方と都会の格差が少なくなったとはいえ、実際に暮らしてみなければわからない匂いと味がある。彼らは、その甘味でビターなものを皮膚レベルで味わったことだろう。
 そして、その目で故郷を眺めたとき、そこに新しい風景を見たのかもしれない。いや、これはおれの勝手な妄想で、実際にはさまざまな要因が彼らを故郷に向かわせたのだろうけど。
「八月末のライブ、楽しみにしてますよ」
 タカシの声が、おれを現実に引き戻した。
「あ、ああ。おれも楽しみだよ。今回はハーモニーに力を入れてるから、鈴ちゃんとのハモリに期待しててな」
「It’s So Easyやりますか?」
「やるよ。今回はサックスが入るし、いい感じでできると思う」
「そりゃ、ますます楽しみです」
 おれは、それからしばらくタカシと喋ったあと、鈴子に別れを言って店を出た。車に戻り、熱気をとるために窓を開けて、エンジンをかけた。そのときメールの着信音が鳴った。ユリからだった。森林組合決まるといいね、うまくいくようにおまじないしといたげる、と書いてあった。
 きっと、そのおまじないが効いたのだろう。三日後に採用の通知があった。

 平日だというのに、ホームセンターの中はけっこう混んでいた。おれは、明日から始まる森林組合の仕事に使う道具を買いに来ている。まず鉈鎌と、腰に装着するホルダー。それから手袋。次に長靴と雨合羽。それらを探してフロアを歩き回っているうちに、おれは少しずつ肉体労働者に変身していく自分を感じていた。
 仕事の現場は海岸にある防風林だから、知り合いに会うことはまずないだろう。以前の職場の連中に遭遇したとき、居心地の悪い思いをするのは先方かもしれない。意気揚揚と安定した職を蹴って東京にいるはずの男が、いったいそんな格好で何をしているのか? どんなリアクションをしていいか戸惑う気持がおれにはわかるから、なるべく顔を合わせたくはなかった。
 おれは、それから商品の並んだ棚をしばらく物色した。そして、購入予定の品で買物カゴが満杯になったので、レジで支払いを済ませ、ホームセンターを出た。駐車場に向けて歩いていると、途中にある植木コーナーの前で突然呼び止められた。
「立木さん」
 声の方を見ると、見覚えのある女性が近寄ってきた。図書館に花を活けるボランティア活動をしていた人だった。
「どうも。久しぶりですね」
 おれは軽く会釈した。
「どうしてるの?」
「まあ、何とか生き延びてますよ」
 そう、と言って彼女はおれの手を取った。
「絶対に成功してね。初心を貫いてね。応援しているから」
 おれは驚いて彼女の顔を見た。そんな言葉を聞けるとは思ってもみなかった。こちらの事情をわかった上で、同情や嘲笑でなく激励をくれたのだ。がんばりますと言い、彼女と握手を交わしながら、おれは危うく涙をこぼしそうになった。
 彼女にさよならを言って車に乗り込み、自宅に向かいながら、たぶんこのことは一生忘れないだろうと思った。思いがけなくもらった人の情が、自分でも無自覚だった心のひび割れた箇所を露わにしたような気がする。強気でいないと生き延びることはできないが、内面の弱さに気づき、それを認めることで、強気にしなやかさが加わるんじゃないかと、ふと思った。
 野球場やサッカー場のあるスポーツ公園の脇を通って、県東部に伸びる国道に合流する信号で待っていると、左折車線に軽トラックが止まった。運転席には頭にタオルを巻いた若い男が乗っており、荷台には工具箱らしきものが積んであった。きっと、どこかの建築現場から帰る途中なのだろう。肉体労働者が醸し出す独特の雰囲気が、明日からの自分を連想させ、全身に軽い緊張が走った。
 ここ十年ほどは事務系の仕事に就いており、肉体労働をするのは久々だった。それ以前の数年間は中規模の都会で鳶をしていた。その時分はまだ若く体力もあったが、今のおれに肉体労働をこなせるかどうかは、やってみなければわからなかった。
