人間の持つイメージパワーを題材にしたSF長編小説

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      1

 二月の夜空に巨大な満月が輝いている。
 広瀬は立ち止まり、しばらくその光に見入ったあと、懐中電灯をかざして鍵を開けビニールハウスの中に入った。
 そのハウスは、農園内にある他のものと違って薄いグレイの不透明なビニールが張られている。内部に作物はなく、中央あたりに黒いビニールで覆われたさらにもう一つの小さなハウスがあった。
 広瀬は簡易に作られた扉の前に立つと、懐中電灯を消した。グレイのビニールの天井部分がほのかに光っている。その彼方には月があるのだろう。
 彼は一呼吸おいてから、扉を開けて小部屋内に足を踏み入れた。暗いはずの室内が青白く光っている。広瀬はほっとした顔で、その光の源を見た。地面に奇妙な形の植物が植えられており、全身が淡く発光していた。
 こいつが俺の前に現れて以来、幾度となくこの光景を見ているが、何度眺めてもこの世のものとは思えないな、と広瀬は思う。
 彼はそばにあるパイプ椅子に腰を下ろした。椅子の前には小さな木のテーブルが置いてある。夜になり冷え込んできたが、室内に暖房器具はない。ダウンパーカのジッパーを顎の下まで引き上げた広瀬は、光りを発している植物らしきものをじっと見つめた。
「頼む、力を貸してくれ」
 彼はそうつぶやくと、ゆっくりと目を閉じた。
 室内に沈黙が満ち、広瀬の立てる規則正しい呼吸の音のみが冷気の中を漂っている。
 突然、彼は目を開けてテーブルの上を見すえた。鋭い視線が届いた先には、一個の紅い林檎があった。その姿を確かめるとすぐに、彼は再び目を閉じた。
 まもなく、紅い林檎の隣に薄緑色の林檎が忽然と現れた。広瀬は、まだ目をつむったままだ。
 やがて目を開けた彼は、テーブルの上を見て安堵した。
「ここまではできる。問題はこれからだ」
 彼は淡く光っている存在に向かって頭を垂れた。
「今日こそ成果を出したい。もう林檎には飽き飽きだ。どうか、力を」
 広瀬は目を閉じ、かつてないほどに意識を集中させた。不精髭に覆われた顎のあたりがピクピクと動く。冷たい夜気のせいか、顔全体が白っぽくなっている。
 ときおり犬の遠吠えが聞こえる。農園は小高い丘の上にあり、あたりに人家は無い。おそらくその声は麓の方から風に乗って運ばれてくるのだろう。 
 犬の鳴き声を頭から追い払うように、彼は素早くかぶりを振った。そうして少し背筋を伸ばし、身体の動きを止めた。
 しばらくその状態で黙想していた広瀬の顔が微妙に変化し始め、やがて怒りの表情に変わった。
「くそっ」
 広瀬はぱっと目を開けると椅子から立ち上がり、テーブルの上の紅い林檎をつかみ取って、光るものに向けて投げつけようとした。しかし、すんでの所で思いとどまった彼は、標的をハウスの隅に変えて思いっきりぶちかました。ビニールが張られている鉄のパイプに激突した林檎はぐしゃっと潰れ、果肉と汁があたりに飛び散った。
「何がいけないんだ」
 広瀬は地面から生えているものを睨みつけた。暗闇の中で淡い光を発しているそれは、わずかに輝きを増したような気がする。そう感じた彼は、はっと我にかえり、溜息をつきながら再び椅子に腰かけた。
 夜が深まってきたのか、いちだんと冷えてきた。失望した心に寒さがしみて、広瀬はぶるっと身震いをした。
 目の前には発光植物があった。相変わらず飄々とした奴だと広瀬は思った。形態は植物のようだし、大地に根付きはしたが、どうも人格と呼ぶにふさわしい何かを持っているようだ。
 広瀬がこれまでに育てたり観賞したりした植物にも意志のようなものを感じたことはある。そう、確かに彼らには意識がある。長年の植物との関わりから、彼はそう確信していた。
 不意に風の音がした。知らぬ間に風向きが変わったのだろう。
 もう一度大きな溜息をついた広瀬は、今夜は諦めて引き上げることにした。
「なあ、あまり焦らすなよな。短いといえば短いが、もう半年のつきあいだぞ」
 彼は、もの言わぬ相手に対して独り言を言うのに飽き飽きしていた。
 突然、広瀬の頭に閃くものがあった。彼は、心のうちでそのアイデアを反芻したのち、実行することに決めた。
「いいか、明日、いや、まだいつになるかわからんが、ちょっと面白くなるぞ」
 彼は、ぶつぶつ言いながら帰り支度をした。外側のハウスに鍵をかけ空を見上げると、月光は深い藍色を背景に冴え渡っていた。


      2

「さや、いいかげんに起きなさい」
 階下から呼ぶ母の声に、布団の中でまどろんでいたさやは、ようやく起きあがる決心をした。
「聞こえてるの?」
 せっかちな母の茂子は、今にも階段を駆け上がって来そうな勢いである。
「ちゃんと聞こえてますよ。いま起きるから」
 さやは仰向けのまま大きく伸びをしたあと、ベッドから下りてカーテンを開けた。
 正午近くの日光が室内に射し込んでくる。眩しさに目を細めながら、彼女は窓の外に広がる木々の緑とその上の青空を眺めた。もうじき三月になるとはいうものの、まだまだ気温は低い。でも今日みたいな天気のいい日中は、ちょっと戸外で風に吹かれてみたいとも思う。さやは久々に車で遠出してみることに決めた。
 シャワーを使い、簡単に化粧を済ませたさやは、ようやく台所のテーブルについた。
「溶けた目玉で玉子焼きしようか?」
 茂子は呆れた顔で言う。
「いいじゃないの。たまの休みなんだから」
「そんなに寝てばかりいると、身体も心もぶよぶよになるからね」
「失礼ね。この張りのある肉体は永遠に不滅よ」
「なに言ってんのよ。さっさと食べなさい」
 もうじき昼食の時間ではあるが、起きがけにはコーヒーを飲むさやのために、茂子はロールパンとハムエッグと野菜サラダを用意してくれた。
 こんなとき、さやは家族のありがたさをしみじみ感じる。しかし、すでに三十路を超えているのに両親と暮らすことに苦痛を覚えることもある。いつまでも嫁に行かない娘に心を痛めているだろうし、折にふれてその話題を出してもくる。
 さやとて結婚を意識していない訳ではなかったが、今はその対象として付き合っている相手もいなかった。
「お父さんは?」
 さやは焼きたてのロールパンを二つにちぎりながら訊く。
「ゴルフよ」
「またゴルフなの?」
「しょうがないわよ。仕事がらみだしねえ」
「たまには食事にでも連れてってもらいなさいよ」
「そんなこと夢のまた夢よ。最後に一緒に出かけたのは、たしか昭和」
「おいおい、今は平成だよ。お父さんも考えを改める必要があるわね。だって定年迎えたら、一日中お母さんと一緒にいるわけでしょ?」
「いやよ。一日顔付き合わせているなんて」
「だから、今からその状態に慣れるよう努力するのよ」
「お父さんが定年になったら、今度はわたしが外で働こうかな」
 茂子は自分のコーヒーカップを持って、さやの向かいに座った。
「働くって、何するのよ」
「この美貌と抜群のスタイルを活かす何かよ」
「よしてよ。誰も相手にしない、しない」
 とは言ったものの、母はたしかに同年輩の女たちに比べて若く綺麗だとさやは思った。父とは歳が離れており、二十代の初めには結婚していたので、父が定年を迎える頃にも五十路の美しさが期待できるかもしれなかった。
「男性に相手にされなくてもいいの。わたしは、広く世界に目を開いて、この人生の意味なんかを考えてみたいのよ」
「へえ」
「どう、なかなか言うでしょ」
「言う、言う」
 サラダをつつき、ハムエッグを食べ、コーヒーを飲みながら、今日はどこまで走ろうかと考え始めたとき、電話が鳴った。
 茂子が立ち上がって子機を取り応対した。
「もしもし高原でございます。はあ、さやですか? おりますので、少々お待ちくださいませ。いま替わりますので」
 茂子は話し口を手でふさぎながら、広瀬っていう男の人からだと言った。
 さやは、広瀬って誰だろうと思いながら受話器を受け取った。
「もしもし、お電話かわりました」
「突然すいません。広瀬といいます」
 低音の聞き慣れない声が、そう名乗った。
「広瀬さん、ですか?」
「あ、いや、名前を言ってもおわかりにならないと思います。いつぞやグリーンプラントの店でお会いした、ほらサボテンのコーナーで」
「サボテン?」
 さやは首を傾げながら、思い出そうと努めた。
「あなたがサボテン選びで迷っているのを見て、つい余計な口出しをしてしまった」
「ああ、あの時の」
 さやの脳裏に当時の情景が浮かんだ。

 さやの住んでいる海辺の町から車で一時間ばかり走った山間の国道沿いに、その店はあった。あたりは広大な盆地で広々としていた。木造の店の前には鉢植えの観葉植物が所狭しと並べられており、建物の後部には巨大な温室が付属している。温室内にも多種多様な花や観葉植物が鉢に植えられている。
 以前からこの店の前を通るたびに気になってはいたのだが、たいてい二人連れだったこともあり、寄りそびれていた。付き合っていた恋人と別れて一人になったあるとき、さやはその店のことを思い出して出かけてみた。
 温室に入ると、人いきれならぬ植物いきれを感じ、思わず立ち止まってしまった。高い天井の温室内は、透明なガラスを通して射し入る太陽の光で満たされていた。たくさんの植物から発する気というかエネルギーというか、そんな目に見えぬものが自分の全身を包んだとさやは思った。
 しばらく店内を散策した彼女はこの店がすっかり気に入ってしまい、初来店の記念に何か求めることにした。花の咲くものにしようか、葉の美しいものにしようか、などと物色するうちに、彼女はサボテンコーナーの前で足をとめた。
 形の丸いの、細長いの、小さいの、背の高いのなど、一口にサボテンといっても実に様々な種類があった。その中から丸っこい形のを二種類選んで、どちらかを買おうと決めた。しかし、どうしても選ぶことができない。
 さやは買い物をするときなど、どちらかというと直観でぱっと決める方である。乱暴な分け方をすれば、左脳人間というより右脳人間になるのかなと彼女自身思っていた。なのに、どうしてこんなに迷うのだろうと合点がいかなかった。
 どれほどの時間をサボテンたちの前で過ごしていたのだろうか。その男に声をかけられて、はっと我にかえった。
「どちらも離れがたく思っていますよ」
「えっ?」
 さやが振り向くと、男が立っていた。日焼けした四十がらみの男だった。
「びっくりさせてごめん。でも、さっきから見ていると、サボテン選びにお悩みのようで。その二人は恋人同士なんですよ。いや、二人っていうのも変ですけどね」
「わたし、ぼーっとしてました? いやだ。え、恋人同士って、このサボテンがですか?」
 さやは切れ長の大きな目をなおいっそう大きくして男を見た。
 彼は洗濯し過ぎてグレイに色落ちしたらしい黒のジーンズを履いており、足下はゴム草履だった。ボトムと同じく色あせた黒のTシャツを着て、首からは無造作にタオルを垂らしている。ふいに汗の匂いがさやの鼻腔をくすぐった。
「そうなんです。ぜったいに離れ離れになりたくないと、先程からあなたに信号を送り続けていたのですよ」
「はあ、どちらか一つに決められなかったのは、まさかそのせい?」
「ご名答」
「でも、なぜそんなことがわかるんです?」
 男は一瞬いたずら小僧のような表情を見せたあと、元の飄々とした面もちになった。
「私が育てたからですよ」
「あなたが?」
「農園をやってるんです。果樹を主に育てていますが、鉢ものも扱ってます。サボテンは特に力を入れてて、世界中から多くの種類を集めていますよ」
「そうなんですか。でも、植物と会話ができるんですか?」
「いや、会話といえるほどのものじゃありません。ただ何となくわかるだけですから」
 淡々とそんな話をする男の髪を、晩夏の日光が金色に染めていた。さやはその反射に少し目を細めながら、男に訊いた。
「彼らを愛しているのですね」
「そうねえ、そうかもしれないな。奴らも生き抜くために必死でやってます。その点は人間や動物と同じです。ただ、植物も動物も、この大地を破壊することはありません。唯一人間だけが有害な存在なのです」
 さやは、どう応えていいのかわからずに曖昧に微笑んだ。
「で、この店に鉢植えを卸していらっしゃると」
「そうです。定期的に補充に来ています。今日はちょうどその日だったものですから。いや、すいません、余計なこと言っちゃったかな」
「とんでもないです」
「もしよかったら、二つとも買ってやってください。そうだ、これも何かの縁ですから、プレゼントしましょうか?」
「いえ、自分で買います。二つとも買わせていただきます」
「そうですか。可愛がってやってください。じゃ、私はこれで」
 男は軽く会釈すると、出口の方へ歩いて行った。
 しばらく呆然としていたさやは、気を取り直して二鉢のサボテンを持ち、レジに向かった。

「思い出していただけましたか」
「ええ、ええ。あの時はありがとうございました」
「いえ、こちらこそ。なんか無理矢理押しつけてしまった形になったなって、あとで反省してました」
「とんでもないです。やはりペアで買ってよかったなと。今でもすくすくと育って、とっても元気ですよ」
「そうですか。それは嬉しいな」
 男は電話の向こうで、ほんとに嬉しいんだなと思わせるような声を出した。
「で、今日は何か」
「そうそう、そのことなんですが、ちょっとお願いがあって電話しました。まず、なぜ私が電話番号とお名前を知っているのかと不審に思っていらっしゃると思います。実は、あのグリーンショップに頼みこんで教えてもらいました。次の週に納品に行ったときに、店長との話の中であなたの話題が出ました。彼女が言うには、先週サボテンを買った女性がいたが、レジでお金を払いながら、恋人同士ねえ、とつぶやいていた、綺麗な人だったので印象に残っている、とのことでした。今回あなたにどうしても連絡が取りたくなり、いろいろ考えた結果、あの店長に訊いてみることにしたのです。幸い彼女はまだ在職しており、決して迷惑はかけない旨話して頼みこんだところ、ようやく教えてくれました。セール通知用のアドレス帳にあなたが書いてくれてたから、よかったです」
 男は一気に喋ってから一息ついた。
「わたしに何か急なご用でも?」
 さやは、客の情報を漏らすなんて許せないと憤慨しつつも、この男に頼まれたら断り切れないかもしれないと思った。
「ええ、折り入って頼みたいことがあります。これは私の直観ですが、あなたなら偏見なく私の話を聞いてくださるような気がします。つまり、それだけ非常識な、荒唐無稽な話なんです」
「と言いますと」
「電話ではちょっと申し上げにくいのです。いちどお会いしたいのですが」
 警戒しつつも好奇心を刺激されたさやは、しばらく考えた末に男の誘いに乗ることにした。
「わかりました」
「おお、承知してくださいますか。ありがとう」
「それで、どうしたら」
「善は急げです。今夜はいかがでしょう」
「えっ、今夜ですか? 夜はちょっと」
「わかります。うら若い女性が、よく知らない男と夜中に会うなんて考えられないと思います。でも、あたりが暗くなってからでないとまずいんです。決して怪しいお誘いではありません。信じていただきたいです。そうだ、せめて夕方にしましょう。それならかまいませんか?」
 男の必死な感じにほだされて、さやはとうとう承知した。
 待ち合わせ場所を決めて電話を切ったさやは、何か言いたそうな母親に先手を取った。
「夕方から、ちょっと出かけてくるね。以前お世話になった人から頼まれ事をされちゃって。そう時間は取らないらしいから、心配しないでね」
「だっておまえ、誰だかよくわかってなかったじゃないの」
 茂子は疑り深そうな表情を浮かべて言った。
「ど忘れしてたのよ。わたしの部屋にサボテンがあるでしょ? ペアのやつ。あいつらを買ったときに、アドバイスしてくれたのよ」
「それで何の用なの?」
「よくわからないんだけど、何か重大な用みたい」
「ふうん。気をつけなさいよ」
「大丈夫よ。わたしの男性をみる目は確かなんだから」
 そう言ってからさやは、母と顔を見合わせて肩をすくめ苦笑いした。


      3

 腰を下ろしている粗末なパイプ椅子の座面から冷気が伝わってきた。椅子の足が接する地面が冷え込んできたのだろう。
 さやはビニールハウスの中にいた。ビニールは透明でなく、外の景色を直接見ることはできない。普通こういったハウスは内部で何か栽培しているはずだが、ここにはなにもなかった。ただ均された土地があるだけで、所々に雑草が生えている。
 昼間電話で広瀬からアウトドア向きの服装をしてくるように言われたさやは、スキー用ジャケットにニットの帽子、タイツの上にジーンズを履き、足にはスニーカーという出で立ちだった。
 さやは膝をすり合わせながらハウス内を見回し、中央にある奇妙なものに目を止める。あれはいったい何なの? と彼女は自問する。鉄パイブを組み立てた骨組みに黒いビニールが張られており、大きさは六畳の部屋くらいだった。アルミサッシのドアが取り付けられている。ちょっとここで待ってて、と言い残した広瀬が、先程からその部屋に入ったまま出てこないのだ。
 ビニールハウスの外は刻一刻と暮れているようだ。だいぶ日が長くなったとはいえ、夕方になると暗くなるのは早い。ハウス内の黄昏にさやは不安を募らせていった。

 待ち合わせ場所である道の駅の駐車場に着いたのは午後五時前だった。ほぼ同時に深緑色の四輪駆動車が駐車場に入ってきた。さやは車外に出て、その車を迎えた。広瀬は、自衛隊が使ってるようなゴツゴツした感じの車だからすぐにわかるよ、と言っていたが、まさにその通りだった。
 駐車した広瀬は車から下りて、さやのそばにやって来た。昨年初めて会ったときよりも少し顔の色があせていたが、全身の鋭角的な印象はそのままだった。
「お久しぶりです。すいませんね急に」
「いえ。ご無沙汰してます」
「突然のことで戸惑われたでしょう」
「ええ、まあ」
「ほんとにありがとう。感謝してます」
 広瀬は軽く頭を下げた。
「そんな。いえ、いいんです。気になさらないでください」
「そう言ってもらえると嬉しいな。じゃ、さっそくご案内しますよ。私の車に乗ってください。途中から未舗装になるので、あなたのではちょっと」
「ここに置きっぱなしで大丈夫でしょうか」
「なに、そんなに長時間ではないので問題ないですよ」
 広瀬は助手席のドアを開けてさやを乗せると、エンジンを始動して車を出した。車内は大きな外観に比べて意外なほど狭く、後部座席には農機具らしきものが積んであった。
「これでもちょっとは掃除したつもりなんですが」
 広瀬は、車内を見回すさやを見て言った。
「いえ。初めて乗りました。こういった車を持っている人って、あまりいないのでは?」
「米軍の払い下げなんです。4WDの専門雑誌があって、そこにいろいろ情報が載ってましてね。ま、趣味の世界というのは多種多様で、ほんとにいろんなマニアがいます」
「広瀬さんのご趣味は車ですか?」
「というよりも実用ですね。この車も必要に迫られて買ったんです。なんせ冬に雪が降ったときなど、四駆でないと登りませんしね。私の農園は小高い丘の上にあるから。そうだな、もし趣味と呼べるものがあるとしたら、天体観測かな」
「天体観測、ですか」
 そんな言葉は中学の理科の授業以来、身近で聞いたことがないな、とさやは思った。
「これでも、けっこう倍率の高い望遠鏡を持っているんです」
「理科、お好きだったの?」
「いえ、勉強は嫌いでしたね。いちど何かの折りに、小さな望遠鏡で月を見る機会があってね。それ以来、空を見るのが好きになったんです。最近はインターネットでNASAのサイトを見れるけど、あれはすごいよ。太陽系はもちろんのこと、遠い銀河の映像がごまんと用意してある。そうそう、今からお見せするものも、宇宙に関係がある」
「えーっ、なんだろ」
「それは着いてのお楽しみということで。今からあなたを私の農園にお連れします。そうだ、コーヒー飲まれませんか?」
 広瀬はサイドボックスからステンレス製の細長い魔法瓶を取り出し、運転しながら器用に紙コップに注ぐと、さやに手渡した。
「ありがとうございます。いつも車に積んでらっしゃるの?」
「いや、そういう訳じゃないけど。まだまだ夜は冷えますからね」
 さやは両手で湯気の立つ紙コップを持ち、車の揺れに気をつけながら熱いコーヒーをすすった。
 夕陽が落ちていく水平線に背を向けるように、車は内陸部に向かって半時間ほど走り、やがて県道を逸れて丘を登ると、目指す農園に到着した。

 身体が冷えてきたと感じたさやが椅子から立ち上がったと同時にドアが開いて広瀬が姿を見せた。
「待たせてしまったね。用意ができたから、どうぞ入ってください」
 彼は緊張した面持ちで、さやを手招きした。さやは広瀬のテンションに触発されたかのように身体を硬くして、黒い小部屋に入っていった。
 さやは真っ暗な内部を想像していたが、室内はほのかに明るく、奧の床にアイスブルーに光る照明が置かれていた。それは見たこともないような形体をしており、モダンというかアバンギャルドというか、特異な才能によってデザインされたものに違いなかった。
「目が慣れたら、もっと見えるようになるよ。そこにかけてください」
 広瀬は椅子を指さした。先程座っていたのと同じパイプ椅子だったが、座面には座布団が置いてあった。さやは腰を下ろして広瀬の方を注視した。
「なんか緊張するな。他人に見せるのは初めてなんだ。えー、とりあえずその机の上を見ていてください」
 小部屋の中央に置かれた机の上には更紗模様の布がかけてある他は何もなかった。
 机を挟んでさやの向かいにある椅子に座った広瀬は、目を閉じて息を整え始めた。彼は、さやよりもずっと長い間隔で呼吸を続けた。
 いったいなんの真似だろうと怪しみながらも、さやは次第にこのゆったりした時の流れに馴染んでいった。広瀬に合わせるように、彼女の息もゆっくりになっていく。
 気温が下がってきているにもかかわらず、さやは眠気を感じ始めた。ここで眠ったりしたら失礼だと必死でこらえるのだが、瞼がしだいに重くなってくる。しばらく睡魔と闘ったあと、彼女はついに一瞬の居眠りをしてしまった。ほぼ同時に広瀬が叫ぶ。
「やった」
「えっ?」
 すぐには何か起きたのか理解できず、さやは目をしばたいた。
「いつもより時間がかかってしまったよ」
「なにがですか?」
「机の上を見てごらん」
 そう言われて視線が机の上に焦点を結ぶと、そこには紅い林檎が一つ置いてあった。
「あれ、いつの間に」
「置いたのかと言いたいんだろ? 置いたんじゃないんだ。出現させたんです」
「これって、マジックショーですか?」
「違うよ。いいかい、もう一度やるから今度はちゃんと見てて」
 広瀬は再び目を閉じると、ゆっくりと呼吸を続けた。
 さやは、今度こそ見逃すまいと机の上をじっと見た。しかし、また眠気が訪れてうとうとしかかった。そのとき、広瀬の声が飛んだ。
「ほら」
 瞬きのあと目を凝らすと、一個目の林檎の隣にもう一個の紅い林檎があった。
 さやは、この現象をどう理解していいのか戸惑っていた。驚くとか恐いとか、そんな気持ちが失せてしまって、彼女はただぼんやりとしていた。
「どう?」
 広瀬が少しばかり上擦った声で言う。
「どうって」
「だいぶ調子が出てきたから、もう一回やってみよう。今度はもっと早くできるだろう」
 広瀬の言葉どおり、今度はほどなく三つ目の林檎が出現した。しかし、色は紅ではなく薄緑だった。
 わたしはきっと夢を見ているのだ。さっきから眠いのはそのせいだ。さやは混乱してきた頭で、そう思い込もうとした。
「もしかまわなければ煙草吸いたいんですが」
 椅子の背もたれに寄りかかり、全身から緊張を解きながら広瀬が言った。
「ええ、かまいませんよ」
「ありがとう。これやると神経使うからね」
 広瀬は上着の内ポケットから、くしゃくしゃになった煙草の箱を取り出し、中身を一本抜くと火を点けた。狭い室内に青と白の煙が漂い始める。
「ほんとは、こいつにも断わらなくちゃいけないんだが。どうやら煙草が嫌いみたいだから」
 広瀬は室内にある照明の方に顎をしゃくりながら言う。
「こいつって?」
「今日の話の本題は、こいつなんです」
「この斬新なデザインの照明器具のことですか?」
 さやの言葉を聞いて、急に広瀬は笑い始めた。なかなか笑いはおさまらず、煙草をもみ消してさらに笑い続けた。さやが半ば呆れて見守っていると、ようやく平静になった広瀬はハンカチで目の涙を拭った。
「いやあ、すまない。あなたは、ほんと最高です。この半年間、眉間に皺をよせて取り組んできた自分があほらしくなったよ。世紀の大発見だ、この世を変えられる、俺はその使命を持って生まれてきたのだ、などと大上段に構えていましたが、何か肩の力が抜けてしまった。しかし、斬新なデザインの照明器具だって? こいつが?」
 ぷっと吹き出した広瀬は、また笑いの波に呑み込まれてしまった。ひとしきり笑ったあと、やっと気が済んだのか彼は話し始めた。
「単刀直入に言います。こいつは照明器具なんかじゃない。彼は、あるいは彼女は、生物です。しかも地球上のものではなく、たぶんどこかの星雲のどこかの惑星からやって来たのだと思う。やって来たといっても宇宙船でではなく、恐らくトランスポーテイションだろう。つまり空間の瞬間移動ですね。どうしてそんな芸当ができるのかわかりません。もしかすると高次元のワープを使って」
「ちょっと待ってください」
 広瀬の話にさやが割り込む。
「何がなんだか、ちっともわからない。いったいどうなっているんです? なんでわたしにこんな話を? からかってるんですか?」
「いや、からかってなんかいない。これは事実なんだ。私は半年前にこいつに出会って以来、誰にもこのことを話しはしなかった。私自身まだ事情がよく呑み込めていなかったせいもあるが、こんな夢みたいな話をしても気が狂れたと思われるのがおちだよ」
「じゃあ、なぜわたしに」
「それが私にもよくわからないんだ。先日ある実験をやっていて、どうにも進展がなく絶望的な気分になっていた時、ふっとあなたのことを思い出した。そうだ、あの人なら助けになってくれるかもしれない、ふとそう思ったんだ。私一人でこの事実を抱え込むのが苦痛になったのかもしれない」
 広瀬は何かを思い出したのか、少し表情を曇らせた。そして部屋の奥の地面で青白い光を放っているものを眺めやった。
「わたしは自分で言うのもなんですが、ごく普通の平凡な女です。まあちょっとばかり好奇心が旺盛なとこはあるけど。でも、都会で生き抜く根性もなく、なにか専門的なものを身に付ける根気もなく、市民運動をする熱意もないような、そんな女です。あなたが何を望んでいるのかよくわかりませんが、わたしはたぶんミスキャストです」
 さやはそう言うと、椅子から立ち上がった。
「すみません。わたしはこれで」
「待ってください」
 広瀬も慌てて立ち上がり、悲痛な声を出した。
「お願いです。もう少し話を聞いてください。これはもう私の個人的なこだわりではないような気がします。うまく言えませんが、神というか、大いなる存在が人類に託した一つの試練だと思うのです。そんな大変なことに、なぜ自分が関わっているのかはわかりません。私一人では微動だにしなかった運命の車輪が、あなたという存在を得たことでようやく回り始めたように思います。私は変わり者として見られていますし、私自身それをよしとしてきました。でも、決して人から後ろ指を指されるような生き方はしてこなかったつもりです。どうか私を信じてください。あなたに危害を加えるようなことはありません。私はただ仲間が欲しいのです。お願いです。このとおりです」
 広瀬は、そう言って深々と頭を下げた。
「よしてください」
 厄介なことになったな、とさやは困惑していた。思えば、広瀬から電話で頼まれたあのときに、なぜ承知したのだろう。思慮深い人間なら、よく知りもしない男の奇妙な誘いには乗らないに違いない。わたしはやはり軽率な女だろうか。でも、あのグリーンショップでの男のまなざしが、わたしの深いところにある何かを揺さぶったような気もする。あれはいったい何だったのだろう。
「頭を上げてください。わかりました。もう少しお話を伺うことにします。でも、それが終わったら帰らせてくれますか?」
 これを聞いて広瀬はぱっと頭を上げ、顔を輝かせた。
「もちろんです。お送りしますとも。ありがとう。ありがとう」
 広瀬は、ほっとした様子で何度も礼を口にした。彼は椅子から立ち上がり、部屋の隅に置いてあった籐のバスケットからポットと紙コップを取り出し、コーヒーを用意してさやに差し出した。
「これで少しは温まるよ」
「ありがとうございます」
「じゃあ、あまり時間もないので、要点だけ話します」
 自分も紙コップに口をつけると、広瀬は話し始めた。
「あなたが照明器具だと思ったこの未知の生物、というか私は地球でいう植物に近いものだと思っているのですが、こいつを私は今、アズロと名付けました。自分一人のときはこいつでも良かったのですが、あなたと話すときにいつまでもそうはいかないような気がしてね。アズロというのはイタリア語で水色のことです。ほんとはアズッロと発音するのですが、アズロの方が言いやすいかなと思って。あなたも、よろしければそう呼んでやってください。
 アズロは人間の意識、別の言い方でいうと思いを物質化してくれるんです。サポートしてくれるといった方がいいかもしれない。さっきあなたにお見せしたように、今のところ林檎を出現させるのが精一杯なんです。別に林檎でなくてもいいのでしょうが、果樹を育てている関係で林檎が一番イメージしやすくてね。つまり、脳でリアルにイメージできさえすれば、どんなものでも物質化が可能だと思います。
 たぶん思いというものもエネルギーであり、思いの集中があれば、ある状況を作り出すことができるのでしょう。思いは一種のプログラムと言えるかもしれません。そのプログラムに基づいて、場のエネルギー状態や物質を構成している素粒子に作用する。そして望む現実をつくり出す。ただ、よほど強い思いでないと作用しないのです。だから、この世で何かを得たいと願うなら、強くしかも持続して思い続けないと事は成らない。ところが、アズロは何らかの力でもって思いを増強してくれる。例えていうとドーピング剤やパワーブースターみたいな働きをしてくれるんです。
 このことに気づいたのは偶然でした。アズロが私の目の前に突如として現れた半年前からこっち、どんなふうに現れたかについてはまた改めてお話しますが、とにかくそれ以来ずっとこいつと一緒に過ごしてきました。最初は恐る恐る観察し、少しずついろんなことを試し、いろんなことがわかり、一緒にいることにあまり違和感を感じなくなっていきました。
 ある日いつものようにこの部屋にやって来たとき、ライターを忘れてきたことに気づきました。煙草はポケットにありましたが、長年愛用してきたオイルライターを忘れたのです。吸えないとわかるといっそう猛烈に吸いたくなって、そのライターのことを強く思い浮かべました。なんせ二十年以上愛用しているものなんで、細部までありありとイメージできます。ふと気がつくと、持ち込んであった机の上にそのライターが乗っていました。あれ? 持ってきてたのか、なんか勘違いしたかなと思い、手に取って煙草に火を点けました。その時点ではそれ以上考えることなく終わったのですが、家へ帰ってみると台所のテーブルの上にライターがあったのです。その瞬間、思わず右手で胸ポケットを押さえていました。そして手のひらが金属の堅さに触れたとき、背筋に冷たいものが走りました。混乱したままライターを取り出し、テーブルの上に置きました。驚いたことに全く同一のライターがそこにあったのです。長年の使用で付いた傷跡も、そっくりそのままありました。しかし、気を落ち着けてじっくり比べてみると、わずかながら違っていました。
 何が起きたのだろうと、その日はずっと考え続けました。寝ずに考えて夜も白々明けてくる頃、朦朧とした頭に閃くものがありました。もしかすると、あいつのせいかもしれない。おれは煙草が吸いたくてたまらず、今ここにライターがあったらと強烈に思っていた。もしかしたらあいつが、おれの頭の中のイメージを読み取って、この世に出現させたのかもしれない。そういえば、中国に物を空間から取り出す超能力者がいると本に書いてあった。ライターが完全に同じでなかったのは、おれのイメージが完璧でなかったからだろう。そんなふうに思えたんです。私はすぐに家を出て農園に行きたかったのですが、どういうわけかあいつ日中は活動を休止するので、しかたなく夕方まで待つことにしました。といっても眠ってしまったのですが。
 結局その夜、私の閃きが正しかったことがわかりました。前夜ライターをイメージしたときのことを思い出しながら何度も何度も試しました。なかなかうまくリアルなイメージができなかったのです。でもぜったいできるはずだと信じてねばっていたら、とうとう成功したのです。ついに机の上にライターが出現しました。これも他の二つとは微妙に違っていましたが、それでも正真正銘の私のライターだったのです。そのときの驚きと感激は今でも蘇ります」
 ここまで一気に喋った広瀬は、一息ついてコーヒーを飲み干した。
 さやはぽかんとしたまま、広瀬と青白く光るものを交互に眺めていた。彼女の日常的思考体系ではとても理解できない内容だった。普段の生活の中で、思いの強さだとか、宇宙だとか、イメージ云々とかを考えることなどなかったからだ。
 さやにはこれといって、どうしても成りたいもの、どうしてもやりたい事があるわけではなかった。自分が特に不幸だとは思わなかったが、さりとて心身が震えるような喜びを感じているわけでもなかった。漠然とした不足感はいつもあった。もしかすると彼女は自分が本当は何を望んでいるのか、自分自身でもわかっていないのかもしれない。
「話を急ぎ過ぎでしょうか」
 広瀬がさやの目を覗き込むように言う。
「いえ。でも、夢のようなお話で、わたしの中にうまく入ってこないような気がします」
「そうだろうね。私もときどき、これは奇想天外な夢じゃないかと思うことがあります」
「でも、そうではないと」
「そうではない。これは現実です。あとであなたも試してください。あなたの頭の中のイメージを物質化してみてください。それを体験した瞬間に、あなたの何かがきっと変わると思います。実際に思いが何でも叶うとしたら、あなたは何を望みますか?」
 さやは自分を見つめる広瀬の目の光が強まったように感じた。何を望むかと訊かれて、さやはすぐにその答えを思い浮かべることができなかった。何も言えずに黙ったままでいると、広瀬が口を開いた。
「話を続けますね。あなたが私の問いにすぐには答えられなかったように、私も自問を続けました。何でも願いが叶うとしたら、いったい何を望むのかと。その想像は楽しくもあり、また自分の暗い欲望を刺激するものでもありました。
 望み通りに願いが叶うなら、私は世界の王になれるでしょう。衣食住に渡って贅を尽くし、女に不自由なく、他者を従えることも意のままになる。歴史上の王たちが味わった快楽を私のものにできるのです。しかも彼ら王たちが求めても得られなかったもの、不老不死さえも可能になるかもしれない。
 そんなことを考えるさなかに、こうも思いました。人間が頭でイメージできること、想像できることは、すべて実現可能ではないだろうかと。というより、この世に無いものが頭に浮かぶことはないのではなかろうか。そんなふうに思えたのです。
 さて、私は未知の生物のサポートによりイメージの物質化に成功しました。物質化は経験を積むことによって、その精度と種類を増すことができるでしょう。しかし、何度やってもどうしてもできないことがあるのです」
「どうしてもできないこと」
 さやはそうつぶやいてから、自分がいつの間にか広瀬の話の中に引き込まれていたことに気づいた。
「そう。それはいったい何だと思いますか?」
「うーん、なんだろ。頭でイメージしたものがこの世に現れるんでしょ? そうねえ、具体的な物じゃなく、ある状況を生み出すのが難しいとか」
「もちろん、それも難しいです。でも、ある望む状況があるとすると、その望ましい状況を一枚の写真として脳内にイメージするんです。静止画の連続が集まって動画になるように、ある状況を細かくサンプリングするんです」
「じゃあ、それもできると」
「ある程度ですが。たとえば今回あなたにここに来てもらうこともイメージしました。結果あなたはここにいる」
「それは、こじつけじゃなくてですか?」
「こじつけではありません。私は余程強く願ったのでしょう。望む状況が実現したと、はっきり言えるのは初めてですね」
「そんなこともできるなんて」
「ええ、驚くべきことです。しかし、どうしてもできないこと、それは消すことです」
「消す?」
 思ってもみなかった意外な言葉に、さやはうわずった声を出した。
「ええ。物質化できたものを今度は消滅させようとしたのですが、どうしてもできないのです。物質化するということは、ある物体を構成する要素をその物体固有の設計図に基づいて組み合わせることだろうと思うのですが、反対に、ある物体をその構成要素単位にまで解体することも可能なはずですよね。つまりそれができたとしたら、物体は瞬時に消えてしまう。というより、人間の目には見えなくなると思います」
「それって、もしかして、今ぴんときたんですけど、完全犯罪が」
「ほう、なかなか頭が回ってきましたね。いや失礼」
 広瀬は嬉しそうに相好をくずした。
「そのとおりです。死体が存在しなければ、犯罪として立証されませんからね。もし人間を消滅させることができれば、この地球も随分と平和になるだろうにね」
「そんな」
「いや、それは冗談として、イメージによる物質化や解体を通じて、私は人間の意識というか心の働きというものを探究してみたいのです。ひいては、私たちは何のためにここに存在しているのかとか、私たちは何処から来てどこへ還っていくのかとか、そんな人間存在の真理を究明したいのです。どうです? なかなかまともな動機でしょ?」と急にくだけた口調になって広瀬が言う。
「あなたに来てもらったのは、先程も話したように、行き詰まった状況に風穴を開けてほしかったから、そして共に歩む仲間が欲しかったからです。なにか重要なヒントをもらえるような気がしたのです」
 そこまで話したあと、広瀬は沈黙した。まるで自分の言葉が立てた波紋が収まるのを待つかのように。
 さやは広瀬から視線を外して、暗い部屋の中に青みがかった光を放っているアズロの方を見やった。
 広瀬の言うように遠い宇宙の彼方からやって来たのだろうか。もしそうだとしたら、いったい何のために? アズロがこの世に単一な存在としてあるとは考えられない。きっと同族がいるはずだ。そんな親しいものたちから離れて、こんな場所で何をしているのか。そう思ったさやは、なんだかアズロが哀れに思えてきた。不気味な感じがしないでもなかったが、さやは椅子から離れ光の方へと進んでいった。
 身近でじっくり眺めていると、不思議に心が落ち着いてきた。全身から発する淡い水色の光は、さやの魂の奥深くまで射し入るような気がした。しばらく見つめたあとでさやは、自分の呼吸周期に合わせてアズロの光が強くなったり弱くなったりすることに気づいた。試しに意識的に呼吸を遅くしてみると、光の強弱もゆったりしたものに変わった。生きている、とさやは思わずつぶやいた。アズロは生きている。そればかりか、わたしに反応している。短時間ではあるが、これまでそばにいても意識内にあったとはいえないアズロの存在が急にわたしの中に広がった、とさやは思った。
「見ればみるほど妖しい姿をしてるだろ?」
 ふいに広瀬の声がした。いつの間にかさやの横に来て、アズロを眺めていた。
「最初アズロが私の前に現れたときは驚いたよ。身体の動きも心も一瞬で凍りついたようだった」
「それはいつなんですか?」
 さやは横に立つ広瀬を見上げながら訊いた。
「半年ほど前の秋の夕暮れだった。あなたをグリーンショップで見かけたのは確か夏の終わり頃だったから、それから二ヶ月くらいあとのことだね」
「どんなふうにアズロに出会ったんですか?」
「あの日、このあたりではめったに見れないような壮大な夕焼けだった。紅に染まった空を見上げると、まるでこちらから向こうを見下ろしているような浮遊感があった。仕事を終えた私は農園内にある倉庫に農機具をしまおうと歩いていた。そして、あまりに見事な日没の景色に、私は立ち止まってしばし見とれていた。放心状態になっていたのだと思う。
 ずっと上方を向いていたせいで首の痛みを感じ始めたとき、前方に気配を感じた。あれっ? と思って正面を見ると、十メートルほど前方の雑草の生えた小道に何かが横たわっていた。夕焼けを見続けた残像かなと思い、目をしばたいてみたが、やはり何かがあるようだった。黄昏に溶け込んでいく土色を背景に淡い光が見える気がした。まさか人魂でもあるまいと思いながら近寄ってみた。私の本能はただならぬものを感じてはいたけど、怖いという気はしなかった。三メートルくらいまで近づくと、横たわるものの全体が見渡せた。一見して、この世のものではないとわかった。その形状はこの地球上にあると思われるどんなものにも似ていなかった。そして全体が、ぼーっと青白い光に包まれていた。山道で魔物に出くわした時のように、もう引き返せないと何故か思ったよ。私は覚悟を決めてさらに一歩踏み出した」
 さやは、臨場感あふれる語り口で話す広瀬の横顔と、目の前にいる話題の主を交互に見比べながら聞いていた。この人が図書館の読み聞かせボランティアに入って絵本や物語を読んでくれたら、子供達は大喜びするだろうなあと思ったりした。彼女は以前に何度か、図書館に勤務する友人に頼まれて読み聞かせのピンチヒッターを務めたことがあった。
「どう? 少しは感じがわかってもらえるかな」
「なんか話に引き込まれてしまいます。その時わたしもそこにいたような気がします」
「そうか。かなり冷え込んできたね」
「ええ」
「私の上着をよかったら」
 広瀬は紺色のダウンパーカを脱ごうとした。
「いえ、いいんです。大丈夫ですから」
「でも」
「ほんとに。それより、続き聞かせてください」
「わかった。それから、そいつを見下ろす位置まで行って、警戒しながらよく観察してみた。恐らく生物だろうと思った。地球でいうところの動物というより植物に近いように感じた。なぜなら、下部と思われる方の端が細かく枝分かれしており、それが根に見えたという理由からだけど。
 根の部分から上方に向けて、今あなたが目にしているような曲線を描いて縦長に身が伸びていた。多肉植物の変種といった趣だったが、なにより驚いたのは全身から発光していたことだった。それ自体の色は白もしくはごく薄いグレーかもしれなかったが、発光色はクリスタルな青だった。私は、あたりが暗くなると共に強さを増すその美しい光に見とれていた。
 どれほどのあいだ見つめていただろうか。私はふと、光が弱まっていることに気づいた。さっきまで輝いていた光が今は夕闇に溶け込んでしまいそうだった。こいつは弱っている。私は直観的にそう感じた。最初は気味悪く思っていたけど、しばらく一緒にいるうちに、ある種の親しみを感じ始めていた。私は思い切って、その光るものに手を触れてみた。意外なことに温もりはなく、むしろひんやりとしていた。あなたも触ってみたらわかるが、感触は弾力がなくて硬質な感じだ。
 一番びっくりしたのは、その重さだった。このままにしておくわけにはいかないと思い、とりあえずビニールハウスの中に運ぼうと両手で持ち上げたとき、石川啄木じゃないが、あまりの軽さに歩むことができなかった。全長は一メートル以上あり見かけも大きいのに、拍子抜けするほどの軽さだった。きっと体を構成する素材が特殊なんだろうな」
「ふうん」
 さやは目の前のアズロに触れてみたいと思い始めていた。躊躇する気持ちはもちろんあったが、持ち前の好奇心がむくむくと頭をもたげてきたのだった。それにさやは、これまで知らなかった自分に出会ったような思いを味わっていた。いま起きている常識では考えられない出来事を意外に淡々と受け入れている自分に驚いていた。わたしはこれまで自分自身のことに目を向けてこなかったのかもしれない、と思った。
「それか、実際には重いのだが地球の重力に逆らう力を持っているとか。とにかく、羽のように軽いそいつを両手にかかえて、最寄りのビニールハウスに運んだ。運んだのはいいが、どうしていいかさっぱりわからず、サボテンの隣に穴を掘ったんだ。そうして根と思える方を穴の中に入れて植えてみた。結果、どういう理由かは今でもわからないけど、彼の光はまた元の輝きにまで回復した」
「よかった」
「その日から彼との二人三脚が始まったというわけです」
「そして、イメージの物質化に行き当たるんですね」
「うん。それまでもいろいろあってね。たとえば、人目に晒すわけにいかないから、新しくハウス建てて不透明なビニール張って、それがここなんだけど、そのハウスの中にもう一つの子ハウスを組み立てて、というのは、ある一定照度以上の光を浴びるとダメージを受けて弱ってしまうことがわかったから、それで黒いビニールで覆ったこの部屋を用意したんだ」
「地球の植物のように太陽の光を必要とはしないのかな。つまり光合成を行わないでエネルギーを得ているということですか?」
 さやは、先生が嫌いでその科目が好きになれなかった生物をもっと勉強しておけばよかったと思いながら、光合成という言葉を使った。
「どうやらそうらしい。どんな方法で生きていくエネルギーを作っているのか、よくわからん。もうけっこう長いこと一緒にいるが、いっこうにわからないね」
「それって、まるで長年連れ添った奥さんについての感想みたい」とさやは笑いながら言う。
「奥さんとは長年連れ添ったことがないからなあ」
 広瀬は別に言葉尻をとらえたふうでもなく、さらりと言った。
「あ、ごめんなさい。そんなつもりでは」
「いや、こちらこそ。私は半人前の人間だからね」
「そんな」
「さあ、そんな話はいいんだ。かなり冷えてきたし、ずいぶん遅くなってしまった。申し訳ないね。今日のところは、ここまでにしようか。こんな言い方は、あなたにまた参加してもらえるという楽観論に基づいているのですが」
「うーん。正直言って気が重いです。実は、あまりにも現実離れしたことなので、わたし自身が事の重大さをよくわかってなくて、それでけっこう平気な顔をしていられるんじゃないかって、自分自身を疑ってるところがあります」
「まあ、無理もないよ。誰だってそうだと思うよ。あなたはまだ冷静な方だ。他のやつらだったら、きっとパニック起こして騒ぎ立て、今頃ここら中に警官や新聞記者や野次馬がうようよしてるさ」
 広瀬は吐き捨てるように言った。
「わたしが秘密を暴露するかもとは思わないんですか?」
「思わない。私はあなたを信用するというよりも、あなたという人を選んだ私の直観を信用するよ。今すぐに結論を出さなくてもいいから、時間をかけてゆっくり考えてみてください。一刻を争うことでもないからね。ただ、私は確信しています。私たちが人類の未来を左右することになるだろうと」
 おごそかに言い放つその台詞を誰かが聞いたとしたら、なんて鼻持ちならない偉そうなことを言う奴だと反発されるだろうな、とさやは思った。でも、こんな状況に身を置いていると、そんなに変だとは思わないのが不思議であり、また心配な点でもあった。
「よく考えてみます。それにしても未だ夢の中にいるみたいです。とっても濃い時間でした。では、そろそろ失礼して」
 さやは、最後に思い切ってアズロに触ってみようと手を伸ばした。手のひらが表面にふれた。ひんやりというより冷たかった。室温と同じくらいかもしれないと思った。感触は柔らかな磁器といった感じ。指の間からブルーの光が漏れて、さやの白い手を妖しく染めた。
 すぐに手を離そうと思ったが、なぜか離しがたい気がしてそのままじっとしていた。気持がゆったりと落ち着いてきた。異常な出来事に緊張を保っていたさやの神経がゆるみ、リラックスしてきた。
 同時に体もゆるんだのか、急に寒くなってきた。寒気が足下から這い上がり、背筋を凍らし、体の末端へと抜けていった。寒い。さやは胸の中でそうつぶやいた。寒い。マフラーがあったらな、と本気で思った。彼女は冬にはマフラーを愛用していた。幼い頃から首周りを暖かくするのが好きだった。高校に入学した年の冬に、母親がカシミアのいいものを買ってくれた。以来ずっとそれを大切にしていた。さやは、その柔らかな温もりをリアルに思い出していた。
 突然、差し出していた手に何かがふわりとかかった。それは、さやの部屋にあるはずのワインレッドのマフラーだった。


