本多とカワサキのGG(爺爺)コンビによるロードストーリー

GG Rider_640
Illustration : Fu


 午前九時を待ちわびて、オープンと同時に郵便局内に入った。番号札をお取り下さいというアナウンスは無視して窓口に並んだ。今日はわしが一番乗りやし関係あらへん。本多は革ジャンの内ポケットから貯金通帳を取り出してチェックした。なんとかいけるわ、そうつぶやいた本多は、さっそく払い戻しの手続きを始めた。
 十時には彼のオートバイが納車されることになっていた。販売店にはもう届いており、整備の最終点検がなされているはずである。ヘルメットは特注で、本多のヘルメットには日本の国旗をデザインしたイラストが描かれている。相棒のカワサキのはキャプテン・アメリカと同じく星条旗だ。
 キャプテン・アメリカかあと本多は思った。ほんとはわしがキャプテン・アメリカのはずだったんや。けど、あいつがどうしてもピーター・フォンダと同じんがええと言い張るもんやから、しゃあないわ。考えてもみいな、フォンダと本多なら、わしの方がより適役に決まっとるやんか。

 本多とカワサキは幼なじみである。二十一のとき二人して映画に行き、公開されたばかりの『イージー・ライダー』を観た。1969年のことだった。
 1960年代後半から70年代にかけてアメリカン・ニューシネマというムーブメントがあり、反体制的な人間の心情を題材とした映画が数多く作られたのだが、『イージー・ライダー』もその中の一つだった。デニス・ホッパー、ジャック・ニコルソン、ピーター・フォンダという、後で思えば凄い面子で撮られた映画だった。二人にとって、この映画の印象は強烈で、まさに青春時代のシンボルだった。
 七十七歳になったある日、本多はカワサキに提案した。
「なあ、わしらもだいぶポンコツになってきたやん。お互い連れ合いに先立たれ、子供も自立し、孫も大きゅうなったことやし、このへんでカッコよう死んでみいへんか? ポックリ逝くんならまだしも、病院や介護施設で生きる屍になるんはまっぴらやけん」
「死んでみんかって、おまえ」
「ほれ、若い頃一緒に観た映画覚えとるやろ?」
「イージー・ライダーか?」
「そや。あの映画のラストのように華々しく散ろうやないけ」
「華々しいちゅうより、ありゃあ哀しかったけどな」とカワサキは遠い目をする。
「まあいいがな。どや」
「ええよ」
「さすが、わしの竹馬の友や」
 本多は嬉しそうにカワサキの肩を叩いた。
「で、どがぁして散るんじゃ?」
「ハーレー買うて、海沿いの道を西に向かうんや。心おきなく走ったと思う頃、そこにはわしらが雇った殺し屋がライフル構えて待っとる」
「殺し屋っておまえ、映画じゃあるまいし」
「きょうび金さえ積めば、あいつらの一人や二人何とでもならあ」
「自分で雇った殺し屋に人生の幕引いてもらうんかね」
「おうよ。これも一種の安楽死やん。昨今流行りのパッケージ化された安楽死産業の世話になるより増しじゃ」
「そういのぉ。そうかもしれんのぉ」とカワサキは深くうなずいた。

「本多さん」
 係の女性に名前を呼ばれた本多は窓口に行き、大枚を受け取った。殺し屋には、株券を処分してすでに支払ってある。あとはその瞬間を待つのみである。
「カワサキの奴、もう行っとる頃や」
 そうひとりごちた本多は、待たせてあったタクシーに乗り込んで販売店に向かった。
 ハーレーダビットソンのオートバイを扱っているその店は市内の外れにある古い寺のそばにあった。ハーレーの専門店というわけではない。今時、ガソリンエンジンを載せた趣味性の高いマシンだけでやっていける店などあるはずもない。四輪車も二輪車も、そのほとんどがバッテリー駆動になっており、この店が扱っているのも、そういった二輪車が主だった。
 一種のスポーツとしてオートバイに乗るとき、爆音も振動もない電気二輪車は快楽度が低いという理由で、爆音と振動の発生装置がオプションとして車体に取り付けられるようになっていた。しかし、そんなまがいもので満足できない連中のために、ガソリンエンジンで走る本来のオートバイも存在していた。ただ、とんでもなく高価ではあったが。
 本多とカワサキが選んだのは、もちろん本物だった。それも、新車ではなく約二十年前に製造された中古車にした。
 車種を選ぶ際に、二人は茶を飲みながら何度も話し合った。
「できりゃあ、イージー・ライダーんと同じもんがええけどな」とカワサキが言う。
「なんぼなんでも、そらあかんわ。半世紀以上も前のもんは無理やで」と本多が返す。
「そか。ほんなら新車にすっか」
「おまえは極端すぎるんや。新車は高すぎるし、デザイン的に深みがないやろ?」
「そうじゃろうか」
「そや。せめて二十年落ちが限度やろ。その代わり、イージー・ライダーの雰囲気が出るようにタンクをペイントしたり、フロントフォークを長くしたりするんや。ついでにヘルメットや皮ジャンの背中にもペイントしてな。ピーター・フォンダが乗っとった『キャプテンアメリカ号』はソフテイル系のバイクを改造したものやし、デニス・ホッパーの『ビリー号』はダイナ系のカスタムや」
 彼らはマシンを絞り込んでいき、市内の二輪ショップとも相談の上、その店に中古を探してもらうことにした。
 結局、カワサキは約二十年前のモデルである2006年製のFXソフテイル・スタンダードを、本多は同じく2006年モデルのダイナ・ワイドグライドをそれぞれ購入することにした。
 カワサキのソフテイル・スタンダードは前オーナーによってすでに改造されており、タンデム用背もたれのシーシーバーや、手前に大きく湾曲しているエイプハンガーハンドルが装着されていた。しかしタンクは車体色の黒のままだったので、ショップに頼んで、『キャプテンアメリカ号』と同様な星条旗をペイントしてもらった。
 本多のダイナ・ワイドグライドは元々フロントフォークが寝かされたいわゆるチョッパー風のモデルだったが、さらに『ビリー号』と同程度まで伸ばすことにした。ハンドルはノーマルのエイプハンガーで十分だった。そして車体色の青いタンクには、白地に赤い日の丸を描いてもらった。
 さらに、ヘルメットにも同じデザインでペイントしてもらい、革ジャン、手袋、ブーツも用意した。これで死出への準備万端が整ったことになる。
 二輪車ショップの前でタクシーを降りた本多は、ガラス張りの引き戸を開けて中に入っていった。
「あ、本多さん」
 ショップオーナーの嫁さんが笑顔を見せた。
「まいど。カワサキの奴、来とるやろか?」
「ええ、お見えになってますよ。今、主人と一緒に修理場に」
「そうか。いよいよご対面やな」
「すごくかっこいいバイクですよ」
「ほんまか。そりゃ楽しみじゃ。わしも行ってみるわ」
 本多は店の裏手にある修理場へ向かった。
 工場の中に入ると同時に爆音が響き渡った。本多が驚いて見ると、二台のハーレーのそばにカワサキとオーナーの白石がいた。タンクに星条旗が描かれたバイクのスロットルを回しながら、白石がカワサキに何かを説明している。そして彼らの横には、日の丸の赤が眩しい本多のマシンがあった。
「よお」と声を掛けて二人に近づいていくと、カワサキが手を振り、白石も軽く会釈した。
「ええ音がしとる」
 本多がうなずきながら言うと、
「そうですね。古いマシンですが、エンジンはしっかりとしてますね。オーバーホールも済ませてありますし」と白石が言った。
「ほれ、おまえのもかけてみんさい」
 カワサキが本多のマシンを指差した。
「おう」
 本多はゆっくりとオートバイに近づいていった。フロントフォークやマフラーのメッキが美しく光っている。日の丸にペイントされた部分以外のタンクと、リアフェンダーは濃いめの空色に塗られている。まるで青空に浮かぶ日本の国旗のようだ。
 本多はマシンに跨ると、スタータースイッチを押してセルモーターを回し、エンジンを始動させた。ドルルルルッっという小気味よい爆音と振動が、辺りの空気を震わせた。
「たまんねえな」
 本多が叫ぶ。
「なんちゅう官能的な音なんや」
「エンジン絶好調ですよ」
 白石が声を張り上げた。
「おまえんも、ええ感じじゃのぉ」
 カワサキも大声を出して、自分のマシンのスロットルを回した。
 それぞれに特徴のある二種類のエンジン音が、絶妙なハーモニーを奏でながら、修理場の内部に満ちていった。
 本多は、それからしばらくアイドリングを続け、その間にタンクのペイントの具合やクラッチの調子などをチェックしたあと、エンジンを切った。カワサキも同様にして、辺りは急に静かになった。
「おおきに。ええの世話してもろて」
 本多は白石に礼を言った。
「ほんとじゃ。白石さん、すまんのぉ」
 カワサキも、にっこりとする。
「お役に立てて光栄です。お二人はオートバイ乗りの鑑ですから」
 白石が尊敬のまなざしで言った。
「失礼ながら、そのお歳でハーレーを乗りこなせる方は、なかなかいませんよ」
「まあ、若い時分に乗っとったけぇ」とカワサキが言った。
「それに、白石さんがハーレー貸してくれんさったから、何十年かぶりに練習して昔の感覚を取り戻すことができたんじゃ」
「その通りや」
 本多もあいづちを打つ。
「おおきにな」
「いえいえ。では、引き渡しに関する書類をお渡ししますので、事務所へお越しください。コーヒーでも淹れましょう」
「ほな、ごちそうになるか」
 彼らは連れ立って修理場を出た。そして事務所で、白石の妻が用意したコーヒーを飲んだ。
 窓の外から秋の日差しが射し込んでおり、どこか遠くの方で鳥が鳴いた。今日がこの世での最後の日だという実感がわかへんなと本多は思った。最後というより、このゆったりした時間の流れに身を任せとると、むしろ永遠を感じてしまう。それは、もうじき永遠の流れの中に還っていくからやろか。
「本多、どがぁしたんかね」
 カワサキの声がした。
「おまえ、さっきから、ぼーっとして」
「いや、どうもしてへん」
「しとった」
「してへんて。ただ、なんだかほっこりするなあ思うてな」
「ほっこりか。そう言や確かにそんな感じじゃな。嵐の前の静けさいうか」
「おまえ、そりゃ例えがちゃうやん」と本多が笑う。
「これから、さっそくツーリングですか?」
 白石が訊いた。
「そや。ちょっと長めの旅に出よか思うとる」
「長めって、どのくらいですか?」
「さあな。その先のことはわからへんよ」
「つまり、期限を決めない気ままな旅ってわけですね?」
「まあ、そんなとこや」
「白石さんも、歳取ったら、やってみんさい」とカワサキが言った。
「そうですね。リタイヤしたら、日本中をオートバイで回りたいですね。温泉にも入りたいな」
 そういうこっちゃないんやけどと思いつつも、本多はあえて何も言わずにカワサキの顔を見た。カワサキは眉を動かして、かすかに微笑んだ。
「さて、そろそろ出発しますわ」
 本多はカップに残ったコーヒーを飲み干すと、椅子から立ち上がった。カワサキもカップをソーサーに置いて本多に続く。
 彼らは修理場まで戻り、オートバイのエンジンに火を入れた。再び辺りに爆音が響き渡る。エンジンをアイドリング状態にしたあと、二人は各々ヘルメットと手袋を装着し、持参した小型のバッグをシートの後部にゴムベルトで括り付けた。そうしてシートに跨ると、そばで見守っていた白石を見た。
「お世話になりやした」と本多が言った。
「最高のハーレー探してくれんさって、ありがとう」
 カワサキも言った。
「お気をつけて。道中の無事を祈ってます。ありがとうございました」
 白石は深々と頭を下げた。
「ほな、いこか」と本多が言い、
「よっしゃ」とカワサキが答えた。
 二台のハーレーはゆっくりと道路まで出ると、小気味良いエンジン音を響かせて発進し、晴れ渡る秋空の下を西に向かった。
 十分ほど走って河口に架かる橋を渡り、空港入口を左手に見てさらに進むと、右手に海が広がった。波はそう高くはなく、岸近くの海面は深緑に染まっていた。その時を目指して、これから海沿いを走っていくのだ。
 二台のハーレーは海を右手に見ながら快調にクルージングを続け、小一時間ほど走ったあと、笠山という小さな死火山のある辺りまで来た。あと十分も走れば萩に着くだろう。萩は明治維新に活躍した多くの人材を輩出した歴史的に有名な町だ。その町を通過して、海に沿う道をさらに西に行くと、本州の端に出る。そこの海峡を挟んだ向かいは九州だ。そして、その海峡に至る道のどこかに、ライフルを構えた殺し屋が潜んでいるはずだった。ノンストップで走って約二時間の距離である。二時間以内のどこかの時点で、この世と別れを告げることになる。
「このまま通過するか? それとも飯にするか」
 萩が間近の直線道路で、ヘルメットにセットしてあるマイクに向けて本多が言った。
 ヘルメット内の耳の位置にはスピーカーがセットされており、様々なチャンネルの無線デジタル放送を聴くことができる。また自分固有のサーバーに好みの音楽データベースを構築しておいて、手元にある超小型PCを操作して聴いたり、会話優先にセットしておけば、コンタクトがあった時だけ他の受信が中断され、話すことができたりする。
 このPWA(パーソナル・ワイヤレス・オーディオ)を、本多とカワサキは今回のツーリングのために導入した。走りながら話したり、イージーラーダーでかかっていた曲、すなわちSteppenwolfのBorn To Be Wildや、Jimi Hendrix ExperienceのIf Six Was Nineや、The BandのThe Weightなどを聴きたかったからというのが、その理由だった。
「調子出てきたけぇ、このままいこか」と耳元のスピーカーからカワサキの返事が聞こえる。
 ちょうどそのとき、対向車線をこちらに向かっていた大型トラックの後ろから一台のオートバイが飛び出してきた。赤いハーフカウルのモトグッチだった。直線なので追い抜こうというのだろう。二台のハーレーとの距離は十分にあったので、グゥイーンとトラックを抜き去り、元の車線に飛び込むものと思われた。
 しかし、赤いモトグッチがトラックの横に出ると同時に、トラックはいきなりスピードを上げつつ右にハンドルを切ってオートバイに迫った。ライダーは慌ててブレーキをかけながら自分もハンドルを切ったが、バランスを崩して転倒した。
 アスファルトの上を車体と一緒に滑り始めたライダーは、近づいてくるハーレーを認めたのか、持っていたハンドルから手を離して地面に転がった。赤いカウルを壊しつつ、地面との摩擦で金属部分から火花を飛ばしながら、モトグッチは横倒しのまま二台のハーレーに向かって突進してきた。
 トラックはオートバイの転倒を確認したからか、また元の車線に戻ってハーレーの横を猛スピードで通過し、走り去った。本多はトラックのナンバープレートを読もうとしたが、迫り来るモトグッチに気を取られて叶わなかった。