 やがて信号が青に変わって、おれは右折し、軽トラックは左折した。対向車線を走ってくる車のフロントガラスに西日が赤く反射している。仕事の初日は幸いにして晴れそうだった。どんな仕事と同僚が待っているのだろうと思うと同時に、おれは今夜の献立を何にするか考えていた。

 朝日に照らされながら、おれは指定された時間の八時少し前に海端の防風林に着いた。砂利道の路肩に駐車して車を出ると、向こうの方に男達が集っているのが見えた。おれは車のトランクを開け、鉈鎌を差したホルダーをベルトで腰に装着して、ヘルメットを被った。そして作業用の皮手袋を手に持って歩き始めた。道の左右は小高くなっており、両方に松林があった。右手の松林を抜けると海に出るはずだった。
 おれは男達に近づいて挨拶をした。先日の面接時に見覚えた顔もあった。彼らは一様に日に焼けた肌をしていて、ゆったりとした作業服を身に着けている。足元は、地下足袋がほとんどだ。おれは黒いレザーのバスケットシューズを履いてきた。彼らの中の数人は、傍らに苅り払い機を置いていた。自前のものを持参したのだろう。
 地面に腰を下ろしてしばらく待っていると、一台の軽トラックがやって来て、おれたちの前に停まった。すぐにエンジンが切られ、中から石川課長が降りてきた。彼は、おはようございますと挨拶したあと、今日からの作業について説明しますと言った。おれたちは立ち上がり、課長を中心に半円に並んだ。
「五日ほどかけて、切り倒してある松を所定の場所に集める作業をしてもらいます。所定の場所というのは、要するに適度な間隔をとって置くということですが。太い幹の部分と枝葉は別々にお願いします。作業エリアはこの道の陸側一帯です」
 課長は右手を上げて、指し示しながら言った。おれたちは課長の指先につられて視線を動かす。
「その作業が終り次第、ここから海寄りの防風林に道をつけてもらいます。海と平行に何本かの道をつけることになります。その際にチェーンソウと苅り払い機を使用しますが、持っていない人は、切り倒した木を片づける作業をしてください。鉈鎌は使うことになると思います。以上です。何か質問はありますか?」
「燃料は用意してもらえるんかね?」と背の高い男が訊いた。
「もちろんです。必要なときに持ってきますよ」
 課長は、かけている眼鏡の縁を右手で押し上げた。
 それ以上の質問が出ないことを確認して課長が去ったあと、おれたちはさっそく作業にかかった。松林は砂地にあり、松くい虫にやられたものが切り倒されていた。その倒木の枝を切り落とし、本体と枝とを別々の場所に置く作業だった。
 松の丸太はけっこうな嵩と重さがあるので、八人いたおれたちは二人一組になった。おれと組んだのは七十歳くらいの人で、横山という名だった。七福神の一人であるえべっさんみたいな福々しい顔をしている。
「にいちゃん、前側を持ってやんさい」
 えべっさんが丸太に手をかけて言った。
「はい」
 おれは丸太の端を抱え上げて前進した。ずっしりとした重みが、脚の緊張を促す。十メートルほど運んで、既に他の組が何本か置いた場所に横たえる。
「この丸太はどうするんです?」
 おれは、えべっさんに訊いてみた。
「製材所が引き取るちゅうとったな」
「へえ、使えるのかな」
「ええとこだけ取るんじゃろう」
 おれたちは次の木の処理に取りかかった。ベルトに付けたホルダーから鉈鎌を取り出し、利き腕の右手に持って、鉈鎌の重さを利用して枝に叩きつける。細い枝は一度で切れるが、太いのは数回角度を変えて切っていく。ほんとに久々の肉体労働なので、余分な筋肉にまで力が入ってしまう。明日もしくは数日後に痛みが出るかもしれない。
 二時間ほど作業したところで、休憩に入った。おれは車まで引き返して、水の入ったペットボトルを取ってきた。みんなは、木が疎らな開けた場所に腰を下ろしていた。ほとんどの者が煙草をくゆらせている。