      4

 開け放したガラス窓から気持ちのよい風が入ってきた。窓の向こうには大きな欅が立っており、重なった枝の間から高く青い空が見える。室内にある大きな木の机には、栞がはさんである単行本、雑誌、電話の子機、鉢植えのサボテンなどが乗っている。そして椅子に座ったさやの前では、真っ白なカップに入ったミントティーが、爽やかな香りと湯気をあたりに漂わせていた。久々にのんびりした時間を過ごしているとさやは思った。

 この一年半あまりというものは正に波瀾万丈の日々だった。広瀬という男に出会い、不思議な生物に引き合わされた。その生物のサポートを受けて、広瀬がすでに体験していたイメージの物質化にさやも成功し、その日から彼女の人生が急転した。彼女は自分の能力、欲望、嗜好などを意識し始め、自分の中に深く下りていくことを通じて、他者やこの世界といったものへの認識を新たにした。
 勤めていた公的機関の嘱託の仕事を辞めたさやは、広瀬の農園に通って物質化の体験を重ねた。家族には、園芸の仕事を覚えて将来的には店を持ちたい旨話して、なんとか納得させた。広瀬は家族を持たず、農園の仕事はパートを雇って運営していて、彼らに対してはさやを品種改良事業のスタッフだと紹介していた。
 さやはイメージの物質化の訓練をほぼ毎日行い、しだいに腕を上げていった。より正確なイメージングをするためには物質の成り立ちから勉強する必要があることに気づいて、物理、化学、生物、地学などの自然科学に関する本を読み始めた。勉強したことを実際に試せるシステムを持っていることが、こんなにも学ぶということの面白さを喚起するとは意外だった。
 広瀬も農作業と並行させて物質化のトレーニングを続けた。彼の場合、物質を消滅させることへも意欲をみせたが、なかなか成果を出せないでいた。
 初夏のある日、二人は農園にある大きな木の下に設けたベンチでアイスティーを飲んでいた。広瀬は大型の魔法瓶に入れた紅茶とクーラーボックスに用意した氷を持参していた。初夏とはいえ汗ばむほどの陽気で、ときおり吹く爽やかな風と冷たい飲み物がありがたかった。
 ベンチに併設されている木のテーブルにグラスを置きながら広瀬が言う。
「実はこの前から考えていたことだが、会社作らないか?」
「会社ですか?」
 口に含んだ冷たい液体を飲み込んだあと、さやは驚いた調子で言った。
「そう。おれたちが取り組んでいるこの前代未聞のプロジェクトをより効果的に発展させるためには、素人体制ではだめだと思うんだ。会社を立ち上げて利益を出しながら、より突っ込んだ研究をしていくべきだと思う。大げさではなく、おれたちが日々研鑽していることは今後の人類の運命を左右することなんだ」
「それは、わたしもそう思うけど」
「さやちゃん、とにかくシステムを作ろう。アズロは今のところ健在だが、いつまた急に姿を消すとも限らない。今後もっと体験を重ねたら、おれたち自身の力で物質化などができるようになるのか、それとも、これはすべてアズロの力によるものなのか、現時点ではわからない。いま四の五の言っても始まらないから、できるだけ早くシステムを構築しよう」
「それで、どうやって」
「まず、君とおれとで有限会社をつくる。比較的低資金で設立できるからね。会社は研究部門と営業部門から成り、前者はイメージの物質化などについてさらに研究し、後者は研究資金を捻出するために金を儲ける」
「お金儲けって、どんな方法で?」
「それを君と相談しようと思って」
「だって二つ部門があって、社員が二人しかいなくて、どちらがどっちやるの?」
「まあ兼務になるだろうなあ」
「わかった。わたしが研究資金つくる」
「どうやって?」
 つくると言ってはみたものの、さやに具体的なアイデアがあるわけではなかった。一瞬考えたさやは、
「物質化する」と言った。
 広瀬はさやの大胆な提案に呆れながらも、腑に落ちるものがあった。
「おいおい、偽札でも作るのか」
「違うよ。紙幣は通し番号があるし、何かと面倒なことになりかねないわ。貴金属よ。金やダイヤモンドをつくるよ」
「そうか、その手があったか。しかし、言うは易しだよ」
「そうね。でもがんばってみる」
 さやは手にしたグラスを額にあてた。水滴とガラスの冷たさが心地よい。ふっと顔を上げると、彼方の山々が午後の日差しに霞んでいた。さーっと風が立ち、果樹園の方に吹き去っていった。

 ノックの音がして、さやは自分がぼんやりと考え事をしていたことに気づいた。
「どうぞ」
「失礼します」
 ドアを開けて入ってきたのは秘書の月香だった。二十六歳になったばかりのスレンダーな女である。背はさやより高く、形のいい尻をスリムジーンズに包んでいる。英語に堪能だ。
「所長、ようやく広瀬さんに連絡が取れました」
「そう、やっとつかまったのね。ご苦労様。で、どこにいたの?」
「岐阜県の御嶽山です」
「御嶽山?」
「ええ。なんでも滝行をやってらしたとか。滝行ってなんですの?」
「まったく、もう。連絡しといてくれればいいのに」
 さやは半ば諦めた口調でそう言ってから、月香の問いに答えた。
「滝行というのはね、山伏や修験者が、けがれを取ったり魂の浄化をしたりする目的で滝に打たれて修行することをいうらしいわ」
「へえ、そうなんですか。広瀬さん山伏になられたんですか?」
「そうじゃなくて、たぶん精神を研ぎ澄ますためじゃないかな。以前彼から聞いた話だけど、滝ならどこのでもいいという訳にいかなくて、しかも先導者と一緒でないと危険らしいのよ」
「そうなんですか。でもどうして危険なんです? 滝壺に落ちるとか」
「滝はとても神聖な場所なんだけど、それ故いろんな霊が集まるんだって。先導者はそういう人間に害を及ぼす霊を追い払って、結界を張って、安全を確保するらしいわ。あなた、立ってないでそこ座りなさいよ」
 さやはソファを指さして言った。
「ありがとうございます。では遠慮なく」
 ソファに座った月香は、興味津々でさやを見る。
「所長、よくご存じですね」
「だから、聞いた話だってば」
「でも、その手の話をよくされますよ。こないだも神社のことを言ってらした」
「そうね。最近その手の話が多いかもしれないわね。必要に迫られて」
「何かおありですか?」
「人間の心というか、魂というか、そんなものの実体を知りたくて、目に見えない世界のことを少しかじってるのよ」
「なんか意外な気がします。若くして研究所の所長さんで、美しくエレガントで」
「なにも出ないわよ」
「本当です。友人たちも言ってますよ。あんな素敵な人の下で働けるなんて羨ましいって」
「ありがとう。でも若いってとこはサービスかな。あなたより七つも上なのよ」
「見えませんよ、全然」
「まあいいわ。ありがたく受け取っておくわ。それより、彼にもういちど連絡とって伝えてほしいの。新しいプロジェクトの話を詰めたいから、できるだけ早めに戻ってくださいって」
「わかりました。では、さっそく連絡取ってみます。失礼します」
 月香は肩のあたりまで伸ばした髪を揺らして、階下の秘書室まで降りていった。

 この建物は東京郊外にある古い洋館である。広い敷地の奥まったあたりに建っており、芝生の庭の所々には背の高い樹木が植えられている。塀の内側にも、それに添うかたちで並木があり、建物の前は駐車スペースになっていた。館は古い外観を保ちつつも入念に手が加えられている。館の一階は所長室、応接室、秘書室、会議室などに当てられており、二階はさやと広瀬のプライベートフロアだった。
 この建物と土地は、さやと広瀬の作った会社『イマージュ研究所』の持ち物で、ここに越してきたのは今年の六月初旬だった。
 この前年の同じ六月に、さやは広瀬から会社設立の相談を受けた。その際に、運営資金を得る手段として貴金属の物質化で対応すると宣言したさやは、それから数ヶ月のあいだ確実なイメージを求めて四苦八苦した。
 とりあえず金から始めることにして、99.99%以上という純度を持つ地金型金貨のメイプルリーフ金貨を用意した。サイズは最大の1オンスとした。金貨は換金が容易であり、流通量世界一のメイプルリーフ金貨なら少々の増数も目立たないという利点があった。
 さらに書籍やインターネットなどで自然科学的情報を集めたり、錬金術について調べたりした。
 むろんアズロのサポートがないと実現できないことで、アズロと相対して過ごす時間も多く取った。夏になる前に広瀬はビニールハウス内の小部屋をプレハブに建て直し、照明と冷房装置を取り付けていた。その中にこもって熱心に試行錯誤を重ねたさやは、アズロのサポートもあって十月の末についに金貨の物質化に成功した。
 広瀬は、すぐに金貨を換金するために海外に飛んだ。さやのつくった金貨の量は半端ではなかったので、不審を招かないように複数の場所で換金した。その前に、当面の資金を得るために日本でも少量を換金した。
 こうして潤沢な資金を手に入れた二人は、活動の拠点を東京に移すことにした。地方の小さな町の狭い世間で、はたから見たら何をやっているのかわからない活動をするのは得策でなかったからだ。
 広瀬は東京の農業大学を出ており、さやもかつて都内で働いていたから、二人にとっては馴染みのある土地だった。それに郷里の町には飛行場があり、一時間あまりの時間で帰ることができた。
 広瀬は農園を管理運営してくれる者を見つけて無料で貸した。収穫の利益は、すべてその人のものとした。広瀬としては農園の荒廃を防げればそれでよかったのである。
 さやは両親の説得に手間取った。いちどは東京に暮らし、都会生活に疲れたからと郷里に帰った経緯があったから、なぜ結婚もしないでまた都会に出るのかを納得させるのは困難だった。いろいろ考えた末に、園芸のチェーンストアを経営する女社長に見込まれて、新しくオープンする店の経営を任されることになったということにした。女社長とは広瀬を通じて知り合ったと話した。母親は、あんたのような世間知らずの呑気者がそんなことできるとは思えないけど、と言ったが、さやの熱意に根負けしたかたちになった。
 彼らはまず社屋を探すことにして、不動産の情報を集めた。町中よりもあまり人目につかない場所がいいだろうと郊外中心に探し、いいタイミングで売りに出ていた家を土地込みで購入した。古い洋館だったが、前の持ち主の手入れがよかったのか味のある古び方をしていて、特にさやの気に入った。それに敷地や建物の外観が会社名にぴったりの雰囲気だったのも、ここに決めた理由の一つだった。
 契約を交したあと、彼らはさっそく改装工事に取りかかり、四ヶ月ほどで完成した。それまでホテル暮らしをしていた二人は、六月始めに入居した。広瀬がさやに会社設立の相談をしてから、ちょうど一年が経っていた。
 二階のプライベートフロアには、さやと広瀬各々の部屋だけでなく、もちろんアズロのための部屋もあった。温度と湿度、それに照明の調整装置を完備していた。広瀬の農園から運んだ土に植えられたアズロは、薄暗い部屋の中でコバルトブルーの淡い光を発していた。この部屋は二階フロアで一番広く、さやと広瀬はここに籠もってアズロと共に研鑽を続けることになる。
 一階には、所長室、応接室、秘書室、会議室の他にキッチンと食堂とスタッフルームがあった。
 彼らは通いの専用コックを雇い、三食をここで食べた。昼食は秘書の月香も一緒で、ときには訪れた客が同席した。また晩餐には親しくしている人を招くこともあった。
 他の通いのスタッフとしては、屋内の掃除をしてくれる年輩の女性と、屋外の手入れと雑務全般をこなしてくれる六十代の男性がいた。
 外部的には、会社の経理を担当する会計士と、万一のトラブルに備えて弁護士を確保した。
 このようにしてさやと広瀬は、イメージの物質化および物質の解体についての研究に没頭できる環境を整えていった。

 カップから飲み残しのミントティーの香りが立ちのぼってきた。 
 さてと、そろそろ下に降りようかな。広瀬が帰ってきたら新しいプロジェクトの話をしなきゃならないし、その準備でもしよう。そういえば、明日は『イマージュ研究所』の代表として人に会うのだった。やはり彼が所長を務めるべきだわ。そんなことを考えながら、さやはカップを片づけ始めた。
 研究所を設立するにあたって、どちらが所長になるかで二人はもめた。なりたいからでなく、なりたくないからだった。さやは自分より年上で男性の広瀬が適任だと思ったが、広瀬が言うには、もう男というだけで表に出るという時代ではない、これからは力のある女性がトップに就いて、男はそれをサポートするという新しい価値観を持つ必要がある、自分たちはそれの先駆者となろう、などというわかるようなわからないような論理で煙に巻かれてしまった。結果、さやが所長として就任したというわけだ。広瀬は研究員として『イマージュ研究所』に所属し、さやと共に研鑽を積むことになった。
 さやは窓を閉めようと窓辺に行き、庭を見下ろした。使用人の柴田が、そろそろ散り始めた落葉樹の葉を掃き集めているのが見えた。
 そのとき突然さやは、郷里にある小高い山に登って眺め見た秋の海の色をなぜか思い浮かべた。あのとき自分が何を感じ何を思っていたのか思い出そうとしたが、記憶の中の自分は濃いミルク色の霧にまぎれて見えなかった。


      5

 滝行から広瀬が戻った。約一ヶ月ぶりの再会だった。まるで憑き物が落ちたような、さっぱりした顔をしているとさやは思った。あるいは実際に憑依していた何かが離れたのかもしれなかった。
「ずっと音沙汰なかったから心配してたのよ」
 さやは開口一番に言った。
「すまなかった」
 広瀬は本当に申し訳なさそうに謝った。
「自分をぎりぎりの状態に追い込む必要があったからね。電話一本入れれば済むことなんだろうけど」
「わかるわ。いえ、正確にいうとわかるような気がするわ。それで何か得るものはあったの?」
「それなんだ。一刻も早く話したくてウズウズしてたんだが、もう少し自分の中で整理できてから言おうと思ってね。それで今日まで我慢していた」
 広瀬とさやは所長室のソファに向かい合って座っていた。広瀬は月香が淹れてくれたコーヒーを一口飲むと、大きく深呼吸した。
「旨い。生き返るね」
「それで、話したかったことって何?」
 さやは手にしていたカップを置きながら好奇心いっぱいの顔で訊く。
「結論からいうと」
 広瀬はそこで言葉を切った。
「なによ、焦らさないで」
「物質の解体に成功した」
 あっさりと言ってのけた広瀬は、さやに手を差し出した。
「すごーい。すごい、すごい。ついにできたのね」
 歓声を上げながら、さやは広瀬の手を両手でつかみ、上下に激しく動かした。
「ああ、やっとできたよ」
「どうやって?」
「話せば長いことながら」
「いいわ、長くても」
「結局、切羽詰らなければ事は成らないの証明になった感じだな」
「どういうこと?」
「君も知ってるとおり、おれは一年半以上もイメージによる物質の解体に取り組んできた。なのに、いっこうにその糸口がつかめなかった。一方、君の方は着々と物質化の腕を上げ、おかげでこうして立派な研究所を持つまでに至った。正直、おれは君に軽い嫉妬を覚えたよ」
「そんな。あなたがいたからこそできたことです」
「おれは何度も気をとり直して、正確なイメージができるよう努めてみた。しかし、色々な方法で試してみても成果は上がらなかった。そんな悶々とした日々の中で、ひょんなことから滝行に出会ったんだ。それまでに滝に打たれた経験はなかったが、なにか大自然の力がうまく作用するような予感がして試すことにした。滝行に関して調べるうちに、岐阜にある御嶽山の滝がいいらしいという情報が入った。さっそく付近にいる先導者を当たってみたら、定期的に滝行の会を催している人がいた。その人に連絡をとって参加することになったのだが、彼が事前に現地入りしてゆっくりすることを薦めてくれたんだ。こちらにはいい温泉や旨い地酒があるからってね」
「さては、それに惹かれたな」
「そういうこと。いや、そうじゃなくて、一人でゆっくり自分を見つめる時間が欲しかったんだ。しかし、ゆっくりできたのはいいが張りつめたものが無くなってしまい、細かくイメージする能力が低下してきたように思えた。
 そうこうするうちに滝行の日がやってきて、先導者を含む男女数名のおれたち一行は車で御嶽山に向かった。目指す滝の近くに駐車すると、歩いて山道を下った。滝壺に近づくに連れて、水の落下する音があたりの空気を震わせ始めた。岩の角を曲がると目の前に美しい滝があった。落差は優に三十メートルはありそうだった。
 滝のそばの小屋で私は全裸になり、褌を身に着けた。その上に白装束を羽織り、祈願の文字を書いた縦長の木札を腰に差し、草鞋を履いた。心の位置が変化したのか、とたんに激しい水音が脳髄を震わせ、滝の飛沫が吹く風に乗って顔を濡らした。
 この滝は修験者達にとっての霊場で、春、夏、秋はおろか真冬の雪の中でも滝行は行われているらしい。いつか話したと思うけど、滝壺の周りは霊的密度が高く、邪なるものを祓うしかるべき先導者の助けが必要なんだ。
 おれたちは先導者の声に促されて滝壺の底へと降りていった。そして凄まじい勢いで落下する滝に向けて歩いていく。落下地点に平たい岩があり、その向こうで先導者が『臨兵闘者皆陣列在前』と唱えながら九字を切っている」
「あなたって、ほんとに語りが上手いわね。思わず物語の世界にトリップしてしまうわ」
「おいおい、これからが佳境なんだけど」
「ごめんなさい」
 咳払いをひとつして、広瀬はふたたび話を続けた。
「おれたちは順番に滝に入っていった。経験者二人が先に行き、おれはその次だった。息を整え、気合いをかけながら滝の落下地点にある平岩に乗った。ざーっ、どーん、と物凄い衝撃がきた。息ができない。はるか高みから落ちてくる水が次々と切れ目なくおれの頭頂に襲いかかる。身体にこんなショックを感じるのは生まれて初めてだった。全身の皮膚が、細胞が、次々と剥がれ落ちていくかのようだった。
 初心者は一分も入っていられないと聞いていた。無理をしないで、もう少しいけるかなと思えるうちに出るように言われていた。滝から出るには力が要るので、決してぎりぎりまでいてはいけないとも注意されていた。
 おれはもういいだろうと思い、滝の外に一歩踏み出そうとした。動かない。身体がいうことをきかない。呼吸もできない。まだ入ってそんなに時間が経っていないはずだ。油断したのだろうか。先導者は見守ってくれているはずだが、こんなに早く出るとは思わないかもしれない。おれはパニックに襲われていた。猛々しい滝のエネルギーに押し潰される気がして恐くなった。何とかしなくてはと焦って動こうとするが、水の壁はびくともしなかった。このままでは溺れてしまう。
 そのとき急に静けさが来た。自分の外部と内部で時間の流れる速度が変わったかのようだった。身体に受ける衝撃も、大きな水音も、周りにいる人間の気配も、みんな遠くに感じられた。
 突然、閃くものがあった。水を消そう。落ちてくる水を解体しよう。滝壺へと落ち始めた水流の長さ二メートルほどを瞬間的に消滅させよう。そうすれば、その分の空間が下に来たとき滝から抜けられるに違いない。いったいどうやって、などと考えている暇は無かった。ただやるのみだった。アズロのことを思い浮かべた。できると思った。思うと同時におれは滝の外に出ていた」
 話を中断した広瀬は、しばらく無言だった。さやも何も言わずに広瀬を見つめていた。隣の部屋から月香のハミングが聞こえてきた。
「言葉にすると長く感じるかもしれないが、これはごく短時間のことだったろう。この体験のあと、おれは確かなものを得たと思った。滝から抜け出せたのは偶然ではなかったと証明したい気がした。
 おれはその日疲れ果てて宿に戻ったとき、物質の解体を再現しておかなければと強く思った。すぐにでも横になって眠りたかったが、そうすると白日夢で終わるような予感があったからだ。
 おれは部屋に備えてあるガラスコップに水を入れ、畳の上に置いた。水は水素と酸素の化合物だが、水道水だから不純物も含まれている。元素は一種類のみの原子によって作られる物質だ。それらの元素を構成する原子の単位までイメージして、消滅させて無に帰すというよりも結びつきをバラバラに解体するようイメージできれば、その物体の特性は失われて空間から消えたように見えるはずだ。
 おれは昼間の体験から、頭で考えたりじっくりとイメージするのでは駄目だとわかっていた。イメージは鮮やかに一瞬、という言葉が浮かんできた。極度の疲れで頭が朦朧としていたのが幸いしたのか、おれは余計なことを思う余裕もなく、最後の気力をふりしぼってコップの中の水が消える様子をイメージした。同時におれはアズロを感じようとした。できた、という手応えがあったと同時に、コップの水は無くなっていた」
 ここまで話して、広瀬は冷めてしまったコーヒーに口をつけた。
「新しく淹れ直しましょうか?」
 さやは広瀬の口元を見ながら訊いた。
「ああ、お願いできるかな」
 さやは内線で秘書室を呼び出し、コーヒーの追加を頼んだ。
「でも聞けば聞くほどすごい話ね。イメージで原子を組み合わせて物体をつくり、原子の結合を解いて解体することができるなんて。いったい人間がする、このイメージって何だろうね」
「何だろうな。思うってことが、もうそれだけでエネルギーを持ってるってことだろ? そのエネルギーでもって原子の組成や解体を行うわけだろ? いや待て、これができるのはアズロがいるからだ。普通の人間にはできやしない。少なくとも、これまではできなかった」
「じゃあ、アズロって何ってことになるんだけど」
「この世のことは99%がわからないんじゃないのかな。おれたちが、これからそれを探究していくわけだ」
「そうね。ねえ、わたしにも消すことができるかな」
 さやは自信なさげに訊く。
「できる」
「ほんと?」
「できるよ。やってみたらいい」
 広瀬はあっさりと言った。
「君はすでに原子を組成するができるんだ。解体も必ずできる。あとでアズロと一緒に試してみよう。金貨を消してみるんだ」
「わかったわ。やってみる」
 ノックの音がして月香の声がした。
「失礼します」
「どうぞ。入って」
「コーヒーをお持ちしました」
 言いながら月香がドアを開けた。二人分のカップとコーヒーの入ったポットをテーブルの上に置く。
「ありがとう」
「どうぞ熱いうちに」
 月香が立ち去ろうとすると、広瀬が声をかけた。
「月ちゃん、いろいろ手間を取らせたね」
「いえ」
「それなのに土産も買ってないんだ」
「とんでもありません」
「そう言えば、わたしもお土産もらってないわ」とさやがおどけて言う。
「君には土産話をしただろう」
「はいはい、美味しくいただきました」
「じゃあ、あたしにもお土産話を」と月香が言った。
「滝行のことなどお聞きしたいなと思います」
「へえ。君、滝行なんかに興味あるの?」
 意外だという顔で広瀬は月香を見た。
「なんか面白そうじゃないですか。世界中に滝があるのに、精神的な動機でもって滝に打たれるなんてことをするのは日本人だけじゃないのかな。中国あたりでもあるのかしら。自然とダイレクトに皮膚感覚でコミットするなんて、なんだか素敵ですね」
「あなたも一度体験してみたら?」とさやは笑いながら言った。
「特に真冬に氷柱の下がる気温の中で行う滝行は格別らしいわよ」
「えーっ、冬にもやるんですか? あたし寒いの苦手なんです」
「まあ暖かい季節から始めたらいいさ。なんて偉そうなこといってるが、おれも今回が初体験だったんだ。冬にもできるかどうか自信がないな。滝行のことは、また改めて話すよ」
「はい。楽しみにしています。では、あたしはこれで」
 月香は一礼すると秘書室に戻って行った。
「面白い子だね」
 広瀬は新しいコーヒーをカップに注ぎながら言った。
「彼女、あなたに気があるわよ」
「おいおい」
「これは女の直感」
「まさか」
「ほんとよ。でも思うのだけど、好きとか嫌いとかいうのは精神の作用でしょ? 心の働きといってもいいけど。イメージを抱くのも心。どちらもエネルギーを持っているわよね。心っていったいなに? まだ発見されていない未知の元素からできているのかしら。それがわかれば、心をも組成したり解体したりできるかもしれない。そうなれば、生物さえもつくったり消したりできるようになる。そう思わない?」
「もしそんなことができるとしたら、それができる者は正に神ということになる。君は神になりたいのかい?」
「そうじゃなくて、わたしはただこの世の秘密を知りたいの。あなたに出会うまでは、わたしは自分がいったい何を望んでいるのかわからなかった。というか、わかっていないということさえわからなかった。今は、わたしのいるこの世っていったい何なのかを死ぬまでには絶対知りたい、というのが願いなの」
「そういったことは、誰もが一度や二度は考えることだろう。しかし、それ以上考え続けることなしに、その思いは日常の些事に紛れてしまうのがおちだ」
「そうね、生活していくということは大変なことよね。自分の全エネルギーを、そういった直接生活の糧には結びつかないことに費やす余裕はないと思う。わたしだって、ついこないだまでは時給七百円の嘱託の仕事をしてたのよ。でも今は違う。もうお金を得るために時間を割く必要はないわ。要ればいくらでも調達できるわけだし。
 わたし、お金を持ってるということについて改めて考えてみたの。たとえば、わたしがどこかの町中にいるとする。その時のわたしが、一文無しで仕事もなかなか見つからないという状態と、銀行の口座に十億円が入っているというのとでは、わたしの中で何が違うのだろうってね。お金がないときに誰か知り合いに会ったら、わたしは顔を伏せるだろうか。自分が惨めだと感じるだろうか。それとも今はただお金がないというだけで、わたしの価値はそのことによって変わりはしないと堂々と振舞えるだろうか。反対に、有り余るお金がある場合にはどうだろう。余裕を持った態度で知人に応対するだろうか。それとも今度は人として尊敬されているかどうかを気にするだろうかとか、そんなことを考えたの」
「そうか。ま、あまり無いのも問題だと思うけど、自分が必要とする以上あっても銀行が喜ぶだけだろうしね。必要とする額ってみんないったい幾らなのかな。
 それにしても、長者番付のニュースをときどき流しているが、富むものは限りなく富んでいて、貧しいものは僅かな金を得るために一生を費やす。同じ人間という種なのに何という差だろうな。社会のシステムとして、貧しい者は富むものに仕えており、富む者もまた仕える者を必要としている、そんな図式がみえる」
「仕えたくなくても仕えざるを得ないでしょう。あるいは仕えているという認識すらないのかもしれないけど」
「青いと言われるだろうが、おれは一度この世界をリセットして、全く新しい価値観を持った人間たちの世界を再構築したいと思うときがあるよ。しかし、そのことがこの地球にとって、あるいは人類以外の生物にとって、歓迎されることなのかどうかは疑問だけどね。もしかして人類は、この地球に居てはならない存在なのかもしれないな」
 広瀬はそう言うと、深い溜息をついた。
 さやは改めて広瀬の顔をまじまじと眺めながら、この人はまるで自分が神であるかのような発言をしていると思った。
「さてコーヒーもいただいたことだし、上に行ってアズロの顔を見ることにしよう。君も来ないか? 物体の解体を試してみよう」
「わかったわ」
 さやは月香に電話して研究室にいるからと言い、広瀬と共に二階に上がった。研究室は、さやと広瀬以外は入室禁止になっている。
 久しぶりに会うアズロであったが、そんな感じがしないのはなぜだろう、常に身近な存在として意識しているのかもしれない、と広瀬は思った。二十畳ほどの部屋は薄暗く、低めの室温と乾燥ぎみの湿度に保たれている。アズロは前回見たときと同じたたずまいだった。そしてアズロを目にするたびに広瀬は、初めて遭遇した日の壮大な夕焼けの色を思い出すのだった。
「先日はありがとう。助かったよ」
 声に出して広瀬は礼を言った。
「おかげで命拾いしたし、何よりも悲願が叶ったからね」
「わたしからもお礼を言わせてもらうわ。ありがとう」
 さやも親しみを込めてそう言った。アズロは淡い青の光を放ちながら、いつものようにただそこに居た。
「さてと」
 広瀬は机の抽出から金貨を一枚取り出して、さやに手渡した。
「こいつを手のひらに乗せて解体してごらん」
「できるかなあ」
「できるさ」
 そう確信しているといった自然な口調で広瀬は言った。
「いいかい、いつもしている反対をすればいいんだ。原子の単位にまで下りていけば十分だろう。イメージでもって、それらの原子をバラバラにするんだ。
 君が金貨を組成するプロセスをたどってみると、まず金をつくるために必要な原子を出現させる。どうしてそんなことができるのかはわからないけどね。たぶん空間に存在しているものをイメージで抽出するのだろう。次にそれらの原子の集合体から分子をつくる。そして分子を組み合わせて物質である金をつくるわけだ。ある一定の質量および形体になるように調整するのは、もちろんイメージでだ。
 今度はその逆をやればいい。イメージは鮮やかに一瞬でだよ。気をつけるのはそれだけだ」
 広瀬はそれだけ言うと、部屋の隅にある椅子に腰を下ろした。
 さやは左の手のひらに金貨を乗せたままアズロの間近まで進み、じっと動かなくなった。金貨を見つめたまま、さやの頭に浮かんできたのは、金貨が消えるイメージではなく幼い頃の情景だった。
 さやが小学校一、二年の頃、家の近所に少し年上の男の子がいた。ときおり気が向くと、さやを遊びの輪に入れてくれた。あるとき、ちょっとついて来い、という。さやが後を追うと、酒屋の裏に積んである瓶置き場に着いた。彼はあたりを見回すと、ラムネ瓶の入ったケースを一つ抱えてとっとと走り出した。さやもあわてて彼に続く。近くの製材所の材木置き場まで来ると、人目につかない物陰に陣取った。彼は大きめの石を拾ってくると、ケースからラムネ瓶を取り出して、飲み口の部分を石に叩きつけた。鋭い音がして瓶の口は粉々に砕けた。地面に散った氷山のようなガラスの破片の中に、青緑に輝く球体が浮かんでいた。ビー玉だった。これ買ってもらえんから、彼はそう言って曖昧に笑った。誰にもいうな、という言葉に頷いたさやは、黙ってケースの中の瓶をつかみ彼に差し出した。一本、また一本と瓶が割られていく。そのたびに発する尖った音がラムネ瓶の悲鳴に聞こえて、さやは思わず両手を耳に当てた。少し鈍くなった悲鳴と共に砕け散るガラスの破片に、午後の陽がキラッと反射した。
 そのとき、さやの手のひらにある金貨がふっと消えた。