 本多は道路を滑ってくるオートバイの進路を読んだ。そして、ハンドルを切って対向車線側に寄った。カワサキも同じくコースを読んだのだろう、ハンドルを左に切って路肩側に寄った。その瞬間、二台のハーレーの間を赤と黒の金属の塊が鋭い音を立てながら通り抜けていった。
 前方の路上にはライダーが倒れていた。フルフェイスのヘルメットは被ったままだったが、うつ伏せ気味に地面に横たわり、微動だにしていなかった。
「生きとるろうか」とカワサキが言い、道路の左端にハーレーをとめた。
「とにかく助けるんや」
 本多も、その隣にとめる。
 二人は横たわる黒ずくめのライダーに駆け寄った。皮ジャンと皮パンツにライダーブーツを身に付けている。フルフェィスのヘルメットは赤で、後頭部が大きな傷になっていた。転倒時に地面で擦ったのだろう。
「おい、だいじょうぶか?」
 本多はしゃがみ込んで、ライダーの肩に手をかけながら言った。
 体を軽く揺すっても反応がないので、両手で仰向かせると、胸のふくらみが目に入ってきた。
「女じゃあ」とカワサキが驚いて言った。
「そやな、びっくりや。とにかく、ここから動かすんや。車が来たら轢かれてしまう」
 本多は女の脇の下を両手で抱え、カワサキが足を持って、道路の端に運んだ。
「メットを脱がせるんや。手伝え」
 本多はライダーの首を手で少し浮かせて、ヘルメットが取りやすいようにした。カワサキは首もとにあるホルダーを外し、両手を使ってヘルメットを脱がせた。
 現れたのは若い女だった。髪は短めで顔色は青ざめていたが、目を閉じていてもその美しさは伺えた。
「ねえちゃん、しっかりするんや」
 本多は女の耳元で呼びかけた。
「息しとるろうか」
 カワサキが覗き込んで、女の口元に耳を寄せた。
「おお、ちゃんとしとる」
「そうか。ほな、体を横向きにするんや。喉に舌が落ち込んだり、ゲロが詰まったりして窒息せんようにな」
「よっしゃ」
 二人は女を横向きにしたあと、交互に声をかけ続けた。しばらくすると、女は大きく息を吸い込み、吐き出した。そして薄目を開けたが、焦点は定まらないようだった。
「カワサキ、水を頼む。水筒持ってきてくれ」
「いや、こがぁな場合は飲み食いさせたらいけんて、前に救急法の講習受けたときに聞いたことがあるけえ」
「そりゃ、意識の無い場合やろ。気付け薬の代わりにちょっと飲ませるだけや」
「わかった。待っとき」
 カワサキはハーレーのシートに積んであるバッグのサイドポケットから水筒を取り出すと、外した蓋に水を注いで女の口元に持ってきた。
「ちょい待ち。体を起こすけん」
 本多は立て膝の体勢で女を抱え起こし、彼女の背中を自分の体で支えた。
「ゆっくりと飲ますんや」
 本多がそう言うと、カワサキは水の入った蓋の端を女の唇に当てて、そっと傾けた。水の冷たさを感じたからか、女は唇をぴくっと震わせたが、半開きになった口から少しずつ飲み始めた。
「おお、飲んどる飲んどる」とカワサキは嬉しそうに言った。
 蓋に半分ほどの量を飲み終えた女の目に生気が蘇ってきた。透明感のある目元をしている。最初は宙をさまよっていたそのまなざしの焦点が定まると、女は急にはっとした顔になって飛び起きようとした。途端に顔をしかめて両手で頭を抱え込む。
「まだ動いたらあかん」と本多が言った。
「メット越しにせよ、頭を打っとる」
「そうじゃ。もう少し横になっといた方がええ」
 カワサキも心配顔になって言う。
「バイク」
 突然、女の口から小さく言葉が発せられた。
「なんやて?」と本多が耳を寄せる。
「あたしのバイク」
 本多とカワサキは顔を見合わせたあと、路面を滑っていったモトグッチの行方を探した。見ると、二十メートルほど先の路肩に赤い車体が横たわっていた。
「ねえちゃんの愛車はちょっと昼寝中や。あんたも、もすこし横になっときや」と本多が言った。
「いかなくちゃ」
 女はそう言って体を起こそうとする。
「まあ、待ちいな。今は動かん方がええ」
「遅れちゃう」
「約束があるんかね」とカワサキが訊いた。
「会えなくなる」
「誰にや」
「ようそんなアホなこと訊くわ」と本多が言った。
「ええ人に決まってるやろ?」
「あ、そうか」
 カワサキが苦笑いする。
「バイクのとこに連れていって」
 女は必死な顔をした。
「おまえ、ちょっと様子見てこいや」
 本多がカワサキに言った。
「よっしゃ」
 カワサキは小走りに転倒しているオートバイのところまで行き、点検を始めた。
「災難やったな」
 本多は着ていた皮ジャンを脱いで丸め、枕代わりにして女を横たえた。
「あのトラックのナンバーは、残念ながらよう見んかった。女のライダーだと知って、嫌がらせをしたんやろな。殺人未遂やで。そやけど命に別状のうて、ほんまによかったで」
「ありがと。助けてくれて」と女は弱々しく言った。
「あたしのバイクは?」
「今、相棒が見にいっとる。けど、すぐに乗るのはやめといた方がええ。も少し休んでからや」
「でも」
 そこへカワサキが戻ってきた。
「だめじゃ」
「どないやねん」
「フロントフォークが歪んどる。走るのは無理じゃ。一応車体を起こしといたけどな」
「そんな」
 女が悲痛な声を出した。
「そんな」
 女はもう一度言うと、静かに泣き始めた。両の目にあふれた涙に日光が反射して、世界一美しい宝石のように煌めいた。
「なあ、ねえちゃん、生きとったらまた会えるけん」と本多が言った。
「そうじゃ、この世からおらんようになるわけじゃないろうね」
 カワサキも優しく言った。
「いなくなるの、この世から」
 女は涙声で答えた。
「って、まさか」
 カワサキは本多と顔を見合わせた。
「自殺を止めに行く途中なんちゅうことは」
「あほ、縁起でもない」と本多が顔をしかめた。
「ほやけど、他に考えられんじゃろ?」
「もう二度と会えなくなる」
 震える女の言葉が二人の老ライダーの胸に沁みていった。
「どこまで走るつもりやったんや?」と本多が訊いた。
「益田まで」
 それは本多とカワサキが後にしてきたばかりの町だった。
「連れてってやろういね」
 カワサキが目を潤ませて言った。
「なんや涙もろいやっちゃな」
 そう言う本多の目にも光るものがあった。
「けど決行が遅れるが」
「往復二時間てとこじゃろ? 長いこと生きた時間を思うと、それくらいのロスは」
「おまえもたまには、ええこと言う」と本多がニヤリとする。
「たまはよけいじゃ」
「ほな、話は決まったけん早速と言いたいとこやが、ねえちゃん動けるんかいな」
 本多が女に訊いた。
「それじゃあ、あたしを?」
「そや。タンデムになるが」
「嬉しい」
 女は肘を突いて上半身を起こすと、にっこりとした。
「今泣いたカラスがもうわろたじゃな」
 カワサキも釣られて笑顔になる。
「ねえちゃんの赤いバイクはここに残しておくで。あとで行きつけのバイク屋に電話して取りにきてもろたらええ」と本多が言った。
「はい」
「ほな、いこか。急いだ方がええやろ。ねえちゃんはカワサキの後ろに乗ってくれ。シーシーバーが付いとるけん楽やしな」
 本多は女に手を貸して立ち上がらせた。
「そらそうと、ねえちゃんの名前はどういうんや? わしは本多で、こいつはカワサキや」
「あたしは鈴木、鈴木夕波です」
「ゆうなみか。いい響きやな。どう書くんや?」
「夕方に水面に立つ波です」
「ええ名前じゃ」とカワサキが言い、
「さあ、出かけよか。夕波さんも気が急くじゃろ?」と促した。
 本多とカワサキは各々のハーレーのエンジンを始動させ、夕波はヘルメットを手にした。
「それはPWA内蔵のヘルメットかね?」と本多が訊く。
「ええ」
「わしらのも、そうやねん。ほな、周波数自動チューニングモードにしてんか。三人で話せるようにな」
「はい」
「夕波さん、乗りんさい」とカワサキが呼ぶ。
「出発や」
 本多はゆっくりとハーレーを発進させ、通りがかった車をやり過ごしてから、道路の幅を使ってUターンさせた。そして、夕波を乗せたカワサキも同じように向きを変えた。夕波はシーシーバーに背中を持たせかけた姿勢でバックシートに収まっている。
 本多が先導する二台のハーレーは、日本海を左に見ながら来た道を引き返した。三十分ほど行った辺りで、本多は夕波に話しかけた。
「ねえちゃん、いや夕波はん。乗っとるんが、しんどいんちゃうか?」
「大丈夫です」
「ならええんやが。そらそうと、益田に着いたらどこで降ろしたらええんかな?」
「打歌山って、ご存知ですか?」
「うつうたやま?」
「ほれ、あの山じゃ」とカワサキが話に加わる。
「柿本人麻呂が歌に詠んだ山で、実際に人麻呂はその麓に住んどったらしいで」
「どこらへんにあるんや?」
「旧県境のトンネル越えて五分くらい走ると、右手に小高い山が見えてくる。てっぺんにアンテナが立っとる山じゃ」
「ああ、あの山かいな。で、その山んとこに行けばええのんか?」
「はい。麓までお願いします」
「人麻呂にでも会うんかいな」
 本多はジョークのつもりで言い、夕波の笑いを期待したのだが、しばらく沈黙が続いた。
「どしたんや?」と本多が尋ねる。
「あ、すいません。ちょっと考え事してました」
「そやったな。下手な冗談言うとる場合ちゃうな」
 本多はアクセルを回してスピードアップした。

 旧県境にあるトンネルを抜け益田市に入ると、目指す打歌山は間もなくだった。二台のハーレーは快調なエンジン音を響かせ、入り組んだ海岸線をなぞるように伸びている道を走った。ときおり左手の視界を遮っていた松林が途切れると、少し離れた位置に群青色の海が見えた。さらに進んで右手に打歌山が現れた辺りで、ハーレーは国道を右折して細い市道に入った。
「もちいと行ったら、柿本神社がある」
 耳元でカワサキの声がした。
「ここにもあるんかいな。なんや、いたるところに同じ名前んがあるやんか」と本多が言う。
「なんせ伝説のお方じゃけぇ、こここそが出生地じゃとか、うちの町こそ終焉の地じゃとか、言いたい放題、言ったもん勝ち」
「まるで最近の世の中そのものやん」
「まったく。ところで夕波さん、この道を登ったら打歌山の麓に出るんじゃけど、どのへんまで送ったらええろうか」とカワサキが訊く。
「この道を登り切ったら右手に打歌山への登り口があるんですが、そこを通り越して最初の分かれ道を右に行ってください。その道の突き当たりまでお願いします」
「よっしゃ、わかった」
 彼らは戸田柿本神社を右手に見ながら通り過ぎ、舗装はされているが狭く曲がりくねった山道を苦労して登っていった。坂を登り切ったハーレーは、打歌山登山口を過ぎてから右折した。幅の狭いその道は、道の左右から枝を伸ばした常緑樹が、まるで異界への入口のように薄暗いトンネルを作っていた。
「えらいとこじゃのぉ」とカワサキが声を上げる。
「夕波さん、ここにはよく来んさるの?」
「ときどきですが。でも、ここ走るときはちょっと怖いです。バイクの爆音が勇気をくれるから平気だけど」
「そうじゃね、バイクは頼もしい相棒じゃけぇ。ところで、このまま真っ直ぐでえかったかね?」
「はい。もうじき家が見えてきます」
 夕波の言葉から本多が想像したのは、この地方独特の赤瓦で葺かれた農家だったが、カーブを曲がったとき視界に飛び込んできたのは、半球形をしたドームハウスだった。そして家の脇にある屋根付きのカーポートには燃料電池カーがとまっていた。
 ハウスは、球体の半分より下を真横にカットして、そのまま地面に置いたような形をしており、よく見ると表面は無数の二等辺三角形から構成されていた。ハウスの周囲は、これまで通ってきた道の閉塞感とは打って変わって広々としており、木立の中に立っている一味違った別荘という趣だった。
「これまた、えらいハイカラな家じゃのぉ。彼氏はここに住んどりんさるの?」とカワサキが訊く。
「ええ」
 二台のハーレーは道路から敷地内に入り、玄関の近くに停車した。先導していた本多がエンジンを切ると、カワサキもそれに続いた。途端に静寂が押し寄せてきて、辺りの空気を震わせていた爆音の欠片をきれいに追い払った。
 彼らはオートバイから降り、ヘルメットを脱いでシートの上に置くと、玄関の前に立った。
「人の気配がせんな」と本多が言った。
「家族の人もいいへんのかな?」
「家族はいないんです」
「そうなんか」
「そりゃ寂しいのぉ」とカワサキがうなずきながら言う。
「中に入ってみます」
 はめていたライディング手袋を外した夕波は、ドアの横にある小さなパネルに右手の親指を押し当てた。すると、ピッという音と同時にカチャッとロックが解除された。
 夕波は本多とカワサキを見たあと、何も言わずにドアを開け、中に入っていった。二人は顔を見合わせて一瞬躊躇したのち、彼女の後に続いた。
 内部には柱も梁もなくて、天井は高く、三角形の窓からは午後の陽光が射し入っている。そして彼らの目の前には、夕波の放心したような背中があった。
「どしたんや? 彼氏はいいへんのか?」と本多が声を掛けた。
「遅かった。あたしが優柔不断だったから、行ってしまった」
 夕波が涙声で言った。
「行ったんか」
 本多は内心で、あの世へやろか? それとも家出か何かやろかと思いながら言った。
「けど、車があったじゃろう」とカワサキ。
「車じゃないの」
「そいじゃあ、タクシー呼んで空港に向かったとか。まさか歩きじゃないろう」
「もしや、超小型自家用ヘリやないか?」と本多が口をはさむ。
「もしそうなら、プロペラの音がしそうなもんじゃが」
「バイクの音にマスキングされたんかもしれへん」
「じゃが、そがぁな気配は無かったで」
「きっと、そうだわ」と夕波が大きな声を出した。
 本多とカワサキは驚いて彼女を見た。
「きっと、まだ飛び立っていないんだわ」
 夕波の目に光が戻ったように見えた。
「やっぱヘリか」と本多がうなずいた。
「夕波さん、ヘリポートはどこにあるんじゃ?」
 カワサキも興奮した声で言った。
「ヘリポート? まあ、そうとも言えるかも。打歌山の中腹です」
「頂上じゃないの?」
「ええ」
「行ってみよや」と本多が言った。
「でも、これ以上ご迷惑は。ツーリングの途上なのに」
「なに、ものはついでや。それに日没までには、まだ間があるけん。夕陽を浴びて散るのも一興やろ」
「散るって?」と夕波が訊く。
「いや、なんでもないんや。それより、急いだ方がええんちゃうか?」
 夕波は、はっと表情を変えた。
「じゃあ、あたしに付いてきてください。急な山道ですが、大丈夫ですか?」
「わしらは足腰を鍛えちょるけん。な、カワサキ」
「おうよ」
「じゃ、行きましょ」
 三人はドームハウスを出て、家の右手にある細い山道を登り始めた。夕波が急ぎ足で先導し、本多、カワサキの順で続いた。木々に覆われた山道は日陰になっていたが、所々に木洩れ日が射し、ときおり聞こえる鳥の声が平和な雰囲気を醸し出していた。
 しばらく登ると道は行き止まりになって、その突き当たりの斜面には岩肌が剥き出しになっていた。岩の表面には苔が生えて、黒っぽい緑色をしている。
「夕波さん、行き止まりじゃけど」とカワサキが言った。
「ええ。ここまで送ってもらえば十分です。あとは一人で行けますから」