 おれは一番若いと思われる男の隣に行って、地面に座った。三十代半ばに見える彼は岡田と名乗った。
「これまで何しとったん?」とおれは訊いてみた。
「土木関係の仕事ですよ」
「土木も厳しいからなあ。リストラ?」
「社長と喧嘩しちゃって」
「おやおや」
「短気は損気ってね」
 岡田は、そう言って苦笑いをした。
「この仕事が終ったら、また探さにゃな」
「そうなんすよね。お先真っ暗ですよ。もう若くないし」
「若くないって、そんならおれはどうなるの」
 おれの戯けた口調に岡田が笑い声を上げる。
「にいちゃんらーは、わしから見たら孫みたいなもんじゃ」と岡田の隣で煙草を吸っていたえべっさんが言った。
「そりゃまあ、そうじゃけど」と、おれ。
「生きとりゃあ、なんとかなる」
 えべっさんは、一瞬遠いまなざしになった。
 生きていれば、なんとかなって、えべっさんみたいな顔になれるのだろうか。そんなことを思いながら、おれは横山の顔を見ていた。
「俺は三十年以上長距離に乗っとったけえ、そら何度も危ない目におうたわ」
 少し離れた場所に座っている口髭を生やした男が、隣にいるデニムのベストを着た男に言った。
「事故をしたそ?」とデニムが訊く。
「それが事故はないんじゃ。違反は、よけえやったがのお」
 口髭は誇らしげに答えた。
 みんなそれぞれ、いろんな土地で働いてきたのだろうか。方言が会話に出てくる。各地で働き、歳を取って故郷に帰ってきたのかもしれない。年金をもらっている人もいるはずだが、こうして働きに出ているのは、その額では充分でないということか。もしそうなら、何のための年金だかわからない。
「こうして顔を合わせたのも何かの縁ですけえ、簡単な自己紹介をしましょういね。ちなみに、私は小谷といいます。美田町から来ました」
 突然の声に、みんなが一斉に声の主を見た。柔和な顔付きの六十前くらいの男だった。
「わしも同じく美田の笹本いいます」
 小谷の隣にいる小太りの男が、そう続けた。小谷と同年輩に見える。
「わしゃあ福原いうて、ここにいる笹本さんとは三島の発電所で一緒じゃった。住んどるんは市内じゃが」
 背が高く、がっちりとした体格の、五十代に思える男が言った。
 美田は、この市から車で二十分ほど川を遡った所にある町だ。そして、海沿いを二十分ちょっと行った三島町にあるのは、火力発電所だった。
 自己紹介は続き、口髭は伊藤、デニムは高橋という名だとわかった。おれと横山と岡田も各々が名乗った。
 そうこうするうちに休憩時間が終り、おれたちはまた作業に戻った。
 この自己紹介を境に、当初は互いに様子をみているふうだったおれたちも、しだいに馬が合う者同士が一緒に行動するようになった。かといって派閥ができたということではなく、全員が友好的な雰囲気の中にいた。
 やがて夕方になり、おれたちは仕事を終えて帰り支度をした。ふたたび石川課長が軽トラックでやってきて、作業の進み具合などを訊いたりした。
「事故もなく初日を終えることができて、なによりです。明日もまたよろしくお願いします。今日はこれで」と課長が言った。
 おれたちは別れを言い合って、それぞれの車に向かった。ただ一人、横山だけが二輪車通勤だった。彼は、ホンダ製のスーパーカブの荷台に取り付けられたコンテナボックスからヘルメットを取り出していた。
「雨の日は大変だね」
 立ち止まって、おれは言った。
「合羽があるけえ」
「でも、スリップしたりして危ないよ。横山さん、車の免許持っとらんの?」
「わしは昔からカブしか乗らんのんじゃ」
 喋りながらヘルメットを被った横山は、カブに跨ってエンジンをかけた。
「じゃ、また明日」