      6

 広瀬が滝行から戻った明くる日から、さやと広瀬はイメージの力をどう応用するかという研究に没頭した。
 必要な情報は、主に書籍とウェブサイトから入手した。書籍はインターネットの通信販売サイトで検索し、適当なものを購入した。またサーチエンジンを駆使して、興味のある分野を扱っているサイトを探した。英語表示のページはURLを月香に示し、概ねどんなことが書いてあるのかをチェックしてもらった。いづれ必要あらば特定分野の専門家に会うつもりだったが、当面は自分たちでできる範囲から始めた次第だった。
 ある曇った昼下がり、さやは本を積み上げた自室の机に着いて、発生生物学の本を読み始めた。
 曰く、高等動物の場合は卵子と精子が合体してできる受精卵から個体の発生が出発する。まず細胞分裂によってたくさんの細胞がつくられる。次に適切にコントロールされた細胞分化と形態形成を経て、胚または胚子が発生してくる。発育した胚はやがて孵化して自立生活を始める。哺乳動物の場合は母体の子宮内で発育して、胎仔ができて成長してから出産に至る。雌雄の個体が成長し成熟した後に、卵子と精子をつくることによって次の世代の発生を開始する。生物の発生はこのようなサイクルを繰り返すわけだが、この中で特に、受精卵から始まって動物個体が発生してくる過程のメカニズムを解明するのが、発生生物学である。
 やはり無機物を組成するようには簡単にいきそうもないわ、とさやは考え込んでしまった。もう少し言葉の定義を確認しようと、彼女は手元の辞書を引いてみた。
 有機物とは、生物体を構成・組織する炭素を主な成分とする物質。
 生物とは、生活現象を行うもの。生命を有し、栄養を取り入れ生長・活動し繁殖を営むもの。動物・植物の総称。いきもの。
 発生とは、細胞の増殖・分化・形態形成などにより、ある生物系(組織・器官・個体など)が単純な状態から複雑な状態へ発展すること。主に受精卵から出発する個体発生をさす。
 この中でさやは、生物とは生命を有し、という部分に注目した。この生命とは、つまりは魂ということになるのだろうか。もしそうだとすれば、細菌、アメーバ、ゾウリムシなどの単細胞生物から脊椎動物門哺乳綱霊長目ヒト科に至るまで、あらゆる生物には魂があることになる。
 魂といえば人間にしかないと思いがちだが、実はそうではないのかもしれない。魂は一種のエネルギーでありプログラムでもあると、生物はこのプログラムに従って進化を続けていくと、そう考えてみることはできないだろうか。
 生命に関するプログラムといえばDNAが挙げられよう。地球上のすべての生物は、細胞内にDNAを持っている。それは情報伝達と自己再生を可能とするシステムである。
 では、そのプログラムはどうやってできたのか。三十八億年前の原始の海の中で自然発生したのだろうか。原始の海の中で多様な有機物が混ざりあって最初の生命体ができたとき、同時に魂も発生したのか。それとも、あらかじめ魂というプログラムがあって、それに基づいて情報伝達と自己再生のプログラムが形成されたのか。もしそうなら、魂はどのように生じたのか。考えれば考えるだけ、さやの頭の中は混沌さを増していく。
 魂とDNA、これらは同じプログラムといっても、その果たす役割が違うように思える。わたしの直観では、イメージの力をどう応用するかという研究の対象として魂というものに注目した方がよさそうだ、とさやは思った。
 一方、広瀬は自分の部屋に籠もって、イメージによる物質の解体についての考察を続けていた。
 滝の水の一部分を消滅させることができたということは、イメージで空間のある部分を特定できることになる。どれほどの広がりを特定できるのだろう。この部屋くらいか、この町か、日本全体か、地球まるごとか、さらには全宇宙か。
 逆にミクロにも向かえる。ピンポイントで特定できれば、レーザー治療のように人体の患部を、たとえば癌を消滅させることができるかもしれない。その場合は有機物である細胞をリアルにイメージできるかどうかがだが、同じ有機物である林檎の物質化ができるのだから可能性はあると言える。
 細胞の解体ができるのだとすれば、このイメージの力は生物の殺傷にも使えることになる。生体を構成するすべての細胞をイメージできなくても、その一部でも消滅させることができれば、その生体は生存不可能になるだろう。もしイメージによる生体殺傷ができ、そのイメージの及ぶ範囲を地球全体に展開できるなら、特定の生物を一瞬のうちに殺すことができるだろう。もちろん人類でも。その場合、自分自身も死ぬことになるのか、あるいはその対象の例外を設けることができるのか。
 それにしても、このイメージって奴はいったい何だろうな。さらにイメージを使うことのできるこの私とは? 人間にしか使えないのか、チンパンジーにも使えるのか。猿のことはわからないが、少なくとも人間は宇宙の果てを想像することができる。思い浮かべることができるということは、きっとそこまで意識が届いているはずだ。宇宙の果てだと私が指定する場所が本当にそうなのかどうか知る術はない。しかし、イメージできるということは、私の思う宇宙の果ては私の中にすでに在るのだろう。
 いかん、考えが暴走し始めた、ここらでちょっと一休みしよう、と広瀬は掛けていたロッキングチェアから腰を上げた。部屋のコーナーにあるミニバーのところに行き、棚からボンベイ・サファイアの青いボトルを取って、ワンショットグラスに注ぐ。かつてフランス映画で観たようにストレートでぐいっとひっかけて、息を深く吐き出す。スピリッツはストレートに限るなどと思いながら、グラスをカウンターに置いて窓辺に歩いて行った。
 窓から見える庭の立木も、空を埋めつくした薄鼠色の雲も、やがて訪れる寒い季節の気配に満ちていた。故郷の農園でも冬支度が行われていることだろう。
 思えば遠くに来たものだというセリフをどこかで聞いたような気がするが、まったく人生というものは何が起きるかわからない。暮らしに困らないどころではない相当な資産を手に入れ、常識では考えられないような能力を得て、さておれはこれから何をするのか。何もない空間に林檎を出現させたからって、それがいったいどうだというのだ。この世にこれ以上つくり出したいものなどあるのだろうか。広瀬は窓外に広がる景色をぼんやりと眺めながら、そんなことを考えていた。
 いつだったか、たまたま見た科学雑誌に、真っ黒な宇宙空間に浮かぶ青い地球の写真が載っていた。陳腐な言葉ではあるが、宇宙随一の宝石、輝ける水の惑星なんてフレーズが頭に浮かんだ。
 この広大な宇宙には地球と同じような環境で生命の存在する惑星がいくつもあるはずだ、無いという方が非科学的だ、という意見があるらしい。どうしてそんなことが言えるのか。どんなにこの宇宙が広大無辺だろうと、この地球のような星は二つとないような気がする。地上に存在する生物のすべてが全宇宙のオンリーワンなのだ。いや生物だけじゃない。無機物である石や土や水や、空をつくっている大気までがオンリーワンだ。広瀬はこのとき、自分が真に愛情を向けられる対象はこの地球の風光なのだと知った。
 雨の中に咲く紫陽花、蝉時雨の降る木漏れ日の山道、秋口の透明がかった風に揺れる秋桜、銀色の雪上に転々とつづく小動物の足跡、雪解けのせせらぎの音。満開の桜越しに見上げる低い空。
 もちろん、人間の造った人工物も風景には成り得る。そしてまた、人間さえも。風景であるうちはいい。もし人間が風景であることをやめたとき、地球の風光を損なう存在になったとき、おれは授かったこの能力をフルに使ってそれを阻止するだろう。
 午後遅くには雨になりそうな空模様になってきた。広瀬は少し肌寒さを覚えたので、暖炉に火を入れることにした。備え付けの薪を組んで点火する。薄明るい室内の一角が急に祝祭味をおびてきた。広瀬は暖炉前のキリムの上にあぐらをかいた。しだいに勢いを増す炎は妖しく官能的だと広瀬は思った。彼はしばらくのあいだ、そうやって燃える火を見つめていた。
 やがて、月香から内線電話があった。荷物が届いているとのことだった。どうやら広瀬がインターネット上で注文した書籍らしかった。お持ちしますと言うので、そうしてもらうことにした。
 ノックがあって月香が入ってきた。
「失礼します」
「ありがとう」
「えー、もう暖房ですか?」
「もうって、なんか肌寒いんだよ」
「やはりお歳でしょうか」
「おいおい」
「なんて嘘ですよ。広瀬さんは実年齢よりずっと若く見えますよ」
「おれの年齢って、君知ってるのか?」
「いえ、まあ大体は」
 そう言いながら月香は小包を持ったまま広瀬の隣にしゃがみ込んだ。ミニスカートから滑らかな膝頭が覗いている。広瀬には、スカートの奧へと続く白い肌が自分を誘っているように思えた。昨日さやから、月香はおれに気があると聞いたせいだろうか、と広瀬は思った。
 月香が広瀬の横に立て膝をついて座ると、煙草の匂いがした。彼女はその匂いが嫌いではなかった。父親がヘビースモーカーだったせいかもしれない。こどもの頃、彼はよく月香の手を引いて近所に散歩に出かけた。彼女が見上げると不精髭の顔が笑いかけ、風に乗って煙草の香りがした。
「炎を見てると落ち着きますよね」
 月香は薪から立ちのぼる炎のゆらめきを見つめて言った。
「落ち着くね。火には不思議な力がある。すべてを焼き尽くす火を聖なる浄化のシンボルと見なしている宗教は世界中にあるんじゃないかな」
 月香が見ると、広瀬の横顔が炎を映して燃えていた。広瀬は決してハンサムというわけではなかったが、深みのあるいい顔をしていた。少なくともあたし好みの顔だと月香は思った。
「こうしていると時間がゆったり流れますね」
「ああ。時間ってさ、自由自在に伸び縮みするの知ってるかい」
「時間がですか?」
「そう。君にはこんな経験ないかな。とても大切な約束があったとしよう。絶対に遅れてはならない約束なんだ。君は突然、今からでは間に合わないことに気づく。どうあがいても約束の時間にはそこに着けないことに気づく。でも、まだいくばくかの時間は残されている。君はとにかく駄目元でその場所へと向かう。恐くて途中で時計は見ない。どうか間に合いますようにと君は祈る。心臓は今にも破裂しそうに鼓動している。君はなんとか約束の場所に行き着き、相手の向かいの椅子に座る。どうしたの? と相手は訊く。そんなに荒い息をして。遅れると思って、と君は言う。だってまだ五分もあるよ、と相手が言う」
「わたしにはないけど。広瀬さんにはあるんですか?」
「うん、何度がそういう目にあったけど、いつも不思議と間に合ったな」
「ふーん、不思議ですね」
「ふしぎ、か」
「不思議といえば」
「え?」
「広瀬さんて不思議な人ですよね」
「よねって、同意を求めてるの?」
「ご自分では、そう思われませんか?」
「おれのどんなところが不思議なのかな」
「だって、何をしてらっしゃるのか」
「はは、わからないか」
 広瀬は頷きながら笑った。
「だって、ここにいらっしゃる時はたいてい研究室に入り浸りでしょ。たまに顔を見れても、すぐにどこかへ外出されるし」
「気になるのか?」
 広瀬は月香の目の中を覗き込んだ。
「ええ」
 沈黙が二人を包んだ。
 月香には広瀬の瞳の中で青い炎が燃え上がるのが見えた。
 広瀬の右手が、すーっと伸びて月香の頬に触れた。熱っぽい頬が広瀬の顔に近づき、月香の唇が広瀬のそれに重ねられた。同時に月香は両手を広瀬の肩に置いた。最初はそっとふれあい、ゆっくり左右に動かし、舌先がチロチロと相手のを求める。やがて舌は複雑に絡みあい、月香は声を上げ始めた。広瀬は月香を抱き寄せ、キリムの上に横たえようとする。
「まって」と月香は唇を離しながら言った。
「ドアをロックしてくる」


      7

 近鉄吉野線の下市口駅の改札を出ると、さやと広瀬はハイヤーに乗り込んだ。気温は低めだがよく晴れた日だった。行き先は、駅から車で一時間あまりのところにある天河大弁財天社である。
 この天河大弁財天社を題材に多数の本が書かれており、二人は当地を訪れる前にそのうちの何冊かを読んでいた。
 それによると、天河大弁財天社の祭神は、市杵島姫命、吉野坐大神、熊野坐大神、南朝四代天皇の御霊、神代天之御中主神より百柱の神で、市杵島姫命と弁財天は習合して日本の代表的な水神信仰のシンボルとなった。弁財天とはインドの水の神であるサラスヴァティのことだ。
 弁財天は芸能の神としても知られており、音楽家、画家、作家などのアーティストがよく参拝に訪れているらしい。
 天河大弁財天社の奥宮のある弥山の頂上にはUFOの発着場があるという説もあり、夜空をジグザグに移動したり静止したりする光を目撃した人がけっこういるらしい。いずれにせよ、ただならぬ場所であることは確かな気がした。
 ハイヤーは町中を抜け、小さな峠をいくつか越え、しだいに高度を上げていった。
「お客さん、天河は初めてかね?」と中年の運転手が訊いてきた。
「ああ、初めてだよ」と広瀬が答える。
「あの神社もずいぶんと有名になって、ときどきいろんな有名な人らが来とるよ。いつだったか、今から天河神社で演奏するという人を乗っけたことがあるな。お客さんたちも、なにかそういった関係の人かね?」
「いや、そうじゃない。ただの観光だよ」
「そうかね。いい身なりしとりんさるし、まるで、ほら何といったかな、そう業界人みたいやで」
 運転手は、そう言って快活に笑った。
 車は奧吉野の地を走り続け、やがて天川村への途中にある丹生川上神社下社にさしかかった。さやと広瀬は運転手を待たせ、境内に入って参拝した。
 今回の天河行きのきっかけは月香だった。あるとき、魂や霊性といったものに興味を示し始めたさやが月香に、ねえ、どこか不思議なというか霊的なというか聖なるというか、そんな体験のできそうなところ知らない? と訊いた。月香は奈良出身だったので、これまで何回か参拝に訪れた天河大弁財天社を勧めたのだった。
 東京から京都までは、さやと広瀬と月香の三人で来たのだが、奈良の実家に急用ができた月香は別行動となった。さやと広瀬は今夜は吉野に泊まり、翌日に月香と合流することになっていた。
 参拝を終えた二人はハイヤーで天川村に向かった。道路の下方を流れる天ノ川を左に望みながら、車は初冬の白銀色の光の中を特に急ぎもせずに走った。ようやく目的地へ着いた彼らは天ノ川に架かる橋のたもとで車を降り、のんびりと小道をたどり始めた。
「静かなところね」
 さやはハーフコートの襟を立てながら、あたりを見回して言った。
「一見普通の田舎町だな」
「でも田舎びているという感じもしないわね。何かこう、ひと味違った雅びな雰囲気もあるような気がする」
「やはり神社があるせいかな。それと、ここ独特の地形が関係しているんじゃないか。風水的にみるとどうなんだろうな」
 広瀬はこの町を取り囲んでいる山々を見渡しながら言った。
「見て、きっとあれがUFOの山よ」
 さやは、ひときわ高い山を指さした。
「もっと言い様はないのかい。あれは弥山ていうんだ。この呼び名は須弥山から来てて、その須弥山はサンスクリット語でいうシュメール山の一部をとったらしい。シュメールは、世界の中心を成す山といった意味だそうだ」
「偉い。あなた物知りね」
「にわか読書をした本の中に、たまたまあったのさ」
「わたしだって、にわか勉強したわ」
「きっと頭に入る興味の対象が微妙に違うんだろう。おれが覚えていないことを、きっと君は覚えてるよ」
「そうかしら」
「そうだよ」
「まあいいわ。こうして知らない町を歩くのも素敵ね」
 さやは広瀬の手を取り、指をからませた。広瀬はもっとしっかりつなげるように指を組み直し、そのまま黙って歩き続けた。
 しばらく行くと左手に大きな駐車場があり、その先に濃い朱色に塗られた鳥居があった。そこが天川大弁財天社だった。鳥居の右手前に手水舎があり、二人は手を洗い口をすすいだ。
 しめ縄の下がった赤い鳥居をくぐるとすぐに赤い欄干の小さな橋があり、そこを渡って境内に入った。正面の石段を上がっていくと拝殿と神楽殿があった。地面には玉砂利が敷かれており、右手に神楽殿の能舞台、左手に一段高いかたちで拝殿が、さらにその奥に本殿があった。二人は金銀双対の大五十鈴の紐を振って鳴らし、拝礼したあと、能舞台の端に腰かけて一休みした。
 拝殿と神楽殿を覆うように屋根が設けてあり、内部に直接日光は届かない。少し薄暗くひんやりとした屋内と、外に降りそそぐ午後の日差しとのコントラストに、さやは一瞬めまいのような感覚を覚えた。
「静かね」
「ああ。まるで時間が溶けてなくなったような気がする」
「見て、外を。光に満ちてる。場内の暗さに慣れてから外を見ると、一種独特の浮遊感に襲われるわ」
「浮遊感か。この神社一帯が巨大な宇宙船だったりして」
「それって凄い想像力ね。不時着した宇宙船が修理不能になり、とりあえずその存在を隠すために土を盛り木を植えて、中心に神社を造った。いつか迎えが来ることを祈りながら、乗組員たちは人間の姿形を真似て変身し全国に散っていった。一つところにいるより安全だと判断したのね。つまりリスクの分散なの」
「想像力に富むのはどっちだい。では訊くが、一体どうやって人間に変身したんだい」
「それはね」と言って、さやはしばらく考え込む。
「簡単よ。イメージを使うの。彼らは今のわたしたちよりずっとイメージの力を使いこなせたの。彼らの文明には工作器具や機械がなかったのよ。なぜなら不要だから。工具に当たるものはイメージ力だったというわけ。彼らは人間の身体をサンプリングしてデータ化し、それに基づいて自らの体を作り変えたのよ。外見だけじゃなく機能的なものも、必要だと思ったものは変化させたの。異郷で生きるには、そこの環境にフィットさせた方が有利でしょ」
 さやの話は止めどなくあふれ出るかのようだった。広瀬は驚きながらも、何かが起こり始めていると感じていた。
「でね。彼らは各地に散っていく前に、全員の力を結集して宇宙船の機体のある場所、つまりここの地下奥深くに向けて穴を掘ったの。もちろんイメージの力でよ。何のために? それは超巨大なアンテナというか発信装置を造るためによ。この地球の持つ気というかエネルギーというか、とにかくそんな目には見えないけれど確実に存在するパワーを使ってSOS発信器を造ったの。いつかこの星の近くを母星の船が通りかかったら、遭難者がいることに気づくようにね」
「そうか、だからこの地はパワースポットだと言われているのか。実は、読んだ本の中にも同じようなことが書いてあったんだ。ある女性の体験談なんだけど、その人はこの神社にいて身体も意識も巨大な地下の空洞にいるという感覚を覚えたんだそうだ。その地下の空洞の真下から冷たく透明な気がもの凄い勢いで吹き上げてきて、宇宙に向けて噴出しているような、そんな感じを受けたらしいんだ」
「信じられない。それって、いまわたしが言ったことと同じじゃない」
 さやはしだいに興奮してきたようだった。
「君はどうしてそんな話ができるんだい?」
 広瀬は、あえてそう訊いてみた。
「わからないわ。最初なんらかの印象があって、とりあえず喋り出したら止まらなくなってしまったのよ」
「何か映像が見えるのかい」
「はっきりとした映像というわけではなく、やはり印象ね。情報が頭の中にぽっと出現する感じかな」
「そうか。イメージできると言うことは、そのイメージできる内容、情報といってもいいが、それが何らかの形で君に届いたということだろう」
「時間の壁を超えて?」
「いや、そうかもしれないが、時間を超えてというよりも、この場所に情報を含んだエネルギーが留まっていると考えた方が合理的かもしれない。イメージも光や音などと同様に波だとすると、その留まっているエネルギーの波長と君の感知できる周波数が合ったときに、君はその情報をキャッチできるんだと思う」
「なんだか、とんでもない話になってきたわね」
 そのとき石段の下の方から足音がして、白装束の一行が現れた。修験者たちだった。金剛杖をつき、法螺貝を持っている。近くにそびえる大峯山で修行をしているのだろう。彼らは拝殿の前に一列に並ぶと、中の一人が法螺貝を吹き始めた。ぶぉーという独特の音が、あたりの静寂を破る。ああ、本に書いてあったのはこの音のことか、とさやは思った。
 法螺貝の音色は山肌を這い、木々の間を通り抜けて伝わる。風に乗って聞こえてくるその音色の表情で、吹いている者の位置がわかる。山で遭難したときに無線を使っても、声は届くが、どのあたりにいるのかはわからない。法螺貝の音は、その音色によって豊富な情報を伝えてくれるとのことだった。
 しばらくして音が止むと、読経が始まった。般若心経だ。
『観自在菩薩。行深般若波羅蜜多時。照見五蘊皆空。……』
 彼らは声を合わせて一心に経を唱える。まるで良質の音楽のように、聴く者の心に沁みてくる。
 読経を終えた修験者たちは拝礼をして立ち去った。
 ふたたび静けさが訪れた。先程までの法螺貝の音や読経の音など、まるで無かったかのようだ。ときおり遠くの方から町の立てる雑音が聞こえてくる。
 さやと広瀬は能舞台の端に並んで腰かけたまま動こうとしなかった。二人とも無言でいた。
 広瀬は来し方を振り返っていた。
 おれはアズロと遭遇して驚異の力を身につけた。そしてさやを巻き込み、その力についての研鑽を積んできた。大げさではなく、この力を使えば世界を意のままにできるだろう。おれはアレクサンダー大王も成し遂げれなかったことを実現することができる。この世の目障りなものを消し去って、おれにとって居心地のいい環境をつくることもできよう。もし望むなら人類の一掃も可能だと思う。そのとき、おれ自身も一緒に死んでしまいたいのか。それとも、おれだけは生き残りたいのか。この地球上から人間の気配が消えて自分一人が黙々と畑を耕しているのは、いったいどんな気がするだろう。おれの愛する自然の美に酔いしれながら、日増しに透明度を高める大気と水に喜びを感じるだろうか。恐らく大概の人間は、人っ子一人いなくなった町に佇んだまま発狂するに違いない。無人島に漂着したロビンソンも、密林で独り生きたオノダも、故郷の人達を想い、離れていても他者の存在を感じていたからこそ生き続けることができたのだ。人は一人では生きられない。人という字を見てごらん、ホラ、両側から支え合っているだろ? なんて例え話を聞くことがあるが、そんな道徳的な側面からだけでなく、霊的、気的にも支え合っているような気がする。人間は他者のエネルギーがなければ生きていけないのかもしれない。しかし、かもしれないであって、あくまでも仮定だ。本当にそうなのか、この身で試してみたい気もする。一人もよし、二人もまたよし。まてよ、二人って、相手は誰だ?
「ねえ、何考えているの?」と不意にさやが言った。
 広瀬は、えっ? と夢想から醒めた。
「いや、ぼーっとしてただけだ」
「嘘。心が振れてたわよ」
「まさか。あんまり静かなんで、もしかしたらウトウトと浅い夢でも見てたかな」
「そう」
「ちょっと煙草吸ってくるよ。いくらなんでも弁天様の前でってわけにはいかないからね」
「わかった。もう少しここにいるね」
「一服して、そこら辺を歩いて、すぐに戻るよ」
 広瀬は立ち上がると、玉石を踏みしめながら外に出ていった。
 さやは沈黙の中に残された。空気が、鈴が、能舞台が、午後の光が、ときおり吹き込む微かな風が沈黙していた。ちらっと広瀬と月香のことを考えたあと、さやの心は沈黙へと向かった。
 時の流れが止まり、周囲のざわめきが遠くなっていった。そのとき何か光るものが頭上に現れて一瞬動きを止めたあと、額から頭の中にすっと入ったと、さやは思った。