「ほいでも、道のどん詰まりで、ヘリポートがありそうもないし」
「あんた、まさか世をはかなんで、わしらが去ったあと、こんな寂しいとこで」
 本多が心配そうな顔でそう訊くと、夕波は一瞬きょとんとしたあと吹き出した。
「いやだ、本多さん、へんな想像し過ぎですよ」
「そうじゃ、おまえ縁起でもない」とカワサキも目を剥いた。
 夕波は岩を背にして立つと、本多とカワサキをまじまじと見た。顔が小さくスラリとした体つきの夕波には、まるで天の岩戸から出てきたアマテラスのような輝きがあった。その美しいまなざしで見つめられた彼らは、どぎまぎして身動きできなかった。
「なんだか不思議な縁ね」と夕波が言った。
「なぜだかわからないけど、お二人には心が許せる気がするの。人として信頼できるというか」
 そう言って夕波は一息ついた。
「これから起きることを決して他言しないと約束してくれますか?」と夕波が言った。
「もし約束してもらえるなら、お見せしたいものがあります」
 本多はカワサキをちらっと見たあと、
「約束するわ。あんたがせっかくそう言ってくれてるんやし」と言った。
「わしも約束するで」とカワサキが続けた。
「わかりました」
 夕波がライダージャケットのポケットから小型のリモコンのようなものを取り出して岩に向けると、苔むした岩肌は消え失せて暗いトンネルが現れた。入口は、高さ二メートル、横幅がその半分くらいの長方形をしている。
「岩は、3Dウォールです」と夕波が説明する。
「よくある立体映像なんですが、斬新な点が一つあります。それは映像が質量を持っていることです。つまり、実際に触れても岩の質感があるってことです」
「そんな話聞いたことないで」と本多が言った。
「ええ、この技術はまだ公開してないはずです」
「誰が公開するんや?」
「その人と、たぶんこれから会うことになると思います」
「もしかして彼氏かね?」とカワサキが訊く。
「今にわかりますよ。さあ、あたしに付いてきて」
 夕波は二人にそう言うと、トンネルの中に入っていった。彼らも一呼吸置いて、カワサキ、本多の順で後に続いた。外から見たときには真っ暗だったトンネル内は、一行が入ると同時に青白く光り始めた。どうやら内部の壁全体が発光しているようだ。
「まるで黄泉の国へ通じとるみたいやな」と本多が言う。
「トンネルに生体が入ると、その生命エネルギーを感知して、壁に塗ってある塗料が光るんです」
「トンネルが感知するんか?」
「いえ、塗料自体らしいです。塗料に意志をインストールしてあるって」
「何のことだか、さっぱりわからん。カワサキ、おまえわかるか?」
「わからんのぉ」
「あたしにも、わからないの」
「なんやそれ」と本多が笑い、カワサキと夕波も釣られて笑った。
 しばらく歩くと開けた場所に出た。天井はトンネルの倍の高さがあり横幅も十メートルくらいあった。天井と左右の壁は曲面になっており、トンネル内と同じ色で光っている。そして正面には銀色の壁があった。
「映画に出てくる秘密基地みたいじゃのぉ」とカワサキが言った。
「ほれ、わしらが子供の頃にテレビでやっとったじゃろ? 人形が活躍する国際救助隊の物語を。ありゃ、何ていったかな」
「サンダーバードやろ」と本多が答える。
「そうじゃった。あれの基地は南海の孤島じゃったが、ここは小高い山の中」
「あたしにはわからない話題だけど、何だか面白そうですね」と夕波が言った。
「ところで、いよいよ佳境に入りますよ」
 そう言って夕波は先程使ったリモコンを取り出して、銀色に光る壁に向けた。途端に壁の一点がフラッシュし、その点を中心にして、カメラのシャッターが開くように円形の空間ができた。空間の向こうは暗かったが、彼らが円形の入口から中に入ると、とたんに周囲が淡いオレンジ色の光に染まった。壁が発光し始めたのだ。
「まるであの世に来たみたいじゃのぉ」とカワサキが言った。
 狭めの通路は丸い展望台の窓際のように湾曲しており、天井の高さは三メートルほどだった。淡いオレンジに光る通路をしばらく行くと左手にドアらしきものがあった。夕波はリモコンを使って、それを左右に開けた。室内はすでに黄色っぽい薄明かりに包まれており、今まで歩いてきた通路よりも少し大き目の廊下が前方に真っ直ぐ伸びていた。そしてそこを進むと、ふいに視界が開けた。
「なんじゃこりゃあ」
 カワサキが素っ頓狂な声を上げた。
「たまげたな」
 少し遅れてそれを目にした本多がうなる。
 廊下から出ると、そこは天井の高い格納庫のような有様で、その中央には二枚のスープ皿の縁を合わせたような形の物体が鎮座していた。
「まるで空飛ぶ円盤や」
 本多が口をあんぐりと開けて言った。
「夕波さん、こりゃあいったい何じゃ?」とカワサキも心底驚いた顔で訊く。
「小型の星間飛行船です」
「てことは、宇宙船か?」
「そうですね」
「あんたは宇宙人やったか」と本多が声を絞り出す。
「違いますよ。あたしはこの星の生まれです。ちなみに、今あたしたちがいるここ自体が母船になってます。でも、間に合ってよかった」
 夕波は、ほっとした様子で星間飛行船の方に歩いていった。本多とカワサキも後を追う。星間飛行船は、小型といっても見上げるほどの大きさがあった。表面の材質は金属らしかったが、紫味を帯びたその光沢は、これまで目にしたことのないものだった。彼女は船を通りすぎ、さっき出てきた通路の真向かいに位置する小部屋に入っていった。
「やはり、そうだった」と夕波がつぶやいた。
 本多が彼女の肩越しに覗き込むと、細長く丸みを帯びたカプセルの中に人らしきものが横たわっているのが見えた。
「あんたの彼氏か」と本多が訊く。
 夕波はうなずくと、カプセルに近寄った。本多とカワサキもカプセルを囲む。顔の部分は銀色の器具に覆われており、首から下は体にフィットした衣服に包まれていた。
「眠っとりんさるんか?」
 カワサキがカプセルを覗き込みながら言った。
「リカバー中なんです」
「そりゃ何かね」
「ダメージを受けた細胞や神経の蘇生を行ってるんです」
「怪我でもしんさったか」
「地球の酸素濃度や、地上まで降り注ぐ宇宙線や、人工的な電磁波などが、彼の体細胞や中枢神経や末梢神経などを傷つけるから、必要に応じて不定期にリカバーするわけです。それと老化の進行を食い止めるために」
「この中に入ってると、それができるんか?」と本多が訊く。
「そうみたいです。長期間に渡る星間飛行のために作られたのでしょう。約千三百前に彼がこの星に不時着して以来ずっと若さを保っているみたいだから、まさにミラクルな装置ですよね」
 夕波の話は荒唐無稽だったが、彼女が語り、カプセルに横たわった存在を目にすると、自然と納得せざるを得なかった。
「ほいじゃあ、夕波さんの彼氏は宇宙人なんかね」
 カワサキが目を丸くして言う。
「あたしたちも宇宙人の一員ですよ」
「一人しかいいへんのか?」
 本多は持ち前の好奇心を刺激されたのか、興味津々の顔で訊いた。
「他のクルーたちは不時着の際に、カプセルが壊れて亡くなったらしいです。当時、いわば冬眠しながら自動操縦で航行していて、何らかのトラブルに見舞われ、母船自身の判断で最寄りの惑星に緊急着陸したとか」
「それ以来、この人は一人で生きてきたちゅうわけか」
「そうですね」
「人間そっくりじゃねえ。宇宙人のイメージは、もっと人間離れしたふうに思えるけども」とカワサキが言う。
「いろんな意味で適応してきたと言ってました。千三百年の時間をかけて培ったものが今の彼なんだと思います。だから、元はどうあれ、彼は人間であり地球人であるって、あたしは思ってます」
「宇宙船の修理に手間取ったのは、なんでや?」と本多が夕波に訊く。
「墜落のショックで大半の精密機械は壊れてしまったんです。彼は残されたもので修理を続けたけど、どうしても必要な部品が手に入るまで待たねばならなかったんです。つまり、人類の科学技術が発達するまで。そして彼も積極的に自分たちの持つ技術を提供してきました。もちろん表立ってではないけど。たとえばコンピュータ技術の発達に、彼は多大な貢献をしています」
「夕波さん、この人はあんたを残して去ろうとしとったようじゃが、なんでまたカプセルに入っとるんろうか」とカワサキが言った。
「リカバーカプセルに入らざるを得ないような発作が起きたのでしょう」
「その発作はよく起きるんか?」
「いえ。あたしが知る限りでは一度だけ」
「知り合ってどのくらいになるんや?」と本多が訊いた。
「二年です」
「月並みやが、どうして知り合ったんや?」
 夕波は一瞬懐かしそうな目をした。出会った時のことを思い出したんやろと本多は思った。
「あたしは自宅でシルバーアクセサリーを作っているんですが、この町にある知り合いのギャラリーで展示会やったときに彼がふらっと現れて、あなたの作品を見ると故郷を思い出すって言ったんです」
「なんやらロマンチックやな」
 あっと夕波が声を上げた。
「ごめんなさい、さっきから立たせたままで。どうぞ腰掛けてください」
 夕波は部屋の壁際にある白い長椅子を示した。
 一見プラスチック製のようだったが、彼らが腰を下ろすと表面が沈み込んで快適な形で背と尻を包んだ。硬すぎず柔らかすぎない座り心地だった。
「なんじゃこりゃ」と本多が声を上げると、
「座った人の体型や体重に合わせて、自動的に形を変えるんです」と夕波が説明した。
「ところで、お二人はよくツーリングされるんですか?」
「いや、昔はしとったが、ここんとこご無沙汰やった。今日はほんまに久しぶりなんや」と本多が答える。
「そうなんですか。またバイクに乗り始めたんですね。何かきっかけがあったの?」
 夕波の問いに、彼らはお互いの顔を見た。
「わしらもリタイヤして長いし、ここいらで一区切りしよう思うてな」とカワサキが答える。
「一区切りって?」
「つまり」とカワサキが言いかけると、
「わしらの若い頃にイージーライダーいう映画があったんやけど、あんた知っとるかな?」と本多が言葉を引き継いだ。
「ええ」
「そうか、なら話は早い。わしらは映画観たあと、オートバイにはまったり、映画で使われとった音楽にしびれてバンド始めたりしたくらいすっかり影響受けてしもて。あれからずいぶん時が流れたが、心ん中を覗き込んでみたら、その感動は消えずに残っとった。そやし、昔の情熱をまた味わってみよ思たんや。もっと言うと、最後の夢を見つけたちゅうことや。今の世の中、年寄りには夢も希望もないやん。早々とリタイヤさせられて、する事もなく、せっせと払ってきた年金も減額減額で無いに等しい。若いもんから敬われることもなく、はよ片づいてくれってなもんで安楽死法なんかが成立しよった」
「安楽死法」と夕波が哀しげな声でつぶやいた。
「あの法律ができたと聞いたとき、あたしは、この国が一線を越えたと思いました。少なくとも、これまで身と心を置いていた日本という国は滅んでしまったと確信したんです。そうなった理由は、あたしたち国民の無知と、権力への依存体質だと思います。あたしは、こんな国に嫌気がさして、どこか違う場所で生きようかと思ったこともあったけど、世界中を見渡しても、どこも似たり寄ったりで、それなら生まれた土地の自然に抱かれて、あたしにできることをやっていこうと思ったんです。あたしの作るシルバーアクセサリーが誰かの喜びの一助になればいいなと、そう思って生きてきました」
「それは彼氏に出会う前のことかね?」とカワサキが訊いた。
「はい」
「出会うたあと夕波さんはまた、どこで生きるんか決めにゃあならんかったんじゃな」
「ええ」
「今は、どない思ってるんや?」と本多が尋ねる。
「正直、まだ迷ってます」
「そら、そやろ。あんたの銀細工は同胞のために存在するんやろから。それに、あんたの愛する自然は地球独自のもんやしな」
「ええ。でも、そう思うと同時に、やっとめぐり逢えた愛する人と離れ離れになるべきじゃないとも思うのです」
 夕波の言葉を聞いて、本多とカワサキは顔を見合わせた。
「ところで、さきほど話に出た最後の夢って何ですの?」と夕波が言った。
 本多が口を開こうとすると、カワサキが答えた。
「人生、散り際が肝心と思うんじゃ。どう生きるかってことは、どう死ぬかってことでもある。じゃけえ、自分が一番幸せを感じる散り方をするってのが、わしらが見つけた最後の夢なんじゃ」
「それって、自ら死ぬってことですか?」
 夕波は不安そうな顔になった。
「いや、そうやない。カワサキが言うたんは心構えのことなんや。いつ死んでも後悔せんような生き方をしようて改めて誓ったちゅうわけや」
 本多は夕波に心配させないように、そう言った。
「そうですか。ちょっとびっくりしたけど、安心しました」
「そらそうと、あんたがオートバイ乗り始めたんは、どんなきっかけや?」
「あたしも映画なんです。それも古い映画。モーターサイクル・ダイアリーズというんですけど、知ってます?」
「いいや」
「約二十年ほど前につくられたものですが、とってもいいんです。 伝説の革命家、チェ・ゲバラが青春時代に親友と二人で中古のオートバイに乗って南米大陸縦断の旅に出るロードムービーです。この映画を観て、あたしもバイクに乗ろうと思ったんです」
「そやったんか」
「なあ夕波さん」とカワサキが言った。
「はい」
「こんな世の中でも愛せるものはあるもんじゃねえ。あんたにはオートバイやアクセサリーや自然がある。もちろん家族や友人もそうじゃろう。そいでもって一方には、ここを去ろうとしとる愛しい人がおる。あんたにとっては辛い選択じゃのぉ」
 カワサキの言葉を聞いて夕波はしばらく無言でいた。その目はしだいに潤み、涙が溢れた。
「おい」と本多がカワサキに言った。
「泣かせてどないするねん」
「いいや」とカワサキが返した。
「思い切り泣いたらええ。こがぁな思いをかかえたままいるのはよーない。おそらく夕波さんは、このことを誰にも言えずにいたろう。なんでわしらに秘密を明かしてくれたんかはわからんが、心の中にわだかまってた思いを涙に乗せて流したほうがええ」
「そうか。そやな、おまえの言うとおりや」
 二人の言葉を受けたからか、夕波は静かに泣き始め、やがて号泣した。

 海を間近に望む小高い山の中腹に埋まっている巨大な宇宙船。その内部にある小部屋には、カプセル内で眠る異星人、その恋人の若い女、そして死出の旅の途上にある二人の老人たち。地球が誕生して以来あったであろう数限りない出会いの中で、こんなにユニークな組み合わせがあったやろか? そんなことを思いながら、本多はカワサキと共に再び海沿いの道路を走っていた。
 ほんの数時間前に同じ道を通ったはずなのに、次々と目に入ってくる風景は目新しかった。わしの何かが変化したからやろか? と本多は自問してみる。今日初めて会い、そして別れた夕波の顔が浮かんできた。もっと若い時分に出会いたかったという思いが胸に込み上げてきて、本多の心は揺れた。