 おれは挨拶すると、自分の車まで戻った。ヘルメットや鉈鎌をトランクにしまうと、運転席でユリにメールを書いた。仕事初日の様子を知らせたいと思ったのだ。書き終えて送信したあと、おれは車を出した。いきなりの肉体労働で、体中の筋肉が痛み始めていた。ゆっくり風呂に浸かって揉みほぐそうと思いながら、河口の堤防上の道路を家に向かった。途中、ショッピングセンターに立ち寄って夕食の材料を買い、そのまま帰宅した。
 風呂から上がって、缶ビール片手にパソコンを立ち上げてメールをチェックすると、バンドのベーシストである須山からメールが来ていた。八月末に鈴子の店で行うライブの曲目をどうするのかという内容だった。週一の練習なので、あと四回ほどしかなかった。おれは、これまでのレパートリーに新曲を二つ加えたメニューを考えて返信した。
 そのあと手早く夕飯を作った。サッカークラブに入っている息子は、今日の練習がきつかったのか、おれが帰宅したときにはテレビをつけたまま転た寝をしていた。おれはタオルケットをかけてやり、風呂に入ったのだった。息子の好きな牛肉を焼き、ガラスのボウル一杯のサラダを作り、付け合わせの人参とジャガイモを電子レンジで茹でた。帰宅してすぐにセットしておいた飯が炊き上がったのを確認して、食卓を用意した。
 息子を起こして食事をし、少し腹休めさせたあと風呂に入るよう言った。そうして、早々にベッドに追いやった。肉体が疲れたときには、眠るのが一番だ。
 それからおれは豆を挽いてコーヒーを淹れた。カップを持って自分の部屋に入り、パソコンのiTunesを立ち上げてストリーミングラジオのradioio70sを聴きながら、ぼんやりとしていた。かつては大出力のオーディオ装置で音楽を聴いていたが、今ではアンプ内蔵の小型スピーカーとパソコンのヘッドフォンアウトをつないで聴いている。
 キング・クリムゾンの『ポセイドンの目覚め』がかかったところで、携帯電話が鳴った。ユリからだった。
「お仕事どう?」といつものハスキーな声が聞こえてきた。
「カネもらってトレーニングジムに通ってるみたいなもんだ」
「そうなの?」
「今日は大胸筋と上腕二頭筋と大腿筋を鍛えた」
「要するに、きついのね」
 ユリは笑いながら言った。
「うん」とおれも苦笑する。
「続きそう?」
「続けるさ。マジな話、この仕事にありつけただけでも御の字なんだ」
「そうね」
「そっちはどうだ」
「小さな印刷会社からの仕事で、スーパーの売り出しチラシのデザインやってるわ」
「なんか勿体無いよな」
「何が?」
「いやさ、ユリの才能はスーパーのチラシじゃ包みきれないなと思ってさ」
「同じよ」
「同じって?」
「この仕事が回ってきただけでも御の字だってことよ」
 ユリの言う通りだった。今は、どんな小さなチャンスでも確実に掴んで、こなして、次につなげるしかないのだった。
 電話を切ったあとで、おれはしばらくそのことについて考えていた。頭では解っていたことだが、ユリを通してそれが肉体化した気がした。就いたばかりの生活の糧を得るための仕事。それが本望でないとしても、その日々をしっかりと味わいながら生きようと思った。

 海辺の防風林での仕事が始まってから二週間が過ぎた。最初は筋肉痛に悩まされたが、日が経つにつれて徐々に体が慣れてきた。作業内容は、松くい虫にやられた松の撤去と整頓から、より海に近い防風林内での道の整備に移っていた。
 海岸と住宅地の間に広がる防風林は、ややいびつな長方形で、海に沿った長辺に平行に数本の道を付けることになっていた。付けた道は、防風林内のパトロールや、伐採した木を運搬するための通路になるとのことだ。
 チェーンソウと苅り払い機を扱う者が先頭を行き、鉈鎌を手にした片付け隊が後に続いた。小谷と岡田がチェーンソウを、福原と笹本が苅り払い機を担当し、伊藤と高橋、横山とおれが、先頭グループの切り倒した木や草の片付けを担当した。おれたちは、ときおり風に乗った潮の香が届く林の中で、黙々と作業を続けた。