      8

 その旅館は吉野駅から車で五、六分の山の中腹にあった。さやと広瀬は旅館の前でタクシーを降りると、玄関までの少し長めの路地を歩き、フロントに声をかけてチェックインを済ませた。部屋は二階で、広めの和室だった。窓から見下ろすと、広い庭の中程に瓢箪形の池が見えた。あたりはもう夜の帳に包まれ始めて薄暗くなっていた。
 まもなく女将が挨拶に現れ、茶と菓子が運ばれた。二人は旅装を解き、茶を飲んだ。
 今日訪れた天川村から吉野まではそう遠くはなかった。天河大弁財天社の境内でゆっくり過ごした彼らは、近所の食事処で軽く食べたあと、待たしてあったハイヤーで下市口駅まで戻り、そこから電車で五つ目の吉野駅に向かったのだった。
「食事の前に一風呂浴びたら? 疲れが取れると思うよ」と広瀬が言う。
「ゆっくり暖まるといい」
「そうね。あなたは?」
「おれも入るよ。さすがに夜になると冷えてくるな」
「次は桜の季節に来たいわ」
「そうだね」
「天河にも、また行きたい」
「気に入ったみたいだね。何か得るものはあったかい?」
「ええ、たくさんあったけど、一番は魂というものがこの世をつくっているのではないかと思ったことかな」
「魂?」
「人間だけじゃなくて、動物や植物、昆虫に川原の石、もっというと、この地球自体も固有の魂を持っている。そして固有の魂は一つの大きな魂の一部でもあり、また固有の魂はそれぞれ全体でもあるみたいな、うまく言えないけど、そんなインスピレーションを受けたの」
「能舞台のところでかい?」
「そう。あなたが煙草を吸いに外へ出かけたあと、ぼんやりしてたら、何か光るものがわたしの額から頭の中に入ってきたの。もしかしたら気のせいかもしれないけど。そのあと、またぼーっとしてたら、いま言ったような啓示があったのよ」
「何かの精霊かな。それとも神と呼ばれている存在か。弁天様かもしれないね」
「なぜわたしの中に?」
「それは、君が魂について本気で知りたいと願ったからじゃないか?」
「そうね。それは知りたかったわ。わたしたちが体得したイメージの力を追求していく過程で、魂って何? という疑問が湧いてきたから。わたしたちはすでに無機物の物質化に成功してる。あなたは有機物さえ物質化させた」
「させたといっても、まだ林檎どまりだよ」
 広瀬は少し自虐的な口調で言った。
「どまりって、十分に凄いわ。生き物だもの。待って、今日のわたしのインスピレーションによると、林檎にも金貨にも魂が宿っているはずよね」
「君の言い方だと、万物に宿っているということになるのかな」
「あなた、林檎をつくるとき、魂も意識した?」
「いや、していない。物理的なイメージだけだ」
「わたしもそうよ。金貨をつくったとき、魂を意識したりはしなかったわ。でも金貨はちゃんと出現した。もしかしたら、あれは死んだ金貨なのかしら」
「死んだ金貨って?」
「つまり、魂の入っていない抜け殻なの。金貨の抜け殻」
「じゃあ、おれの場合は林檎の抜け殻か。でも何度か食ってみたが、味は変わらなかったがね」
「それか」とさやは何か閃いたような顔で言った。
「林檎に物質化した瞬間に、魂が宿ったとか」
「ふーん、そうか、どの時点で魂が宿るかという問題は、人間の場合によく聞く話だよな」
「妊娠して子宮の中で育つ胎児に、いつ魂が入るかということね」
「そうだ」
「わたしの考えだけど、魂の持つプログラムとDNAの持つプログラムの二つがあると思うの。どちらが先に発動するのかはわからないし、同時にかもしれないけど、その考えに当てはめてみると、胎児にいつ魂が入るかという設問自体、DNAプログラムが先に動き出すことが前提になってるわね」
「そういうことになる」
「まるで魂がどこか天国のようなところから降りてくるみたいな話ね」
「一般的には、みんなそう思っているんじゃないかな」
「わたしもそんなふうに考えてたけど、でも違うと思うの」
「君はどう思うんだ?」
「魂って、情報を内包したエネルギーだと思う。DNAは情報を内包した物質ね。魂の持つ情報量は莫大で、全宇宙についての情報を持っているの。つまり魂は宇宙でもあるわけ」
「ではなぜ、個々の存在があるのだろう。なぜ宇宙は全体だけで在ろうとしないんだ。全体のみで在るなら対立も葛藤もないだろうに」
「それは、わからないわ」
「結局、君の考えでは、まず魂ありきで、魂の持つプログラムに従って物質が生じてくるということだね」
「確信は持てないけど、そう思うわ」
「いま浮かんだ考えだが、おれたちがイメージの力を使うことができる理由の一つがわかった気がする。つまり、その力を使う主体は人間である君であり、おれであるわけだが、なぜそれを使えるかというと、人間が魂と肉体とでできているからじゃないかな。おれたちの魂がイメージというツールを使って新たなプログラミングをするということじゃないか。では、プログラムに従って実際に作用させる力を持つイメージとは何ぞや、という次の疑問が出てくるなあ」
 広瀬は冷めかけた茶を飲みかけて止め、机の上に戻した。さやが話を引き継ぐ。
「たぶん、魂自体がエネルギーであり波動だから、自身の力を使うんだと思うわ。ただ、より効果的にその力を発動させるために、脳を使って増幅しているんじゃないかな」
「脳にはそんな働きがあるってことだね。そしてその増幅の働き自体をイメージという言葉で表しているんだね」
「あくまでも推論にすぎないけど」
「君が直観的に魂というものに目を向けたのは正解だったと思う。おかげでおれも重要なヒントをもらったよ」
「どんな?」
「まだ言葉にはできないほどのぼんやりとしたものなんだ。おいおい報告するよ。ところで、長話になってしまったな。急いで風呂に行こう。夕食の時間もあるからね」
「わかった。行きましょ。部屋のキーはあなた持ってて。わたしの方が長いと思うから」
 二人は浴衣と丹前に着替えて、一階の大浴場に下りて行った。
 その名に反してそう広くない大浴場に先客はいなかった。浴槽からあふれ出る少し熱めの湯に浸かると、さやは大きく息をして、ああ気持ちいい、と声に出した。体の節々にある一日の疲れの固まりが、しだいにゆっくりと溶けて流れるようだった。
 温泉に入るのは、ほんとに久々だった。さやが広瀬と出会う前、公的機関の嘱託事務をしていた頃には、一人でちょくちょく近隣の温泉に出かけていた。全国的に新しい温泉をオープンするのが流行りになった時期があり、さやの故郷でも市や町村が競って直営または第三セクターの温泉をつくっていた。故郷を離れ東京に移ってからは、研究所の開設準備などに追われて、ゆっくり温泉に出かける余裕もなかったのだ。
 浴室の外は庭になっており、その一角には露天風呂があるらしかった。湯船と庭との間は全面のガラス窓になっている。さやは浴槽の縁に腰かけながら、湯気で曇ったガラスに薄ぼんやりと映る自分の裸身を見ていた。
 いつの間にか三十代も半ばになったけど、二十代の頃とそんなにプロポーションは変わっていないはず、とさやは思った。まあシビアに見ると乳房が痩せ、下腹には脂がのったかもしれないが。
 さやは湯に入ってしばらく温まったあと、ふたたび浴槽の縁に腰かけて、物思いにふけった。
 わたしは生まれて此の方、あまりにも無自覚に女という性を生きてきたと思う。その女性性は自分自身で見い出したのではなく、社会が規定し強制したものだった。いわゆる女らしさというステレオタイプな枠、女のくせにという常套句、わたしは知らず知らずのうちに、そんな檻の中に囲い込まれていたのだ。そのことを自覚したのは最近のことだ。それまでは深く考えることもなく、表面上は痛みも感じずにやり過ごしてきたと思う。
 経済的な不自由さがなくなったのは大きかった。男社会に組み込まれて働く必要がなくなったからだ。会社に属す場合はもちろんのこと、たとえ自由業に就いていたとしても、結局経済行為の相手は男社会なのだ。その中で男側が求める固定したイメージと、自分本来のものとのギャップを埋めることの不毛さに傷付かないで済む。
 一口に女といっても、その個性や特質は多様だ。俗にいう男っぽい性格もあれば、その反対もある。繊細な人、剛胆な人、内気な人、外向的な人と様々だ。それはそのまま男性にも当てはまることだ。ただ自分がどちらかの性でありながら、ある個性や特質を持っているというだけのことだと思う。ジェンダーなしに成長することができれば、そのときにこそ本来の男女差が浮き彫りになり、その差異はそんなに不快なものではないだろう。
 また、わたしにとって生き甲斐といえるものができたことも自分の性を自覚するきっかけとなった。広瀬やアズロと出会い、イメージの力という能力を会得する中で、いろいろなことに興味を持ち、学び、実践していった。そして、ものを考えるわたしという存在を意識したとき、不思議なことに女である自分が考えているという認識を持ったのだ。こういう肉体を持ち、こんな生理があり、こんなふうに感じる女という性の自分。もしわたしが男だったら、いったい何がどう違うんだろう。この世界も、もしかしたら異なって見えるのかもしれない。なぜわたしは女に生まれたのか。それは偶然か、必然か。そんな経緯でもって、わたしは自分の女性性というものを意識的に追求することにしたのだった。
 さやはもういちど湯に浸かったあと、洗い場に行った。備えつけの石けんを泡立て、そのまま素手で体を洗っていった。
 さやは、ふとあることを思い出して試してみることにした。桶に湯を酌み肩からざぶっとかけると、湯は小さな玉となって白い肌を転がり落ちていったような、気がした。
 女風呂から出ると、広瀬が男風呂の前の椅子に腰かけて待っていた。
「おまたせ。だいぶ待ったの?」
「いや、ついさっき上がったばかりだ」
「いいお湯だったね」
「ああ、疲れがとれた気がするよ」
 彼らはいったん部屋に戻り、ちょうど食事の案内があったので、用意された部屋に移った。この旅館では食事は部屋出しではなく、別の個室で食べるようになっていた。宿のものが部屋に出入りするのを好まない広瀬にとっては都合のよいやり方だった。こじんまりとした部屋には、すでに料理が並べられていた。山菜をメインにした上品な膳だった。世話係の女性によると、この部屋は島崎藤村が滞在したときに使った部屋だということだった。彼らはビールを一本と燗をした日本酒を頼み、食事にとりかかった。
「改めてこうして向かい合うと、なんか照れるわね」
 さやは鉢物から手をつけながら言った。
「照れる?」
 あぐらをかいて座った広瀬がさやを見る。
「長い春の恋人同士が初めて一緒に旅に出たような、そんな気がして。ねえ、あなた何ともないの?」
「いや、照れはしないが感慨はある」
「感慨はあるなんて、そんな島崎藤村みたいなこと言わないで」
「藤村がそんなこと言ったのか?」
「知らないけど、昔の人ってなんとなくそんなふうな言い方しない?」
「さあ、どうだろ」
「とにかく、ちょっと恥ずかしいような気がしただけ」
 そのとき声がかかって、ビールと酒がきた。二人はビールを交互に注ぎ合ってグラスを合わせる。
「しかし、今日は長い一日だったなあ。新横浜から京都、京都から下市口、下市口と天川を往復し、ふたたび下市口から吉野と、まさに旅をしてきたという思いが強いね」
「途中までは三人だったけど、西大寺から月香ちゃんがいなくなって残念ね」
「実家で急用があったらしいが、何か不都合なことでなければいいが」
「そういうことではないみたい」
「そうか。明日また合流することだし」
「あちこち案内したいと言ってたわ。奈良市内だけじゃなく、飛鳥や五条市にも連れていきたいんだって。五条にはすごく美味しい手作り豆腐の店があるらしいわ」
「それは楽しみだ」
「あと、わたしに紹介したい人がいるって」
「誰だい」
「五十代の男性で、UFOに乗ったことがある人らしい」
「なんだいそれは」
 広瀬はおどけて指を舐め、眉に唾をつけた。
「一見怪しいけど、まともな人だって言ってたわ。知り合って、いろいろ話せば何かの役に立つかもしれないからって」
「何かの役とは?」
「先日わたしが、いま心や魂といったいわばあの世的な話に興味があるって彼女に話したの。それで」
「あの子は変わった人脈持ってるね」
「古くからの知り合いみたいよ」
「その人とはいつ会うんだい?」
「まだ決めてないけど、たぶん明後日あたりになるんじゃないかな」
 ふーんと頷きながら、広瀬はさやに猪口を手渡して酒を注いだ。さやも注ぎ返す。このあたりの地酒だろうか、辛口の旨い酒だった。
 彼らはゆっくりと食事をし、やがてデザートが出た。さやは冷たい桃のシャーベットを口に含んで、そのさっぱりとした甘さを味わう。
「ねえ、関西には、あとどのくらい滞在できるかな」
「君が望む限りは」
「ちょっと訊いていい? ずっと気にしてるんだけど、アズロのことは大丈夫なの? あまり長いこと留守にするのはまずいんじゃないかと」
「アズロのことなら心配いらない。スタッフにきちんと指示しておいたから。防犯システムの再点検も済ませた。それにアズロはいつもおれたちと一緒にいるよ。アズロに意識を向けるだけで、まるで隣にいるような気がする」
「それはわたしも同じ。ただ空間的に離れているからちょっと心配になっただけ」
「君の言い方聞いてると、まるで家族かなんかを心配しているみたいだな」
「家族というか、運命共同体ね。アズロとの出会いは、わたしにとって決定的だったの。わたし自身を知るきっかけになったから。あっ、もちろんあなたとの出会いも」
「ありがとう、仲間に入れてくれて」と広瀬は苦笑しながら言った。
「忘れてたわけじゃないわよ」
「冗談だよ。でも君とは、不思議といえば不思議な関係性ではあるな」
「不思議って?」
「つまり、恋人なのか、愛人なのか、友人なのか、妹なのか、妻なのか、同志なのかよくわからないところがある」
「そうね、よくわからないわね。というか、曖昧にしておきたいのかもしれない。関係性が決まるのが恐いのよ、きっと」
「恐い?」
「そう。傷つきたくないのかも。だから、そうね、今あなたが挙げた中で言うと同志がいちばん近いかな」
「同志か。同じ志の相手ってわけだな」
「肩書きは要らないのよ。高原さやと広瀬孝之の関係性よ。今この一瞬における関係性よ。それは信じるに足ることよ。でも明日のことはわからない」
 さやはおれを異性とみなしていないということか、と半ばがっかりしたような、半ばほっとしたような心持ちで、広瀬はさやの顔を見ていた。
「ずいぶんと醒めたふうに聞こえるが」
「そうじゃないわ。わたしね、やっと最近になってわかったの。わたしは氷河期の地球なの」
「どういうことだ?」
「つまり、外側は氷に覆われているけど、実はその中心は灼熱のマグマなの。わたしは自分の鈍感さによって、自分で自分を氷河に閉じこめていたんだと思う」
「ほんとは熱い女なんだ」
「そうよ」
「では、久々にその熱さに触れさせてもらおうか」
 部屋に戻ろう、と広瀬は言った。

 わずかに開いた障子から月光が射し入っている。闇の中をまっすぐに伝わった光は、広瀬の上に跨ったさやの後頭部を照らしていた。下から見上げる広瀬の目に、さやの頭の輪郭がおぼろな光の輪の中に浮かび上がって見えた。 
 浴衣の前をはだけたまま広瀬の上に乗り、体を沈めたさやは、そのままじっと動かずにいた。広瀬が動くそぶりをみせると、じっとしててと小さく言った。
 代りに月が動き、時を刻んだ。広瀬は、熱く軟らかなものに包まれたまま目を閉じていた。動きがないなずなのに、細波のように次々と快感が立ち上がってくる。石鹸や化粧品の香りではない肉の内側から匂い立つようなものが広瀬の鼻腔を満たし、欲望を高めていく。
 ふいにさやが歌うように言った。
「あの日」
 えっ、と広瀬が目を開けようとすると、目を閉じててとさやが囁いた。
「あの日、わたしが秘書室に電話したら応答がなかったの。月ちゃん買い物にでも出かけたのかなと思い、しばらくたってから、またかけてみた。でもやっぱり返事がない。何かあったのかなと下に降りてみることにしたの。部屋を出て階段のところまで来ると、あなたの部屋の方からガチャという鍵の音がした。あなたが出てくるのかなと思って見ていると、ドアは開かなかった。だから鍵を閉めた音だったんだとわかったわ。普通ならそのまま下に降りたのだろうけど、何となく気になってドアのとこまで行ってみた。すると中から、あのときの声が聞こえてきたの。驚いて立ちすくんでいると、声はますます大きく、激しくなっていった。わたしは頭の中が真っ白になって、なにも考えられなくなった。しばらくして、ようやく息がつけたので、わたしは自分の部屋に戻っていったわ」
 広瀬が何か言おうとするのを制して、さやは右手の人差し指を彼の唇に当てた。
 広瀬にとって予測できないことではなかった。さやが何も気づかないわけがなかった。しかし、あの時のおれにとっては欲望が勝っていた。月香の気持がわかった時点で中断し、時間をずらし場所を新たにして思いを遂げることもできただろう。そうしなかったのは、その一瞬に在ることしか信じないという自分を選択したからだろうか。
 さやの重みとふくよかな肉の感触が広瀬の腰に隙間なく密着していた。広瀬と交わったまま、さやは細かく細かく微妙な動きを続けていた。
「気を出してみて」とさやが言った。
「あなたの先端から、わたしの中に気を出してみて」
 広瀬は見ることと話すことを禁じられていた。ただ聴くことと嗅ぐことしかできなかった。その分感覚的なことに集中できた。彼は言われるままにイメージしてみた。
「ああ、そう」とさやが切なそうに呻く。
「そう、そう」
 その声と共に広瀬の快感も高まっていく。
「セックスは激しさだけじゃないわ。静けさの中にこそほんとの激しさがあるのよ。ねえ、わかる?」
 わかる? と言われて、広瀬はどう反応していいかわからずに、さやの太股に置いた両手に力を込めた。
「ねえ、このまま動かずに、どちらが長くもつか勝負しましょ。どちらが先にいかせるかではないのよ。あなたから出た気はわたしの中を巡ってまたあなたに戻っていくわ。そこに通い合うものが生まれるの。いわば魂同士のセックスと言えるかもしれない。自分がいくことと相手がいくことはイコールなの。そこに分断はないわ。でも、あえて勝負なの。長くもったほうが勝ちよ。これはゲームだから」
 さやはそう言って、体の力をさらに抜いていった。
 なにか熱いものが頭頂から入り、背骨を伝わって尾てい骨あたりまで下った。その熱い固まりは広瀬の下半身全体に広がったあと一点に集約され、盛り上がり、さやの中に流れ込んでいく。そんな循環を広瀬は感じていた。性器の微細な動きが、何倍も何十倍にもなった快感として体と脳を震わせた。その気持よさに広瀬は思わず呻き声を上げる。勝負よ、と言ったさやの意図はよくわからない。できるだけ長く楽しもうということだろうか。そんなことは、もうどうでもいい、と広瀬は思った。唐突に性器の付け根の奧深くに生じた小さな快楽の芽は、急激に膨張して射精前の収縮に向かっていった。
 それを察したのかどうか、さやは広瀬の耳元に口を寄せて甘く囁いた。
「中で出してもいいわ」
 その声を聞き、意味をとった途端に、広瀬は堪えきれずに射精を始めた。下腹を震わせ呻き声を上げるさなかに、広瀬は奇妙な敗北感を感じた。ただ単にゲームに負けたというよりも、もっと違う何か重大な勝負に敗れたような気がした。
 広瀬の射精を受けたさやは、保っていたすべてのものを解放し、オーガズムへと突入していった。そして広瀬の上で全身を痙攣させ、止むことのない声を上げ続けた。


      9

 奈良市から国道24号線を大阪方面に向かう途中に五條市がある。市の中央部には吉野川が流れ、北には金剛山があり、南は吉野連山に囲まれている。金剛山中腹には、楠木正成が築城し詰城でもあった千早城がある。
 吉野に泊った翌朝に電車で奈良市まで行って月香と合流したさやと広瀬は、月香の用意した車で五條市に向かった。
 月香が運転するダークグリーンのジャガーは、五條市内に入るとまもなく24号線を右折して山の方に進んだ。四、五分行くと今度は左折し、坂道を上がる。右手に平屋の建物が見えてくると、月香が言った。
「この市場には、ほんとに新鮮な野菜があるんです。おまけにびっくりするほど安いし」
 野菜と聞いて、さやと広瀬は各々の顔を見合わせた。
「見たいわ。寄れないの?」とさやが訊く。
「残念ですが、待ち合わせの時間まであまり間がないんです。帰りに寄りましょうか?」
「そうしてもらえる?」
 さやは車の窓越しに市場の方を見やった。
「ほら、前庭にまで野菜が並べてあるわ」
「このあたりは富有柿の産地なんだ。柿の葉寿司なんてものもあるな」
 広瀬は誰に向かってというふうでもなく言った。
「よく御存知ですね」
 月香が感心した口調でルームミラーに映る広瀬に言う。
「いや、昔取ったなんとかさ。農園やってたから、その関係で」
「初めて聞きました。へえ、農園やってらしたんですか。農園て、なんかかっこいいですね」
「かっこよかないよ。野良着姿で朝から晩まで土と格闘するんだぜ」
「広瀬さんと野良着ですか。全然イメージが結びつかないです」
 西洋人のような仕草で月香が言う。
 さやは車窓に映っては飛び去る沿道の風景をぼんやりと眺めていた。広瀬が以前やっていた農園の話題を聞きながら、もうそれは遠い昔のことのように思えた。
「もうじき着きますよ」
 月香は登り坂を左折して狭い道に乗り入れた。少し奥まったあたりに駐車場があり、梅木豆腐店と書かれた看板が立っていた。そして、その看板の近くに白い乗用車がとまっていた。ジャガーが駐車場に入っていくと、その車の中から一人の男が降りてきて、こちらに向けて手を振った。
「西田さんだ」と月香も手を振り返す。
「あの方がそうです」
「西田さんっておっしゃるの?」
「ええ。五條市から山を越えたところに富田林市があるのですが、そこで整体の仕事をしておられます」
「ほお、整体か」と広瀬が興味を示す。
「セイタイってなに?」
「体を整えると書くのですが、手などの力で骨格のゆがみを直し、身体の均斉をとって、人を元気にしていくことらしいです」
「そうなの。わたしも診てもらおうかな」
「先生きっと喜びますよ」
「なぜ?」
「西田先生、美人に弱いから」
 そう言いながら、月香は車を所定位置にとめた。三人は車を降りて、西田の方に歩いていく。
「先生、お久しぶりです」
 月香は親しみを込めて西田の手を握った。
「やあやあ、相変わらず別嬪やね」
 西田は月香と握手しながら、にこにこしている。
「先生、ご紹介しますね。こちら所長の高原です」
「始めまして、高原と申します。どうぞよろしくお願いします」
 さやはそう言って会釈した。
「西田です。これまたお美しい方でんな」
 彼は嬉しそうに、うひょひょと笑った。
「えーと、こちらが広瀬です」
「どうも、広瀬です」
 生成色の丸つば帽子を被り、ベージュのステンカラーコートをまとった西田に、広瀬は軽く会釈しながら言った。
「西田です。よろしゅうたのんます」
 快活に挨拶をした西田は、ほな店に入りましょか、と一行を誘った。
 手作り豆腐の店は二階建てで、一階が売店と製造所、二階が食事を出す座敷になっていた。先頭に立った西田は予約がしてある旨を告げて、案内を請うた。
 二階に上がると六畳間に通された。部屋の隅では灯油ストーブが焚かれ、真ん中に置かれた食卓には電気コンロにかかった土鍋があった。今日は豆腐料理の数々を味わうことになっていた。各人が席に着いたのを見計らって、店の人が上がって来た。
「とりあえずビールいきましょか」
 西田はギョロリとした目で皆に了解をとる。
「ちょっと待って。先生、あたし運転手だから」と月香が慌てて言う。
「まあええやないか。ゆっくりしてれば直にさめる。な、ええやろ? 所長はん」
 西田は、さやにあっさりと言った。
「かまわないわよ。でも一杯だけね」
「やった」
 実はその言葉を待っていたと言わんばかりの月香だった。
 西田は注文書を持った女性に生ビールを四つ頼んだ。すぐにビールが運ばれ、同時に料理も卓に並べられた。土鍋の中には乳白色のどろっとした豆乳が注がれ、コンロが点けられる。四人は乾杯し、喉を潤す。
「池谷とは以前からのお知り合いなんですか?」とさやが尋ねる。
「もうどのくらいになるんかいな、月香はんが高校生のとき部活で腰を痛めよって、まあご縁があり、ぼくのとこへ来たわけよ。治療はわりと順調に終わったんやけど、なんかえらい気が合うて、それ以来仲良くさせてもろてます」
「もう十年来のお付き合いねえ」と月香が感慨深げに言う。
「部活って、なにやってたの?」
 広瀬は腰のある冷や奴をつつきながら月香に訊いた。
「なんだと思います?」
「まあ怪我するくらいだから茶道部ではないだろう」
「違います。でもお茶は習ってました」
「ではバレー部とか。踊る方じゃないやつ」
「大外れ」
「駅伝部」
「あのね」
「じゃあ」
「日本拳法です」
 えっ? という顔で広瀬とさやが月香を見た。
「拳法って、あの空手みたいなやつか?」
「そう。黒帯よ」
「なんと」
「広瀬さんなんかエーイと伸しちゃうかも」
 ほっほっほっと笑いながら西田が話に割り込む。
「なんや月香はん、広瀬はんと、えらい仲ええねんな」
「そうですか? いえ、よくしていただいてます。所長にも、広瀬さんにもほんとにお世話になってます」
 そう言って月香は二人に軽く頭を下げた。
 彼らはお互いをちらっと見たあと、月香に向き直った。
「そらそうと月香はん、またえらい標準語がうまなって。たまには関西弁で話してえな」
「そう言えば、池谷さんの関西弁って聞いたことないわね。ちょっと話してみて」とさやはからかうように言った。
「そんな急に言われても、困りますぅ」
 そう応じながら、語尾のイントネーションはすでに関西弁のそれに変わっていた。
「ははは、その調子や。ところで所長はん」
「その所長というのは無しにしましょうよ」
 いかにも居心地悪そうにさやが言う。
「ほな、高原はん。月香はんからちらっと聞いたんやけど、なんでもあの世的な話に興味がおありだとか」
「あの世的と言えるかどうかわかりませんが、魂とか、エネルギーだとか、要するに唯物的でないこと、超常的なものについて知りたいのです」
 そこへ再び店の女性が現れ、豆乳の湯葉そろそろいい具合やと思います、箸ですくうて皿に取ってポン酢かけてお食べやす、と言った。四人は代わる代わる箸ですくって食べた。熱した豆乳の表面に薄く膜が張ったのを、箸を円形に回して絡めとるのだが、一回とると次の膜ができるまで少し時間がかかる。彼らは他の料理もつつきながら、のんびりと待った。
 さやが話を続ける。
「そんな話を池谷さん、あ、もう月ちゃんでいいわね、彼女に話したら、知り合いにちょっと心当たりがあるからと、西田さんを紹介してくれたのです」
「なるほど、そやったんか。ぼくが適任かどうかわかりまへんけど、知っている限りのことはお話したいと思います」
「よろしくお願いします」とさやは一礼した。
「西田さん、本業は整体師なんでしょ?」
 広瀬が興味ありげに尋ねる。
「そうや、一応看板は掲げさせてもろてます。整体いうのはご存じかもしれへんけど、手指を使って治療するんや。けど、ぼくは手指も使うけどエネルギーも使う」
「エネルギー?」
 広瀬が素っ頓狂な声を上げた。さやも身を乗り出してくる。
「どういうたらいいのかな。もともと整体には愉気という概念があって、ゆは愉快の愉、きは気分の気と書くんやけど、その愉気というのはどういうもんかというと、人間なら誰でも持っている気というかエネルギーのようなものを患部に当てて症状を改善することなんや。ほれ、おなかが痛いときなんかにお袋さんが手を当ててくれはるやろ、あれと同じようなもんや。ただ、ちょっと当てる側が集中して、意識的に自分の気を高めるといったことはあるけどな。ぼくは、その愉気ももちろん使うが、もっと違う種類のエネルギーも使うんや」
「違う種類?」
 広瀬が、たたみかけるように言う。
「うん、これは話し出すと、ちーとばかり長くなるんで、はしょらせてもらうけど、そのある種のエネルギーをぼくは身に付けて治療に使ってるんや」
「どうやって使うのですか?」
 さやも何か感じているらしく、目の色が変わってきた。
「愉気と同じように両手のひらから放射するわけや。痛いところや凝ったとこなんぞにエネルギーを当てると、当てられたもんはそこが温かく、時には熱う感じる。で、症状が改善されるんや。けど、このエネルギーの凄いんはそれだけやない。イメージが使えるんや」
「イメージ?」
 さやと広瀬は同時に声を上げ、顔を見合わせた。
「たとえば、こんなことができる。高原はんの背骨をイメージですっと取り出して、上下に引っ張ったり左右に捻ったりして調整し、また元の位置に戻してやる。イメージなので痛くも痒くもないが、敏感な人はたまにぐっと引っ張られる感じがすることもあるらしい。けど、全然問題なく背骨は調整されるんや。骨だけやのうて、胃や肝臓なんかの臓器もイメージで取り出して、包み込むようにエネルギーを当てることができまんねん」
「ちょ、ちょっと待ってください」と広瀬が口を挟んだ。
「いま話されたことを整理させてもらうと、そのエネルギーには二つの能力があるということですか? つまり一つ目は、愉気でしたっけ? 愉気と同じように患部に当てて症状を改善する能力、二つ目は、イメージを使って物理的なものに影響を及ぼせるようにサポートする能力ということですか?」
「まあそんなところやな。けど、それだけやない」
「まだあるんですか?」
「あるある。いま広瀬はんが整理しはった二つの能力をミックスしたものと言えるかもしれへんけど、ざっと挙げると、遠く離れたとこにいる患者の治療、幽霊退治など気が悪い場所の改善、物体へのエネルギー封入、それからエネルギー発動のタイマー設定なんてのもできる。ある時間が来たらエネルギーが効き始めるってことやけど」
「プログラミング」と広瀬が小さく叫んだ。
「へ?」
「それって、まるでプログラミングじゃないですか。イメージで設計図を書き、それに沿ってエネルギーが作用するってことですよね」
「広瀬はん、えらい興奮してはりまんな」
「いやあ、興味深いですわ」
「もっとも、いま設計図とか言うてはりましたけど、そんな緻密な感じやおまへんで。もっとおおざっぱで簡単な一瞬の命令なんや。さっきのタイマーなら、正午ジャストに作用し始める、と強く一瞬に思うわけや。なんでそんなことができるんか、ぼくにもわからへん」
「実際にそんなことができると確認されたんですか?」
「そやな、やってみたことあるよ。百円玉にエネルギー入れるときに、何時何分になったら入るようにイメージするんや。そしたら、その時間にちゃんと入りよる」
「つまり、その間はどこかでエネルギーが待機してて、時間になったら百円玉に入るってことですか? 素朴な疑問ですが、それを、その一連の作業を行うのはいったい誰、というか何なんでしょうね」
「それは、ぼくにもわからへんな」
「あの」とさやが話に加わる。
「さっき西田さん、遠く離れたとこにいる患者の治療っておっしゃいましたけど、実際にはどんなふうにやられるのですか?」
「そやな、ぼくはイメージしやすいから最初電話で話すんや。椅子に座ってても、どっか横になっててもええんやけど、まあ椅子に座ってもろとることにしよか。
 やり方は二つあって、ぼくがその人の部屋に行くか、その人をぼくの所まで連れてくるか。もちろんイメージでするんやけど、どっちでもええねん、し易い方で。
 仮に、ぼくの部屋に連れてくることにしよか。まず、ぼくの部屋に椅子を置く。次に患者はんに電話して、患者はんの用意した椅子に座ってもらう。さらに、ぼくの部屋の椅子にその人が座っているとこをイメージするというわけや。普通施術は患者の背後からするから、ぼくは目の前の椅子に後ろ向きに座った患者はんがいるもんとして治療するんや。肩にエネルギー当てたり、頸椎や脊椎を取り出して矯正したりするわけや」
「向こうに出向く場合は、患者さんの部屋と椅子と患者さん自身をイメージするわけですね?」
「そやね」
「距離とか関係ないんですか?」
「関係あらへんよ。地球の反対側にいても、ちゃんと治療できる」
「すごいお話ですね。今の聞いてて思ったのですが、それって、古典に出てくる生き霊みたいじゃありません? 人間の思いのエネルギーが生き霊となって憎む相手を取り殺すわけでしょ?」
「まあその場合は、人間の思いというか、心というか、人間のイメージする力が空間を越え、時間を超えて、ある物理的作用を及ぼすということなんやろね」
「それなら」と広瀬が言う。
「物理的に作用するということですが、精神的にはどうなんでしょう」
「どやろな。まあぼくでいうと、ごくたまにやけど、相手の魂に向けてエネルギーを送るということはあるな。精神的な病を抱えている場合に有効なような気がするんやけど、まだはっきりしいへんな」
「西田せんせ」
 ときおり料理を口に運びながら三人のやりとりをじっと聞いていた月香が西田に言った。
「なんかおもろいこと話してはりますけど、そのエネルギーって、いったいどこから来まんの? せんせが作ってますん?」
「いや、ぼくが作ってるわけやない。これは宇宙エネルギーや。といっても宇宙のどこかにあるんやのうて、宇宙のどこにでもあるんやと思う。つまりあんたのすぐそばにも、この部屋にも、地上にも、空にも、あらゆるところにあるんや」
「なら誰にでもそれが使えますのん?」
「そやな、基本的には誰にでも使えるはずなんやけどな」
「でもせんせ、さっきから話してるみたいなことできる人いてはりませんで」
「あのな、こういうことやと思う。人間なら一応誰でも何かを想像することができるわな。要するにイメージする能力はあるわな。だから、たとえば遠くにいる誰かのことを思い浮かべたりするわな。そんときは、その誰かと繋がってると思うんや。その誰かの所に自分の意識は行ってるはずなんや。ただ、物理的に何か影響を及ぼすには力不足なんやと思う。そこで、この宇宙エネルギーの出番やねん。このエネルギーは、その力不足を補ってくれるんやと思う。あと、このエネルギー自体にも力があって、体を癒したりできるんや」
 西田はそこで話を切り、ジョッキの底に残っていたビールを飲み干した。
「せんせ、もう一杯飲まはります?」と月香が訊く。
「いや、もうええわ。ぼくも運転して帰らなあかんし」
「御二方は、いかがですか?」
 月香は標準語に切り替えて、さやと広瀬に尋ねた。
「なんや、器用なやっちゃな」と西田は呆れ顔だ。
「もうけっこうよ。おなかが膨れちゃった」
 さやのジョッキにはビールがまだ四分の一ほど残っている。
「おれもいいよ。話が面白くて、飲んでる暇がない」
 広瀬はすっかり西田の話に魅せられていた。
「すいません。西田さんにもう一つだけ訊いていいですか?」
 気を使ってなのか、月香はさやと広瀬にそう訊いた。
「どうぞ」とさやが言う。
「かまへんよ」
 いささか怪しい言い方で広瀬が応じる。
「なんですか、広瀬さん」
 月香は吹き出しながら広瀬を見た。
「いや、ちょっと真似してみただけだ。やっぱ、あきまへんな」
「あきまへん」と月香は関西弁で応じたあと、西田に言った。
「せんせ、もの凄う初歩的なこと訊きますけど、せんせの使ってはるエネルギーは、どないしたらうちらも使えるようになりますん?」
「なんと言うたらええんやろ。そやなあ、体の中に道筋ができるいうか、パイプが通るいうか、まず、宇宙に遍在するエネルギーを呼び込む通路を用意するんや。そしたら、その通路はどないしたら用意できるんかいう疑問があるやろから、予め言うておくぞ。それは、その通路を持っているもんに作ってもらうんや。なんでか知らんが、その通路を持っているもんは他のもんにも作ってやることができるらしわ」
「なら、せんせもできはるん?」
「どやろな。まだやったことないんや」
「せんせは誰かに作ってもろうたんやろ?」
「そや」
「そんなことできる人が日本にもいてはるんやね。日本じゃないかもしれへんけど」
「いや何人か日本にもおるらしい。けど、ぼくの場合はちょっと違うんや。こっから先は眉に唾つけて聞いてほしいんやけど、ぼくな、この通路を宇宙人につけてもろたんや。いつか話したと思うけど、子供の頃、UFOに乗ったときにな」
 さやと広瀬は、ついに出たかという顔で軽く頷き合った。
「こんな話、聞きとうないん違います?」
 西田はギロリと目を見開いて、彼らに言った。
「とんでもない。ぜひ聞かせてください」
 広瀬は、ぜひに力を込めた。
「わたしからもお願いします」とさやも熱っぽく言った。
「西田せんせ、あたしもその話初めて聞くねん」と月香も乗り気である。
 そうか、ほなら、そうさせてもらう、と西田は話し始めた。
 西田がまだ小学校低学年頃の初夏だった。彼は夜、いつもの時刻に床についた。夜半も過ぎて明け方に近い時刻だったろうか、誰かが自分を呼ぶ声がする。彼は次第に目覚めてきて目を開けた。同じ部屋に寝ている弟と妹は、ぐっすりと眠っているようだった。窓の方から光がくるので目を向けると、水色のカーテンが白っぽく輝いていた。ふたたび彼の名を呼ぶ声がする。ユキオくん、ユキオくん、玄関に出てらっしゃい。女の人の優しい声でそう呼びかけられた彼は、なぜだか布団から起きあがり、寝間着のまま玄関に行った。
 引き戸を開けると外には一面に霧が立ちこめており、玄関から少し離れた場所に明るく光る物体が見えた。そして、その物体の手前に一人の女性が立っていた。彼が見つめていると、その人は彼に向かって近づいてきた。体にぴったり合った服を着ており、お姉さんなのに灰色の髪をしていると彼は思った。彼女は彼の前に立つと、怖がらないでね、心配ないから、わたしと一緒に来てほしいの、いま日本が大変なの、一緒に来て助けてほしいのと言った。
 来てくれるわねという問いかけに、彼はうんと頷いた。不思議に恐くはなかった。彼女は、ありがとう、では朝方また迎えにくるから、学校に行く準備をして待っていてねと言い置き、光の方に歩いて行った。彼が見ていると、その人は光の中に吸い込まれるように消えていった。彼は家の中に入り布団に潜り込んだが、胸が高鳴って眠られず、結局朝までまんじりともしなかった。
 彼はいつもの時間に起床し、登校の支度をしたあと家を出た。玄関を開けると眩しい光の中にその人が立っていた。そのときまるで時間が止まったかのように人っ子一人通らなかった。お迎えに上がったわ、とその人は言い、彼の手を取って光る物体の中に誘った。その物体に近づくにつれ光はますます眩しさを増し、彼の目がくらんだ瞬間に彼らは物体の中にいた。
 内部は円形で、そんなに広くはなかった。その人と同じようなぴったりした服を着たおじさんが一人いて、よく来たね、もうじき出発するからね、と言った。彼は座席に座らされ、彼らも操縦席のようなところに座った。まもなくシュー、ウィーンといった音がし始めると、一瞬体が浮いたような気がした。あ、飛んだ、そう思ってからほんの数呼吸ののち、おじさんが言った。ぼく、もう席から立っていいよ、窓の外を見てごらん。彼が窓際に行って外を覗くと、遙か下の方に丸い地球と日本列島らしきシルエットが見えた。わあ、地球だ。彼は思わず声を上げた。
 お姉さんが微笑みながら近づいてきて、彼に言った。ユキオくん、これから話すことをよく聞いて理解してほしいの。もうじきこの船はまた地上に降りるわ。そこで私たちはある大切なものを掘り出すの。それは、この国の命運を左右するとても大切なもの。いまそのものに危険が迫っているから、私たちはそれを別の場所に移さなければならない。もう一刻の猶予もならないのよ。お姉さんは最後にはとても真剣な顔になってそう言った。彼は、ぼくに何かできるのかな、なぜぼくに頼むの? と訊いた。彼女はまたにこやかな表情になって、ユキオくんは心がきれいだから、高貴な魂を持っているから、だからあなたに頼むのよ、と言った。
 やがて船は着陸し、彼らは船外に出た。どこか高い山の上らしく、晴れてはいたが寒かった。少し歩くと神社があり、彼らは社の裏手に入っていった。大きな木が三本生えており、それらを結ぶと正三角形を描いた。おじさんは彼にスコップのようなものを渡し、ここを掘ってほしいんだ、わけがあって私たちは直接掘れないから、と言った。おじさんが指さしたところは、木がつくる三角形の真ん中だった。
 彼はスコップを土に突き立てて掘り始めた。地面は柔らかく、まるでレアチーズケーキにフォークを刺すみたいにスッスッと掘ることができた。いま思えば、ただのスコップではなかったのだろう。しばらく掘り進んでいくと、切っ先に何か硬いものが触れた。それを掘り起こすと、彼でも両手で持てるくらいの真四角な箱が出てきた。おじさんとお姉さんは、それを見てにっこりとした。おじさんは腰に付けた小さなバッグからペンライトみたいなものを取り出して、その箱に向けた。とたんに箱は紫色の光を発して輝き始めた。さらにおじさんがペンライトを動かすと、音もなく蓋が開いた。箱の中には、さらに六角形の箱が入っていた。お姉さんが彼に、さあ、その箱を持って行きましょう、と言った。なんだかほっとしたような顔をしていた。今度はおじさんがスコップを使って、外側の箱を元のように埋めた。
 彼らはふたたび乗船し、山の上空にふわっと浮き上がった。彼が窓から見下ろすと、山から放射状に数本の川が流れ出ているのが見えた。さあ出発するよ、とおじさんが言い、全員着席した。船は一瞬のうちに成層圏まで上昇したあと、しばし無限の暗黒と蒼い輝きの間を飛び続けた。掘り出した六角形の箱は、船内中央の透明なケースに収められていた。その中身が何なのか彼は知りたかったが、なんとなく訊いてはいけないような気がして言い出せなかった。
 やがて、また降下の気配がして、彼は座席に着くよう言われた。着陸した場所はまたもやどこかの山上で、霧が流れていた。もしかしたら雲の中にいるのかもしれないと彼は思った。船外に出る前にお姉さんが、これを着てね、と言って服を差し出した。二人のと同様な薄くて上下が繋がった服だった。足を入れ袖を通すと、彼女は彼の服の腰にあるスイッチを操作した。すると服は瞬く間に彼の体にぴったりと張りついた。少しも窮屈な感じはなく、何も着ていないかのように軽く、しかも暖かだった。
 彼らは下船して山の斜面を下っていった。彼の手には六角形の箱があった。あたりに木は生えておらず、一面の草地だった。遙か下方から霧が強めの風に乗って吹き上がっていた。しばらく下ると崖っぷちに来た。そこにだけ背の低い木が三本生えていた。それらを結ぶとやはり正三角形を描いた。おじさんは船から持参した大きな鞄から金色に光る両先端の尖ったロケットのようなものを三つ取り出して、木がつくる三角形の底辺中央外側の地面に突き刺していった。置いた位置を結ぶと、元の三角の頂点と外側の三角の底辺中央がぴったり合わさることになる。そうしておいて、おじさんはまた彼にスコップを手渡し、六角形の箱はお姉さんに預けるように言った。
 たぶんこの三角の真ん中を掘るのだろうと思い、彼は作業を始めた。その前に、とおじさんが言い、ペンライトのようなものを操作すると、ロケット形のものが金色に光り始めた。これでこの中は安全よ、とお姉さんが言った。彼が地面を掘り続けると、神社の裏を掘ったときと同じような真四角な箱が出てきた。そのとたんにヒューン、ヒューンという音がし始め、すぐそばの空間を真っ黒いものが弾丸のように飛び交った。きたか、とおじさんがお姉さんと顔を見合わせて言った。二人とも緊張した面持ちだった。
 彼が穴から箱を取り上げると、おじさんはまたペンライトのようなものを使って蓋を開けた。緑色に発光した箱は、ますます暗さを増してきた霧の中で美しく輝いていた。怪音を発して飛んでくる黒いものは、三人を護る結界の外側にビシッ、ビシッと不気味な音をたてて激突した。彼はおじさんに促されて、お姉さんから受け取った六角形の箱を真四角な箱の中に収めた。これでよし、無事終わった、とおじさんは嬉しそうに笑った。お姉さんも、ごくろうさま、と彼に言いながら優しく微笑んだ。
 おじさんはスコップをふるって箱を元通りに埋めた。気がつくと何かが激突する音は止んでいて、ただ吹く風の音だけが耳についた。それからしばらく様子をみたあと、彼らは引き上げることにした。おじさんはロケット形のものを鞄にしまいながら、これで日本の中心はここになった、しばらくは大丈夫だろう、とつぶやいた。
 船に乗り込んだ三人は、また再び上空に飛翔した。彼は窓から見下ろしてみたが下界は一面の雲で、さっきいた場所がいったいどこなのか見当もつかなかった。おじさんとお姉さんは彼を労ってくれ、お礼にチカラをあげる、宇宙のチカラがあなたの中に流れ込むようにしてあげる、と言った。そのチカラは彼の望みが叶うよう助けになってくれるらしかった。
それからしばらくすると、お姉さんが、もうじき学校に着くからね、と言った。彼が窓際に寄ると、校庭と校舎が見えた。校庭では生徒たちがボールを蹴って遊んでいた。おじさんが、ここでお別れしよう、君のランドセルを背負って、そこに立ったまま目を閉じててくれるかい、と言った。元気でね、とお姉さんが少し悲しそうに言った。ありがとう、とおじさんも言った。彼が目を閉じると同時に目の前で光が弾けた。
 頬に風を感じて目を開けてみると、彼は校庭へと続く通学路に立っていた。お姉さんも、おじさんも、飛ぶ船も、跡形もなく消えていた。彼はもう一度空を見上げたあと、ゆっくりと坂を上がっていった。