 彼らはトンネルに突入し、内部に爆音が響き渡った。左右の壁の所々に点いている照明が後方に流れ去って、本多はずっと昔に観たタイムトンネルというテレビ番組を思い出した。このトンネルを抜けると、万葉集の編まれた時代にタイムスリップするんやないやろかと一瞬夢想した。その途端に、上空から赤く発光した物体が落下してきて海岸近くにある小高い山に激突するビジョンを見た。
「うわー」
 そのビジョンがあまりにリアルだったので、思わず本多は声を上げた。
「どうしたん」
 ヘルメット内にセットされたスピーカーから、本多の後ろを走るカワサキの声がした。
「山にぶつかりおった」
「なんが」
「白日夢を見たんや。UFOが山に墜落しおった」
「そりゃあ、夕波さんが話してくれたまんまじゃ」
「そやな。このトンネルがタイムトンネルみたいに思えて、万葉時代に飛ぶことを想像してたら、えらいリアルなビジョンが見えたんや」
「さっきまでのことが現実離れしとったけぇ、その影響じゃろう。そりゃそうと、夕波さん、あれからどうしたろうか」
 ついさっき別れたばかりだというのに、カワサキはもう何年も会ってない誰かを思うような口振りで言った。
 間もなく二台のハーレーはトンネルを抜け、傾き始めた日差しの中に飛び出した。道路はすぐに追い越し車線のある登り坂になり、そこを登り切ると旧県境だった。道州制が導入された今、かつての二つの県は一つになっていたが、それでも旧県境を越えると、辺りの空気が微妙に変化するのを感じた。
「この分では、夕焼けの中で散ることになりそうやな」と本多が言った。
「そうじゃな。しかし殺し屋の奴、ちゃんと待っとるんかいな」
「その心配はないやろ。なんでもプロフェッショナルに徹したマシンみたいな奴らしい。一度動き出したミッションを止めることはインポシブルやて、人物紹介のキャッチコピーに書いてあったけん。なんでも尊敬するんは、あのデューク東郷とか」
「なんじゃそれ。架空の人物じゃあなぁかね」とカワサキは呆れた声を出した。
「架空をリアルに感じるほどの壊れたキャラの持ち主ちゅうことやろ」
「なるほど。そりゃあそうと、夕波さんの彼氏は目を覚ましたろうか」
「どやろな。リカバーが終われば自動的に目覚めるちゅうとったが」
「夕波さんは、どがぁするんじゃろう。彼氏が目を覚ましたら、辛い決断が待っとるけぇ」
「なんや、おまえ、あの子のことばかし言うとるで」
 カワサキにそう言いながら、わしも同じようなもんやなと本多は苦笑した。そのとき彼の脳裏に、夕波と別れたときの情景が浮かんできた。
 夕波としばらく過ごしたあと、彼らはいとまごいを言った。夕波はドームハウスの前にとめたオートバイのところまで見送ってくれた。
「今日見たことは秘密にしとくけん」と本多が言うと、
「信頼してますから」と夕波が返した。
「元気でなあ」とカワサキが言い、
「あなた方も」と夕波が微笑んだ。
「またな」
 本多はそう言って愛車に跨り、セルモーターを回してエンジンをスタートさせた。ビッグツインの爆音が静かな山の中に響き渡った。続いてカワサキの跨るソフテイルのツインカムエンジンが唸りを上げる。
「元気での」
 爆音の隙間からカワサキが叫ぶ。

 ハウス前の広場でUターンし、元来た道を下っていく本多のハーレーのバックミラーに、両腕を垂らしたままこちらを見ている夕波が映り、間もなくその姿は視界から消えた。
「そいでも、なんやら寂しいんじゃ」というカワサキの声で我に返った本多は、夕波の面影を払うように頭を左右に振った。
「縁がありゃ、来世ででもまた会えるやろ。さあ、少し飛ばすか。まだまだ先は長いで」
 本多はスロットルを手前に捻ってアクセルを開けた。
 下半身から上半身にかけて心地よい振動を感じながら、彼らは海岸に沿い西に向かって走った。海へと傾きつつある太陽は周りの雲を金色に染めながら、徐々に赤みを増していた。秋晴れの透明な大気が、しだいに夜の予感を漂わせ始めた。海岸道路は、渚から遠ざかったり近づいたり、高度を上げたり下げたりしながら、ツーリングに快適なカーブを描いている。車体を傾けながらコーナーを抜けていくと、風に乗って風景が後方へと飛び去っていく。
「こうして走っとると、さっきまでのことが夢のようじゃのぉ」
 ヘルメット内に入ってくる爆音と風の音に混じってカワサキの声がする。
「そやな」
 そう答えたものの、夢にしては生々し過ぎるやないかと本多は思った。こんな気持ちを抱えたままこの世の外に出ていく気がせえへん。自分の中の何かが変わり始めていることに本多は気付いていた。
 しばらく海岸から離れていた道路は再び近づき、右手に海を望む長い直線になった。こんな真っ直ぐい道こそがハーレーにふさわしいと思いながら、本多はアクセルを回してスピードを上げた。カワサキもそれに続く。
 そのとき、直線の向こうの端にあるトンネルから一台の黒い車が飛び出してきた。近づいてくるにつれて、それは電気自動車でオープンのスポーツカーだとわかった。先頭を走る本多の目に、運転席の人影が立ち上がるのが見えた。
「おい」とカワサキに呼び掛ける。
「どした」
「殺し屋のご登場や」
「ほんとか」
 カワサキの声に緊張が走る。
「あと数分足らずのうちに片が付くやろ。おまえ、覚悟はできとるか?」
「覚悟はできとるが、なんやらすっきりせん気分じゃな」
 カワサキの率直な言葉を聞いて、おまえも覚悟はできとるんかと本多は自分の心に問い掛けた。覚悟はできとる。けど、もやもやしとる。なんや、カワサキと同じやないか。奴がすっきりせえへんのは、夕波のことが気になるからやろ。それは、わしとておんなじや。
「カワサキ」と本多が言った。
「おう」
「あの世に行くんを、ちょい延期せえへんか?」
「ええよ」
 カワサキの声に安堵感と未来への希望の芽を感じて、本多はニヤリとした。
「ほな、行動開始や」
 本多は皮ジャンのポケットから取り出したPWA用の超小型コンピュータを操作して、通話の自動チューニングモードにした。前方から接近している車もしくは人間に受信環境があれば、通話のチャンネルが開通するはずだった。しかし受信環境がないのか、あっても切られているのか、何の反応もなかった。チッと舌打ちした本多は急いでカワサキに言った。
「前方の車はおそらく自動操縦モードになっとって、運転席に立っとる奴はスコープ付きライフルを構えとるやろ。対向車線に入って超蛇行運転するんや。でもって、正面衝突寸前に右にかわす。自動操縦やし、衝突は避けようとするはずや。車から見て対向車線が空いとれば、そっちに向かうやろ。奴がゴルゴ13並みの腕前でないことを祈るわ」
「一か八かじゃな」とカワサキがテンションを高めながら言う。
「ほな、いくで」
 本多は左の拳をかざした。
「おう」
 カワサキも左手を差し上げる。
 彼らはアクセルを手前に回して猛然とダッシュした。他の通行車両はなく、二台のオートバイと一台の車は急速に接近した。先頭を走る本多はハンドルを左右に切って車体をバンクさせ、狙撃の照準を合わせにくくした。カワサキも同様な動きをして本多の後に続いた。
 迫る黒い車の運転席に、ライフルを構えた黒ずくめの男が立っているのが見えた。サングラスをかけている。標的の前に姿を現すなんて大した殺し屋じゃないやんと本多は思った。ナルシスティックな小心者かもしれへん。そんならそれで、やりようもあるというもんや。
「おい、カワサキ、ウイリーするんや。殺し屋びびらしたろ」
 言うが早いか、本多はアクセルをふかしながらハンドルを持ち上げ、後ろに体重を移動した。本多の後方でも、エンジンの咆哮が辺りの空気を揺るがした。二台のハーレーは大地を這う巨大なコブラのように鎌首をもたげて、殺し屋の乗る車に突進していった。
 チュイーンとヘルメットの横を弾丸がかすった。
「くそっ」
 本多は罵りながら上体を大きく左右に振った。
「カワサキ、生きとるかあ?」
「あたりまえじゃ。ヘナチョコ弾なんかに当たるかい」
 カワサキはそう言ったあと、
「おぅおぅおぅ」と吠えた。
 本多も負けじと叫ぶ。
「ぼーんとぅびわー」
 ビシっという音と共に車体がぐらついた。
 フロントのどっかに着弾したんやろ、このままじゃ、やられる、どないしたらええのんか。そや。本多に閃きがきた。
「カワサキ、クラクションや」
 言うと同時に本多はボタンを押して、クラクションを鳴らしっぱなしにした。カワサキもすぐに反応する。クラクションと爆音のミックスされたノイズが前方に迫る殺し屋を襲った。
 突然の轟音に殺し屋は集中力を失ったのか、銃声はしても弾は当たらなかった。そして数秒後、車は二台のオートバイと正面衝突寸前に右に逸れた。それまで車が占めていた空間にオートバイがなだれ込む。本多とカワサキは歓声を上げながらウイリー走法を止め、道幅いっぱいを使ってUターンした。次の攻撃に備える必要があったからだ。
 二人が見ると黒い車は走行車線に戻っており、運転席に立っていた男の姿はなかった。すぐにUターンしてくると思われたが、そのまま走り続け、直線の端のカーブを曲がって彼らの視界から消えた。
「どうなっとるんじゃ?」とカワサキが言った。
「プロ意識が低い奴じゃのぉ」
「キャッチフレーズはなかなかのもんやったが、なんせオークションに出てる程度やしな。まあ、そん中でもましなのを選んだつもりやけど」と本多が苦笑いして言う。
「もしかして、途中で待ち伏せしとるかもしれんで」とカワサキ。
「まあ、その可能性は無きにしも非ずやが。おいまて、途中っておまえ、また益田に引き返すちゅうことか?」
 本多は大袈裟に驚いてみせる。
「なに言うとる。おまえも、そのつもりじゃろうが」
 カワサキが呆れ顔で言った。
「まあな」
 本多はあっさり認めると、おい、と言葉を続けた。
「あそこに何か黒いもんが落ちとるが、ありゃなんやろ」
 本多が指差したのは百メートルほど向こうの対向車線にある黒っぽい物体だった。そのとき直線の端のカーブから対向車が現れた。長距離輸送のトラックだった。トラックはかなりのスピードで近づいてきた。
「おい、油断すなよ」と本多が言い、カワサキがうなずく。
 トラックは瞬く間にその姿を大きくし、先程本多が指差した黒いものを風圧で吹き飛ばして二人に迫ってきた。本多はイージーライダーのワンシーンのように車の窓からライフルの銃身が突き出されるかもしれないと身構えながら、カワサキに目で注意を促した。カワサキも同じことを考えていたらしく、緊張の面持ちだった。しかし、ゴーっという音と風を彼らに浴びせただけで、トラックはあっけなく通り過ぎていった。
「なんじゃらほい」
 体から緊張を解きながらカワサキが言った。
「拍子抜けじゃ」
「なかなか映画のようにはいかへんな。まあ、それでええんやけど。そらそうと、トラックが飛ばした黒いもんを見にいこか。なんとなく気になるよってな」
 本多はクラッチを切ってギアを入れると、バイクを発進させた。カワサキもそれに続く。地面に張り付いている黒い物体のそばまで行った彼らは、バイクを下りた。
「こりゃ、たまげたな」
 そう言ってカワサキはその物体をつまみ上げた。それはカツラだった。
「特注やで。もみあげまで付いとる。ここまでくると病気やな」と本多が呆れる。
「マニアってのは、そんなもんじゃろう」
「そやな。そやけど、何でこんなもんがここに落ちとるんやろ」
「たぶん風圧で頭から飛んだんじゃろ。急カーブ切ったしな」
「それでか」と本多が言った。
「それで運転席に奴の姿がなかったんや。自分のイメージダウンを恐れたんやろ」
「なら、あいつにとって二重の動機ができたってことじゃな」とカワサキが言う。
「どゆことや?」
「つまり仕事としてのミッションと、口封じのためのそれ」
「なるほど。なら、手を打たにゃならんな」
「どがぁするん」
「まかしとき」
 本多はハーレーのバックシートの両脇に取り付けてあるサドルバッグの中にカツラを収めると、皮ジャンのポケットからPWA用の超小型コンピュータを取り出し、全周波数帯域サーチモードにして、ヘルメットに装着されたマイクでゴルゴというキーワードを音声入力した。殺し屋が自分のPWAにそのキーワードを設定していれば、このメッセージをピックアップする可能性がある。続けて本多はメインのメッセージを録音した。
「手短に話すで。依頼はキャンセルや。あんたが落としたもんはしばらく預かっとく。必ず返すけん心配すな。わしらに手を出せば、秘密が世間に知れるよう手配したけん」
 録音を終えると、本多は二十四時間発信設定にしてサーバーにアップした。これで、相手が受信するまで一定間隔でメッセージの発信が続くことになる。
「これでええやろ。まあ、どうなるかわからへんけど。もしかしたら待ち伏せされるかもしれへんな」
「そうじゃな。なら、時間は食うが遠回りするか。海沿いの道と平行に走っとる山ん中の道を行くんじゃ」とカワサキが提案する。
「もうじき日が暮れるな」と本多が左後方を振り返って言った。
 秋晴れだった空は、天頂部から水平線にかけて、透明な青から薄いオレンジ色へとグラデーションを描いている。やがて太陽が刻々と大きさを増し、日没の壮大な光景を見せてくれるだろう。
「打歌山に着く頃には黄昏れとるじゃろう。行ってどうなるんか、何がしたいんか、おまえわかっとるんか?」とカワサキが訊いた。
「いや、具体的になんも考えてへん。ただ、あの子のことが気になるだけや。おまえは、どや?」
「わしも同じじゃ」
「そうか。結果的にあの子が、わしらの死出を引き止めたことになるな。間に合えばええが」
「どがぁじゃろう。けど、もう一度会える気がするで」
「そやな。さ、いこか」
 本多は上げていたヘルメットのシールドを元に戻すと、クラッチレバーを引いてギアを一速に入れた。
 彼らは再び益田に向けて直線道路を進み、殺し屋の車が走り去ったカーブ手前の脇道を右折して山の中に入っていった。標高が上がるにつれて、中央ラインのある二車線道路はやがて一車線になった。バイクのシートから見上げると、前方に広がる空が夕陽に照らされて、まるで西方浄土のように燃えている。エンジン音を響かせながら通り過ぎる村を包む大気は、夕方独特の青に染まってきた。そして空の高みには、静かに出番を待つ月がかかっている。
「今夜はええ月夜になるな」とカワサキが言った。
「そやな。おかげで山道も歩きやすい思うで」
 本多は月光を浴びながら打歌山を登っていく自分たちの姿を想像した。
「けど、少し寒うなってきたな。やっぱ夏みたいにはいかん」
 カワサキは少し声を震わせた。
「普通のツーリングやないけん、合羽も持てきてへんしな」
 本多はそう言って皮ジャンのジッパーを引き上げ、襟を立てた。
 それから彼らは小一時間ほど走り、昼間とは反対の方向から打歌山に近づいていった。山は残照の空をバックに不思議な存在感を見せていた。空気は澄んではいるが、とろっとした密度も併せ持っていた。
 途中で昼間通った道に合流し、細い山道を登っていくと、やがてドーム形の建物がバイクのヘッドライトに浮かび上がってきた。
「夕波さん、中におるろうか」とカワサキが言う。