 休憩時間になると、おれたちは枯れた松葉が敷き詰まっている地面に腰を下ろし、皆で談笑した。タバコの煙が辺りに漂い、近くの木立から鳥の鳴き声が聞こえた。おれは持参の保温水筒から冷たい水を飲んだ。
 そんなある日、笹本が欠勤した。風邪でも引いたのだろうと、みんな特に心配もしなかった。しかし、彼はそれから二日経っても顔を見せなかった。今日も来ないなあと言い合っていたおれたちは、四日目の朝に笹本と同郷の小谷に尋ねてみた。実際に口を開いたのは福原だったが。
「実は」と小谷は切り出した。
「笹本さんの息子さんが亡くなったのです」
 一斉に驚きの声が上がった。
「交通事故だそうです。私も知らなかったのですが、昨夜笹本さんから電話がありまして」
「まだ若かったろうにのお」と福原が言った。
「三十五だとか」
「そりゃ若すぎるそよ」と高橋も気の毒がる。
「一番の親不孝やの」
 伊藤は口髭をわずかに震わせて言った。
 おれも口には出さなかったが、笹本の胸中を想って心穏やかではいられなかった。それは、横山も岡田も同じだったろう。
 その日一日、おれたちは沈んだ気持で作業を続けた。短期間の付き合いとはいえ、仕事仲間の不幸であったし、同時に彼の不幸を我が身に置き換えて考えたせいもあったと思う。
 その日からさらに三日ほど、笹本は姿を現さなかった。森林組合からは、彼が抜けた穴を埋めるために今井という若い職員が応援に来ていた。笹本さんはもうこのまま辞めるのかもしれんのぉと福原が言い、みんなも同じ意見だった。
 だが、その翌日に笹本は仕事に復帰した。彼は泣き腫らしたような目をしており、どこか虚ろな表情だった。お悔やみを言う者もいたけど、おれはとても言葉をかける気にはなれなかった。
 本当は仕事になど出たくないのかもしれない。家に籠もって息子の思い出に浸りたいのかもしれない。それとも、彼は悲しみを紛らわすために、あえて仕事に出たのだろうか? あるいは、悲しみをおして仕事に出なければならない境遇なのだろうか?
 作業が始まり、みんなで林の中に入っていくときに、彼がぼくの前方を歩いていた。がっくりと肩をおとし、背中も力無く曲がっていた。息子を亡くしてからこっち、彼の過ごした時間を想うと、たまらない気持になった。
 休憩時間になったので、いつものように地面に座り込んで一服した。みんな笹本のことを意識していたが、それ故に普段のごとくふるまい、下ネタ話なども飛び出して、笑い声が上がった。つられて笑う笹本の顔を見ていると、人生の奥深さを感じた。
 残された者は否応無しに生き続けなければならない。彼の脳裏から息子の姿が消えることはないだろう。しかし、生きている限りどんどん年齢の差が開く関係性は、とても切ないことだ。
 やがて休憩が終り、おれたちは腰を上げた。おれは、ふと空を仰いだ。松林から透けて見える夏の空は、吸い込まれるような青色だった。おれにつられて笹本も空を見上げ、しばらくじっと眺めていた。おれには決して見えない色を見ているのだと思った。
 子供に先立たれるって、いったいどんな気持になるのだろうと想像してみたが、おれの貧困な想像力では、その悲しみを実感することはできなかった。きっと人には実際に体験しないと本当には解らないことが多々あるのだろう。
 おれは大きく息を吸い込むと、松葉の絨毯を踏みしめて、みんなの後に続いた。

 それから十日あまり経ち、防風林での仕事はついに最終日を迎えた。午前中に降っていた雨は午後になると上がり、先程から陽が照り始めた。雨雲は白く薄く変化していき、今や天空は青の領分となっていた。
 おれたちは、仕事の切りがついたので待機中だった。石川課長が到着し次第ミーティングを行い、そのあと解散する予定だった。
 おれを含めて八人の男たちが、松林の中の地面に座っていた。地表は松葉に覆われて、適度なクッションとなっていた。男たちはヘルメットを被り、合羽やアノラックを着込んで、腰には鉈鎌や鋸を付けている。そして足には長靴、首にはタオルが巻かれていた。