「どや。これがぼくのUFO搭乗体験の一部始終やねん」
 あー話し疲れた、と言いながら、西田は層が厚くなってきた豆乳の湯葉をすくいにかかった。
「いやあ、もう言葉もありません」
 広瀬は溜息をつきながら言った。
「お聞きしていると、そのときの情景がありありと浮かんできました。わたしも一緒に空を飛んだような気分です」とさやは、うっとりとしていた。
「そうか、おもろかったんかいな。そら良かった。月香はん、あんたはどうや」
「西田せんせ、作家になれるんちゃいますか」
「作り事やないで。ほんまのことや」
「冗談や、せんせ、あたしは信じるわ。この世に不思議なことなんか何もない思うし、不思議といえば、みな不思議や」
 月香は立ち上がると、お茶を頼んできます、と言って階下に降りていった。
「西田さん、最後に一つだけお訊きしたいことがあります」と広瀬が襟を正して言った。
「なんでっしゃろ」
「先程から話題に出ているエネルギーで、イメージの物質化はできますでしょうか」
「イメージの物質化ってなんやねん」
「つまり具体的に申しますと、物質を構成している原子の段階までイメージして、構成要素の原子をイメージの力で現出させて、何もない空間に特定の物質をつくり出すということです」
「どやろな。ぼくは、そんなことやろうと思ったこともないけど。どやろなあ、そこまではできへんのちゃうか」
「では、物質を解体させるなどということも」とさやも問いに加わる。
「解体? つまり消すいうことやろか」
「そうです」
「それもまたおもろい質問やね。したことないし、たぶん、できへんのちゃいますか。でも、何でお二人とも、そないなこと訊きますのん」
「いえね、先日たまたまそんな話をしたものですから」と広瀬が答える。
「もし」と西田が腕組みをしながら言う。
「もし仮に、人間の思いでもって誰でも自由自在に物をつくったり消したりすることができるとしたら、いや物だけやなく生き物を、いや最後には人間を、思い通りに生み出したり殺したりできるとしたら、この世は想像の世界やなく現実の地獄と成り果てるやろね。そういうときが来るのを恐れた民族が、一神教という概念をこしらえたのかもしれへんな。もしそんな力を振るえるものが現れるとしたら、少なくともたった一つの存在やないと具合悪いしな」
「唯一の絶対的な存在である神が行う創造と破壊なら、まあ仕方ないというわけですか」
「そういうことやな。これがもし二つの神がいて互いの思うとこが違ってみ。一方は創造し、それをもう片方は気に入らんと破壊し始めたら、けっきょく何も残らへんよ。互いが互いを破壊して、この世は無になってしまうやろな」
「では西田さん、もし人間の思いで、思いをイメージと言い換えてもいいのですが、そういったもので創造と破壊が可能なら、それができる人間は神ということになりますね」
 広瀬は喉を鳴らして唾を飲みこんだ。さやはそんな広瀬をじっと見つめていた。
「どやろな。それは神もどきやなかろうか。けど、もしそいつが宇宙の創造と破壊ができるというのなら、それは神と呼べるかもしれまへんな」
「おまたせ」
 そのとき襖が開いて、月香が顔をだした。手にした盆には湯呑みが四つ乗っていた。
「ついでにもろてきたわ。はいどうぞ」
 彼女は各々の前にお茶を置いていった。
「ありがとう」とさやは湯飲みを持って一口すすった。
「おいしいわ」
「これ柿の葉茶なんですよ。ビタミンCがたっぷり含まれているんです」と月香も口をつけた。
「あれ? どうしたんですか、ぼんやりした顔をして」
 月香は広瀬を見て言った。
「いや、何でもないよ」
「彼はいま神になっているの」とさやが言った。
「え、カミですか?」
 月香は、ぴんと来ないなというような顔で広瀬とさやを交互に見た。
「なんでもないわ。冗談よ」
 さやはふっと微笑むと、西田に話しかけた。
「西田さん、今日はこれから」
「ぼく? ぼくは夕方から予約が入ってるさかい、ぼつぼつ引き上げますわ」
「そうですか、それは残念ですわ。もっといろいろお話が聞きたかったです。それにほんと言うと、わたしもちょっと診てもらいたかった」
「なんや、そうかいな。ほな、ちょっと診ましょか?」
「ほんとですか? 嬉しい」
「横になれる場所がいりまんな。一部屋ちょっと使わしてもらいたい言うてきますわ」
 西田はひょいと立ち上がると、下に降りていった。
「すっごく気持ちいいですよ。あたしも前にしてもらったことあるんですが、あまり気持ち良くて寝ちゃいました」と月香が言った。
「そう。それは楽しみね。彼はエネルギーも使って治療するのよね。それがどんなものなのか、とても興味があるわ」
「おれもしてもらいたいな」
 広瀬は首をぐるぐる回して言った。
「残念だけど、先生あまり時間がないみたいよ」とさやが言う。
「広瀬さん、今回は諦めてください。また次回ということにしましょうよ。その時は、あたしもご一緒していいですか?」
「いいけどさ。おれもそのエネルギーを体感してみたかったよ」
 階段がとんとんと鳴って西田が戻ってきた。
「貸してくれたで。二階の一番端の部屋や。さ、高原はん、さっそく始めよか」
「はい。じゃ、悪いけどちょっと待っててね」
 さやは広瀬と月香に言い置いて部屋を出ていった。
 広瀬は灰皿を探し、ポケットから煙草を出して火を点けた。
「昨日はどうでした?」と月香が訊く。
「天河か? ああ、なんか不思議なところだったな。あのあたり一帯の次元が周りとずれているというか」
「なにか収穫はあったの?」
「収穫ねえ。そうだな、イメージということをずっと考えていたな」
「イメージって?」
「人間が頭に思い浮かべることと言ったらいいのか、感情や願望や意志などを伴いながら心に生じるある印象といったらいいのか」
「つまり人間の思いってこと?」
「そうだな」
「それが何か」
 今日の月香は白いタートルネックセーターを黒の皮パンツに合わせていた。髪が揺れるに連れてときおり見える小さなピアスが、なんだか色っぽいなと広瀬は思った。
「おれの中に、人間の思いは果たして力を持っているのかという問いがずっとあるんだ。この思いという語はイメージとイコールだけどな。心に生じたものにパワーがあるなら、そのエネルギーを使っていろんなことができるんじゃないかと考えているわけさ」
「いろんなことって、たとえばどんなこと?」
「道具の代わりに使うとかさ。今ここに太い鉄の棒があるとしようか。それを金属用の鋸で切断しなきゃならない。これは大変な作業だよな。そこで、まず鉄を構成する原子を思い浮かべる。つぎに鉄棒を切断できる範囲の原子の結合を解く。すると鉄棒はスッと二つに切断されるんだ。この結合を解くのも、思いの持つ力を使うんだ。すると思いには少なくとも二つの能力があることになる。つまり、空間的に範囲を特定する能力と、その特定した範囲に影響を及ぼす能力の二つだ。もっと言えば、空間的だけじゃなくて時間的な範囲特定もできるような気もするな」
「それって、過去や未来にある鉄の棒を切断できるということ?」
「そうだね。もっとも、空間と時間は別のものじゃないから、当然といえば当然なのかもしれないが」
「なんか難しくて、よくわからないよ」
「うん、おれにもわからん」
 そう言って広瀬は笑った。
「あたし、あなたの話を聞いてて思ったことがあるの」
「なんだい」
「人間の思いって、いいえ人間だけではないかもしれないけど、思いって一つの生命のような気がするの。目には見えないけどね」
「目には見えない生命って、まるで魂のことみたいだな」
「じゃあ、思いって魂の別の形なんじゃないかな」
「うーん、頭が混乱してきたぞ。では、思うことができる人間、だけに限らないなら、思うことができる存在とはいったい何だろうな。あと、思いが生命なら、思うたびに生命が一つ生まれることになるぞ。この世は生命だらけになってしまうな」
「この話は切りがなさそうね」と月香は肩をすくめてみせた。
「ねえ、夜はどうだったの?」
 月香は話題を変えて、広瀬をじっと見た。
「吉野に泊まったよ」
「さやさんを抱いた?」
「えらい単刀直入だな」
 広瀬は少し戸惑った表情をみせた。
「で?」
「ああ、抱いたよ」
「そう」
「妬いてるのか?」
 月香はその問いには答えず、しばらく広瀬を見つめていた。
「ねえ、もう一つ訊いていい?」
「いいけど」
 広瀬はまだあるのかという顔をして一瞬詰まりながら言った。
「さやさん、あたしたちのこと知ってるの?」
「知っている」
「あなた話したの?」
「まさか。たまたま気づいたらしい」
 広瀬はさやから聞いた経緯を語った。畳に視線を落としながら耳を傾けていた月香は、聞き終わると顔を上げて言った。
「さやさんとは、どういう関係なの?」
「どういうとは?」
「もちろん男女であることはわかってるけど、普通のステディな関係のような気がしないから。だって、あたしたちのことを知りながら、それについて何も触れないでしょ?」
「彼女はおれを男として見ていないんだよ。昨夜も、あなたは同志だと言っていた」
「そう」
 月香は何かを察したような表情になった。
「さやさん、あなたをほんとに愛しているのね」
「それはないだろう」
「いえ、愛しているわ。あたしの直感よ。あなたがしたいと思ったことをしたことについて、さやさんはそれを受け入れるか、拒絶するか、それを喜ぶか、憎むか、それとも何も感じないか、そのいずれかでしょ? あたし別に綺麗事を言うつもりはないけど、相手がどんな状態であろうと、どんな境遇だろうと、相手からどんな仕打ちをされようと、ただ愛するのが愛だと思うの。それは相手を愛さずにはいられないからよ。愛も心の状態ならば、やはりエネルギーを持った一つの生命だと思わない?」
「愛も生命か」
「そう。愛も、憎しみも、嫉妬も、みんな生命なんじゃないかな」
「それを思うとさ、生命ってもの凄く複雑に絡み合っているよな。形体一つとっても体を持っている生命もあれば、思いなどのように目には見えないものもあるし」
「あら、人間の目には見えないってだけかもしれないわよ。案外他のものには、たとえば植物には愛が見えるのかもしれないわ」
「なるほど」
 広瀬は深く頷きながら感心して言った。
「ねえ、最後に一ついい?」
「いいよ」
「あたしって、そんなに声大きい?」
「おれは好きだけどね」
「さやさんに聞かれたのは、やはり恥ずかしいよ」と月香は目を伏せて言った。
 やがて、さやと西田が戻ってきた。さやは気だるそうなとろんとした顔をしていた。治療のあとは少し横になってた方がいいんやけどな、と西田が言った。先生の時間が気になるから、とさやは引き上げてきたらしかった。でも気持ちよかったわ、エネルギーの作用も実感できたと思うし、とさやは西田に改めて礼を言った。
 四人は豆腐店を出て駐車場まで歩いた。ほぼ葉の落ち尽くした銀杏の木が駐車場の脇に立っており、枝の上空には夕暮れに向かう薄青い空が広がっていた。
「ほな帰りますわ」と西田が口を開いた。
「お家まで遠いんですか?」
 キャメル色のコートを着たさやが名残惜しそうに言った。
「いや、ここから車で二十分くらいですわ。あんた方も気いつけてお帰りや」
「お会いできて良かったです。次回はぜひ私にも体験させてください」と広瀬が言った。
「すんまへんな、ちょっと時間がないさかいに」
「いえ」
「せんせ、ほんまに久しぶりやったのにもうお別れやなあ。たまには東京に遊びに来てえな」
 月香は少し涙目である。
「よっしゃ。行くときは連絡入れるよってな」
 西田は車に乗り込むと運転席側の窓を下ろした。
「楽しく、明るく、晴れやかに。みんな、このことを忘れんといてや。ほな、おおきに」
 そう呪文のように唱えると、西田は帰っていった。
 残った三人も車に乗り込み、奈良市に向かった。さしあたりの宿として、月香によりJR奈良駅近くのホテルの三部屋が予約されていた。当初の予定では飛鳥まで足を伸ばし、その後奈良入りするつもりだったが、豆腐店滞在が思ったより長引いたので、またの機会にすることにした。野菜市場を覗くのも次回まで御預けになった。
 月香の運転するジャガーは、つるべ落としに暮れていく国道24号線を一路奈良へと走り続けた。


      10

 白熱灯の柔らかく暖かい光に照らされた石畳は、上の方にまっすぐ伸びていた。白い息を吐きながら、さや、月香、広瀬の三人は東大寺二月堂へと続く坂を登っていた。夜になりかなり冷え込んできたが、防寒をしっかりとしてきた彼らは別に寒がりもせずに、しっかりとした足取りで歩いていた。
 五條市から奈良に戻った夜と、その翌日と翌々日を、彼らはホテルでのんびりと過ごした。ここ何日かは、ずいぶんと中身の濃い、いや濃すぎる体験をしたので、その反芻も必要だろうと三人の意見が一致したのだった。
 五條市から戻った翌々日の夜に、彼らは二月堂と朱雀門に出かけることにした。
 さやは奈良にいる間に東大寺二月堂と朱雀門はどうしても見ておきたいと思っていた。奈良観光のパンフレットを眺めていたとき、この二つの建物に強く惹かれたのだ。
 ちょうどその頃、奈良はライトアップキャンペーンを行っており、東大寺大仏殿、興福寺五重塔をはじめとする市内十数ヶ所の歴史的建造物がライトアップされていた。
 他に参詣客もいない夜の境内に、彼らの足音が渡っていった。風は止んでいた。見上げる空には輝く月があった。薄ぼんやりとした照明の当たる石段をさらに登っていくと、静寂の中に御堂が浮かび上がっていた。年が改まると、ここで修二会が行われる。これは、東大寺の僧侶が二月堂の本尊十一面観音に、すべての人の罪を悔い改めて国家の安泰と人々の豊楽を祈る法会であり、東大寺お水取りとして一般に親しまれている。
 大きな松明を抱えた練行衆が御堂の内陣を駆け抜けていく。火の粉が暗闇を舞い落ち、人々は水を求めて手を差し伸べる。そんな幻想を抱きながら、彼らは沈黙の境内を歩いた。
 二月堂の下に到着し、階段を上がって、あたりが見晴らせる内陣に出た。境内の建物の向こうに町の灯りが見渡せた。
「静かね」とさやが遙かを眺めながら言った。
「こんなところに来ると、沈黙ほど豊かな音はないってしみじみ思うわ」
「ほんとにそうですね」
 月香もさやと並んで、夜の闇に浮かぶ灯りを見つめていた。
「しかし、人っ子一人いないとはこのことだな。どこかに警備員が待機してるんだろうけど」
 広瀬は男の本能が発動したのか、自分たちの置かれた状況判断をしていた。
「場所の記憶について本で読んだことがあるけど、ここにいるとそのことを実感するわ」とさやが言う。
「場所の記憶って何ですか?」と月香が訊く。
「土地や建物には、そこにいたものや、そこで起こったことなどの情報というか記憶が残っているということなの」
「なにか霊的なものが存在してるってことですか? 地縛霊とか、屋敷に取り憑いている悪霊とか」
「そうじゃなくて、ただ記憶の残り香みたいなものがあるということだと思うわ」
 広瀬が遠くを眺めながら言う。
「そういう話を聞くと、この世で生きているすべてのもの、この世で起こるすべてのことは、みんなエネルギーの発現だという気がしてくるね。エネルギーの波動が、時の流れに風化せずに残存しているのかもしれないな」
「じゃあ、この地球上で記憶が残っていない場所はどこにもないってことになりますよね」と月香が広瀬を見て言った。
「そうだな。この地球という惑星は四十六億年分の記憶から成り立っているともいえるだろうな」
「ここに佇んでいると、この二月堂で起こったことだけではなく、古の都にあった喜びや悲しみ、憎しみや愛情などの様々な思いが、四方から波のように押し寄せてくるのを感じるわ」
 さやはそう言って目を閉じた。
「そういった思いは人間の発するものだ。彼らは発生以来しだいに雑草のように地上にはびこり、自分たちこそが万物の霊長だと勘違いをしてしまった。そうして今、生態系のバランスは壊されつつある。人間は、この地球にとっては厄介な罪深い存在かもしれないな」
 広瀬は静謐な空で透明な光を発している月を見上げた。
「わあ、広瀬さんたら、まるで自分は人間じゃないみたいな発言してる」と月香がからかうように言った。
「そうね。人間じゃないのかもね」
 独り言のようにつぶやいたさやは、さあそろそろ次に行きましょう、と二人を促した。
 彼らは車をとめた場所まで引き返し、車に乗り込んだ。月香が兄から借りてきたジャガーだった。あなたが使ってお兄さん大丈夫なの? とさやが心配すると、いいんです、たまのことだし、兄は昔から英国車フリークで、オースチンのミニから始まっていろいろ乗ってましたね、でも歳とってくると、やはり紳士はこれだろうと、このジャガーを手に入れたんです、もちろん中古ですけど、調子は悪くないみたいです、と言った。
 さやと広瀬を後部座席に乗せて、月香は新大宮通りを朱雀門へと向かった。
 朱雀門は、百三十ヘクタールに及ぶ平城宮跡の南西側に建っていた。平城宮の正門にあたり、一九九八年に復元されたという。
 月香は朱雀門の近くにある公園の脇に車をとめた。車を降りた彼らは、暗い公園内を門の方に歩いていった。植え込みを抜けると、広場の向こうに、ライトアップされた巨大な門が、暗闇を背景に赤く浮かび上がっていた。
 門は地面から一段高く設けられたコンクリートの基壇の上に建てられていた。正面から見ると、朱に塗られた六本の太い柱に支えられる形で初重屋根が造られており、その上方にも小さめの朱い柱がやはり六本立っている。そしてその柱が二重屋根を支えていた。柱と柱の間は壁になっていて、要するに一般的にイメージされる門というよりは建物だった。地面からてっぺんまで二十メートルはありそうだった。
「美しいわね」とさやが立ち止まって言う。
「妖しくもあるな」
 広瀬も立ったまま、じっと見つめた。
「いま奈良はライトアップキャンペーンをしていますが、この朱雀門は一年中日没から午後十時までライトを当てているんです」
 月香がそう説明した。
 三人は横一列に並んで、未舗装の広場をゆっくりと門に向かって歩いていった。
「あまり人がいないのね。観光シーズンではないからかな。せっかくこうして素敵にライトアップされてるのにね」とさやが言った。
「地元の人がわざわざ来ることはめったにないですね。たまにカップルを見かけるけど」
「ということは、君もカップルでよく来てたってこと?」と広瀬が月香に言う。
「広瀬さん、もしかして妬いてくれてるんですか?」
「いや、気を利かせたつもりなんだけどな。こんなムードのある場所に一人で来るのは、ちょっと寂しいかなと思ってさ」
「お心遣い痛み入ります。でも、ここが復元されてからは、よく一人で来てましたよ。理由はわからないけど、門を見てると懐かしいような気持ちになって心がざわざわしてくるんです」
「月ちゃんは、お姫様だったのかもしれないわね。奈良の都の」とさやが言った。
「ねえ、二人とも気づかない? あの門からこちらに向けて何かの流れを感じるんだけど」
 さやは門を指差した。
「流れって?」と広瀬が訊く。
「何らかのエネルギーかなあ。うまく言えないんだけど、巨大なエネルギーの流れがあの門の向こう側からこちらに向かっていて、でもあの門があるからそこでせき止められているような感じがするの」
「おれの勘だが、それは地球のエネルギーの通り道かもしれないな。ほら、天河で地底から吹き上がってくる気の話をしただろ? ここでは地球の気が縦にではなく横に流れてるんじゃないか?」
「あたしが門に惹かれたのはそのせいでしょうか。でも考えてみると、そんな強大な流れをせき止めているなんてすごいですよね」
 月香は改めて門を見やった。
 まもなく彼らは門の真下に到着した。下から見上げると、二つの屋根と朱く塗られた柱が存在感を持って迫ってきた。
 月香が口を開く。
「素朴な疑問が二つあります。一つ目は、もしこの門に地球の気をせき止める働きがあるとすれば、これは復元されてるわけですから、その機能をも復元したことになると思うんですが、そんなことできる人間がいたのかなってこと。二つ目は、なぜ、せき止める必要があったのか。この二点なんです」
「この門自体にせき止める力があったのではなく、恐らくこの場所にそういったプログラムがなされていたのだと思う。だから建物が新しくなっても、その能力は変わらなかったわけさ。では誰がそのプログラムをしたのかという問題が出てくるだろうが、それはわからない。たぶん、イメージの力を自在に扱うことのできた何者かだ」と広瀬は答えた。
「なんだか推理ごっこみたいだけど、二つ目はわたしの担当ね」とさやが言った。
「なぜ、せき止める必要があったのか。それはきっとバランスを取る必要があったからよ。日本全体の気のバランスをこの門で取っていたの。ダムの水門みたいなものよ。恐らく今現在もその機能は働いていると思う。だから、もしこの門を、というよりプログラムを破壊したら、気のバランスが崩れて日本全体で天変地異が起きるでしょうね。日本がそうなれば、世界もまた無事では済まないわ。なぜなら、日本は世界の要であり、且つ部分は全体に繋がっているからよ。日本は世界と連動し、世界は太陽系と連動し、太陽系は銀河系と連動し、銀河系は全宇宙と連動している。どう? この推理は。ちょっぴり国粋主義のスパイスも振りかけてみました」
 さやは冗談めかして言ったが、自分でもなぜそんな見解を示せるのかわからなかった。
「なーるほどね」と月香は盛んに頷きながら聞いていた。
 そのとき、広場の右端あたりから足音が近づいてきた。
「こんばんはー」
 さやたちが声の方を見ると、男が二人こちらに近づいてきた。一人はボアの付いたデニムのハーフコートを、もう片方は黒の革ジャンバーを着て、二人とも目にゴーグルを付けている。
「なにか」
 広瀬は嫌な予感がするなと思いながら言った。
「すいません。ちょっと頼みがあるんやけど」
 革ジャンの男が猫撫で声で言った。
「なんですか?」
 広瀬はさやと月香をかばう位置に移動しながら言った。
「カネ貸してくれへんやろか」
「いい若いもんに貸す金はないね」
「こいつのお袋が今にも死にそうなんやけど、手術代があらへんのや」と革ジャンはデニムの男を顎で示して言った。
「ほお、今にも死にそうなら、こんなとこにいないで付き添っててやれよ」
「おっちゃん、ほんまに死にそうなんや」
 革ジャンは声に力を込めて凄んだ。
「わかった」
「そうか、おおきに」
 革ジャンはデニムと顔を見合わせて、にたついた、
 広瀬は財布から一万円札を一枚取り出すと、革ジャンの男に差し出した。
「これで何かお袋さんの好物でも買ってやれ」
「おっちゃん、ナメとんのんか。たったそんなもんで手術はできへんで」
「あいにく持ち合わせがそれしかない」
「うそこけ」とデニムが言った。
「たんまり入ってたやないけ」
「おまえ、人の財布を覗き込む趣味があるのか」と広瀬は鼻で笑った。
「なんやと」
 男は息巻いた。
「まあ待ちいな」
 革ジャンが男をとどめた。
「ほなら、おねえちゃんちょっと貸してんか」
 言うが早いか革ジャンは左方に跳び、広瀬の後ろ側にいた月香の肩先をつかんで引きずり出した。
 広瀬が男に殴りかかろうと動作を起こすと同時に、ヤッという鋭い声がして、月香の裏拳が男の鼻を直撃していた。鈍い音と共に男の鼻柱が潰れ、血が飛び散る。
「このアマ」
 革ジャンは左手で鼻を押さえながら、右手でジャンバーのポケットからナイフを取り出した。ビシッという音がして刃が飛び出る。
 革ジャンの一連の動きに呼応するかのように、デニムもナイフの刃を起こしながらさやの手首をつかんで手前に引き寄せ、首筋に刃先を当てた。
「動くな、ドアホ」
 デニムは広瀬を睨みつけながら叫んだ。
 さすがに喧嘩慣れしているとみえて、広瀬は彼らの動きについていけなかった。
「ねえちゃん、ええ度胸してるやないけ」
 革ジャンは地面にべっと血の混じった唾を吐くと、ナイフをかざして月香に寄っていった。月香は拳法の構えを保ったまま、じりじりと後ずさった。
「抵抗すな。抵抗すると、あのねえちゃんの喉を切る」
 革ジャンは顎でさやを指しながら言った。さやはデニムの左手で後ろ手に固定されながら、右手で喉元にナイフを突きつけられていた。広瀬は手が出せずに、じっと隙をうかがっていた。月香はそれを見て、拳法の構えを解いた。
 バシッという音がした。革ジャンはナイフを左手に持ちかえ、右手で月香の頬を平手打ちにしたのだ。口の端から血を流しながら、月香は男を睨みつける。
「なーんやー、その顔は。われ、なめとんのか」
 革ジャンは逆上して再度平手で打ち、さらに左膝で月香の鳩尾に蹴りを入れた。彼女は呻きながら両手で腹をおさえ、地面に崩れ落ちた。体を海老のように曲げて苦しむ月香を、革ジャンはさらに足で蹴り続ける。
「てめえ、許さん」
 広瀬の中で何かが弾けた。
「あなた、待って」とさやが広瀬に向かって叫んだ。
「殺しちゃだめ」
 広瀬は声のする方へ顔を向けた。さやの首元でナイフが光った。彼はその凶器を構成するものを分子から原子へとイメージしていった。そして原子の単位までイメージできたとき、その結合を解いた。デニムの手にあったナイフは忽然と消失した。
 広瀬はそのまま革ジャンに向き直り、同じやり方で彼の持つナイフを解体した。
「おい」
 そう言いながら広瀬は月香を足蹴にしている革ジャンに近づき、後ろから肛門のあたりに蹴りを入れた。広瀬のブーツの足先が尾てい骨に食い込む。
「なんや」
 驚いて振り向く革ジャンの目を、広瀬の目がとらえた。眼球の外側から順にイメージしていく。角膜、前房、虹彩、後房と進み、水晶体にたどり着く。
 広瀬は、前日たまたま読んだ人体についての本の文章と図を思い出す。曰く、水晶体は薄い水晶体嚢に包まれた水晶体質からなり、水晶体質は水晶体皮質と水晶体核から構成されて云々。
 広瀬は描かれていたイラストを参考にして、革ジャンを着た男の水晶体核を消滅させた。
 革ジャンの視界がすっと暗くなった。急になにも見えなくなったので、彼は電気が消えたのだと思った。彼はゴーグルを外してみたが、あたりは真っ暗のままだった。
「タツ、いるか」と皮ジャンの男は相棒を呼んだ。
 その声が届くと同時に、タツと呼ばれた男の視界がストンと落ちた。男はあわててさやの手を離し、自分の目をこすり始める。
「どないしたんやろ。おい、目が見えへんのや」
 タツは両手で前の空間をさぐりながら、よたよたと歩き始めた。
 広瀬は革ジャンを着た男に近づき、月香がされたと同じように顔に平手打ちをくらわし、腹に膝蹴りを入れ、うずくまった体を蹴り続けた。皮ジャンは悲鳴を上げながら地面を逃げまどった。
「もうやめて」とさやが叫ぶ。
 その声を聞いて、ようやく広瀬は蹴るのを止めた。
「カスどもが」
 吐き捨てるように言うと、広瀬は月香を抱き起こした。さやも駆け寄ってくる。
「月香、しっかりしろ」
「月ちゃん」
 広瀬とさやの呼びかけに彼女はうーんと唸りはしたが、意識は朦朧としているようだった。
「恐らく軽いショック状態におちいっているのだろう。ともかくここを離れよう」と広瀬はさやに言った。
「はい。でも彼らは?」
「ほっといても死にはしないさ」
 広瀬は月香を両腕で抱え上げて、車の方に歩き始めた。さやも後に続く。
 朱雀門前の広場では、恐怖にかられパニックを起こした男たちが大声を上げ始めていた。
 月香のコートのポケットに車のキーを見つけたさやは、広瀬に手渡した。広瀬はドアを開け、後部座席に月香を横たえる。
「さあ、あまりぐずぐずできないぞ。人目につくと少々やっかいなことになる」
 広瀬はエンジンを始動させ、まもなく発車させた。
 新大宮通りを奈良公園の方に向かいながら、広瀬は西田の自宅に電話をかけた。彼は携帯電話を持たないので自宅にいなければアウトだったが、夜ということもあり彼は在宅していた。広瀬はざっと事情を説明し、月香をすぐに病院に運ぶ必要があるかどうか訊いた。西田はしばらくのあいだ、遠隔で月香の体の具合を調べてから、ぼくの診たところでは内蔵の損傷はないと思うけど、一晩様子をみて、明日念のために病院で精密検査をしといた方がいいかもしれへんな、今晩ぼくの方でもできるだけのことはしとくさかいに、と言った。広瀬は礼を言って電話を切った。
「ひとまずホテルに帰ろう。なんとかフロントに怪しまれずに部屋まで上がれるだろう」と広瀬はさやに言った。
「あなた、なにをしたの?」
 さやは運転する広瀬の横顔を見つめて、そう訊いた。
「目の水晶体核を解体した」
「え?」
「つまり、奴らの目はもう一生使い物にならないってことだ。奴らは君に感謝すべきだろうな。もし君が殺すなと言わなければ、目だけでは済まなかったろう。おれはあのとき奴らを殺すつもりだったからね」
「どうして? 月ちゃんを酷い目にあわせたから?」
「さあね。生きていてもしようがない奴らだと思ったからじゃないかな」
 そんなふうにさらっと言う広瀬を見ながら、さやは、わたしはいずれこの人と決定的に争うことになるかもしれない、と思った。
「人間の体は複雑に連係し合った有機体だから、無理に全部を破壊しなくてもポイントを押さえるだけで充分なんだ。今回そのことがよくわかったよ」と広瀬が言った。
「充分って、なにが充分なの?」
「生存を危うくするにはってことさ」
 さやは、広瀬が二月堂で、人間は地球にとって厄介な罪深い存在かもしれない、と言ったことを思い出していた。今回の事件が呼び水になって何かが起きるに違いない、そんな予感がさやを不安にさせた。
 車をホテルの地下駐車場に入れた広瀬は、月香を抱えて、さやと共にエレベーターに乗り込んだ。さやがフロントに行ってルームキーを受け取り、広瀬は一足先に部屋のある階に上がって待っていた。
「とにかくわたしの部屋に運んで」とさやが言った。
 広瀬はさやの部屋のベッドに月香を横たえた。
「あなたはお湯とタオルを用意して。わたしは服を脱がすから」
「わかった」
 広瀬は浴室に行って湯を出し始めた。さやは手早く月香の着ているものを脱がせ、下着のみにして布団をかけた。月香の腹部や背中は紫色の痣が無数についており、腫れ上がっていた。広瀬が湯気のでているタオルを数枚持ってきた。
「体拭くから、あなたあっち向いてて」
 さやはタオルを受け取り、顔の汚れから拭き取っていった。唇の端がわずかに切れて、流れた血が赤黒くこびり付いていた。
「ねえ、悪いけど消毒液と切り傷用の薬を調達してきて」
「包帯はいいのか」
「そうね、包帯よりもバンドエイドの方がいいと思うわ」
「わかった。すぐ戻るよ」
 広瀬は背を見せたまま部屋を出ていった。
 さやは首を拭いたあと布団をはぐると、片方ずつ手を拭いていった。間近でみる月香の裸身は美しかった。その名のように月光を思わせる透明な白い肌をしていた。その白さの中に赤紫の痣が、ヨーグルトに散らしたブルベリーのように浮かんでいる。タオルを取り替えて延髄に当てていると、うーんという呻きと共に月香が目を開いた。しばらくは焦点が定まらなかったが、やがてさやの顔を認めたようだった。急に記憶が蘇ったのか、上体を起こそうとする。
「いいのよ、そのままで。もう大丈夫」
 さやは月香を押しとどめながら優しく言った。
「あ、ああ」
 月香は何か言いたそうだが、うまく言葉にならない。さやはぴんときて、待ってて今お水をあげるから、と言った。冷蔵庫の中からミネラルウォーターを取ってコップに注ぎ、空のコップと共に月香のそばに戻った。仰向けに寝た月香の首を支えて少し起こし、コップから水を飲ませる。
「最初は口に含んでから吐き出しなさい。きっと血が溜まっているわ」
 月香は言われたとおりに、さやが用意した空のコップに赤黒い液体を吐き出した。口の中の傷に水がしみるのか、彼女は顔をしかめた。二、三度それを繰り返したあと、月香は喉を鳴らして水を飲んだ。
「ゆっくり、ゆっくりと飲むのよ」
 さやは月香の体に触れるのは今日が初めてだと思った。わたしはなぜそんなことをわざわざ考えるのだろう。さやは月香と最初に会った日のことを思い出した。
 東京で土地と建物を購入し研究所を設立する際に、雇うスタッフのことを広瀬と相談した。衣食住担当者についてはスムーズに話が進んだが、問題は研究所のスタッフだった。アズロの存在があるために、外部の人間を加えるのはリスクが大きかった。かといって、さやや広瀬が事務的な雑用までこなしているわけにいかなかった。どうしても秘書が一人は要る、というのが二人の結論だった。
 求人方法をどうするかという次の課題を広瀬がクリアした。それは、東京に住む外国人を対象としたメディアに募集広告を載せるというものだった。今後の展開を考えても、日本語以外の言語に堪能な人材の登用は意義深いと思われたからだ。特に英語を駆使できる能力が求められた。しかし、日本語にも堪能であることは必須で、結果的には日本語のネイティブで、バイリンガルな者がいいだろういうことになった。
 雇用条件が良かったので大勢の応募者があったが、どうも今ひとつぴんとくる人材が現れなかった。アンドロイドでも造ろうかと冗談を言っていた春のある日、月香が面接にやってきた。
 スリムフィットなブルージーンズに白いシャツを合わせていた。少し暑い日だったので、コットンセーターを腕にかかえていた。ジーンズにシャツという平凡になりかねない装いをしていても、彼女には華があった。むしろそのシンプルさが、彼女の利発そうな美しさを引き立てていた。さやは一目で気に入り、特に仕事の話はせずに一緒にお茶を飲んだ。話の中で、彼女は少しずつこれまでのことを語った。
 彼女は奈良市内の高校を卒業したあと、アメリカにいる従姉を頼ってアリゾナ州に渡った。従姉は東京で働いていたときに知り合ったアメリカ人と結婚して渡米していた。十も歳上だったが、彼女がまだ小さい頃から可愛がってくれていた。従姉は一部屋提供してくれ、彼女はそこから地元の高校に通い、さらにカレッジに進学した。
 彼女はネイティブ・アメリカンの伝統や文化に興味を持ち始め、彼らの持っていた高い精神性に魅せられていった。
 カレッジを出たあと、両親の希望もあって帰国し、東京で外資系企業に就職した。数年勤めたが、何か飽き足りないものを感じて昨年末に退職した。しばらく奈良に帰ってのんびりしていたが、また活動的な気分になったので東京に戻った。そして仕事を探していたときに、この募集が目にとまったのだった。
 雑談しながら二杯目の薄荷茶を飲み終えたときに、ではさっそく明日から来てね、とさやは彼女に言った。
「どう、落ちついた?」とさやは月香に訊いた。
 月香はわずかに首を振って頷いた。
「災難だったわね。でも、あなたがあんなにお転婆娘だとは知らなかったわ」
 さやは月香が男を殴りつけた光景を思い出してくすっと笑った。
「ごめんなさい」と月香がかすれた声で言った。
「謝ることないわよ。とても勇敢なこと。男だってなかなかできないことよ。あ、無理して喋らなくていいからね。明日またゆっくり話しましょ。これだけ訊かせて。体はかなり痛むの?」
「いえ、大丈夫です」
「広瀬がみたところ、内臓に損傷はないみたいよ。でも明日病院に行って精密検査しましょ」
「広瀬さんは?」
「消毒液や塗り薬を買いにいってるの。もう戻るはずよ」
「あの男たちは?」
「広瀬がやっつけたわ。でもその話も明日ね」
 そのときドアがノックされた。さやは入口まで行って覗き穴で相手を確認したあと、ドアを開けて広瀬を招き入れた。
「ごくろうさま」とさやが労った。
「月ちゃん、どう?」
 広瀬は開口一番そう言った。
「気がついたわ」 
「そうか、よかった」
 広瀬は月香に近づくと、よお、と言った。
「大変な目に遭ったな」
 月香は、そんな広瀬をじっと見つめていた。広瀬は彼女の枕元に座って言った。
「お転婆め」
「所長にも同じこと言われたわ」と月香は少し笑った。とたんに、痛い、と声を上げた。笑うと傷ついた腹筋が痛むのだろう。
「じゃあ、傷を消毒してやってくれないか」
 広瀬は紙袋から買ってきたものを取り出しながらさやに言った。
「あなた、してあげて。わたしはお風呂の準備と、それからお酒も用意するわ。気か高ぶっているから、少し飲んでリラックスしましょう」
 さやはそう言うと、バスルームに消えた。
「助けてくれたの?」
 月香は掛け布団から手をだして広瀬の方に伸ばした。広瀬は両手で、その手を包みこむ。
「おれじゃないよ。鞍馬天狗が疾風のように現れて悪を倒し、疾風のように去っていった」
「ばか、それを言うなら月光仮面でしょ」
「いやまてよ、暴れん坊将軍だったかもしれん」
「もう。でも、おおきに」
「ああ」
「いったい何が」
「その話は」
「明日またゆっくりでしょ」
「よくわかってるじゃないか。さて、消毒しますか。ちょっと染みるかもしれんが」
 広瀬はコットンに消毒液をしみ込ませ、唇の端から当てていった。月香は一瞬顔をしかめたが、何も言わずにじっとしていた。唇のつぎに手の甲を拭いたあと、広瀬は布団をはいで思わず息を呑んだ。鳩尾から脇腹にかけて痣だらけになっていた。
「こいつは酷いな」
 独り言のようにつぶやいた広瀬は、親指の腹で痣を撫でてみた。彼は手のひらを腹部に当てた。しばらくそうしていると、手のひら全体がびりびりと痺れたようになってきた。
「温かくて気持ちいい」と月香は目を閉じたまま大きく息を吐いた。
「ねえ、胸が窮屈なの。ブラ取って」
「彼女に取ってもらえ」
「いやよ。あなたがして」
 広瀬が黙っていると月香は、さやさんのことを気にしてるの? と訊いてきた。広瀬が何も答えずにいると、早くして、と言った。
「わかったよ」
 広瀬は月香を横向きにして背中のホックを外した。取ったブラジャーを枕の下へ押し込み、そばにあった月香の服で胸を覆った。ふたたび手のひらを腹部に当てていると、さやが戻ってきた。彼女は二人の様子を一瞥すると、室内にあるミニバーのところに行って広瀬に訊いた。
「ねえ、何か飲む?」
「いいね。ジンがあるかな」
「あなたの好きな青いやつはないみたい。ゴードンというのでいい?」
「それを頼む。ストレートで」
「わかってるわ。わたしは何を飲もうかな」
 さやが物色していると月香が声をかけた。
「あたしにもいただけますか?」
「え? あなたは」
「少しでいいんです。体の中が寒くって」
「わかったわ」
 さやはチューリップグラスを二つとショットグラスを一つ用意して、ショットにはジンを、チューリップにはコニャックをそれぞれ注いだ。彼女はグラスをベッドまで運び、サイドボードの上に置いた。
「ありがとう。では、いただくとするか」
 広瀬は手を伸ばしてジンの入ったグラスをつかんだ。さやは月香の首や背の下に枕を入れて上体を起こし気味にさせ、手にグラスを持たせた。自分も右手に持つ。三人は互いに顔を見合わせながら軽くグラスを合わせた。
「お疲れさま。長い一日というか、夜だったわね」
 そう言ってさやはブランデーに口をつけた。広瀬は一気にグラスを傾け、おかわりをしにミニバーまで行った。最初の一口が傷にしみたのか、いささか表情を変えた月香だったが、そのまま少しづつ飲んでいった。
「これをいただいたら今夜はもう休みましょう。月ちゃんはこのままここで眠るといいわ。念のために、わたしも一緒にいることにします」とさやは二人に言った。
「おれは?」
「あなたはドアの外で寝ずの番よ」
「やっぱり」と言って広瀬は笑った。
 それから彼らは、明日からの予定について少しばかり話をした。朝一番に月香を病院に連れていき、精密検査をすること。その結果と月香の体調を考慮して、東京に戻る日程を決めること。そして明日の新聞をチェックすることをなどを確認した。
 やがて広瀬は自分の部屋に引き上げ、月香もさすがに疲れたのか眠ってしまった。さやはゆっくりとお湯に浸かったあと、窓辺に佇んで夜空を見上げた。雲ひとつない清明な高みから月が黙って見下ろしていた。