「どやろな。たぶん宇宙船の中やないかな。眠る彼氏に付き添ってるやろ」
「そうじゃな。ともかくバイクをとめるか」
 カワサキはドームハウスの前庭にバイクを乗り入れ、本多がそれに続く。アイドリング状態になったエンジンは、走行中ほどではないにしても腹に響く音を発しており、ハウス内に夕波がいれば何らかの反応があるはずだった。
 ヘッドライトがドアを照らしている。ドアの脇に指紋照合用のパネルが見える。本多はそのパネルに白く細長い指を押し当てている夕波を思い浮かべた。そして、あの子がこの地球からいなくなるなんて、あっちゃならんやろと強く思った。
「どうやら気配がないようじゃな」とカワサキが気落ちした声を出す。
「山道を登ってあの岩んとこに行っても、リモコンがないと入れへんしな。今夜はここで野宿するか」と本多が言った。
「野宿いうても、どがぁするんじゃ」
 カワサキはハーレーに跨ったまま、そう訊いた。
「わしらは鉄の馬に乗ったカウボーイやん。カウボーイは野宿するもんと相場が決まっとる」と本多が答える。
「そうか、カウボーイか。オールド・カウボーイやな」
 カワサキは納得した顔でキーに手を伸ばし、エンジンを止めようとした。
「おい、待て。明かりがいるけん、バイク回して、こっち照らしてんか」
 本多は両足を使って自分のバイクの向きを変えながら、ヘッドライトのビームでハウスの右手奥を示した。カワサキが見ると、畑とその奥にある雑木林が照らし出されていた。
「さっきここに入ってくるときに気づいたんや。どうやら家庭菜園みたいやな。なんか食えるもんがあるかもしれへん。まず薪を集めて火を熾そう」と本多が言うと、
「よっしゃ。そういやあ、腹減ってきたもんな」とカワサキは丸く突き出た腹部をさすった。
 二台のバイクのエンジンをかけっぱなしにしておいて、彼らはさっそく雑木林に分け入って枯れ枝や落ち葉を集めてきた。そうして畑の手前にある平地に積み上げると、本多が皮ジャンのポケットからライターを取り出した。今回オートバイを買った際に、販売店のオーナーにもらったジッポーのオイルライターだった。ライターの側面にイージーライダーのロゴがレリーフになっている。本多が点火すると、まず下の方に敷いた枯れ葉が燃え上がり、その炎が小枝に移った。
「すまんが、大きめの木を集めてきてんか」と本多が頼んだ。
「おう」
 カワサキは再び林に向かい、本多は火が消えないように注意深く焚き火を作っていった。やがてカワサキが両腕に枯れ枝を抱えて戻ってくると、数本を火にくべたあと、彼らはバイクのエンジンを切った。
 しばらくは耳にエンジン音の残響があったが、間もなく静寂がそれに取って代わった。
 カワサキが集めてきた枯れ枝はやがて真っ赤に燃え上がり、しだいに熾になっていった。焚き火を囲んで地面に座った彼らの顔を炎が赤く染めている。
「このくらい灰ができたらいいやろ。カワサキ、火の番頼むで」
 本多はそう言って立ち上がった。
「どこにいくん」
「晩飯を調達するけん」
 そう言い置くと、本多はハウスの側に建っている小さな物置小屋まで歩いていった。そして引き戸を開けると、
「思うた通りや。畑仕事の道具がある」と振り返ってカワサキに言った。
 本多は月明かりに照らされた小屋の中から鍬を取り出すと、それをかついで菜園に行った。
「何を掘るんじゃ?」とカワサキが声をかける。
「まあ見ときや」
 本多は鍬を振り上げると、地面を掘り始めた。しばらくして彼は両手に掴んだものを物置小屋の側にある水道まで運んで、水を流しながら洗い始めた。付いている土を落とし、両手で振って水気を切ると、焚き火まで戻ってカワサキに見せた。
「芋か」
「そや。熱い灰の中に埋めておくと、ええ感じに焼けるで。腹の足しにはなるやろ」
 本多は大振りなサツマイモを四つ地面に置くと、側にあった木の枝で灰を掻いて小さな穴を掘り、その中に芋を埋めた。
「あとは焼けてからのお楽しみや」
 本多は嬉しそうに言った。
「何か熱いもんが飲みたいのぉ」とカワサキが溜め息まじりに言う。
「ほんまやな。普通のツーリングなら自炊セットを積んでるんやが、今日は特別やしな。まあ、喉乾いたら、そこの水道から飲みゃええやん」
「そうじゃな。ほれ、おまえも腰下ろして火に当たれ」
 カワサキは焚き火の向かい側を指差した。
「おう」と本多は地面に座る。
 日が落ちたあと気温は下がっていたが、焚き火の熱が寒さを和らげていた。
「長い一日やったな」と本多がしみじみと言った。
「ああ。けど、まだ終わっとらんじゃろう。今までは予告編みちょうなもんで、これから本編が始まるんちゃうか?」とカワサキが返す。
「そやな。なんかそんな予感がするけん、まずは腹ごしらえしよ思たんや。戦になるかどうかは、わからへんが。そりゃそうと、夕波は母船の中におるんやろか? あの宇宙人が目覚めたら、辛い選択が待っとるしな。わしがこんなこと言うのも変やけど、あの子を何万光年も彼方の星へなどやりとうないねん」
 本多はそう言うと寂しそうな顔をした。
「そりゃ、わしも同じじゃ。しかし、わしらはなんであの子が気に掛かるんじゃろう。わしらから見れば孫みちょうなもんなのに。一方では、わしらはほんとの孫たちを残してこの世を去ろうとした。むろん幸せを願いながらではあるが」とカワサキが首を傾げる。
「たぶん、こういうことやろ。孫や子なんかの肉親たちとは、ある距離感があるんや。これは水臭いちゅう意味やのうて、たとえ親しい間柄でも別個な人格ちゅう当たり前のことなんやけどな。それが夕波に対しては、そうやない気がする。あまりにも近いいうか。なんやろな、この感じは」
「そりゃきっと魂が近いいうことかもしれん。むかし読んだ本の中に、全ての生き物の魂は大きな一つの木みたいなもんで、それが無数に枝分かれしとるんじゃけど、末端の小枝の隣同士の葉っぱは親密じゃと、ほぼおんなじ魂と言ってええと、そんなことが書いてあった」
「なら、わしもおまえも夕波も、ごく近い魂の持ち主ちゅうわけか」
「そうじゃな」
「うーむ、おまえとは幼稚園からずっと一緒やし納得できるが、人生も終わり近くになって、そんな親しい間柄のもんと出会うなんてな」と本多は感動を覚えながら言った。
「思うに、人生において、いつ出会うかよりも、出会うか出会わんかということじゃないろうか?」
 カワサキはそう言うと、鼻を鳴らした。
「おい、ええ匂いがしてきたのぉ。そろそろ食べ頃じゃあないか?」
「もうちょいやな。とたんに腹が減ってきたで」
 本多も香ばしい匂いを吸い込んだ。
 辺りはすっかり暗くなり、木のシルエットや山の稜線に切り取られた夜空に、真ん丸な月が出ている。風は無く、穏やかで透明な秋の夜だった。
 五分ばかり様子を見たあと、本多は木の枝を手にして灰の中から芋を掘りだした。表面は焦げていたが、草の上でしばらく冷ましたあと手に取ってみると、適度な弾力が食欲をそそった。
「さあ、食うか」
 本多は手のひらで灰を払うと、二個の芋をカワサキに手渡した。
「待ってたで、お芋ちゃん」
 カワサキは戯けて言うと、両手で芋を二つに割った。とたんに湯気が立ち上り、旨そうな匂いが漂った。息を吹きかけたあと、さっそく口にする。
「こりゃぁ旨いで」とカワサキは嬉しそうだ。
「そやな」
 本多も、ほくほくと口を動かす。
「食いもんがこんなに旨い思うたんは久々かもしれん。まさに生きとるちゅう感じがするな」
 二人はしばらく黙って焼き芋を食べた。どこからともなく虫の音が聞こえてくる他は、これといって音のしない静かな夜だった。
「おい」と不意に本多がささやいた。
「なんじゃ」
 カワサキも釣られて小さな声で言った。
「何か音がせえへんかったか?」
「どんな」
 カワサキは耳を澄ましてみる。
「虫の音しか聞こえんで」
「何かが近づいてくるような音がしたんや。いや、音がしたちゅうよりも、気配がしたんかもしれへん」
 本多は注意深く周囲を見回した。月光が注ぐ木々の梢が、夜の中に静かに横たわっている。思い出したように風が立って、木の葉をさわさわと揺らした。
「あっ」とカワサキが声を上げた。
「聞こえたで。あっちの方からじゃ」
 カワサキの指先は、昼間夕波が先導して登っていったドームハウス右手の山道を指していた。
「誰かが坂を下りてきよるな」と本多が言った。
「夕波さんじゃろうか」
「いや、違うやろ」
「なら」
 カワサキは、その後の言葉を飲み込んで本多を見た。本多の顔に緊張が走った。
「カワサキ、音を立てんように農機具小屋まで行って、武器になりそうなもんを調達するんや」
「おう」
 二人は焚き火の側からゆっくりと立ち上がると、抜き足差し足で小屋に向かった。小屋に着くと、できるだけ音がしないように引き戸を開けた。本多がライターを点けると、小屋の内部は一瞬オレンジ色に染まった。カワサキはスコップを手に取り、本多は鎌を掴んだ。そして戸を開けたまま焚き火のところに戻ると、山道の方に顔を向けて腰を下ろした。
「油断すな」と本多が言い、
「わかっとる」とカワサキがうなずく。
 何かが近づいてくる気配はますます濃厚になり、本多は背筋に悪寒を感じ始めた。カワサキも座ったままスコップの柄を握りしめている。それからしばらくして彼らの緊張がピークに達したとき、ふっと気配が消えた。
「ありゃ?」
 カワサキは、そう言って大きく息を吐き出した。
「殺気みたいなもんが消えてしもうたな」と本多も怪訝そうな顔をする。
「熊かなんかかもしれんな。熊なら早朝や夕方に活動するけぇな」とカワサキは、そう思い込もうとするかのように言った。
「幻聴やったかな。わしら、いささか疲れたんかもしれへん」
 本多は体から緊張を解きながら、持っていた鎌を地面において、ふと山道の方を見た。
「ぐっ」と本多は息を呑む。
 本多の視線の終点には、焚き火の炎と月明かりに照らされた人影があった。カワサキも本多の視線をたどり、目を見開く。驚きで声も立てられない二人が凝視する中を、人影はゆっくりと近づいてきた。本多は気を取り直して、いったん置いた鎌を右手で握りしめた。カワサキもスコップに手を伸ばす。
 薄闇にぼんやりと溶けていた人影は、近づくに連れてその正体を現してきた。それは長身の男で、体を黒っぽいマントで包んでいる。髪は長めで、グレイがかった色をしており、顔付きは一種独特だった。西洋人のようでもあり、色白な東洋人のようでもある。この段階で、すでに本多とカワサキには男の正体がわかっていた。
「あんた」
 そう言って本多は、ゆっくりと立ち上がった。鎌は持ったままだった。カワサキも本多に続く。
「カプセルに横たわってた人やろ?」
 本多の問い掛けに無反応なまま、男はさらに近寄ってきた。
「おい」
 言いながら、カワサキはスコップを手に身構えた。
 男はもう数歩近づいたあと、動きを止めた。男の目付きは妖艶な感じがした。年齢は三十代後半から四十代初めといったところだろうか。夜の闇を背景に、チロチロと燃える焚き火に照らされたマント姿の男はまるでヴァンパイアのようだった。
 二人と一人は立ち尽くしたまま、しばらく向かい合っていた。本多は自分の心臓の高まりが相手に聞こえないことを祈った。
「わたしは」
 突然、男が口を開いた。幾千の夜の秘密に磨かれたような深く響くバリトンだった。
「怪しい者ではありません。この家の住人です。あなた方は、他人の家の庭で何をしているのですか?」
「しゃ、喋った」とカワサキが驚きの声を上げる。
 本多はカワサキの方をちらっと見たあと言った。
「たしかに、わしらは闖入者や。じゃが、あんたがこの家の持ち主やいう証拠でもあるんかいな」
 男は本多の言葉を受けて、しばし無言でいたが、
「いいでしょう。付いてきてください」と言ってドームハウスの方へ歩き始めた。
 本多とカワサキは互いに顔を見合わせたあと、男に続いた。

 玄関の前まで行くと、男はマントの下から腕を出した。手には何かが握られており、本多は一瞬それが拳銃に見えて、手にした鎌を胸の前で構えた。しかし男が持っていたのは、夕波が使ったのと同じようなリモコンだった。男がリモコンを操作すると、ロックが解除された。夕波はドアの横にある小さなパネルに指を押し当てて開けたから、複数の開け方があるのだろう。男はドアを開けて振り返り、本多とカワサキに言った。
「どうぞ、お入りください。ただし、その物騒なものは」
 男は二人が持つ鎌とスコップに目をやりながら言った。彼らが躊躇していると、男はさらに続けた。
「どうしたのです。恐いのですか?」
 本多が見ると、男は顔に薄笑いを浮かべていた。本多の負けじ魂がムクムクと湧き起こった。
「あほ言え、恐いわけあらへん。地獄へでもどこへでも行ってやらあ」
 本多は持っていた鎌を地面に放り出した。
「あなたは?」と男がカワサキを見て言った。
「訊くまでもないわぁや」
 カワサキもスコップを投げ出した。
「では、どうぞ」
 男はドアを開けっぱなしにして、先に入っていった。本多とカワサキも彼に続く。
 室内は昼間と何も変わりはなかった。男はキッチンらしき場所まで行き、湯沸かしポットに蛇口から水を入れてガスコンロにかけた。どうやらここには宇宙船内にあったような利器はなさそうだった。おそらく正体がばれるのを警戒してのことだろうと本多は思った。
「熱いお茶を淹れましょう。できるまで掛けてお待ちください」
 男は壁際にあるソファを示しながら言った。ソファのそばにはギターとアンプがあった。腰を下ろしたあと、本多がギターを指差して訊いた。
「あんたのかね?」
 男はキッチンの脇にある椅子に座ったまま答えた。
「そうです」
「バンドやってはんの?」
「いえ、一人で弾いて楽しむだけです。ときたま夕波が一緒に歌いますが」
 いきなり男の口から出た夕波という名に、本多とカワサキは強く反応した。
「あの子は、どこにいるんや?」
 本多は詰問とも取れる口調で言った。
「あんたを見守ってたはずじゃが」
 カワサキも身を乗り出す。
「あなた方のことは存じ上げていました」
 男は素っ気無く答えた。
「あの子から聞いたんやろ?」と本多が言った。
「わたしが目覚めると、夕波はソファで寝入っていました。きっと疲れ果てたのでしょう。監視モニターをチェックすると、あなた方が映っていました。わたしは夕波の記憶にアクセスし、事故のことや、それ以後のことを知りました」
「記憶にアクセス? いくら親しい仲でも、そんなこと許されんじゃろう」とカワサキが抗議する。
「非常事態ですから。普段そんなことはしません。さて、お湯が沸いたようです。わたしが育てたお茶の木から摘んだ葉です。香り高くておいしいですよ」
 男は戸棚から円筒形の缶を出して、中身を急須に入れた。そして少し冷ました湯を急須に注いだ。
「なら、あの子は宇宙船の中にいるんやな?」と本多が訊いた。
「蘇生カプセルの中で眠っています。ご心配には及びません」
「そうか」
 本多はほっとした表情になった。
「さあ、できました」
 男は急須から湯呑みに茶を移したあと、盆に乗せて二人に差し出した。