「いよいよ、今日でおしまいじゃ」と伊藤が大きな声で言った。
「あんた、どうしんさるかね?」
 横山が、えびす顔で伊藤に訊く。
「トラックに乗るんは、もうしんどいし、どうするかあ」
「職安に通うしかないそよ」と高橋も加わる。
「また、発電所の仕事がありゃあええが。のお、笹本さん」
 福原が笹本に言うと、彼は生返事をした。
「岡田くんは、どうするの?」と小谷が尋ねる。
「実は、森林組合に欠員が出るようなことも聞いてるんですが」
「そりゃ、ええ話じゃ。わしも応募するか」と伊藤が身を乗り出す。
「だめだよ伊藤さん。たぶん年齢制限があるよ。おれだって、あかんやろな」
 おれがそう言うと、伊藤は、歳だけは取りとうない、と大仰に嘆いてみんなを笑わせた。
 その笑い声に反するかのように、次の仕事に関する話題は決して明るいものではなかった。世の就職事情は依然として厳しいのが現状だったからだ。
 みんな、これからどう生きていくのだろう。おれにしても次の仕事のあてはなかった。不安でないといえば嘘になる。けれど、不安と闘うのではなく、不安な現実を受け入れてその向こう側に進むしかなかった。
 おれは、思い思いの姿勢で座っている七人の男たちを順繰りに眺めた。なかなかに個性的な人物が揃ったもんだと思った。わずか一か月のつきあいだったにせよ、明日からもう顔が見れないとなると、やはり一抹の寂しさはあった。
 しばらくみんなの顔を見たあと、おれは松の木に背をもたせかけて目を閉じた。心のおもむくままに防風林の向こうにある海に意識をやると、会話が遠のき、波の音が聞こえてきた。
 この海岸は河口の右岸に広がっており、適度な波が立つのか、週末にはサーファーたちが集まってきた。おれもこの海辺が好きで、以前からよく車でやってきては、海岸を歩いたり車内で本を読んだりしていた。特に前職を辞めてからこっちの不安定な時期には、ここに来て潮風に吹かれることが一種のセラピーになっていた。
 おれは今日までの日々を切れ切れに思い出し、我ながらよくやってきたよなあと、しみじみ思った。自己憐憫かもしれなかったが、たまには自分を誉めてやることも必要だと、そんなふうに思えたのは、もうすぐやってくる別れに触発された感傷だろうか。
 どれほどの時が流れたのか、ちらちらっと顔に陽光の温もりを感じ、ふと目を開けた。前方の重なるように生えている二本の松が風に振れている。その真向こうに太陽が位置しており、枝が揺れるたびに眩しい光が木々の間から射し込んでいた。
 拡散する光の粒子を見た瞬間に、おれは何故かユリの笑顔を思い浮かべた。歯並びのいい口元が、ほほえんでいた。
「ユリ」
 おれは思わず名前を呟いた。そして、ユリという存在はおれにとって光みたいなものなんだと今更のように気づいた。おれの心の闇を照らす光だ。おれもまた、あいつの闇を照らす光となれるだろうか。
 恋するってさあ、例えば神様が、世界中の誰をでも自分の恋人にできるって願いを叶えてあげると言ったとき、一点の迷いもなく選べる人がいるってことやと思うんよね。
 いつかユリが言った、そんな言葉が甦ってきて、ほほえましく思うと同時に、おれだったらユリを選ぶのかと自分に訊いてみる。そして、月を映す清明な水面のように一点の曇りもなくユリを選ぶ、と即答した。
 そうかあ、と思った。おれはユリに惚れているんだなあ。そんな女に出会えて、おれは果報者だ。明日からまた始まる求職活動において、彼女という存在がおれをサポートしてくれるに違いない。
 このときインスピレーションが来た。おれは近いうちに、まだ一行も書いていない小説を書き出すだろう。そして一つの曲を作り、今度のライブで歌うだろう。曲のタイトルは『求職ぶるぅす』だ。
 ふたたび目を閉じた瞼の奥まで太陽が光を届け、おれの視界は燃え上がる金色の炎で覆われた。