      11

 研究室のドアを開けて中に入ったさやは、部屋の奥でアズロに向き合っている月香に声をかけた。
「どんな感じ?」
 月香は肩越しに振り返ると、にっこりとした。
「いい感じですよ。でもコインの模様を正確に出すのが難しくて」
「それはたぶん時間をかけすぎるからよ」
「どうすれば」
「キーワードは、鮮やかに一瞬よ」
「鮮やかに一瞬ですか」
「必ずできるから、焦らないでね」
 さやは月香から見本のコインを受け取ると、左の手のひらに乗せた。
「いい、見てて」
 そう言うとさやは目を閉じた。次の瞬間、右の手のひらに左と同じコインが出現した。
「体験を積むと、特に集中しなくてもできるようになるから」
 月香は二つのコインを手にとって比べてみた。
「すごい。全く同じです」
「イメージの物質化はコインに限らないんだけど、コインは練習対象として最適なのよ。うまくいけば、そのまま活動の資金になるしね」
「必ず成功させますから」
「あまり力まないで楽しみながらやってね」
「はい」
 月香はそう言うとアズロにも話しかけた。
「アズロ、君の助けも大いに必要だからね。よろしく頼むぞ」
 その言い方を聞いて、さやは笑い出した。
「あなたたち、いつの間にかいいコンビになったわね」
「ええ。彼は寡黙だけど、あ、これ喋れないからってオチはないんですよ」
「わかってるわよ」
「寡黙だけど、話しかけるとそれに応えてくれるような気がするんです」
「そうね」
「それになんといってもアズロは美しい。ほんとにきれいな水色の光ですよね」と月香は目の前で発光している存在を見つめながら言った。
「月ちゃんにアズロを初めて見せたときから美しいって言ってたものね。恐がりもせずに」
「ええ。いい出会いだったと思います。それに嬉しかったです。あたしは信用してもらえたんだって」
「あなたは、奈良でのあの夜以来、特別な人になったのよ」
 さやは、あれからもう半年になるんだと懐かしく思い出していた。

 朱雀門で月香が暴行を受けた翌日に、さやと広瀬は月香を病院に連れていって精密検査を受けさせた。幸いに、内臓、骨、神経のいずれも異常はなかった。
 新聞各紙もチェックしたが、あの男たちに関することは、この時点では特に記事にはなっていなかった。
 それから三日ほど同じホテルに滞在したあと、彼らは奈良を後にした。月香が兄から借りていた車は、キーをフロントに預けておき、あとで彼に取りに来てもらうことにした。顔の腫れがまだ少し残っていたので、余計な心配をかけたくなかったからだった。
 東京に戻って月香の傷が癒えたころ、さやと広瀬は彼女に、あの夜何が起きたのか話して聞かせた。そして、なぜ広瀬がそんなことができたのかを説明した。彼らは月香にアズロを見せ、広瀬はかつてさやにしたように月香にも順を追って話をした。月香はごく自然にそれを受け入れた。こうなることは予め決まっていたみたいね、とさやは言った。月香はイメージの物質化などの体験を少しずつ積みながら、秘書業務をこなしていった。
 彼らにとっては、この能力をどう使うのか、あるいは使わないのかが問題だった。考えてみれば途方もないことだった。
 望むことは何でも現実のものとすることができるとき、人は激しく自分自身と向き合わざるを得ない。自分の価値観、自分の欲望、そして自分の死について考えざるを得ない。自分はいったい何を、どんな状態を望むのか。
 好みの服を着て、旨いものを食べ、快適な住まいに暮らし、いいセックスをし、高級車に乗り、好きなコンサートをVIP席で鑑賞し、世界各地に旅をし、そんな生活をしていても人々からは尊敬され、特別な存在として大切に扱われる。それが望みだろうか。
 これらはみな、他者がいて初めて叶う望みではないだろうか。少なくともわたしが生きている間は困らない程度の物資が用意されるとして、もし人間がこの世から一人もいなくなったとしたらどうだろう。それでもわたしは幸福感を感じながら生きていけるだろうか。
 動物や植物が死ぬほど好きな人がいる。彼らは愛する犬や猫がいれば、鉢植えの花があれば、人間がいなくても何とか楽しくやっていくだろうか。世界中に満ち満ちている残酷で悲惨な出来事。それらはほとんど人間がもたらし、人間が味わっていることではあるが、他者がいなければ、そんな痛ましい出来事に彼らの優しい胸が傷つくこともなくなり、平和で穏やかな世界で生きることができるのではないだろうか。それとも自分以外の人間は要らないというのではなく、少数の大切な人たちは必要だろうか。
 では、わたしにとって大切な人たちとは誰々だろう。わたしと対立するような人は大切ではないのだろうか。もしそうだとすれば、わたしに従順な人だけがこの世に存在すればいいことになる。しかし、従順な人も他者である限り、いずれは対立するようにならないだろうか。もっと言えば対立するような相手でなければ面白くないのではなかろうか。
 彼らはこんな果てのない議論をしばらくのあいだ続け、結局は、この能力の研鑽をしながら様子をみることにしたのだった。

「奈良の夜ですか。あの男たちは、あれからどうなったんでしょう。もう二度と目が見えることはないっていう話ですよね」と月香がさやに訊く。
「どうしたかしらね。たとえば、彼らが大声で騒ぎ立てていると、近くの誰かが警察に通報し、パトカーがやってきて彼らを保護する。ナイフを持った、どう見ても人相の良くない男たちが、自分たちは暴行を受け、おまけに目も見えなくされたと主張する。誰にやられたのかという問いに、男一人に女二人だと言う。おまえらがちょっかい出したんじゃないのか? という警察官に対し、いや自分たちは被害者だと、一人は実際に暴行を受け、何よりも二人とも目が見えなくなったのだと言い張る。その男女の特徴を訊かれた彼らは、おっさんと若い女二人だと言う。この若い女二人ってとこアンダーラインね。そして女の中の一人は空手を使ったと言う。彼らの話を聞いていた警察官は、だんだんあほらしくなってきて、とにかく調書は取ったから今日のところは帰れと言う。こんなところかな」
 さやは、わたしって作家になれるかしら、と言い添えた。
「なれますよ、絶対。なるほど、きっとそんなことだったんでしょうね。でも広瀬さんが消してしまった目の水晶体核でしたっけ? それって、イメージを使ってまた元には戻せないのかな」
 月香は自分に問いかけるように言った。
「月ちゃん、あの男たちに同情しているの?」
「同情というわけでもないけど、今後ずっと目が見えないのも気の毒かなと」
「ははあ、消した水晶体核をふたたび物質化できないかってことね」
「そうです」
「広瀬ならできるかもしれない。彼がイメージで消したのだから、つくる場合にもイメージし易いでしょ?」
「それもそうですね。でも、まったく同じものがつくれるのかしら」
「それはどうかな。少なくとも構造的に問題のないレベルにはなるでしょう。ただ」
「ただ、なんですの?」
「そこに魂と呼ばれるものが入らなければ本来の機能が発揮できないとなると厄介ね。なぜなら、少なくとも今のところ、わたしたちは魂をつくった経験はないから」
 さやはアズロをじっと見つめた。
「魂は全身に宿るんじゃなくてですか?」と月香はさやの横顔を見た。
「もちろん体全体もカバーしてるけど、同時に各部分にも独自の形で宿り、その部分特有の働きをサポートしているんじゃないかと思うのよ。まあ、これはわたしの考えだけど」
「広瀬さんはただ単に水晶体核を破壊しただけじゃなく、その部分の魂をも消滅させたのかもしれませんね」
「わからない。わからないことだらけよ。さっきも試したように、わたしたちは無機物の物質化には成功してる。有機物も林檎など植物体の物質化には成功した。でもここでチェックだけど、植物も魂の働きがないと本来の機能が果たせないとしたら、物質化した植物体はただのダミーということになるわ。いつもこの問題に突き当たるのよ。つまり魂の問題に」
 さやはそこまで話すと腕組みをして目をつむり、しばし考えこんだ。
 月香はポケットから金貨を取り出すと左の手のひらに乗せ、アズロをじっと見つめたあと目を閉じた。一瞬のちに月香は右の手のひらにわずかな重みを感じて目を開けた。見ると、そこには左手のと同じ金貨があった。
「やった」と月香は叫び声を上げた。
 さやが驚いて目を開けると、目の前に差し出された月香の両手があり、各々の手には同一の金貨が乗っていた。
「やったわね。おめでとう」
 さやは月香と抱きあった。
「ありがとうございます。さやさんのアドバイスのおかげです。あ、それと、もちろんアズロのね」
 月香はアズロの方を見てウインクした。
「さあ、ちょっと小休止よ。わたしの部屋でお茶しましょう」
「はい」
 二人は研究室を出て、さやの部屋に向かった。

 その頃、広瀬は新宿にいた。JR東口のロータリーでタクシーを降りると、通りをはさんだ向かいのビルの壁が動いていた。巨大なテレビ画面の中で赤い髪の男たちが歌い踊っている。広瀬は横断歩道を渡り、ビルに挟まれた小路を歩いて行った。たしかこのあたりの地下にジャズ喫茶があったはずだと思い探してみたが、見当らなかった。
 当時、狭い階段を下っていくと、木製のドアからサックスの音が漏れていた。重たいドアを開けると、音の塊が外に飛び出してきた。ジョン・コルトレーンの『至上の愛』がかかっていた。薄暗い照明の店内に入り、空いた席に腰を下ろす。アルバイトらしい若い女が注文を取りにくる。大音量のため、女の耳元で声を発する。コーヒー。女は水の入ったグラスを狭い小さなテーブルに置いて立ち去る。おれは内ポケットからショートホープを取り出しながら周りを見回す。煙草の煙がたなびく店内には、目を閉じ体をゆらして音楽に聴き入る客がひしめいていた。壁の薄いボロアパートに住んでいたおれにとって、音楽喫茶は好きなレコードを大きな音で聴ける唯一の場所だった。店にいる他の奴らも同じようなものだったろう。
 ジャズ喫茶は、とうの昔に潰れてしまったのかもしれない。広瀬はその場を離れて、メニューがロールキャベツのみの洋食屋に向かった。待ち合わせの時間にまだ間があったので、もしその店がまだあれば軽く食べようと思ったのだ。
 新宿は大学時代によく遊んだ街だった。キャンパスが新宿から出ている私鉄沿線にあったので、この街に繰り出すことが多かったのである。その時分によく食べにきたその洋食屋も探し出すことができなかった。見当をつけて歩き回ってみたがだめだった。
 広瀬は時の流れを改めて感じながら少し歩き、待ち合わせの喫茶店に入った。二階に上がってみると部屋の中央に長方形の大きなテーブルがあった。その片隅に座ると、正面の窓の外に一本の木が立っており、幹から伸びた枝の葉に午後の陽がチラチラと反射していた。
 ウェイトレスに、コーヒーとフレンチトーストを頼むと、窓の外を眺めながらしばらくぼんやりする。
 この店が二十年前にもあったとして、そのときこの席に座って同じような午後の風景を見ていたとして、その二十年の間に地球上で起こったことにいったい何の意味があるのだろう、と広瀬は思った。
 地球が四十六億年前に誕生し、生命が四十億年前に発生し、ホモ・サピエンスが十万年前に登場した。生物は各々の本能と性質に従って世代交代を繰り返してきた。人間以外の生物は哲学を学ばないし、生涯について語らない。ただ本能のままに生き、そして死ぬ。しかし、彼らはどのような生き方をしようとも、地球に害を与えることは決してない。ただ人間のみがそれを為し得る。だが、よくよく考えてみると、人間もただ本能と性質に従って世代交代を繰り返してきただけかもしれない。人間にはいろいろな面があるし、その一面を選択することもできる。しかし、どんな顔が人間の中から覗いても、善悪の絶対評価などできはしないのではなかろうか。
 コーヒーとフレンチトーストがきたので、一口飲んで、二切れ食べる。
 善悪の絶対評価ができないのならば、相対評価でいいじゃないか。たとえば、おれがジャッジするというのはどうだろう。判断の基準は、おれの独断と偏見だ。おれにはその資格がある。なぜなら、おれにはその力が備わっているからだ。そしてまた、地球の進化の大きな流れからみると、おれやさやや月香のような人間がこの世に現れ出たことも必然かもしれない。
 おれは今からおれの心の声に従って行動する。しかし、おれ自身が世間の表舞台に立つことは決してないだろう。おれは影の内閣ならぬ影の神だ。世間からしてみると、事前または事後に、見えない存在からメッセージが届く。そして、そのメッセージをいかなる者も決して無視することはできない。それは確実に実行されるからだ。人々は恐怖するに違いない。
 おれは理不尽な要求をするだろうか? わからない。おれが正しいとすることは、やはり今までの価値観の刷り込みの影響を免れないだろう。それでも、この独断と偏見で行われることは、人類に根本的な何かを考えさせるチャンスとなるだろう。
 もし何らかの問題があるとしたら、さやと月香の存在だ。そして、もしかしたらアズロとの関係も。この運命的な出会いはいったい何なのか、今後どのように展開していくのか、今はまったくわからない。おれは己を信じて、心のままに進んでいくしか道はあるまい、と広瀬は思った
 広瀬が二杯目のコーヒーを飲み終えたとき、彼の横に誰かが立った。
「お待たせ」
 見ると髭面の男が笑っていた。江藤だった。
「やあ久しぶり」
 広瀬は手を差し出した。
「お久しぶり。滝ではお世話になりました」と江藤も握り返す。
 彼は四十二、三で、四輪駆動車の専門雑誌の編集長をやっていた。
「もう随分になるなあ」
「去年の秋でしたからね」
「座ったら?」と広瀬は椅子をすすめてから、ウェイトレスを呼んだ。
 コーヒーを注文してから江藤は広瀬に向き直った。
「最近どうされてます?」
「元気にやってるよ」
「研究の方は、はかどってますか?」
「ぼつぼつかな。ここのとこ人体について学んでる」
「人体って、医学の勉強ですか?」
「医学なんて大層なもんじゃないよ。人の体の成り立ちというか仕組みを知りたくてね。つまり、どういうメカニズムで動いているのかってことなんだ」
「へえ、どうされたんですか」
「うん、ちょっとね」
 ウェイトレスがコーヒーを運んできて江藤の前に置いた。
「たしか研究内容は人間の意識とかイメージとか、そういったものでしたよね。人体のどこにそれらが宿っているのかを見つけようとしてるとか」
 江藤はコーヒーに口をつける。
「なかなかいいとこを突いてるね」
「そうですか」
「まあ遠からずで、それももちろん知りたいことなんだけど。なあ江藤さん、人間が一番楽に死ねる方法って何だろうな」
「楽にって、肉体的苦痛がないということですか」
「いや、それだけじゃなくて、精神的苦痛もね」
「うーん、何だろな。精神的に恐いのは、死ぬことを意識するからですよね。死を針の先ほども思わないで一瞬で死ぬのなら、少なくとも恐怖を感じるそれこそ暇もないわけだし。もし痛覚神経の伝達速度より早く死ぬことができれば、肉体的にも苦痛を感じないだろうし。ここらあたりがポイントでしょうかね」
「江藤さん、相変わらず頭の回転が速いね」と広瀬は感心する。
「とんでもない。滝に当たって頭脳のチューンナップが少しはできたかなと喜んでいたら、都会の垢にまみれてきて、半年あまりでこの体たらくですよ、まったく」
 江藤は自嘲気味に言うと、髭に覆われた顎を撫でた。彼は雑誌編集者と同時にオフロードのレーサーでもあり、滝で初めて会った時もレースに出かける直前だった。精神的にクリアな状態で勝負に望みたいと思い、その方法をいろいろ探し回ったあげく、縁あって滝行に出会ったのだという。
「いやいや、なかなかのハイチューンだよ。ところで今の話だけど、楽に死ぬためには一瞬で死ぬことが一番の方法だということだよね。じゃあ、一瞬で死ぬにはどうしたらいいんだろう」
「そうですねえ、やはりピカドンでしょうかね」
「それだと爆心地にいるものと離れているものとでは差がでるな。それに人間以外の生物も死んでしまうし、第一地球に優しくないだろ?」
「えー? 地球に優しいってのが条件ですか? 面白いな。しかし、広瀬さんもユニークなこと考えてるんですね」と江藤は愉快そうに笑った。
「要は、他の生物や地球環境に影響を及ぼさない方法で人間だけを殺すってことですね」
「そう言うと身も蓋もないが、その通りだ」
「しかも、時間をかけてでなく瞬間的に」
「そう」
「苦痛を与えないために」
「うん」
「なぜです? なぜ苦痛を与えないことにこだわるんです?」
「せめてもの慈悲だよ」
 真面目くさって言う広瀬を見て、江藤はギャハハハと大笑いした。
「いやあ、広瀬さんて面白い人だったんですね。見かけはちょっと強面だけど」
「おい、笑ってないで考えてくれよ」
「わかりましたよ。えーと、あなたは秘密結社の悪玉で、人類絶滅を計画しているということですね。でも、ふつう秘密結社のボスは、世界を征服したあと哀れな人間どもに君臨し、この世の春を謳歌したがるような気がしますけど。いいんですか? 誰もいなくなっても。別嬪さんたちも消えちゃうんですよ」
 江藤は少しばかり茶化して言った。
「いいんだよ。おれも消えちゃうんだから」
 広瀬はさりげなく言うと、言葉を続けた。
「江藤さん、腹へってないかな。おれ昼飯食いそこねてしまって。さっきトースト食べたんだけど足りなくてさ」
「いいっすよ。何にします?」
「歌舞伎町に、知ってるタイ料理店があるんだが」
「それにしましょう」
 二人は勘定を済ませたあと、連れだって外に出た。時刻は夕方に向かっていたが、歌舞伎町が極彩色のネオンに覆われるのはもっと後のことだ。
 靖国通りを渡って歌舞伎町に入り、しばらく進むと、右手にタイ料理と書いた看板が見えてきた。店は二階にあり、彼らは狭い階段を上がった。店内に入ると香辛料の香りが満ちており、タイ人のウェイトレスが一人と客が三人ほどいた。席に着いたあと、広瀬は江藤の了解を得て料理を適当に選び、タイ製のシンガービールも一緒に注文した。そして届いたビールを注ぎあって乾杯する。
「改めて、どうも久しぶり。いちど会いたいと思ってたんだ」と広瀬が言う。
「どうも、どうも。滝にもまた行きたいですね」
 江藤は喉を鳴らしてビールを飲むと、こりゃ旨いや、と言った。
「それはそうと、聞きそびれてしまったけど、レースはどうだったの?」
「おかげさまで準優勝でした」
「それはすごいね。確か国際的な大会だよね」
「密林レースでは一応世界大会です」
「そりゃ、おめでとう」
「ありがとうございます」
「知り合いが活躍するって、何か嬉しいものだな」
 湯気の上がった最初の料理が二皿出てきた。広瀬は取り皿を江藤に渡し、自分も皿に盛る。
「広瀬さんも世界征服がんばってくださいね。期待してますよ」と江藤が陽気に言った。
 店の奥の高いところにテレビが設置してあり、コマーシャルが終わってニュースが始まった。二人で辛いタイ独特の料理をつつきながら観るともなしに観ていると、代議士逮捕の模様が映しだされた。
 口利きに伴う収賄罪に問われたその男は、身の潔白を証明するために議員は辞めない旨のことを言っているらしい。画面に映ったその男の顔は、どう贔屓目にみても身の潔白が証明されるとは思えないような卑しい顔をしていた。広瀬の中に激しい憎悪が湧き起こった。
 中途半端な悪党め。どうせなら人間社会の善悪などとは百万光年かけ離れた絶対的な悪であればいいのに。絶対的な悪人はきっと美しいだろう。少なくとも卑しい顔をしてはいまい。あんな顔なんて消えてしまえばいいんだ。
 そう思った広瀬は、はっとした。その男の首から上がふっと無くなったビジョンをみたからだ。確かな手応えのようなものを感じた。これはもしかすると、もしかするかもな、と広瀬は腹に定まってくるものがあった。テレビのニュースは生放送ではなかったので、その場で結果はわからなかった。しかし、何かが起こったのなら臨時ニュースが流れるだろう。
「広瀬さん、どうしたんですか。テレビに目がくぎづけですよ」
 江藤が広瀬の目の前で左手をひらひらさせて言った。
「いや何でもないよ。ちょっと考え事をしていたんだ」
「恋人のことでしょう」
「恋人か。美しい日本語のひとつだね。残念ながらそうじゃない」
「ほんとかな」
「そうだ。恋人といえば江藤さんこそ、その後どうなったの?」
 広瀬はウェイトレスに手で合図しながら言った。彼女がやってくる。
「ビールもう二本。江藤さんも飲むでしょ?」
「ええ、お願いします」
「じゃ、二本ね」
 彼女は頷いてビールを取りに行った。
「結局別れちゃいました」
「そうか」
 広瀬はそれ以上何も言えずに、ウェイトレスが持ってきたビールを黙って江藤のグラスに注いだ。
「あ、すいません」
「江藤さんさあ、ボルネオのダートを猛スピードで駆けているとき、何を思い、何を感じているの?」
 広瀬は話題を変えて、そんなことを訊いてみた。
「レースの間は、もちろんレースのこと、コースやペース配分などを必死で考えますが、それはわざわざ考えるというよりも自然な流れとしてあるって感じですね。頭脳はフル回転しているんだけど、どこか一ヶ所醒めていて、その部分が自然とかなりの割合で深くコミットしているような気がするんです。自然に抱かれるというか」
「それはおれにもわかるな。自分と他という区別が無くなって、眺めている対象と自分が同一化するって感じだろ。誰かが言ってたように、見るものは見られるものだということが実感できる感じ」
「そうですね。ぼくは滝に打たれる経験をする前と後とでは、自然に対する感受性が変わってきましたね。うまく言えませんが、自然と波長が合うチャンネルが一つできたような気がするんです」
 次々と出てくる大皿に盛られたタイ料理を平らげていきながら、彼らは話し続けた。
「喫茶店での話を蒸し返すようだけど、安心の中で死のうと思ったら自然と一体になった状態が最適かもしれないな。江藤さん、レースの最中に一瞬で死ねるなら、そう悪くないんじゃない?」と広瀬が言う。
「そうですね。願わくば隣に可愛い人がいれば申し分ないですね」
「そりゃいいね。では江藤さんの理想の死に方をインプットしておこう」
「よろしくお願いします」
 そのときテレビ画面の上部左端に文字が現れ、右に向かってスクロールを始めた。臨時ニュースだった。
『本日午後三時半頃、口利きに伴う収賄罪で逮捕された○×△□衆議院議員殺害さる。詳細は不明。』