「どうぞ。言うまでもなく、悪いものは入っておりません」
 気持ちを見透かされた彼らは、少し動揺しながら湯呑みを受け取った。
「ほいじゃあ、ごちそうになるわ」
 カワサキは鼻先で湯気を割って、熱い茶をすすった。
「旨い。こりゃ旨いで」
「そうですか。それはよかったです」
 男はキッチンに引き返し、今まで座っていた椅子をソファの近くに運んで腰を下ろした。そして湯呑みに口をつけた本多に尋ねた。
「いかがですか?」
「なかなかのもんや。あんた、外の菜園といい、園芸に長けてはるんやな」
「こんなところに長年暮らしていると、他に楽しみもありませんから」
「どのくらい、ここにいるんや?」
「千三百年ほどになります」
 男は、さらりと言った。
「信じ難いことやが、なんとなく納得してしまうのは、なんでやろ。あの子からも聞いていたからやろか」
 本多はそう言って茶をすすり、さらに続けた。
「そやけど、なんでこんな秘密をわしらに話すんかわからへん。まさか、あとで口封じする気やないやろな」
「ご心配なく。夕波が信頼した相手だからというのが、その理由です」
「それを聞くと」とカワサキが言った。
「あんたのことも信頼せにゃならんいうことになるのぉ。理由はおんなじじゃ」
「そうしてください」
 男はかすかに笑った。
「ついでに訊くんやけど」と本多が言った。
「あんたのギター、年代物みたいやけど」
「1957年製レスポールカスタムの2ピックアップモデルです。ブラック・ビューティーの愛称で呼ばれていたものです」
「ああ知っとるよ。しかし、えらい古いもん手に入れたもんやな」
「インターネットでオークションが流行った時代に買いました。アンプも同様です」
「なんでまたレスポールを」
「形というか、たたずまいが好みだったのです。自分で弾いてみたいと思いました。わたしの生まれた星には、音楽というものがありませんでした。だから当然、楽器もありません」
「音楽がないなんて信じられへんな」
「宇宙は広大無辺で、在り方も多様です」
「そんなもんかいな。ところで、ギターの前には何か楽器弾かんかったんか?」
「この星に来て以来、楽器はギターが初めてです。色々なもので気を紛らせてきましたから」
「気を紛らすって、あんた、音楽は暇つぶしかい」
「そうです。長年生きていると、同じものでは飽きてしまいますから。ここに着いてから最初に始めたことは、和歌を詠むことでした」
「和歌?」
「地球に不時着してまず最初に行ったのは、姿形をできるだけ人間に似せること、そして言葉を習得することでした。体の器官を使って音声を発し、それに意味づけして意志を伝達する方法や、文字というツールを使って意味を記録するやり方は、とても興味深いものでした。当時の日本語を身につける過程で和歌に出会い、わたしも詠んでみることにしました。ある程度のものが作れるようになったとき、わたしはペンネームを考えてデビューしました」
「ペンネーム? なんちゅう名や?」と本多が訊いた。
「柿本人麻呂です」
「まさか」
「本人が言うのですから、間違いありません」
「本人て」とカワサキが苦笑する。
「人麻呂の正体は、はっきりしてへん。これまで伝説上の人物扱いやったが、やはり実在したんやな」と本多が感慨深げに言った。
「まてよ。ちゅうことは、あんたは人麻呂以降の歴史の生き証人やないか」
「そうとも言えますね」
「歴史の真実を知っとりんさるんじゃな」とカワサキが言う。
「歴史の真実というよりも、人間の本質ですね。千三百年も見続けてくると、骨身にしみてわかることがあります」
「どんなことかね?」
「人間と我々とは生きるために使う燃料が違うということです。我々のは慈しみで、人間のは憎しみです。地球上から諍いや殺し合いが無くなった日は一日もなく、今後もないでしょう。こんな野蛮で危険な星に愛する者を残していくわけにはいきません」
「夕波さんのことか?」
「そうです」
「じゃけど、夕波さんは迷っとったで」
「当然です。生まれ故郷を離れるということは簡単ではありません。しかも、もう二度と帰れないとなるとなおさらです」
「どゆことや?」
「夕波と、というより人間とわたしとは体を構成するものが異なっています。だから、わたしのように長期間に渡って肉体を維持することは困難です。いったん旅立ってしまうと、夕波の生きているうちに再びこの星に帰還するのはまず不可能でしょう。もっと言うと、わたしの星に戻る途中に生を終えることも考えられます」
「そやったら、連れてくの止めとけや」と本多が語気を強めて言った。
「人間はな、生まれたとこで死ぬのが一番幸せなんや。そんな暗く冷たい宇宙空間や最果ての星で一生を終えるのは、あまりにかわいそうやないか」
「おっしゃるとおりです。しかし、どこで死ぬかということも重要な問題でしょうが、どう生きるかということはもっと大切なことではないでしょうか。やっと出会えた愛する存在と命ある限り一緒にいたいと願うのは、人間も我々も変わりはありません。わたしと夕波とは、そんな離れがたい間柄なのです」
 男の顔に、切なさと呼べるような表情が浮かんで消えた。
「矛盾しとる」
 本多が鋭く言った。
「あんたはエゴイストや。言うとることがムチャクチャやないか。どう生きるかが大切やて? そうや、そのとおりや。やっと会えた相手と離れるべきやない? そうや、そのとおりや。なら、あんたがここに残るべきちゃうか? かけがえのない相手に悲しい思いをさせて、何が愛するや。それに、あんたの方が長生きするんやから、せめてあの子が生を全うするまで、この星にいたらどうや?」
 本多の激しい言葉に動揺したのか、男はしばらく無言でいた。
「おまえの言うとおりじゃ」
 カワサキは本多を見て言った。
「おっしゃるとおりです」と男が口を開いた。
「わたしがここに残るべきでしょう。それは、よくわかっています。ただ、わたしにとって、これが最後のチャンスなのです」
 本多とカワサキは男の言葉に注目する。
「わたしはこの星に不時着して以来、何とかして故郷に還りたいと思い続けてきました。その思いが失せた日は一日とてありません。帰郷するためには宇宙船を修理せねばならず、しかし修理のための部品が足らず、この星の科学技術のインフラが整うのを待つ必要がありました。わたしからも持っている技術を、それとわからない方法で提供し、同時に資金も確保しました。現在この星にある重要な科学技術の多くは、わたしが提供したものです。そして二十一世紀に入って、ようやく修理のめどが付き、これでやっと帰途につけると喜んだのも束の間、母船を修理するのは無理なことがわかったのです。それで対象を非常脱出用の小型スペースシップに変更し、なんとか実用可能なところまで漕ぎ付きました。ただ、この船では地球引力からの脱出はできるものの、故郷の星まで辿り着くには力不足なのです。わたしは何とかしようと必死で考え、唯一無二の方法を見つけました。それは時空の裂け目を利用して故郷の星の近くまでワープすることでした。わたしはそれから観測を続け、時空の裂け目が地球に接近する時期を割り出しました」
「それが今日というわけやな」と本多が口をはさんだ。
「おっしゃるとおりです。奇跡的に遭遇したこの機会を逃すと、もう二度とワープすることはできないでしょう。先程あなたが言われたように、確かにわたしがこの星に留まるべきだと思います。しかし望郷の思いも、気も狂わんばかりに強いのです。想像してみてください。千三百年もの長きに渡って、同族や故郷から遠く離れて、たった一人で生きるということを。そして、このわたしの思いを唯一人解ってくれたのが夕波だったのです。だからこそ、わたしと一緒にこの星を離れてもよいと半ば思ってくれたのです」
「半ばかね」
 カワサキが、ほっとしたような、反面心配でもあるような顔で言った。
「そうです。半ばです」
 男も、喜びと哀しみが溶け合わさったような表情になった。
「初対面のあなた方に語ってしまいました。聞いていただいて感謝します」
 ここまで話して、男は初めて自分の湯呑みから茶を飲んだ。部屋に入ってもマントは身に着けたままだ。限りなく黒に近いダークグレイのマントの上に、色白の顔と銀色の髪があった。改めて見ると、男は知的で品のある顔をしていた。
「是非はともかく、あんたの気持ちはようわかった。そらそうと、名前はどういうんや?」と本多が訊いた。
「山端と申します。枕草子から引用しました。秋は、夕暮。夕日のさして、山の端いと近うなりたるに、烏の寝どころへ行くとて、三つ四つ、二つ三つなど、飛び急ぐさへあはれなり」
 男は一節を諳んじてみせた。
「ふうん、変わった名やな。あんたが人麻呂やったんなら、なんで柿本の姓を使わへんのや?」
「人麻呂は罪に問われて刑死したことになっていますから、その名を冠するのは避けた方が無難だったのです」
「なんで罪に問われんさったんかね」とカワサキが興味津々で訊いた。
「当時の考え方のレベルから突出してしまったのです。気をつけてはいたのですが、いつのまにか危険人物としてマークされ、ついには処刑されることになりました」
「処刑て、どがぁな?」
「水刑です。船に乗せられて沖に連れていかれ、大きな石を抱きかかえた格好で縛られて、海中に投げ込まれました。わたしはこのことを予想していましたので、予めえら呼吸のできる装置を喉の奥にセットしておきました。そして水中で体を軟体化させて縄を抜け、少し離れた海岸に泳ぎ着いたのです。そのあと密かに母船に戻って、ほとぼりが冷めるまで姿を隠していました。以後は、各時代に合わせて様々な人物に成り済まし、今に至ったというわけです」
「うーん、にわかには信じ難い話やなあ」と本多が唸る。
「本人が言うのですから、間違いありません」
「また、それかね」とカワサキが笑い声を上げた。
「たしか若い妻がいたはずやが」
 本多は、ふと思い出して言った。
「ええ、依羅娘子という名でした。心根の優しい人でした。わたしが刑死したあと、再婚したと聞きました」
「その人の前にはもう姿を現さんかったんやな」
「はい。わたしが現れたら、妻に危害が及ぶからでした。それから千年以上に渡って何人もの妻をめとり、最期を看取ってきました。彼女たちの老化に合わせて、わたしも老けていかねばなりませんでした。つまり、メーキャップで対応したのです」
「ほう」
 本多は山端の顔をしげしげと見た。夫はいつまでも若さを保ち、妻のみが老いていく。よくよく考えてみると、これはかなり奇っ怪なことだった。考えようによっては、なんという孤独なことだろう。
「子供はできんかったんかね?」とカワサキが尋ねた。
「人間とは染色体の種類が異なっているという理由で、性行為はできても生殖は不可能なのです」
「そうじゃったか」
 カワサキは溜息をついた。
「あんたは、ほんまにずっと独りで生きてきたんやな」と本多が言った。
「そうですね」
「そしてあの子に出会った」
「はい」
 本多が何気なく見上げると、天窓の彼方に丸い月が見えた。この山端と名乗る宇宙人が地球に落ちてきた当時も、今夜と同じく澄んだ夜空に月が輝いていたやろかと本多は思った。
「山端さん、最後に一つ訊いてええかね?」とカワサキが言った。
「はい」
「結局、あんたは旅立つんか? それとも」
 山端は、しばらく黙って考えていた。
「今朝、わたしは出発するつもりでいました。けれど、夕波に別れの電話をして船内に入ろうとした矢先に、いつもの発作が起きてしまいました。わたしの心の底に迷いがあったからなのか、夕波の思いがそうさせたのか、いずれにせよ出鼻を挫かれてしまいました。このことが何を意味するのかわかりませんが、今は夕波の判断にゆだねる気になっています」
「てことは、夕波さんが望めば、ここに留まることもあるってことじゃな?」
「そういうことです」
「あるいは、共に旅立つか」
「あるいは」と本多が加わる。
「あんたが去って、あの子が残るか」
「そうじゃな、三通りの道があるってことになるか」
 カワサキも本多も山端の顔を見つめた。山端も視線を返す。彼らはそれから、しばし無言でいた。
 やがて山端が言った。
「そろそろ夕波を起こさねばなりません。人間があまり長く蘇生カプセルに入っていると、細胞が活性化しすぎて危険なのです」
「そりゃいけん。はよう起こしてやりんさい」とカワサキが驚いて言った。
「あなた方はどうされますか? 今夜はここに泊まってもらってもかまいませんが」
「あの子に会わせてもらえんかね」と本多が山端の目を見て言った。
「夕波にですか?」
「そや」
 山端は、まるで本多の心の中を探るようにじっと見つめてきた。本多はその視線にいささか狼狽えつつも、山端の瞳の向こうに夕波の笑顔を見ていた。
「わかりました。わたしと一緒に来てください。もうすでにお越しいただいてるわけですし」
 そう言うと、山端は立ち上がった。
 ドームハウスの外に出ると、辺りは明るかった。雲一つない天空には月の光が隅々まで届いており、地上にも無数の光の矢が降り注いで、オートバイの影がくっきりと地面に落ちていた。
 彼らは山端を先頭に山道を登り始め、やがて母船への入口になっている岩のところに着いた。山端はリモコンで扉を開き、本多とカワサキを内部に導いた。壁自身が発光する廊下を行くと、小型宇宙船があるホールがあった。宇宙船は昼間見たときと違って、何か力のようなものが感じられた。もしかすると離陸準備が整った状態なんかもしれへんと本多は思った。彼らはホールを横切って、向かいにある小部屋に入っていった。
 部屋の中には蘇生カプセルがあり、透明なカバーの内部に夕波の体が見えた。顔は器具で覆われていたが、体にぴったりした服をまとった胸のふくらみが小さく上下していた。山端がカプセルに付いているボタンを押すと、カプセルの内部が白っぽい光に包まれた。そしてしばらくすると、カプセルのカバーと顔面を覆っていた器具が左右に割れて、台の内部に収納された。
 三人が見守る中を、夕波がゆっくりと目を開いた。その目覚めは、永い漆黒の夜にようやく現れた日の出の予感のようだった。最初は目の焦点が合わないのか心許ない表情だったが、しだいに瞳が輝きを帯びてきた。そして、はっと息を呑む音と共に上半身を起こそうとした。しかしまだ筋肉に力が入らない様子で、背中をわずかに浮かせたに留まった。
「あたし」と夕波が声を上げた。
「いきなり喋らない方がいい」
 山端は優しく言って、夕波の手を握った。
「ヒトちゃん」
「ああ」
「きっと間に合うと思ってたわ」
 山端は無言でうなずいた。
「よかった」
 夕波は安堵したのか、いったん目を閉じた。間もなく閉じた瞼から涙が溢れてきた。
「よかったなあ、夕波さん」とカワサキが言った。
「え?」と夕波が目を開けて辺りを見回した。
「カワサキさん? なぜここに?」
「本多もおるで」
「よー」
「本多さん。いったいどうなっているの?」
 夕波は驚きながらも嬉しそうだった。
「GGライダーが再び参上つかまつった」と本多が戯けて言った。
「ここから出たいわ。ヒトちゃん、起こしてくれる?」