 さやと月香は、さやの部屋でクッキーをつまみながら紅茶を飲んでいた。室内にはFMラジオから軽快な音楽が流れている。二人の話題は、やはり今後のことについてだった。
 もう金銭に不自由はしない。金銭で手に入る大概の望みは叶う。さらに常識では考えられないような能力を身につけている。では、これから何をするのか。死を迎えるまでの日々をどう過ごすのか。あるいは、ただ死を迎えるのではなく、それに挑むのか。この能力を駆使して不老不死に挑んでみるのも一興かもしれない。
「そんな大層なことでなく、もっとわたしたち女性にとって役立つことに使えないかしら」とさやが言う。
「たとえば?」
「たとえば美容に。あなたには、まだ実感できないかもしれないけど、肌ってやはり衰えるから」
「しっかりと実感してます。してますよ」
「そう?」
「もう二十七ですよ」
「もうじゃなく、まだでしょ」
「さやさんだって、そんなにきれいな肌してるじゃないですか」
「化けてるのよ」とさやは胸の前で両手を垂らした。
 月香はそれを見てクックッと笑い始め、笑いが止まらなくなった。
「ねえ、笑ってないで聞いてよ。イメージの力で、なんとかならないかしら。老化のメカニズムを調べて、細胞を活性化させるかなんかしてさ」
 しばらく笑っていた月香は、ようやく笑いが収まり、さやに言った。
「老化についての本を前に読んだことがあるんですが、問題はDNAに老化のプログラムが組み込まれているかどうかなんです」
「老化のプログラム?」
「一個の細胞が、その中にあるDNAの設計図に従って細胞分裂を繰り返し、最終的にはある一定の形になるわけですよね。だから最初の細胞からみると成長しないことには役目は果たせないことになる。成長するって結局は老化していくってことだから、老化のプログラムは予めDNAの中にあるのでしょう。
 でも今話題に上がっているのは、ある一定のところで老化の足踏みをさせられるかということですよね。誰も一生幼児のままでいようとは思わないはずだから。要するに女として一番美しいと思える時点で、成長というか老化をストップしたいわけじゃないですか。だから、そのようにDNAのプログラムを書き換えればいい。問題はそれをイメージの力でできるかどうかってことかな。
 ところで、細胞はあたしたちが生きている限り、常に分裂を繰り返して生まれ変わっていますよね。一つは死に、新しい一つが生まれる。でも全く新たな個体になるのではなく、全体としてはある一定の個を保っている。それはもちろんDNAにプログラムされているのでしょうけど、全体としてある一定の個を保たせている力って、いったい何でしょうね」
「それは個々の細胞に宿った魂の力かもしれないわね」
 結局いつも魂の問題にふれることになるんだ、とさやは思った。
「では」と月香が訊く。
「魂って、いつの段階で宿るんでしょう。卵子が受精したとき? 子宮の中である程度まで成長したとき? それとも、もっと前の段階で? つまり、まず魂がやって来たから受精したとか。うーん、わからない。あったま痛くなってきました」
「魂のことは、わたしもよく考えるのよ。でも、ちっとも結論がでないの。あなたの言うように、あったま痛くなってくるわ」
 さやは月香と顔を見合わせて笑った。
「でも月ちゃん、あなた博識ね」
「とんでもないです。あたしみたいなのが博識といわれた日には、博識が悲観して自殺しちゃいますよ」
 二人はさらに笑い転げる。
 さやの部屋から見える窓の外は、光の色合いが徐々に移ろって、夕方と呼ぶには少々早いくらいの時刻になっていた。
「月ちゃん、たまにはワイドショーでも観ようか。博識になるわよ」
 さやはリモコンを取り、テレビをつけた。いきなり現れた画面では、レポーターの男が興奮した声で喋っていた。
 詳しいことはまだわかっていませんが、議員が警察署内で殺害されたのは、ほぼ確実とみられています。警察は、現在状況を把握中なのでコメントできない、と発表していますが、それにしても前代未聞のこの事件の真相は、いまだ厚いベールに覆われたままです。
 さやと月香は互いに相手の目を見ながら、何か言いたそうで言えないといった表情をした。さやはリモコンを操作して他のチャンネルに変える。警察署の前に大勢の報道陣と野次馬が詰めかけていた。今度のレポーターは女性で、甲高い声を不自然にひそめながら喋っている。
 これは正式に発表されたものではありませんが、議員はどうやら首を切られて殺害された模様です。ただ、不思議なことに首の行方がわかっていないとの、これは未確認情報ですが、そういった噂も飛び交っているようです。以上、現地から中継でお伝えしました。
「偶然ではないわね」とさやは月香に言った。
「普段ほとんど観ないテレビを、あなたと一緒に観る気になったのは」
「どういうことですか?」
「何か感じるのよ。この一見猟奇的な事件の裏にはきっと何かあるわ」
「なにかって?」
「うまく言えないわ。でもあえていうと、このことで歴史の流れが大きく変わったという気がするの。どう変わったのか、光へか、闇へか、それはわからないけど」
 さやはテレビを消して携帯電話を手に取った。広瀬にかけたが電話にでない。さやは、
監視されてるようで不愉快だから携帯電話なんか持ちたくない、という広瀬を説得して持ち歩いてもらっていた。ふらりと出かけたまま何日も帰らない性行のある広瀬に、かつて急な用事があったときに連絡が取れなくて往生したことがあった。留守番電話サービスには申し込んであったが、彼がわざわざ聴くとも思えなかった。
「まあいいわ。後でまたかけてみる」とさやはテーブルの上に電話機を置いた。
「広瀬さん?」
「うん。でないから、またあとでね」
「急用ですか?」
「さっきのニュースの件で彼と話がしたくて。あの人まだ知らないんじゃないかしら」
「今日はどちらに?」
「たしか新宿で人に会うって言ってたわ。滝のときに知り合った人らしいわ」
「女の人ですか?」
「さあ、どうかしら。どうして?」
「いえ、ただ訊いてみただけです。さてと、あたしは秘書室に戻ります。夕食のときにまた」
 月香がカップを片づけようとすると、いいわよ、後でわたしがやるから、とさやが止めた。ごちそうさま、と言い置いて月香は階下に降りて言った。
 さやはソファに座ったまま、事件のことについて考えた。さっきレポーターが言っていたのが本当だとすると、警察は当分の間報道管制を布くだろう。警察内で殺人事件が起こったということは、当然警察内部に容疑者がいる可能性もあるということで、しかも被害者を逮捕した矢先のことでもある。詳しい情報を入手するのは難しいに違いない。なにかいい方法はないものかと、さやは思案をめぐらせた。
 突然、テーブルの上の携帯電話が鳴った。急いで出ると、広瀬ののんびりとした声が聞こえてきた。
「連絡待ってたのよ」
 さやは、議員が殺された事件のことを知っているかと訊いた。広瀬は、今まで友人と話していたので知らないと答えた。さやはテレビで観た内容を話し、なぜだかわからないけど事件の詳細を知りたいので情報を集めて欲しいと頼んだ。広瀬は、今まだ一緒にいる友人は出版関係の仕事をしており、情報屋のつてがあるかもしれないから当たってみると言った。
「何かわかったら電話するよ。もしかしたら今夜はそちらに帰れないかもしれないから、おれのことは気にしないでくれ」
「わかったわ。気をつけてね」
 そう言って、さやは電話を切った。
 結局その日広瀬は戻って来なかった。さやは月香と二人で夕食をとった。専属コックが腕に縒をかけて作ってくれた。普段広瀬がいるときは三人でゆっくりと食事をする。
 半年前の奈良行き以来、月香はこの邸に住むようになった。それまでは都内のマンション住まいで、ここまで通勤していた。孔雀門前での事件は、さや、広瀬、月香の結びつきを強める方向に働き、月香は他の二人にとって大切な仲間になった。『イマージュ研究所』という看板はかかげていたが、対外的に営利活動をする必要はないので秘書の仕事もそう煩雑ではなく、研鑽に支障は来さなかった。それで月香は引き続いて、秘書的、事務的な業務に携わることになった。月香は邸の二階の一室をもらって彼女好みに改装し、プライベートな部屋とした。
 これで三人は各々の部屋を持ち、各々の役割分担もできたことになる。すなわち、さやが研究所所長、広瀬が主任研究員、月香が総務部長というふれこみである。第三者からみると、何をやっているのかよくはわからないが、何か知的な活動を行いながら優雅に暮らしている人たち、ということになるのだろう。
 夕食を終えたさやと月香はしばらく寛いでいたが、どうやら広瀬は今夜戻りそうにないので、早めに休むことにした。
 夕方から天気が崩れた空は、夜半になって雨を降らし始めた。イメージの物質化に成功し新しい一歩を踏み出した月香、何かが起こりつつある気配を敏感に感じ取ってナーバスになっているさや、そんな二人の眠る窓辺を、風を伴った雨足が一晩中叩いていた


      12

 新宿の高層ビルにあるホテルの一室で目覚めた広瀬は、ベッドから出てカーテンを開けた。窓の外は雨だった。もうすでに正午近かった。
 昨日さやと電話で話したときにはもう議員の死を知ってはいたが、どんな状況だったのかは不明だった。広瀬にしても詳細を知りたかったので、江藤に情報屋を紹介してもらい、警察が手元に置いている情報を何とか入手してくれるように依頼した。いつでも動けるように新宿に宿を取り、日付が変わるまで待ってみたが、情報屋からの連絡はなかった。やはり相当手こずっているのだろう。いずれにしても夜が明けてからの話だと判断し、午前二時頃ベッドに入ったのだった。
 広瀬はシャワーを使ったあと、ルームサービスの食事を頼んだ。この時点で初めて新聞をチェックしてみたが、議員殺害に関する記事の内容は、予想通り不自然なほど情報が少なかった。恐らくテレビでも同じことだろう。警察の動揺ぶりが伺えた。
 この事件の犯人は自分に間違いないと広瀬は確信していた。彼はどんな具合に自分の力が発現したのかを知りたかった。偶然の出来事ではあったが、いずれ何らかの形でこういったことは始まったような気がした。いよいよ時代が大きく変わり始めたのだと思った。
 広瀬がホテルで待機していると、午後遅くに江藤から電話が入った。ある程度の情報がつかめたらしい。広瀬は情報屋とホテルの部屋で会うことにし、その旨伝えてもらった。
 情報屋は一時間ほどでやって来た。彼は小林と名乗った。むろん本名ではあるまい。ずんぐりとした中年の男だった。広瀬は椅子を勧め、さっそく本題に入った。
「まず死因を聞かせてください」
「なんと名付けたらいいのか。頭部紛失によるショック死とでもいえばいいんでしょうかね」
 小林は戸惑った顔をしていた。
「頭部紛失ですか。具体的には?」
「つまり、こういうことなんです。昨日の午後から取り調べが始まりました。まあ一応現職の国会議員なので、特別に部屋が用意されたようです。部屋には議員を含めて五人の男がおり事情聴取が行われていたのですが、午後三時半頃ふっと議員の頭部が消えたらしいのです。頭を失った胴体は椅子に座ったままで、首からは血が噴出し続けたそうです」
「そりゃ凄い光景だな」
「そして不思議なことに、床にでも転がっているはずの頭部が見当たらないんです」
「どういうことです?」
「ですから忽然と消えてしまったということです」
 なるほど、と広瀬は心の内で頷いた。まあ予想していたことではあったが、実際にこうして確認できたことは大きかった。
「そんなホラーじみた話が本当にあるんですか? ホラーじゃなくて法螺を吹いているんじゃないでしょうね」
「とんでもありませんよ。確かな情報です。これでも苦労したんですよ。カネも随分使ったし」と小林は少々ムキになって言った。
「冗談ですよ。あなたの情報収集力を信用しますよ。お礼もきちんとさせてもらう」
「そりゃどうも」と小林はほっとした顔をした。
「しかし、警察も大変だなあ。そんな話が世間に通るはずもない。暗殺を主張するにしても場所が場所だけに」
「そうなんです。当局は苦慮していると思いますよ」
「小林さん、あなた自身は、この荒唐無稽な話を信じるんですか? 頭が突然消え失せたなんて話を」
「そりゃまあ、実際にこの目で見たわけじゃないしねえ。あ、でも情報自体は確かですからね」
「もし仮にですよ、この話が本当だとする。人間の頭が急にこの世から消えてしまうとする。あなたはどんな動機と方法で、そんなことが可能だと思われますか」
 広瀬は、世間一般の人間がこのことについてどう思うのかに興味があった。
「うーん。そうですねえ。動機については、まず恨みですかね。あと殺し屋の仕事とか。そうだ、こんなのはどうですか。殺されたのは逮捕されるようなことをしでかした国会議員でしょ? つまり公僕たる者がすべきでない行いをしたということで、天誅が下されたとかね」
「ほお、それはなかなか面白い見方ですね」
 広瀬は小林の言葉にぴんとくるものがあった。
「では次に、殺人の方法についてはどうですか」
「それは私の手には負えませんよ。ミステリーの専門家にでも謎を解いてもらわなきゃね」
「そうですね。密室殺人の謎とかね。でも、もしあなたの言うように天誅が下されたとしたら、下した者は人間ではなく神だとしたらどうです?」
 小林は一瞬きょとんとした顔つきで広瀬を見た。
「神ですか」
「いやまあ、神でなくとも鬼でもいいんですが。つまり大いなる存在によって天罰が下されるってことですよ」
「それなら不思議はないですかね。突然に頭が消え失せたりしても」
 小林の表情が不安げになったので、広瀬はこのあたりで切り上げることにした。
「いや、小林さん、ちょっと冗談が過ぎました。真相究明は世界一優秀だと評判の日本警察にまかせましょう。どうもいろいろお世話になりました」
「いやどうも。あのう、あなたは本か何かお書きになってるんですか?」
「まあそんなところです。ちょっと心惹かれたものですから。これは改めて言うまでもないことでしょうけど、あなたが何らかの情報を私に提供したということは決して漏らさないようにお願いしますよ」
 広瀬はそう言って小林に釘をさした。
「わかっております。どうぞご安心を」
「では謝礼を」
 広瀬は小林に相場よりかなり多めの金額を渡した。小林は何度も礼を言いながら帰っていった。
 広瀬は窓際に佇んで、雨のベールに覆われた空を眺めた。これで当面の為すべきことができたと思った。
 自分が殺した議員に対して同情はなかった。あの時もしテレビのニュースに登場しなければ、いや、もしおれの目に触れなければ、こんなに早く、こんな形で死ぬこともなかったかもしれない。しかし、もしは無意味だ。あれが、あの男の自分で選んだ人生だったのだ。
 あの男にも家族がいるだろう。家族のことはどうでもいいのか、という声が聞こえてきそうだ。しかし、家族の在り方は一様ではない。自分の夫が、父が、息子が、無惨な死に方をしたからといって十人が十人悲しむわけではなかろう。むしろ溜飲が下がる思いを抱くケースもあるのが人間関係ではないだろうか。そして、あの男のケースがどうであろうとかまわない、と広瀬は思った。
 あの男は苦しんで逝っただろうか。もしかしたら、未だ自分が死んだことを知らないのかもしれない。あの男の頭部は一瞬のうちに原子の単位にまで解体された。意識が脳のみにあるのなら、その時点で彼の意識は無に帰したはずだ。脳が瞬時に脳でなくなれば苦痛を感じることもないだろう。しかし、意識が首から下のどこかに宿っている場合は話が別になる。
 そしてさらなる疑問は、頭部が原子の単位にまで解体された時、魂と呼ばれるものも一緒に解体されたのか、あるいは肉体は霧散しても魂は残って、意識や情報を保ったままで未だ存在しているのか、ということだ。わからない。
 広瀬は急に空腹を覚えたので階下のレストランに出かけて軽く食べることにした。夕食は研究所に戻って、さやや月香と一緒にとるつもりでいた。二人とも連絡を待っているだろう。
 イタリアンレストランに入ると、広瀬はビールとピッツァを注文した。そういう時間帯なのか、店内は比較的空いていた。先に出てきたビールを飲みながら、彼は頭の中で今後の計画を練り始めた。
 広瀬は近々マスコミに流すつもりのメッセージの文章を考えていって、最後に差出人の名が要るなと思った。思った瞬間にスサノオという名が脳裏に浮かんできた。広瀬には、なぜそんな名が浮かんできたのかわからなかったが、なかなかいいじゃないかと使うことにした。
 あとは周知の方法だった。メッセージを流すのは一度きりにするつもりだった。Eメールやファクスよりも古典的な郵送という手段がいいように思えた。
 パソコンのワープロソフトで文を書いてプリンタで印刷する。同じく宛名を印刷した事務用封筒に四つ折りにして入れる。あとは都内の少し離れた地区で普通に投函する。一連の作業時には指紋が付かないよう手袋を着用する。テレビ局、ラジオ局、新聞社、雑誌社、インターネットの有力サイトなど複数のメディアに送付する。あとは徐々に天誅を実行しながら、事の周知徹底を待つことにしよう。
 食事を終えた広瀬は部屋に戻ってさやに電話を入れた。
「ずっと待ってたのよ」
「悪かったな。情報屋の情報収集が手こずったみたいで、ついさっき会って報告を受けたところなんだ」
「そう。お疲れさま。それで何かわかったの?」
「うん。今夜はそちらに戻るんで、その時に詳しく話すけど、議員は頭を無くして死んだようだ」
「というと?」
「首から上が消えてしまったのさ」
「あなた、まさか」
 電話の向こうで、さやが息を呑むのがわかった。
「そう、そのまさかなんだ。最初から意図してやったことではないがね。とにかく、もうじき帰るから」
「わかったわ。夕食は食べるでしょ?」
「ああ、今ちょっと腹に入れたけど、そちらに着く頃までにはこなれるだろう。じゃ、またあとで」
 広瀬は電話を切ってフロントに連絡し、チェックアウトすると伝えた。部屋を出るときに振り返ると、高層ビル群の窓に灯りがともり始めていた。一つ二つと増えていく小さな輝きはまるで四角いクリスマスツリーを想わせた。広瀬はエレベーターでフロント階まで下りて支払を済ませると、ホテルの玄関からタクシーに乗り研究所に向かった。

 広瀬の目の前には、さやと月香の目を見開いた顔があった。どう考えをまとめていいのか戸惑っているふうだった。三人一緒に夕食を済ませたあと、広瀬は食後酒を飲みながら、さやと月香に昨日と今日の出来事を話して聞かせた。タイ料理店のテレビで議員逮捕のニュースを観たこと、そのとき感じた思い、そして情報屋から聞いた話、そういったことを詳しく伝えた。
「それで」とさやが口を開いた。
「あなたはどうするつもりなの?」
「どうするって、自首するかってことかい?」
「まあ、それも含めてだけど」
「イメージの力で出来の悪い国会議員の頭を吹っ飛ばしましたって申し出るのかい? まあそんな荒唐無稽な話でも警察は大喜びするだろうけどな。なんせ署内で、逮捕した容疑者の頭が消えちまったんだから、どうコメントしていいのか四苦八苦しているだろう。今日の時点でも詳しい報道はされていないんじゃないか?」
「その通りです」と月香が言った。
「現在調査中というコメントが繰り返されています」
「おれはさ、今回のことで心に定まってくるものがあったんだよ」
 広瀬は二人を交互に見て話を続けた。
「おれは二年半以上前にアズロと遭遇して、イメージの力を使う能力を得た。そしてさやと出会い、月香とも出会って、二人にも同等の力を持ってもらうことができた。これがどういうことを意味しているのかは、わからない。ただ、こういう現実があるのは確かだ。
 おれたちはアズロを除けば今のところ三人しかいない仲間だ。少なくとも、おれはそう思っている。そして今のところと言ったが、三人以上にはならないという確信がある。おれたちはどういう因縁かは知らないが、出会うべくして出会ったと思っているんだ。おれは自分に選民意識を持たなきゃならないほど自信が無くはないんだが、やはり何らかの役割を負わされたかなという思いはある。誰に負わされたのかは知らないがね」
「役割ってどういうこと?」とさやが訊く。
「人間の生まれてくる目的は、シンプルにいうと、ただ生きて死んでいくだけのことだと思う。だけど、そのただ生きるときの、どう生きるかってところは千差万別だ。その千の生き方の中から、自分はせめてこれをやり遂げて、またはやり遂げようとしてこの生を終えたいと思えるものが、その人間にとっての役割じゃないかな。大抵の者はみな自分の役割というものを自覚してはいないようだが、無意識ではそれが知りたいんだよ」
「広瀬さん」と月香が突然言った。
「広瀬さんの役割って何ですか?」
「おれの役割は、地球の用心棒だよ」
「え?」
「要するに、おれの雇い主は人間ではなく地球だってことさ。だから地球の利益を最優先する。地球上のあらゆるものの中で、その構成員も含めての地球自身にとって害になる存在は駆除する役目を担っているのさ」
 広瀬はテーブルの上にグラスを置いた。
「もう、真面目に答えてください」と月香はふくれてみせる。
「広瀬は大真面目よ」
 さやはチェリーブランデーの入ったグラスを手にとって一口飲んだ。
「この人は場合によっては地上から人間を一掃しかねないわよ」
「そんな」
「月ちゃん、ほんとによ」
「それなら、あたしたちもですか?」と月香は広瀬に尋ねる。
「どうかな。月ちゃんはおれたち三人だけが生き残った地球を想像できるかい? 都市でも田舎でも建物には埃がしだいに層をなし、遠からず朽ち果てるだろう。なんせ掃除をする者がいないからね。雑草がはびこり、鼠が繁殖する。けど、おれたちは気候のいい土地に住むこともできるよ。予めそこに移動しておくのさ。気に入った家も建てておく。
 文明の利器は、ある程度は必要だろう。イメージを使ったエネルギー発生装置の開発が急務だな。当面は電力に頼るしかないのだろうから、太陽熱利用や風力などのクリーンな発電装置を設けておく必要がある。そして世界中の原子力発電所の機能を停止しなければならない。オペレイトする者がいなくなるからさ。
 移動する場合の交通手段はやはり車になるかな。今では電気自動車の優れたのがあるからそれでもいいし、ガソリンもしばらくは保つだろう。
 衣食住のうち、衣は既製服を大量に買い込んでおくか、布とミシンを用意しておく。誰が縫うのかは知らないけど。食は備蓄できるものはそうしておき、野菜などは菜園で育てることになる。
 こうして考えてくると、人類がいなくなる前に巨大なシェルターを造っておかねばならないね。資金はたっぷりとあるんだからさ。
 もう一度整理すると、気候と景観のいい場所に広大な土地を用意する。その中には発電所、水源地、食料貯蔵庫、生活物資倉庫、菜園、図書館、住居などを造る。土地の端には塀を巡らせ、害獣などの侵入を阻止する。備蓄食料は一応百年分用意しておくが、米や小麦を栽培するエリアを設けるのもいいかもしれないな。
 さて、ある一瞬で人類が消滅するとしたら、何を特定して解体するかにもよるけど、もし肉体のみを特定するなら、その瞬間には身につけていたものが床や地面に崩れ落ちる。入れ歯や金の詰め物やピアスや腕時計が落下して音を立てる。観ていたテレビが鳴り続ける。走っていた車や列車が暴走する。上空では飛行機が墜落するまで飛び続ける。キッチンではガスが点けっぱなし。ここからの火災発生が多発するだろう。火と原子力と毒が地球にとっての大いなる驚異だ。イメージの力によって、この問題には対処する必要がある。
 さあどうだい、月ちゃん。人間がおれたちの他にいなくなってこんな世界になるとしたら、それでも君は生き残りたいかい?」
 広瀬は月香をじっと見つめた。月香も視線を返してくる。
「あたし思うんですけど、何事にもバランスが必要なんじゃないかと。よく生態系のバランスが壊されるという言い方を聞きますけど、生態系というのは、ある地域に住むすべての生物群集と、それらの生活にかかわる水・空気・土・光などの無機的環境とを一まとめにして、相互に関連し合う一つの体系としてとらえたものですよね。そうすると、すべての生物群集の一つである人間がいなくなったら、生態系のバランスが崩れると思うんです。なぜなら、ある日突然人類がこの地球に現れたわけではなく、他の生物とのバランスを取りながら十万年も生き延びてきたのですから。
 このバランスというのは、何も食物連鎖など目に見える形のものだけじゃなく、エネルギー的バランスもあると思うんです。何十億もの人間のエネルギー体が一度に消滅したら、地球のバランスは大きく狂ってしまうような気がするんです。それともただ肉体が消え失せるだけで、エネルギー体は残るのでしょうか」
 月香は慎重に言葉を選びながら話した。広瀬とさやは、いささか驚いた顔で月香を見た。
「あれ? あたしって何か変なこと言いました? ちょっと生意気だったりして」
 月香が心配そうな声で二人に尋ねる。
「そんなことない。まったく月ちゃんの言うとおりだわ」
 さやはそう言って広瀬を見た。
「なるほど。地球上のすべてのものは相互に影響を及ぼし合ってるということか。何一つ、誰一人として傍観者でいることなんてできないんだな。バランスの問題はいいヒントをもらったと思ってる。ありがとう」
 広瀬は軽く頭を下げた。
「そんな大袈裟な」と月香は照れた。
「おいおい、話が脱線しちまったな。脱線させたのはおれだけど。えーと、自首するかどうかってことだよな」
「やっと思い出していただけました?」とさやは皮肉っぽく言った。
「自首などしないさ。それどころか、これをきっかけにやってみようと思うことがある」
「どんなこと?」
「馬鹿げたことだ。たぶん何の意味もないことだ。それは最初からわかっているのに、なぜかやってみたいんだよ」
「だから何をするの?」
 さやは少々苛立った言い方をした。
「天誅を下すんだよ」
 広瀬は、その大時代な物言いに自分で苦笑いをした。
「簡単にいうと、とりあえず政治家や公務員といった職業をリスキーなものにするんだよ。恐怖でもって、本来のあるべき姿である無私の精神を徹底させるのさ。つまり、ちゃんと真面目に仕事をしなければ自分の頭を失うんだ。予告もなしに。まったく癪にさわる話だよな。誰かに自分の命を左右されるなんて、おれだって頭にくるよ。でも天罰ってそんなものだろう。
 いったいどんな基準で罰に値するかどうかを判断するのか。それは判断する者の価値観による。単純な善悪でジャッジするのか。そいつが美しい生き方をしているかどうかで決めるのか。美しいといっても悪の美しさもあるからさ。それとも、もっと他の方法によるのか。本当は天罰は自分で自分に下していると思うけどね。そういうわけで、おれがジャッジの大役を引き受けることにしたんだ。傲慢なことだよな、まったく。しかし、最後には政治家や公務員のなり手がなくなるかもしれないな」
「わからないわ」とさやが言った。
「あなたの考えていることが、もう一つわからないのよ。月ちゃん、あなたわかる?」
 月香は、ちょっと考えてから答えた。
「広瀬さんは、この世というものを愛しているんだと思います。生まれてきて物心ついた頃からある、この世界。家族がいて、友だちがいて、街があり、川があり、花が咲き、雨が降る。空を見れば太陽があり、夜には月と星が輝く。これはいったい何だろうと思ったはずです。たぶん広瀬さんにとって、自分もその一員である人間とその他のものとは同等だと思うんです。これはもちろんあたしの勝手な想像ですけど。
 広瀬さんが成長するに従って、学校や社会などの共同体から強いられたことがあると思います。それは、まず人間との関わりを最優先にしなさいってこと。周りの人間とうまくやっていくことが何より望ましいということ。その考え方に違和感を覚えながらも何とか折り合いをつけてやっていて、ふと気づくと、人間はえらい勝手なことばかりしてるやないかと、あれ? 何で関西弁になるんやろ、とにかくそういった憤りを感じたと思うんですね。人間は自分たちの目先の都合で、明らかに自然を破壊している。ほんとは自分の首を絞めているということを実感しない。ほんまにアホや。だから広瀬さんは、人間も地球環境の一部に過ぎないのだから、その一部が全体にとって有害ならそれを取り除くまでだ、という考えを持つに至ったんだと思います。
 それと天誅のことですけど、馬鹿げたことで無意味だと言ってましたが、結局人間の本質は変わらない、と広瀬さんは思っていますよね。人間の中にはいろんな要素があって時に応じてそれが様々な形で出てくるけど、でも生まれつき心根の優しい人がいるかと思えば、無慈悲な人もいる。政治家になるような人は清濁あわせのむ度量を持っているのでしょうけど、油断すると濁の割合が多くなるのだと思います。
 広瀬さんは、志を持ってちゃんと仕事をしろ、卑しい心を持って公務に就くな、ということを世の中に徹底させたいんじゃないですか? 恐怖を持って」
「でも恐怖で物事の本質は変えられないと思うの。そして行われることは殺人なのよ」とさやは静かに言った。
 月香が口を開きかけると、広瀬がそれを制して言った。
「君とおれとは考え方の立脚点が違うみたいだな。おれは人を殺すのは悪だとは思わない。人間を殺すのと、牛や豚を飼育して食うために殺すのと、農薬を散布して雑草を殺すのと、いったい何が違うのかわからない。
 植物の中には殺すどころか、わざわざ育てて大事にされるものもあるし、動物の中にも家の中で大切に飼われるものもいる。人も同じように殺される者がおり、そうでない者がいる。すべて力のあるものが自身の都合で決めることじゃないのか。
 間引くという言葉を知っているだろう。特定の作物の発育を促すために間の苗を抜くことだが、それを人間に置き換えることもできるだろう。
 また、人間は戦争における殺人と、それ以外の殺人とを都合良く区別してる。大義名分があれば例外が許される程度の倫理なんて最初から破綻していると思うよ。人間が殺人をいけないこととしているのは、己や己が愛する者が殺されたくないからに過ぎない。憎悪する相手を殺したいと思うのは、人間の本性として当然のことではないのかな。
 これからおれはイメージの力を使って、少しばかり世の中を揺さぶってみようと思ってるんだ。さっき月ちゃんが言ってたバランスの問題をもっと突き詰めないと、人類抹殺もできないしな。
 もし、おれのやることが宇宙の理から外れているのなら、アズロがおれの能力を奪うと思う。おれはまた、ただの農園主に逆戻りってわけだ。このことも一つの判断材料になるんじゃないかな。
 アズロとは、いったいどんな存在なのか、どんな目的を持って現れたのか、おれたちがこれからやることによって少しずつわかってくるような気がする。君たちは君たちで考え、行動すればよい。万一お互いの考え方が了承できなくなったときは、その時だ。対立もやむを得ないだろう」
「わかったわ」
 さやは落ちついた声でそう言った。
「わたしはわたしの直観に従って行きます。あなたはあなたの、月ちゃんは月ちゃんの思うとおりに進んでいけばいいと思う。わたしたちは何かを試されているのかもしれないね。誰にそうされているのかは、わからないけど。
 わたしたち三人は、きっと魂の兄弟なのよ。たとえ誰かが死んでも、きっと残りの魂と一つになるから、悲しむことも怖がることもないような気がする。そういえば日本神話の中に有名な三兄弟がいるわ。月ちゃんの名前から閃いたのだけど、その三兄弟に例えて言うと、月ちゃんが月読命、あなたが須佐之男命、そしてわたしは天照大御神ということになるのかしら」
 広瀬は内心驚いていた。マスコミに流すメッセージの署名をスサノオとしたことを思い出したからだ。
「どんな神話なんですか?」と月香が尋ねる。
「古事記によれば、この三貴神は伊邪那岐命から生まれたらしいわ」
 さやは話を続けた。
 男女一対の神々である伊邪那岐命と伊邪那美命の二神は、高天原の神々の委任により日本列島を生み、ついで石・土・海・水・風・木・山・野・火などの神を生んだが、火の神の誕生により女神は亡くなる。男神は女神を慕って地下の死者の国である黄泉に降り、女神を現世に連れ戻すため黄泉の神と論議する間に、待ちかねて禁を破り遺体を覗き見てしまう。女神の肉体は腐乱して八種の雷神が化生しており、これに驚いた男神は、黄泉の国から逃げ帰ってしまう。女神は恥辱を与えられたと怒り、黄泉の軍勢と共に男神の後を追ったが、男神は黄泉の入口を岩で塞ぎ、この岩を隔てて女神と離別の言葉をかわす。黄泉から戻った男神はけがれを除くため禊祓し、その結果諸氏族の祖となる多くの神々が化生する。続いて左眼を洗うとき天照大御神が、右眼を洗うとき月読命が、鼻をすすぐとき須佐之男命の三貴神が現れ、天照大御神は高天原を、月読命は夜の世界を、須佐之男命は海原の支配を命じられた。
「へえ、面白い」と月香は興味を示した。
「じゃあ、あたしは月の神で、さやさんが日の神で、広瀬さんがスサノオか。ところでスサノオってどんな神なんですか?」
「日本書紀によると、この神は酷いことをしても平気で、生まれつき残忍なことを好む性質が備わっていたらしいわよ」とさやは広瀬を見ながら言った。
「あらあら」
 月香も広瀬を見る。
 さやは説明を続けた。
「しかも姉である天照大御神が支配する高天原で乱暴の限りを尽くしたので、怒った姉さんは天岩屋に隠れてしまった。するとこの世は暗闇となり大混乱におちいったので、八百万の神々が集まって祭りと神楽を行った。それで機嫌を直した姉さんは天岩屋から現れ、ふたたびこの世に光がもたらされた。スサノオは大祓を科せられて高天原から追放され、出雲の地に降り立った。それからあとは、八俣大蛇を退治したり、子孫とされる大国主神の国譲りを実現させたりと、まあいい行いをしているのだけどね。スサノオは出雲の神々の祖神であり、高天原では悪神とされたけれども、大祓いを経た後の出雲では、忠誠をつくす勇敢な善神へと生まれ変わったみたいね」
「ちょっと名誉回復ね。よかった」
 月香は嬉しそうに笑った。
「おいおい、おれと同一視するなよ」と広瀬も苦笑いする。
「次々と荒唐無稽な話が登場するなあ。なんだかおれたちの人生って凄くないか?」
「その凄い人生にわたしを巻き込んだのは、あなたよ」とさやが返す。
「あなたに会うまでは、地方の小さな町で平凡に暮らしてたんだから」
「そうだな。しかし、これも流れだよ。君にその流れに乗るだけのものがあったからさ。君はあのときまで、あの町で守られていたんだ。じっと機会を待っていたのさ。君にだって、何か違う、わたしはこんな所にいる人間ではないという根拠のない思いがあったはずだ。そうじゃなかったのかな?」
 広瀬はさやを覗き込むようにして言った。
「実をいうと当時何を考えていたのか、よく思い出せないの。たしかに生の充実感といったものが当時と今のどちらにあるかといえば、それは今だけどね。漠然とした不満感はいつもあったわ。月ちゃんはどうなの? あなたにも戸惑いがあるんじゃない?」
「あれよあれよという間に」と月香はおどけて言う。
「あたしは月の神になっておりました」
 さやも声を立てて笑う。
「まあでも、人生って何でもありかなとは思いますよ。高校出てアメリカ行きを選んだ時点で、あたしはたぶん本来の自分の流れに乗ったんだと思います。アリゾナでホピ族と過ごした体験を通して、あたしの視野や意識は宇宙的なものにまで広がった気がします。だから、きっと色んな意味で下地はできていたのでしょう。アメリカ行きがなかったら、さやさんや広瀬さん、そしてアズロとの出会いもなかったでしょうね」
「一つ素朴な疑問があるの」とさやが言った。
「あのね、なぜアズロは最初に広瀬の前に姿を現したかということなの。なぜ、わたしや月ちゃんじゃなかったのか。どう思う?」
 広瀬は思案顔で顎に手を置く。
「それはたぶん、おれが一番切望していたからだよ。おれはずっと同胞であるはずの人間に馴染めないものを感じてきた。人間以外のもの、自然や、植物や、動物、昆虫などが心を開ける対象だった。特に植物という種に、おれは癒されたんだ。相性が良かったんだろうな。同時におれは宇宙にも心惹かれていたから、その二つの興味が融合して、宇宙のどこかに存在するかもしれない植物的なものに会いたいとずっと願っていたんだ。
 それと、いつまでたっても愚かな行為を止めようとしない人間という種を、この地球上から一掃したい、そのための力が欲しい、とずっと思っていた。
 だから、アズロというのはまさにおれの悲願の現実化なんだよ。でもまあ、これはおれの推論にすぎない。おれだけではなく、さやや月香とも関わりを持ったということは、おれの悲願どころではないもっと大きな目的のために現れたのかもしれないな」
「謎ね」とさやが言った。
「その大きな目的って何かしら」
 月香は、普段よく動く瞳を宙の一点に据えてじっと考え込んでいたかと思うと、突然叫んだ。
「そうだ」
 さやと広瀬は、えっ? という顔をする。
「思い出したことがあるの。あたしがアリゾナに住んでいたとき、先住民であるホピ族の村をよく訪れてて、長老と呼ばれる老人たちからいろいろな話を聞いたわ。
 それはホピ族に伝わる神話で、それによると過去三つの太陽の時代があり、各太陽の下に栄えた世界は火、氷、水によって滅亡し、現在の人類は第四の太陽の世界にいるらしいのね。この四番目の世界が始まったのは約十万年前とのこと。
 各々の時代に人類は創造主への賛美を忘れ、次第に奢り高ぶるようになり、堕落と悪徳がはびこり、互いに争い殺し合った。創造主は新しい世界を創るために今ある世界を滅ぼした。ただ、選ばれし者だけが生き残った。こんな話なんだけど。さっき広瀬さんが言ってたことって、ホピ神話の創造主の行為と一緒じゃないのかな。
 でも、もし今度人類が滅びるならば、人類だけじゃなく他の生物も、もしかして地球そのものも共に滅びるような気がするの。それは、この前あたしが言ったようにバランスが崩れるからなんだけどね」
「しかし」と広瀬が言った。
「だんだん話が壮大になっていくぞ」
 さやが月香に言う。
「神話は決してただの作り話ではないと思うわ。世界各地の神話には共通した物語がたくさんあるみたいだし。ホピ族のも興味深いわ。月ちゃん、いい経験してきたわね」
「なんか色んなことが密接にリンクしていく感じですね」と月香が言う。
「さてと、そろそろお開きにしないか。なんだか疲れてしまった」
 広瀬は大きな欠伸をひとつした。
「じゃ、これで解散しましょう」
「お疲れさまでした」
 さやと月香は席を立った。
「あ、そうそう、月ちゃん、もしよかったら明日ちょっと手伝ってほしいことがあるんだ。事務的なことなんだが」
 広瀬は急に思い出したように言った。
「いいですよ」
「すまんね。よろしく。では、みなさんまた明日」
 三人は二階に上がり、それぞれの部屋に入った。それぞれの思いを胸に秘めて。