 夕波は甘えた声を出した。
「わかった」
 山端は夕波を横抱きにしてカプセルから出すと、ソファまで運んで座らせ、自分も隣に腰を下ろした。夕波は山端に上体を預ける。
 本多とカワサキは壁際の床に座って、壁に背中をもたせかけた。
「なんだか不思議な感じ」と夕波が言った。
「まるでファミリーみたいに心地いいわ」
「てことは、夕波さんが孫で、わしらが祖父じゃな」
 カワサキはそう言って、まてよ、と付け加えた。
「一番年上は山端さんじゃ。なんせ千三百歳以上じゃけぇ。いや、見掛けは全然若いけどな」
 カワサキの言葉に、みんな一斉に吹き出した。
 本多は山端の笑う顔を見ながら、奴はいつ頃から笑うことを覚えたんやろと考えていた。もしかすると奴らには笑うちゅう概念がなかったんやなかろうか。それが長い年月の間に、しだいに身に付いていったんか。それとも夕波に出会って初めて微笑むことができたんか。
「どうして、またここに?」と夕波が二人に訊く。
「あんたに、もいちど会いたかったんや。それに」
 本多は言いよどんだ。
「それに何なの?」
 ちらっと山端の方を見てから、本多は言った。
「あんたを遠くに行かしとうなかった。わしの価値観からすると、あんたはきっと寂しい思いをするに違いないからな」
 本多の言葉は夕波を動揺させたようだった。重くなった場の空気を察してカワサキが言った。
「なあ、夕波さん。あんた、山端さんのことをヒトちゃんと呼んどったが、名前がヒトシとか何とかなんか?」
「違いますよ。かつて柿本人麻呂だったことがあるから、ヒトちゃん。シンプルでしょ?」
「そうなんか。で、今の名は?」とカワサキが山端に訊く。
「特に名乗っていないのです。苗字が名を兼ねています」
「だから、あたしが勝手に付けたの」
「そうじゃったか」
「どうぞ椅子に座ってください」
 山端が立ち上がって壁のスイッチを押すと、壁面の一部から長方形の板がするすると迫り出してきた。続いてテーブルに対する椅子の位置にベンチが出てきて、あっという間にゆったりとした四人がけのテーブルが出来上がった。
 本多が驚いて見ていると、山端は戸棚からランチョマットを出してテーブルに置き、続いて人数分のグラスをマットの上に乗せたあと、戸棚から取り出した瓶に入った赤い液体を注いだ。
「きれいな赤じゃけど、何かね?」とカワサキが訊いた。
「山桃酒です。体が温まりますよ」
「へえ、あんたが作ったんか?」
 本多が興味深そうにグラスを見つめる。
「そうです。近くに木があるものですから。さあどうぞ召し上がってください。夕波も少し飲むといい」
 山端の言葉に、三人はそれぞれの場所からテーブルに移動して、グラスに口をつけた。
「こりゃ旨い」とカワサキが言った。
「ほどほどにしとかんとな」
 本多は自分に言い聞かすようにつぶやいた。
 四人は山桃酒を味わいながら、しばらくの間無言でいた。
 本多は遙か頭上に月を感じていた。夜が更けるにつれて冴え渡る光が、その大きさを増して夜空いっぱいに広がっていく様をイメージした。そして、今日はこれまでの人生で最高の日になったと思った。
「なあ、わしらお邪魔やったんちゃうかな」
 ふいに本多が口を開いた。
「え? どうして?」と夕波が目をみはる。
「あんたら同士、いろいろと話しもあるんちゃうか思うてな。わしらがおるけん何かと話しずらいかもしれへんし、これいただいたあとすぐに退散するけん」
「じゃまだなんて」という夕波の声に被さるように山端が言った。
「わたしは先程からずっと思い出していたのです。わたしがこの場所に不時着してからのことや、それ以前に故郷の星で暮らしたことなどを。わたしは夕波をここに残して故郷に向かおうとしました。なぜなら本多さんに指摘されたように、夕波をわたしの母星に連れて帰れたとしても、夕波が望郷の思いに苦しむことになるとわかっていたからです。わたしは夕波と離れたくないという気持ちと、愛する人に辛い思いはさせたくないという気持ちの板挟みで、ずっと思い悩んできました」
「あたしは、あたしで」と夕波が言った。
「ずっと一緒にいたいという思いと、この星を離れたくないという思いに引き裂かれていたわ。でも、さっき目覚めて思い知ったの。ヒトちゃんのいない風景は色あせて見えるって」
「なんかジンとくること言いんさるなあ」
 カワサキは目頭を押さえた。
「そうして」と山端が続ける。
「いざ機内に乗り込もうと思った矢先に、わたしは体に変調を来して倒れてしまいました。ときたま起きる発作かと思いましたが、どうもそれだけではないようでした。わたしは気が遠くなりながらも、何とか蘇生カプセルに入ることができました。そして今、わたしはそうなった理由に気づいています。それは」
「さてっと」
 突然、夕波が言った。
「そろそろ出かけようか、ヒトちゃん」
 山端が驚いた顔になる。
「午前零時を回ると、タイミングがずれるんでしょ?」
「まさか」
「うん」と夕波がうなずく。
「あたしも行くよ」
「夕波さん、あんた」
 カワサキが低く唸った。
「たまには、ふるさとに帰らなきゃね。もう永いことご無沙汰だもんね、ヒトちゃん」
 夕波はそう言って山端を見つめた。
「おれは」と山端が夕波に言った。
「やっと気づいたんだよ。故郷は、おれの心の中にあると。どこにいても、どこで生きても。だから」
 山端の声をマスキングするかのようにドーンと地響きがして、同時に部屋が揺れた。悲鳴を上げて夕波が山端にしがみつく。
「地震か」と本多が叫んだ。
 途端に再度の轟音と揺れが襲った。
「テーブルの下に入るんじゃ」
 カワサキが慌てて言った。
「みんな、床に伏せててくれ」
 山端は夕波を床に座らせると、壁際に寄ってボタンを押した。すると壁面が開いて大きなモニターが現れ、コンソールがせり出してきた。彼はキーボードを操作して、モニターをアクティブにした。すぐに画面が現れるかと思ったが、変わらず暗いままだった。
「監視カメラが作動しない」と山端はひとりごちた。
「ならば、偵察ロボットを飛ばそう」
 彼は再びキーボードに向かった。
「何が起きたの?」と夕波が心配そうに尋ねた。
「よくわからないが、地震ではなさそうだ。もう少ししたら様子がわかると思う」
 新たな衝撃を警戒しつつ、彼らはしばらく様子を見ていた。そのうちにモニターの画面がパッと明るくなった。
「映った」とカワサキが小さく叫ぶ。
 モニターに映る映像は不安定に揺れている。まるで飛びながら撮っているみたいだ。本多がそのことを言うと、山端が答えた。
「昆虫の形をした偵察ロボットなのです。しかし、かなり破壊されましたね」
 山端の言葉に画面を見ると、山の斜面が大きくえぐれて、銀色に光るものが覗いていた。母船の外部やろと本多は思った。
「いったい誰が」と夕波が言った。
「見当もつかない」
 山端はいささか緊張した表情で答えた。
 そのとき偵察ロボットのカメラが飛来物を捉えた。小型ミサイルのようだった。
「来るぞ。頭を抱え込んで床に伏せるんだ」
 山端が叫ぶと同時に床が震えた。
「くそっ」と本多が歯ぎしりする。
 振動が収まると、山端は素速く立ち上がってコンソールのところに行き、キーボードを叩き始めた。
「撮影した映像を再生して弾道を割り出し、発射地点を特定してみます」
 山端は手早く作業を進めて、結果を出した。
「よし、わかったぞ」
 山端の声に、彼らはいっせいに顔を上げる。
「ドームハウス前の庭からだ」
「なんじゃと?」とカワサキが上擦った声で言った。
「わしらのバイクがある」
「そりゃ確かか?」
 本多も起き上がりながら訊く。
「間違いありません。今、偵察ロボットに確認させます」
 間もなくモニター画面に丸いドーム型の屋根が映った。二台のハーレーも視界に入ってきたが、驚いたことに黒い車がその横にとまっていた。
「あれは」
 本多とカワサキが同時に叫んだ。
「何か?」と山端がいぶかしむ。
「おそらく殺し屋の車やろ」
 本多が唸る。
「お知り合いですか?」
「知り合いちゅうか、なんちゅうか」
「なかなか根性ある奴じゃのぉ」とカワサキが言う。
「おい、感心しとる場合ちゃうで。すまんが車にズームインしてくれるか?」
 本多が山端に頼む。
「わかりました」
 山端がマウスを手にすると、モニターディスプレイに車がアップになり、同時に月光に照らされた人影が迫ってきた。黒っぽい服を着てサングラスをかけた男だった。戦闘用ヘルメットから長く伸ばした揉み上げが覗いており、手には細長い円筒形のものを抱えている。
「ひょっとすると」
 本多はカワサキを見た。
「うむ」
 カワサキがうなずく。
「すまんが、わしのハーレーのサイドバッグをアップにしてくれへんか? ハウス寄りにとまっとる方や」
 本多が頼むと、山端はすぐにそうしてくれた。オートバイの後部がぐぐっと近づいてくる。硬い牛革製バッグの蓋が開いているように見える。それで本多にはピンときた。
「カツラを取り返しに来おったんや」
 本多がそう言うと、カワサキが付け加えた。
「たぶんそうじゃ。それと仕事をやりとげるつもりじゃろう」
「融通のきかんやっちゃな」
「ねえ、何のこと?」と夕波が不審がる。
「ちょっと訳ありやねん。あとで詳しく話すけん」と本多は安心させるように気楽っぽく言った。
「じゃが、なんでここが、というかカツラの場所がわかったんじゃろうな」
 カワサキが首を傾げる。
「おそらくカツラに発信器か何かを仕込んどったんやろ。よっぽど大事にしてたんやな。きっと特注やで。そりゃそうと、さすがに何発も被弾したらまずいやろ?」と本多が山端に訊いた。
「そうですね。これまで程度の破壊力なら大丈夫ですが、相手はプロなんでしょ? 使う兵器がエスカレートしてくると危険ですね」
「エスカレート?」
「たとえば超小型核爆弾」
「ピカドンか?」とカワサキが顔色を変える。
「ええ。自爆テロ用に開発されたものが市場に出回っていましたよね。この人物が殺し屋なら、おそらく装備しているでしょう」
「自分も死んでしまうろうに」
「相打ちを選ぶ場合もあるかもしれへん」と本多が言った。
「あんたらを巻き込むわけにはいかへん。カワサキ、覚悟はええか?」
「おう」
「ちょ、ちょっと待って。いったいどういうことなの? 訳を聞かせて」
 夕波が慌てて言った。
「ええよ。その前に時間を稼がにゃならん。奴に呼び掛けたいんやけど、無線で何とかならんかね。PWAを装着しとるはずや」と本多が山端に言った。
「わかりました。やってみましょう」
 山端はコンソールにセットしてあるノート型コンピュータを開き、ほぼ瞬時に起動したディスプレイに右手の指でタッチして、左手でキーボードを操作した。マウスの代わりに直接指で操作する方式らしかった。
「全帯域チューニングモードでサーチしています。少し待ってください。しかし、あなた方もユニークな知り合いをお持ちですね」
 冗談とも皮肉とも取れる口調で山端は言った。
「まあな。そう長い付き合いやないが」と本多が返した。
 そのとき警告音が鳴って、ディスプレイの表示が変わった。
「チューニング完了です。このボタンを押して呼び掛けてみてください。画面上部に高感度マイクが付いていますから」
「わかった。おおきに」
 本多はコホンと咳払いをしたあと、マイクに向けて喋り始めた。
「えー、本日は晴天なり。ええ月夜や。んなことはどうでもええんやが、われ、ええ加減にせいよ。どういうつもりや。昼間にも言うたやないけ、契約はキャンセルするちゅうて。払ったカネは返さんでええ。返さんでええから、もう去んで寝えや。それに例のブツも、ちゃんと取り返したやんか。他言はせえへん。わしらは口が堅いんで有名なんや。心配いらへん。わかってくれたら、返事してくれ」
 数秒のちに偵察ロボットのカメラがミサイルを捉えた。
「くそっ」
 本多の罵り声と共に、一同は床に伏せた。すぐに振動と轟音が襲う。
「あかんわ」と本多が言った。
「聞く耳持ってへん」
「なあ、本多」
 カワサキが真剣な顔で言った。
「あいつはきっと狂ってるんじゃ。自分を殺人マシンと思い込んどる。一度引き受けた仕事は、それを果たすまで遂行するちゅうハラじゃろう。そやし、このままここにおっても、らちが明かんで」
 本多はしばらくカワサキの顔を見たあと、そやな、おまえの言うとおりやと言った。そして、再びマイクに向かって喋り始めた。
「あんたの返事、確かに受け取ったで。いま出てくさかいに、ミサイルぶっぱなすのはもう止めれ」
「出てくって」と夕波が言った。
「そんなことしたら、殺されてしまうわ」
「もともと、そのつもりだったんや。つまり、あいつを雇ったのは、わしらなんや」
「えっ?」
 夕波は大きく目を見開いた。
 本多はそれから手短に、夕波と山端に事の経緯を話して聞かせた。山端は黙って聞いていたが、夕波は悲しそうな顔になり、やがて涙を流した。
「お年寄りがそんな気持ちで生きていたなんて。安楽死のことは知っていたけど、一部の特殊な事情の人だけと思ってた」
「いや、たいていの老人は死にたがってるんや。生きててもしゃーないからな。体は弱るし、カネはない。まあ、それはいいんや。弱るのは自然の摂理やし、貧乏でも飢え死にするわけやない。そやけど我慢できんのは居場所がないちゅうことや。四半世紀前までは定年で職場を去っても、パートで働いたり、地域の行事に参加したり、孫の世話をしたり、なんやかやとすることがあったし、それなりに必要とされてたんやが、今はなんもない。仕事は若年と壮年でパイの奪い合いやし、地域の結束は都会も地方もゆるゆるで、孫を抱こうにも一緒に暮らすことはまれや。病院や福祉施設は満員で、自宅がある者も独居老人として一人寂しく死んでいくことが多い。わしらの周囲は、そんな話ばっかやで。これじゃあ、死んだ方がましってもんや」
 本多は話しながら、やりきれない思いになってきた。
「じゃけぇ」とカワサキが続ける。
「わしらも近い将来、そんなふうに生涯を終えるんじゃろうなと思っとったところへ、こいつが話を持ってきおった。さすがに一瞬びっくりしたが、竹馬の友と一緒に好きじゃった映画のように死ぬるんも悪くないと思うたんじゃ。いったんそう覚悟したら、なにやらワクワクしてきて、わしが欲しかったんはこれじゃと思い至ってのぉ。どんな境遇にあっても、そん時そん時に生きとるいう充実感がありゃあ人はやっていけると、改めて思うたんじゃ」
「なら、あたしの事故に遇ったことで、その計画はじゃまされたのね。あたしのせい。でも、よかったわ。結果的に死なずに済んだから」
 夕波はほっとしたあと、はっとした。
「だから今出てっちゃだめ。絶対にだめよ」
「気持ちは嬉しいが、このままじゃ全員やられちまう。せっかくの旅立ちがふいになるやん」
 本多は気分が高揚してきたのを感じながら言った。自分たちのヒロイックな行為に酔っているのかと思ったが、そうではなく、ただ夕波に生き残ってほしいという思いからだと解った。
「ねえ、ヒトちゃん、何かいい方法はないの?」
 それまで黙っていた山端が答える。
「あるよ。たった一つだけ」
「え? 本当?」
「ああ」
「どうするの?」
 夕波の顔がぱっと明るくなった。
「全員で飛び立つんだ」
 山端の言葉を聞いて他の三人は息を呑んだ。それは思いがけない提案だった。
「今、本多さんの言われたことには共感を覚えます。老人たちの実態はまさにそのとおりで、そういう状況から抜け出るには、善悪を超えた心の躍動しかないでしょう。あなた方が選んだ方法も一つの選択だと思います。ならば、一度死んだと思って新しい世界で生き直すのも一興ではありませんか?」
 本多の心は揺れていた。地球を去ることにすれば、とりあえずは全員が助かる。それに夕波としばらくは一緒にいれる。それはとても魅惑的な選択ではあった。一方で、永年過ごしてきた故郷を後にすることへの躊躇があった。それは彼の年齢からくるものでもあった。たぶんカワサキも同じような気持ちでいるやろなと本多は思った。
「もう時間がありません。これ以上待たせると逆上させる恐れがあります。あと三十秒で決断をお願いします。夕波も、お二人が決めたことには同意して差し上げなさい」
 夕波は、でもと言ってから思い直したように、わかったと言った。
 本多はカワサキに向き直って、じっと顔を見つめた。カワサキも見返す。幼稚園の頃から、一時期離れてはいたものの、ほとんどの人生を身近で過ごした竹馬の友の向こうに、自分の通ってきた日々の断片が物凄いスピードで立ち上がってきた。楽しいことも辛いことも、いいことも悪いことも、それらの思い出は自分が一生かけて創り上げた宝やと思った。そして生を終えるときに、その苦く甘味な宝を一瞬のうちに味わって去るんやろとも思った。しかし、それは生まれた場所、つまり地球にいるからこそ起きることであって、ここを離れたらそれはないような気がした。
 ここで死のうか? と本多はカワサキに目で問い掛けた。そうじゃな、ええよと彼は返してきた。
「出口を開けてくれはるか?」と本多は山端に言った。山端の目に微妙な光が宿り、夕波が息を呑んだ。
「わかりました」
 山端はそう言ってキーボードを叩いた。
 夕波は物言いたげな顔をして呆然と立っていた。本多は右手を差し出して握手を求めた。白く細い指がゴツゴツした本多の手に包まれた。手の平の感触と温もりが伝わってきて、本多の胸を切なくさせた。続いてカワサキも握手して別れを惜しんだ。
「用意ができました」と山端が告げた。
「おおきに。世話になったな。この子を幸せにしてやってくれ」
 本多は夕波をちらっと見ながら山端に言った。
「夕波さんをたのむけぇ」とカワサキも軽く頭を下げた。
「あなたたち、あたしの保護者みたい」
 夕波は泣き笑いの顔で言った。
「ほな」
 本多は片手を上げて挨拶すると、カワサキと共に部屋を出てホールを横切り、出口に向かった。最初に夕波とここに来たときと同じように壁が発光する通路を進んでいった。本多は一度も振り返らなかった。振り返ると、張りつめていた何か透明で硬質なものが崩れてしまう気がしたからだった。カワサキもまた前を向いて黙々と歩いていた。
 母船の外に出ると、月の光が降ってきた。周囲を見渡すとあちこちで山肌が削がれ、母船の表面が剥き出しになっていた。ミサイル着弾の跡だった。
「ずいぶん派手にやってくれたもんじゃ」とカワサキが言った。
「そやな。母船が露わになってしもうたな。爆発音の通報で警察が動くやろし、どのみちもうここにはおれん。山端にとっては潮時ちゃうかな」
 本多は夜目に浮かぶ銀色の機体を眺めつつ言った。
「いこか」とカワサキが言った。
 彼らは淡い木の影が映っている山道を下り始めた。この道を下りきるとドームハウスの前庭に至り、そこにはライフルを構えた殺し屋が待っているだろう。この月明かりに照らされた細い道が、死刑台へと続くグリーンマイルと言えなくもなかったが、死刑囚のような恐怖と絶望という感情よりも、むしろ穏やかで淡々とした心持ちだった。
「こんな明るく静かな月夜は初めてかもしれん」と本多が言った。
「わしの心が溶けて体の外に流れ出し、夜の中から宇宙に拡がってくような、そんなイメージがさっきから頭ん中に浮かんどるんや」
「たしか、今日は死ぬのにもってこいの日いう題名の本があったと思うたが、まさにそんな感じの一日じゃったな」とカワサキがしみじみ言った。
「そやな。イージーライダーみたいな散り方やのうなったんが、ちと残念やが」
「まあ、ええじゃろう。原作を超えた作品になるかもしれんけぇ」
「物は考えようか。それにわしらのは、とびきり美人のヒロインもいてるしな」
「そうじゃ。おまけに、けったいな宇宙人までおる」
 カワサキの言葉に本多は吹き出して笑い始めた。カワサキもそれに釣られる。二人はゲラゲラ笑いながら坂道を下っていった。
 道を下りきると、そこは庭の端で、右手にドームハウスがあった。そして予想どおり庭の反対側に黒い車がとまっていたが、殺し屋の姿はなかった。
「あいつはどこじゃ?」とカワサキが言った。
「どっかに隠れとるんやろ。なあ、カワサキ。どうせ散るならハーレーに跨ったまま逝きたいと思わへんか?」と本多が水を向けると、
「そりゃええな」とカワサキが答えた。
「よっしゃ。ほな」
 本多は両手の平で口の回りにメガホンを作ると、大声で言った。
「おい、殺し屋、よう聞いてんか。わしらは、もう撃たれる覚悟はできとる。そやし、一つだけ頼みたいことがあるねん。バイクに乗らしてほしいんや。それで逃げようなんて思うてへん。これは、ほんまや。約束する。バイクに乗ってこの庭をグルグル走るけん、好きなときに撃ったらええ」
 本多の呼び掛けに対し、殺し屋からは何の反応もなかったが、二人はかまわず歩き出した。いきなり弾が飛んでくる恐れは十分あったが、そん時はそん時やと本多は思っていた。
 無事にオートバイのところまで行き着くと、彼らは車体を撫でた。
「ずいぶん長いこと、こいつと離れとった気がするわ」と本多が言った。
「ほんとじゃ。まだ今日のうちなのに、そんな気がするのが不思議じゃのぉ」
 カワサキもガソリンタンクに触れながら言った。
 本多は、蓋が開いていたサドルバッグの中から皮手袋を取り出すと、きちんと蓋を閉めて、バックミラーに掛けてあったヘルメットを手にした。ヘルメットの表面は夜露で濡れていた。本多は、もう一度バッグを開けてタオルを取り、ヘルメットとシートを拭った。カワサキを見ると、彼も同様なことをしていた。
 二人は拭き終わるとヘルメットを装着して手袋を付けた。そして車体に跨ると、キーを回した。セルモーターが音を立て、すぐに1450㏄のエンジンが吠えた。さらにもう一台も。夜のしじまはオートバイの立てる爆音に取って代わられた。ヘッドライトの光線が辺りの木々を照らした。
 数分間アイドリングを続けたあと、彼らはゆっくりと発進して、庭の外周に沿って反時計回りに走り始めた。そう広い庭ではなく未舗装なので、スピードが出せるわけではなかったが、マシンを操る喜びは感じることができた。
 これで当初の計画通りオートバイの上で死ねると本多は思った。思いがけない展開が続いたが、まあ結果オーライやろ。真の目的であるワクワクどきどき生きて死ぬちゅうことは十分達成できたけんな。
 本多は夕波の顔を思い出した。そういやあ、もう飛び立ってもええ頃や。気配がなかったが、音ものう上昇したんやろか? 本多はPWAを起動すると、後ろを走るカワサキにスイッチを入れるよう手振りで伝えて話しかけた。
「あの二人、何しとるんやろ。まだ宇宙船が出てこんみたいやけど」
「夕波さんが地球との別れを惜しんどるんじゃろう」
「けど、もうじき日付が変わるけん、ぐずぐずしとったら間に合わんようになるで」
「そうじゃな」
 話しながら、本多の心には夕波の笑顔が満ちていた。その微笑みは、地球という美しい星の優しさを象徴しているように思えた。
 そのとき、本多の視界の端に黒い影が映った。そちらに顔を向けると、ドームハウスの脇に黒ずくめの男が立っていた。男はライフル銃を構えて、銃口をこちらに向けていた。
「カワサキ」と本多は鋭く言った。
「左手におる」
「奴か?」
「そや」
「いよいよか」とカワサキが声を絞り出した。
 本多は覚悟した。途端に風景がスローモーションに変わった。予想していたように、頭の中で、過ごして来た日々の回想が始まった。それは年代記のように過去から現在に向かう規則正しいものではなく、コップに注がれたサイダーの泡のように、様々な時代の出来事や味わった思いなどが次々と浮かび上がっては消えた。
 ふいに一つの小さな泡が出現した。コップの底から上昇を始めたその泡は、コップに射し込む陽光にキラキラと光っている。それは、この世の明るい面が投影されたもののように本多には思えた。泡はさらに上昇し、表面に至るとシュワっとはじけた。その泡は、かつて愛した女たちとの思い出であり、同時に人生の最後に現れた夕波という存在でもあった。
 本多の耳に夕波の声が蘇った。
「死なないで」
 幻聴やろか? と思いながら、声がしたような気がする右方向に顔を向け始めると、同時に顔の真横をヒュンという鋭い音が横切った。
 撃たれたと思った瞬間、右手の方で悲鳴が上がった。
 本多は自分の目が捉えた光景が信じられなかった。山道を下りきった辺りに、両手を胸に当てた夕波が立っていた。本多は急ブレーキをかけて停車し、目を凝らした。後ろでカワサキのバイクも急制動する。
 夕波、という声がしたかと思うと、今度は右方から左方へと青白く光る塊が一瞬の残像を残して飛んでいった。本多が声のした方を見ると、山端が両手をボールを抱えるような形にして体の前に突き出していた。そして、その手前で、夕波が地面に膝を突き、ゆっくりと前に倒れた。
「夕波」
 山端が叫び、夕波に駆け寄った。本多とカワサキも急いでサイドスタンドを出してバイクを止め、夕波の元へ走った。
 山端の腕に抱きかかえられた夕波は不思議に穏やかな顔をして事切れていた。残された三人の男たちは呆然として、声も出せなかった。
 しばらくして本多が雷に打たれたように体を震わせ、叫んだ。
「おんどれ、殺し屋の野郎」
 ハウスの方へ突進しかけた本多に山端が言った。
「行っても無駄だ。もうこの世にいない」
「どういうことや?」
「私が消した」
「もしや、さっきの光が」
「そうだ。精神エネルギーを撃った」
「なんで、もっと早よう」
 本多はそのあとが言えず、涙ぐんだ。
「私が離陸の用意をしている隙に、夕波は出ていった。あなた方をむざむざ死なせたくなかったのだろう。夕波はそんな女だった。もう少し早く気づけばよかった」
「わしらに出くわしたばっかりに、こんなことになってしもうて」とカワサキが啜り上げながら言った。
「あなた方のせいではない。こういう運命だったのだ」
 山端は夕波を両腕に抱いたまま、地面に片膝をついていた。
「私は夕波をここに残して一人で旅立とうとした。だが、その直前に倒れて自分の本当の気持ちを知った。出会うべくして出会ったのなら、もう二度と離れるべきではないと思った。夕波はオートバイで駆けつけようとしてくれた。私と一緒に行くと言ってくれた。しかし、私は私で、夕波とこの星に残ってもよいと思い始めていた。今回、旅立とうとしたのは、故郷の星へ向けてではなかった。今の危機的な状況を回避するためだった。殺し屋があなた方を葬ったあと、そのまま立ち去るとは限らないと思った。それに、私の存在が世間に知れてしまうと、夕波の身にも危険が及んだろう。私は夕波と共に地球の他の場所で暮らし、折りをみてまたこの場所に戻ってこようと思った。そのことをあなた方にも話し、一緒に飛び立つべきだった。そのことは後悔してもし切れるものではないが」
 山端はそこまで話すと、涙を流した。月の光を照り返すその滴を見て本多は、山端が生まれて初めて流す涙やないやろかと思った。
「新しい日になったようだ」
 空を見上げて山端が言った。本多とカワサキが釣られて仰ぐと、星も見えないほど明るく輝く満月が大空に浮かんでいた。
「これからどうするんや」と本多が山端に訊いた。
「私は行く。夕波と共に」
「行くって、どこに」
「夕波が生まれた場所に」
「自宅にか?」とカワサキも尋ねる。
「そうではない。海に還るのだ。夕波という名にふさわしかろう。私にとっても、柿本人麻呂として一度死にかけた懐かしい場所だ」
 山端は言い終えると、夕波を横抱きにして立ち上がった。
「あんたまで還るんか? 夕波の分まで生きてやれ」と本多が言った。
「いや、私はもう永いこと生きた。夕波と共に眠ることにする」
「そうか」
「あなた方に出会えてよかった。早々にここを立ち去る方がよい。私はこれから母船に引き返して自爆のセットをしたのちに、小型船で飛び立って海に入る。爆発といっても、物体を原子に解体するのだから、環境に実害はない。ところで、お二人に一つ頼みがあるのです」
「なんじゃ?」とカワサキが言った。
「夕波のことを忘れないでやってほしい。私は夕波の肉親や友人知人など、夕波のことを知っている全ての者の記憶を消すつもりだ。特に両親の悲しみは、夕波が一番望まないものだろう。だから、今後知っているのは、あなた方二人のみになる。夕波の分まで精一杯生きてほしいのです」
 山端は本多とカワサキを見つめながら切々と言った。
「わかった。そうしよう」と本多が答えた。
「忘れるわけない」
 カワサキも震える声で言った。
「ありがとう」
 山端はにっこりと笑うと、そのまま歩き去った。
 本多とカワサキは、山端と夕波の姿が山道に消えるのを見ていた。胸の内には悲しみと寂しさがあった。山端は運命と言うたが、運命とはこんなにも人の心を翻弄するものなんかと本多は今さらのように思った。
「バイクに戻ろう」
 カワサキが本多の肩をポンポンと叩いて言った。
「あの二人の旅立ちに合わせて、わしらも旅立つんじゃ」
「おう」と本多が応えた。
 彼らは再びバイクに跨り、エンジンに火を入れた。ドッドッドという力強い排気音が夜にこだまする。アイドリングしたあと、本多はギアを入れてバイクを発進させた。カワサキも後に続く。二人は昨日の昼間に通った海沿いの国道に至る道を下っていった。そして国道に突き当たると左折して少しの間走り、ちょっとしたパーキングエリアに停車した。
 彼らが左手を仰ぎ見ると打歌山が望め、山の上空には煌々と照る大きな月があった。しばらく月と山を見ていると、鈍く光る小さな物体が山の中腹から上昇して彼らの頭上を通り過ぎ、海の方に降下したのち、月光を映す波間に消えていった。
 本多とカワサキは煌めく海をしばらく眺めていた。やがて、本多が言った。
「行こうか」
「そうじゃな」とカワサキが返し、
「どこに行こう」と続けた。
「どこにって、決まっとるがな。どこでもない場所、つまり、あらゆる場所に」
 そう言って本多はカワサキに目で出発を促した。彼らはギアを入れ、バイクを出した。二台のハーレーは爆音を後に残しながら、夜明けへと向かう海岸道路を走り始めた。