      13

 その日、岡田は朝の食事当番だった。調理室に行き、特製のワゴンに膳に入った朝食をセットしていく。ワゴンには膳を収めるための棚をいくつも設けてあり、それを引いて独房を回り囚人に配膳する。
 岡田がこの刑務所に配属されてから三年になる。その間、自分が担当した業務で特にトラブルを起こすような囚人もいなかった。しかし、今朝の仕事は気が重かった。最近移ってきたあの男と顔を合わすのが嫌だったからだ。
 あの男は小学校に乱入して児童を多数殺傷した。当然死刑が予想される犯行ではあるが、弁護団は心神喪失を理由に極刑を免れようとしていた。精神上の障害のため是非善悪を弁別できない者が殺人を犯しても罪に問われないというのは、どんな理屈をつけられても岡田には納得できなかった。
 その男と眼を合わせると奈落に吸い込まれそうな気分になり、いつも岡田は吐き気を催した。今朝もまたそれを味わされるのかと、彼は憂鬱になってきた。
 ワゴンを押して各独房を回り、小さく開いた口から一膳ずつ差し入れる。同時に室内の様子もチェックする。その男の独房は一番奥にあったから配膳も当然最後になった。膳を差し入れたあと男の様子を見ようとしたが、どうも気配が感じられない。ドアのところに設置してあるインターホンで呼びかけてみたが、返答がない。岡田は内線電話で応援を呼んだ。
 二人の同僚が来ると、すぐに岡田は鍵を開けて室内に入った。異様な生臭い匂いがする。見ると、密室にならないように下の部分が空いているトイレの床が赤黒いもので覆われている。そして、その中から二本の脚が立ち上がっていた。岡田は同僚たちを振り返って見たあと、トイレのドアを開けた。その男はズボンを膝まで下げて便器に腰かけていた。だが岡田には、彼がその男がどうか判断することができなかった。便器に腰を下ろしている男には首から上が無かったからだ。

 寺戸がインスタントコーヒーを飲みながら締切間近の記事を書いていると、山本が部屋に入ってきた。彼は寺戸と同じ県の出身で歳もけっこう近かった。
「おい、調べてきたぞ」
 そう言って山本は身近な椅子を取ってきて寺戸の横に座った。
「すまんな。で、何かわかったのか」
「わかったどころじゃないぞ。これはちょっと凄いよ。前代未聞の大スクープと言っても過言ではないほどの」
「おまえ前口上が長いんだよ。とっとと話さんかい」と寺戸は促した。
「わかった、わかった。やはり薬害エイズの責任を問われるべきだと一般的に思われている関係者は、業務上過失致死容疑で逮捕された者も含めて全員が発病していたよ」
「そうか。それでやっぱエイズにかかってたのか?」
「いや、それが奇妙なことに体内でそれらしいウィルスは発見されていないらしい」
「どういうことだ?」
「つまり免疫力はゼロになっているが、ウィルスはいないということ。言い換えれば、原因不明の理由でエイズと同じような症状になっているわけさ」と山本は腕を組んで言った。
「ということは、免疫という人体の防御能力が何らかの原因で発動しなくなったってことだよな」
「そういうこと。しかも原因がわからんから治療の仕様がない。遠からず全員が死亡するだろうな」
「皮肉なもんだな。自分たちが為したことの責任逃れに躍起になって、逃げ果せたかと思いきや、為したことが我が身に降りかかってくるなんてな」
 寺戸はそんなふうに言いながら、この事実を薬害エイズで死亡した遺族たちが知ったらどう思うだろうか、と考えていた。

 今日は、やけに忙しかった。矢吹は遺体安置室に鍵をかけると、エレベーターで一階に上がった。慣れているとはいえ、遺体の群れと一緒にいるのはやはりいい気はしなかった。特に、今日搬入された遺体は特殊だった。それも四体もあったから、いったい何が起きているのだろうと不安に駆られた。  
 詰め所に入ると、先輩の伊村が電話の応対に追われていた。矢吹は冷蔵庫からペットボトル入りの水を出して飲んだ。やがて伊村は電話を置いて大きな溜息をついた。
「まったく、どうなっているんだ。ここに電話されても、らちがあかないのに」
「どこからですか?」
「マスコミだよ」
「もしかして、今日のあの」と矢吹は顔をしかめた。
「そうさ」
「で、マスコミは何て?」
「それが、俺は知らなかったんだが、他でも同じような事例があったんだそうだ。ある記者が共通点に気づいて詳しく取材してみたら、やはりそうだったらしい。そして次々に同様の事件が起きているそうだ」
 伊村は、俺にもくれといって矢吹の持っている水の入ったコップを指さした。伊村は冷蔵庫を開ける。
「その共通点て、いったいどんなことですか?」
「少年法って知ってるよな」
「ええ、もちろん」
「成人だったらまず間違いなく極刑になるような犯罪を犯しても、少年法に守られて軽い刑で済んでしまう。この一連の仏たちは、そんな少年法で守られた事件当時未成年だった連中なんだよ」
 矢吹はそれを聞いた瞬間に、搬入された遺体のことを思い浮かべた。
 大きめのプラスチック製コンテナボックスが運び込まれ、蓋に黒の油性ペンで4体とかかれてあった。矢吹は、一体の間違いじゃないの? でも一体にしても小さすぎる容量だしなあ、と思いながら蓋を取った。中には透明なビニールに包まれた人間の首が四つ鎮座していた。

 顔の真横を灰皿が風を切って飛んでいった。すぐにガラスの割れるもの凄い音がした。灰皿が食器戸棚にぶち当たったのだ。
「なんだ、おどりゃあ、その顔は。親をなめやがって」
 酒焼けした顔を醜くゆがめて男が怒鳴り散らす。幸子は恐怖に身をすくめながら、ほんとの親じゃないくせに、と心の中で叫んでいた。
「幸子、はやく謝りなさい」と母親がいつものように言う。そのくせ、体を張って守ってくれやしない。
「聞こえとんのか? 聞こえとるんなら返事ぐらいせえ」
 幸子は、また今日も殴られるのかと思いながらも返事をせずに男を睨みつける。
「われ」
 男は言うと同時に幸子に近寄り、平手で頬を思い切りぶった。左の耳がキーンと鳴り、一瞬頬の感覚が無くなる。幸子は右方に吹っ飛んで、壁に激突した。右肩がいやな音を立てて潰れ、激痛が走った。
「わしを馬鹿にしとんのか」
 男は床にへたり込んだ幸子の頭を拳で数回殴ったあと、幸子を見下ろしたまま仁王立ちになった。
「馬鹿になんか」
 幸子はそう口にしながら心の中で、してるに決まってる、と罵っていた。まだ年端も行かない子供を暴力でしか扱えないような大人は、いない方がいい。お前なんか死んでしまえ。幸子は無言の叫びを上げた。
 幸子の視線を感じたのか、男はふたたび拳を振り上げた。そのとき男の額に赤い筋が現れ、その筋は鼻筋、顎、喉と下方に伸びていった。幸子は、なんだろう、あの赤い線は、と思いながら見ていた。すると男の体がふっと左右に分かれたかと思うと、そのまま床にどさっと倒れた。男の頭頂部から会陰部までが真二つに切断されており、重力によって二つの肉塊に割れながら床に崩れ落ちたのだった。
「ぎゃー」
 母親の気違いじみた絶叫が部屋から溢れ出し、町の中に漂っていく。

 ラジオのDJは、声のみで視聴者と向かい合っている。顔が見えない分、かえって声に含まれるたくさんの情報がダイレクトに伝わってしまう。だからこそ面白いんだと渡辺は思う。彼は東京近郊のFM局のDJだ。いま担当している番組は、視聴者からのリクエストに基づいた音楽番組である。なかなかの人気で、毎日たくさんのハガキやファクスやEメールが届く。渡辺の番組は夕方六時からの放送なので、日中はそれらの整理に追われる。
 ある日、渡辺が机に着いて放送の準備をしていると。アシスタントの美加がハガキの束を持ってきた。
「ナベちゃん、たくさん来てるわよ」
「サンキュー」
「なんかえらい地味な封筒も混じってたけど」
 美加は机の上に郵便物を置くと、もう一仕事あるからと言って部屋を出ていった。
「さてと」
 渡辺はハガキから目を通し始めた。いつも楽しく聴いてまーす、などのメッセージと共にリクエストの曲名が書いてあるのがほとんどだ。
 おっ、こいつはまだ中学生なのに、えらい渋好みだな。トラフィックのフリーダム・ライダーなんか何で知ってるんだろ。確かジョン・バレイコーン・マスト・ダイってアルバムに入ってたよな。OK、今日はこれ行ってみよう。
 あらかた見終わった渡辺は、最後に封書に手を伸ばした。宛名は印刷してあり、裏に差出人の名前は無かった。昨日の消印で都内での投函だった。封書はたまに届くが、今日はこれ一通だった。ハサミで封を切り、中身を取り出す。コピー用紙らしい紙に黒字で印刷してあった。
「なんじゃ、こりゃ」
 渡辺は思わず声に出して言った。
『日本国民に告ぐ。本来国民から公選され国民を代表して国政を議するべき任を負った者並びに本来公僕であるはずの者この者たちの私利私欲を肥やす姿公明正大さに欠けた姿勢の醜悪さには目に余るものがある。よって今後に渡って天誅を下す。該当者は心して公務に励まれんことを。次に理不尽でナンセンスな法を傘に着人権というものを履き違えて自分の外道な行為に責任を取ろうとしない輩がいる。人を故意に死に至らしめた者は己の死を持って償うべし。よって今後に渡って天誅を下す。また幼き者を教え導いて真っ当な成人にすべき義務を放棄したばかりでなく暴力を持って彼らを虐待する輩にも今後に渡って天誅を下す。日本国民よ気高くあれ。スサノオ』


      14

 大きな一枚ガラスの窓から見下ろす舗道を、乳母車を引いた若い母親が歩いている。日差しをさえぎるために乳母車には覆いがかけてあった。小綺麗なカフェの窓からそんな光景を眺めながら、さやは故郷にいる母のことを考えていた。広瀬と一緒に上京して以来、たまに電話で話すことはあっても顔を見てはいなかった。あれからもう一年半になるが、一度も帰郷していなかったからだ。お父さんと二人っきりになるのがちょっと早くなったね、とさやは思った。呑気に平和に暮らしていた頃が懐かしくはあるけれど、もう二度とあの日々には戻れないとわかっていた。この大きな変化が偶然なのか必然なのか、さやには判断がつかなかったが、逃げ出さずに向き合うことが自分の人生の本流を歩むことだという気がしていた。
「すいません。ちょっと遅れちゃった」
 声と共に月香がテーブルに近づいてきた。
「大丈夫よ。まだ時間あるでしょ?」
「ええ。約束は午後二時だから」
「じゃあランチしてから行きましょ。たしかここ食事もできるはずよ」
 さやはテーブルにあったメニューを手に取った。二人は本日のパスタとサラダとコーヒーのセットを注文した。
「でも、よく許可が下りたわね」とさやが言う。
「ええ。話の持って行き方がよかったんだと思います。そういうことなら喜んで、と執刀医が言ってました」
 月香は一足先に病院に行って根回しをしてきたのだった。
「そういう場合、患者さんの許可は要るのかしら」
「もちろん要ると思いますが、病院側が話をつけてくれたみたいです」
「そうなんだ。親切ね。きっと月ちゃんの感じが良かったからだわ」
「またまた冗談ばっかり」
 気持ちよく晴れた初夏の天気にふさわしく、月香はトレードマークのスリムジーンズにノースリーブを着ていた。だいぶ伸びた髪をポニーテールにしている。さやは薄いグリーンのワンピース姿だ。
「ねえ月ちゃん、あれからイメージを使う訓練は続けているの?」
「ええ、やってますよ。無機物に関してはけっこういけたんだけど、有機物はまだまだ難しいです」
「どの程度までできたの?」
「単細胞植物や単細胞動物、たとえばバクテリア、藻類・菌類の一部とか、アメーバ・ゾウリムシなんかのコピーには成功したんです。顕微鏡を覗きながら、イメージでコピーするんです。結局クローンを作るということなんでしょうけど、複雑な生物になると、やはり個体そのものをいきなり物質化するのは無理な気がします。まずある個体にイメージで受精させて、育てるのはその個体に任せるという方法になりますね。でも林檎の先例もあるしなあ」と月香は思案顔だ。
「林檎の場合は植物だし、形状からしてイメージし易いからでしょ、きっと」
 そこへ注文の品がきた。サラダとパスタが同時にテーブルに並んだ。二人は食べながら話を続ける。
「丸ごと物質化するって、どんなメカニズムでそれが行われるのかな」と月香が言う。
「たぶん林檎を構成する細胞の一個一個をイメージしていくのではないと思うの。たとえ林檎でも細胞の数は半端じゃないでしょ? だからトータルでイメージするんだと思うけど、いったいそんなことが可能だろうかと考えたの。これはわたしの仮説なんだけど、ビジュアル的にイメージするというよりも、林檎の持っている情報そのものをエネルギー的にイメージして物質化するような気がするの」
「なるほどね」
「だから、どんな情報を使うかによるよね。つまり漠然とした林檎という情報なのか、ある一定の、たとえば目の前にある林檎の情報なのかによって、現れる林檎は違ってくると思うわ」
 さやは話しているうちに、しだいに考えがまとまってくるのを感じていた。
「でも、たとえ目の前にある林檎でも、まるっきり同じ情報を抽出してコピーできるものなのでしょうか」と言いながら月香はフォークとスプーンで器用にパスタを口に運ぶ。
「そっくり同じ情報を取り出すのは難しいんじゃないかしら。なぜなら、どうしてもイメージの揺らぎが生じると思うから」とさやもフォークを使いながら答える。
「じゃあ、広瀬さんが物質化したという林檎も、見かけは似ているけどオリジナルとは違ったものなんですね」
「そうだと思うわ」
「てことは、動物や人間の丸ごと物質化なんてした日には、見かけはそのものでも中身は違うモンスターが現れる可能性が高いことになりますね」
「モンスターかどうかは別にして、中身が違うというのは100%そうだと思うわ」
「やはり創り出すってことは大変なことなんですね。壊すのは簡単だけど」
「そうね。生物の発生一つ取ってみても、気の遠くなるような長い時間がかかっているしね」
 パスタを食べ終えた彼らは、食後のコーヒーをブレンドからカプチーノに変えてもらった。
「さやさんの方はどんな感じですか?」
「わたしのエクササイズ?」
「そうそう」
「今日の見学を思い立った理由でもあるんだけど、イメージの力を医療に使えないかなと思っていろいろ試しているの」
「具体的に何か成果はありました?」
「さっき月ちゃんも言ってたけど、細胞の解体と生成が可能なら、かなり医療の役に立つと思うのね。たとえば癌細胞の解体ができれば、患部をレーザーで焼いたり抗癌剤で押さえ込んだりせずに済むでしょ。それからウィルスね。これは画期的なことになるわ。エイズなども撲滅できるわよ。あとはイメージのメスで手術ができるかな。解体できるということは、その箇所をイメージで限定してやれば鋭いメスで切り取るのと同じだからね。
 細胞の生成に関しては、皮膚や臓器の一部、網膜など人体の中で治療に必要な部分の組織を作るということよ。細胞同士の拒絶反応がでないようにコントロールできれば、素晴らしい成果を上げると思うわ。
 あと、可能性は無限にあるわね。神経細胞や免疫システムなどにも働きかけられるはずだし、もっと言えば魂への影響も考えられる。精神病全般への治療効果が期待できると思うわ」
 さやは一気に喋ると、カプチーノの泡で唇を濡らす。
「なんだか夢が広がりますね」と月香は微笑んだ。
「でもね、ものごとには両面あるから、いま挙げたことは、そっくり武器にも使えることになるわ。きっと究極の武器になるわね。そして生成よりも解体の方が容易だということであれば、極端な話、地球そのもの、いいえ全宇宙そのものを無に帰せれるかもしれない。宇宙は自らが生み出した存在によって消滅するのよ」
 さやは、自分から出た言葉でありながら、その発想に驚いていた。宇宙は人間の脳の中にあり、その人間はさらに大きな宇宙の中にあり、その宇宙はさらに。
「さあ月ちゃん、そろそろ行きましょ。少しあたりを散歩してもいいし。爽やかな午後じゃないの」
「いいですね。じゃあ少し歩いてから院内に入りましょうか」
 月香はレジで支払を済ませ、さやと共に舗道まで下りた。思ったより日差しが強くて、二人は眩しさに目を細めた。肌に心地よい風が吹き抜けていった。彼らはゆっくりと歩き始めた。

 服を脱いで手術着に着替えたさやと月香は、看護婦に控え室から手術室へと案内された。手術はすでに始まっており、二人は邪魔にならない程度の距離を保って見守った。
 今日のオペは肝臓癌の摘出手術だった。男性の腹部が開かれており、執刀医の持つ鋭いメスの先端が手術灯の光に一瞬キラッと輝いた。
 さやは目を閉じた。手術の様子を見るのが怖いのではなく、精神を集中させて患者の体を探ってみるつもりだった。
 肝臓に意識を持っていくと、癌に冒された患部がわかった。さらに全身に意識を廻していくと、何ヶ所かに転移が見つかった。さやは研究所にいるアズロに意識をシンクロさせてから、転移した癌細胞をすべて解体した。それらの細胞は意識の視界からふっと消滅した。また肝炎ウィルスに感染していると聞いていたので、それを特定して解体した。続いてさやは肝臓の細胞に意識を向け、その細胞のサンプリングを始めた。今回の手術で切り取る部分に補填するつもりだった。
 やがて執刀医が患部を切除した。トレイの上に赤黒い塊が置かれる。目を開けてその大きさを確認したさやは、開腹部が元に戻されたのを見届けたあと、まず肝臓の縫合部をイメージのメスで切り開き、次いで肝臓の細胞を物質化して補填した。拒絶反応を用心してしばらく様子を見ていたが、問題なさそうだった。
 手術は無事終わり、さやと月香は執刀医を始めスタッフに丁寧に礼を述べて病院を後にした。
 あたりはもう黄昏れており、夕風が立っていた。二人はタクシーを拾って帰途についた。
「どうやら、たくさん成果があったみたいですね」
 タクシーの後部座席に並んで座りながら、月香がさやに話しかける。
「そうなの。すごく自然な感じで、やろうとしたことは全部できちゃった」
「消してしまったんですか?」
 運転手の耳がある手前、月香は言葉を選びながら尋ねた。
「目を閉じていると、問題の箇所がわかったの。数ヶ所に分散していたから、みんなまとめてね」
「すごいな」
「あと、細胞をサンプリングして、拒絶反応に気をつけて補填したのよ。うまくいったわ。それと」
「まだあるんですか」
 月香は興奮気味に言った。
「ウィルスをね、たぶんC型だと思うけど」
「それは凄すぎます」
「でもね」
 さやはしばらく言葉を探していた。
「でも、うまくいって逆に問題が浮き彫りになったの」
「問題ですか?」
「そう。誰がこの力を使うの?」
「えっ?」
「カフェにいたときにも話したけど、万能の薬は同時に万能の毒でもあるのよ。高い志を持って使わないと、この世は地獄になるわ」
「そうかあ」
「今日わたしが試したことは、広く世間に広まってこそ意味があることよ。たかだか三人の人間が使えるのでは駄目なの。でも、誰にでも使えるとなると、これまた問題でしょ?」
「間違いなく兵器に悪用されますね」と月香は断言した。
「結局さ、とても残念なことだけど、今の人類の魂のレベルでは使いこなせないのかもしれないわね」
 二人の話はしだいに熱を帯び、もう運転手のことなど気にしなくなっていた。しかし、運転手は熱心にカーラジオに耳を傾けていた。
「じゃあ、どうしてあたしたちだけが?」
 月香は事の重大さに初めて気づいたかのように言った。
「大いなる謎ね。一番わからないのはアズロという存在よ。彼はいったい何なの? だって、イメージの力が使えるのも彼のサポートあってのことだから」
 さやは、アズロのことは改めて考えてみなくては、と思った。
「アズロが、あるいは彼の背後にいる何者かが、あたしたちを試しているのかしら。あたしたちの魂のレベルを計ろうとしているのかな」と月香は首を傾げる。
「いま思ったんだけど、わたしたち三人にもし役割があるとすれば、あるいは役割を負わされているとすれば、それは人類の魂のレベルアップを促すということじゃないかな」
 車窓から、点り始めた街の灯を見るともなしに眺めながら、さやは言った。
「そのためにイメージの力を使う能力を持たされたということでしょうか」
「もしそうだとして、いったいどんな方法でそれができるのかしら。広瀬は自分のやり方でやると言っていた。わたしはどうすればいいの? 月ちゃん、あなたはどうするの?」
「わかりません。でも早急にそのことを考える必要がありますね」
「そうね。帰ったら広瀬とも話したいわ」
「広瀬さん、ここんとこずっと部屋に籠もりっきりですよ。集中して何かをしているみたいです」
「そういえば、数日前に何か手伝ってあげたんじゃなかったっけ?」
「ええ、マスコミ関係の住所をリストアップして、封筒に宛名を印刷して、切手を貼った状態で渡しました」
「マスコミ関係って、たとえば?」
「新聞社、出版社、テレビ局、ラジオ局、インターネットの有力ポータルサイトなどですね」
 月香は指折り数えて答えた。
 タクシーは甲州街道を都心から遠ざかっており、遠からず目的地に着くはずだった。カーラジオでは音楽番組が終わって、ニュースが始まったところだった。
 先日来多発している殺人事件に関係していると思われる怪文書がマスコミ各所に届いており、警察は事実確認を急いでいるとの発表を行いました。なお、多発している殺人事件の詳細についてはまだ明らかにされておりません。
 さやと月香は顔を見合わせたまま、アナウンサーの声に聴き入っていた。やがて月香がさやの耳元で囁いた。
「封筒を用意したとき、薄いゴム手袋を着けるように言われたんです。決して素手で触るなと」
「とにかく帰りましょう」
 さやはそう言って前方に向き直った。
 彼らは念のために帰路の途中にある私鉄の駅でいったんタクシーを降り、そこで客待ちをしていた別のタクシーに乗り換え、二手に分かれて帰宅した。さらに直接研究所に乗りつけず、手前で車を降りた。タクシー内の会話から万が一足が付くのを用心してのことだった。
 研究所に着くと、広瀬は在宅していた。ちょうど食事時だったので三人は夕食のテーブルを囲んだ。いつものようにコック長の中川が暖かい食事を出してくれた。
 彼と彼のスタッフが、さやたちの専用コックとしてこの邸に通うようになってもう一年になる。さやは中川から食というものの奥深さと楽しさを教えてもらったと思っている。彼の、誠実で穏やかな人柄とバランスを取るような味に対する先鋭さは、ある意味官能的であり、さやのみならず月香にとっても広瀬にとっても満足のいくものだった。
「では、ごゆっくり」
 食後のデザートとコーヒーを出し終えた中川は、そう言って席を外した。
「で、どうだったの? 本日の成果は」
 広瀬がコーヒーを飲みながら話の口火を切った。
「あら、あなた知ってたの?」とさやが言う。
「知ってますよ。君らの行動は、ちゃんと把握してますよ」
「それはそれは」
「それで?」
 さやは、肝臓癌の手術を見学し、イメージの力を使って一定の成果を上げたことを広瀬に話して聞かせた。
「まあ大体こんなところよ」
「うーん、大したものだ」と広瀬は心から感心して言った。
「ほんとに」
 月香もしきりに頷く。
「なに言ってるの。わたしができるということは、あなた達もできるということよ。いま話したイメージのメスなんて、あなたにとっては朝飯前じゃないの?」とさやは広瀬に訊いた。
 広瀬は曖昧な表情を浮かべたが、すぐに、できるよ、と言った。
「広瀬さん知ってますか? 怪文書の件」
 突然に月香が切り出す。
「カイブンショって何だ」
「さっき帰りのタクシーでラジオが言ってたのですが、マスコミ各所に、最近多発している殺人事件に関連があると思われる怪しい文書が届いてるらしいです」
「ほお」
「単刀直入に訊きますけど」と月香は身を乗り出して言う。
「あたしが切手を貼った封筒が怪文書に化けちゃったんじゃないですか?」
「そうだよ」
 広瀬はあっさりと認めた。
「やっぱり」
「どういうことなの?」
 さやは、これは今夜はじっくりと話さねば、と思いながら訊いた。
「わかったよ。実際にその怪文書を見てもらった方がよさそうだ」
 広瀬は二階に上がり、自室からその文書を二通持ってきて二人に手渡した。日本国民に告ぐ、から始まるその文章を、さやと月香は各々で読んだ。
「これは」と二人とも絶句した。
「始めに書いてあるのは例の国会議員のことでしょ?」と月香が訊く。
「まあね。あの議員をはじめとする、すべての公職にある者が対象になる」
「次のは具体的にはどういうこと?」とさやが尋ねる。
「小学校に乱入して児童を殺傷し、心神喪失を理由に無罪を主張している男と、薬害エイズを引き起こした輩、そして少年法に護られて極刑を免れた奴らだよ。そして彼らをはじめとする、すべての該当者が対象となる」
「では最後のは児童虐待者が対象ということですよね」と月香が念を押す。
「そうだ。今後は児童に限らず、妻なども含んだドメスティック・バイオレンス全般を扱うつもりだけどね」
「でも前者は具体的な対象が特定できるけど、児童虐待をしている者はいったいどうやって特定するんですか?」
「うん、それなんだが、実際成果が上がったのかどうかはわからないんだ。前者の場合は手応えがあったんだけどな。やり方としては、まあいわば自動操縦みたいなものさ。まず最初にプログラムを組むんだ。そしてプログラムを発動させるためのセンサーをイメージで日本中に張り巡らせておく。センサーは、被虐待者が発する、助けを求める精神エネルギーをチャッチする。次いでプログラムが発動して、その現場にいる加害者を特定し、処罰するというわけだ」
「どんな方法で処罰したの?」
 さやは心の準備をしながら訊いた。
「さっき君が指摘したとおり、イメージのメスを使って頭頂部から会陰部まで真二つに切断するんだ」
 さやはそれを聞いて、じっと広瀬の目を見つめながら更に尋ねた。
「その前のは?」
「頭部解体と免疫システムの破壊、それに頭部を除く身体部分の解体だ」
「あなたは殺人者よ」とさやは言った。
「奴らが果たして人と呼べるかどうか疑問ではあるがね」
「これからも続けるつもりなの?」
「そのつもりだ。正邪合わせたものが人間ならば、できるだけ邪の部分で生きないように抑止力を働かせることは必要だと思うからね。その抑止力がたとえ恐怖であろうと」
「でも、当初は人類抹殺を考えていたあなたが、なぜそんなに人間に肩入れするの?」
 さやには、そのことが不可解だった。
「肩入れというわけではないんだ。ただ興味があるだけさ。事の成り行きのね。強欲であったり、面白半分に人を殺したり、理不尽な暴力を振るったり、そんな行為が必ず死につながるとしたら、いったい人間はどう振る舞うのだろう。死にたくないから仕方なく無欲になり、優しく思いやり溢れる人間になろうとするのだろうか。それとも天誅ぎりぎりの場所で、やはり欲望を追求しようとするのだろうか。おれは急にそれを知りたくなったんだ。
 それに月ちゃんが言ったように、エネルギーバランスの問題で、人類以外の生物や地球そのものまで人類の道連れにするわけにはいかないからさ。いろんな意味でもう少し様子をみることにしたんだよ」
 広瀬は淡々と説明し終わると、冷めかけたコーヒーに口をつけた。
「わたしは、その計画は容認できないわ」
 さやはそう言うと、月ちゃんはどう思うの? と訊いた。
「あたしは、やはり人を殺すのって抵抗があります。特に広瀬さんには、そんなことをしてほしくない。でも反面、広瀬さんの天誅対象者への思いって、平凡に生活している普通の人たちの憤る気持ちを代弁していると思うんです。殺人はいけないことだと表明するのなら、それにふさわしい世の中を実現させるよう人類みなで覚悟をもって取り組まなくてはならない筈なのに、実際にはあらゆる詭弁をもって殺人は行われていますよね。
 正直なところ、人間の本質が100%の性善説に立てないものなら、大いなる力によって悪の要素を抑制するという考え方もわかる気がするんです。自業自得というのは、ありだと思います。天罰を下す者が人間だから罪に問われるとしたら、下すものが神ならどうなのでしょう。その場合は、自業自得だからやむを得まいということになるんじゃないかな。おかしいですか? こんな考え方は」
 月香は、あたしってこんなに理路整然と意見を述べられる人だったっけ? と自分で驚いていた。
「おかしかないさ」と広瀬が言った。
「おれの考えも、ある程度わかってくれてるみたいだな」
「わたしだって気持ちはわかるのよ、もちろん」とさやも応じる。
「でもやはり、いかなる理由、事情があっても殺人を肯定するわけにはいかないわ。肯定すれば、人間が人間でなくなってしまうから。動物のように本能のままで生きるのが許されるなら、人間とて弱肉強食、優勝劣敗の価値体系に組み込まれるでしょうね。だけど人間は動物ではないわ」
「あのさ」と広瀬が話を受けつぐ。
「人を殺すのが目的ではないんだ。ただ、死ぬという方がそうでない場合よりも感じる恐怖の度合いが強いだろうから、目的達成のためには効率がよくて合理的だと思うからなんだ。もし、決して命は奪わないから、と言えば、君は容認してくれるのかい?」
「ある特定の者が暴力で他者を支配したり操作したりすることは傲慢で野蛮なことよ」
「言葉を返すようだが、まさにそのことがこの世界で行われているんだ。弱者を守る者は誰もいない。弱者は弱者を守れない。弱者を守れるのは志を持った強者だけだ。いったい誰が日々の暴力に苦しむ子供を救ってやるんだ。志の高い大人を一人でも増やすためにも、悪党どもを野放しにしておくわけにはいかない。流れを変えるには、少々の荒療治は致し方ないと思うが」
 ここで話が途切れ、彼らはしばらく黙ったまま各々の物思いにふけっていた。夜が音もなく通り過ぎて行った。やがて、長い沈黙をさやが破った。
「イメージの力を使って人間を殺傷することは、やはりどう考えても容認できないわ。きっと他にも方法があるはずよ。わたしはそれを見つけるわ」
 さやは広瀬と月香を見つめながら言った。強い意志を秘めた口調ながら、深い悲しみをも内包していた。
 広瀬はそれを聞くと黙って立ち上がり、さやと月香を一瞥したあと部屋を出ていった。月香も少し遅れて立ち上がり、さやに一礼すると広瀬の後を追った。
 さやは宙を見つめたまま椅子に座って長い間じっとしていた。とうに夜半を過ぎ、朝の光の訪れるまで。


      15

 警視庁はマスコミ宛に送られてきた怪文書の全文を公開し、一連の殺人事件を狂信的な個人または何らかの団体組織による計画的な犯行と断定した。そして広く国民に情報の提供を呼びかけた。現時点では何の手がかりも得られていなかった。
 マスコミはこの事件を連日のように扱い、テレビのワイドショーや週刊雑誌などでは何度も特集が組まれた。スサノオの行動を快挙だと喜び、溜飲を下げた者も少なくなかった。そして文書の内容を分析し、次は誰の番だろう? と予想する記事や特番まで現れる始末だった。
 その後も不定期に犠牲者が出たが、死者の割合は減っていった。しかし、考えようによっては死よりも痛ましいダメージを受けていた。犠牲者の男女比率は男性の方が高かった。
 死亡以外の一例としては、目が見えず耳が聞こえず言葉が喋れなくなる三重苦、男根の消失、四肢の消失などがあった。
 国会議員や官僚で辞職する者が相次いだ。公僕としての役目を果たしていないと自己評価したということになろうか。
 また、児童虐待やDV、学校でのイジメのなどの発生件数も激減した。誰も自分の命を賭してまで、そういった行為をする者はいなかったのである。
 しかし、殺人事件が無くなったわけではない。自分も死んでもかまわないから相手を殺したいと思う、そんな状況におちいっている人間は、やはり世の中にはいるものだ。
 とはいえ一般的には、このスサノオの監視の視線は犯罪の抑制になった。誰も自分が可愛いのだ。たとえ死の危険があろうと、悪行と判断されようと、自分がやりたいからやるというほどの絶対悪の持ち主は、そうそういやしない。もっとも、善も悪もただの概念にすぎないのだが。
 警察はスサノオからの次の連絡を待ったが、最初の文書が届いて以来コンタクトは無かった。日本国民よ気高くあれ、という文から右翼団体が徹底的に調べられた。スサノオという名から、神道関係者および須佐之男命を祭神とする全国の神社が捜査の対象になった。しかし、警察は為すすべを知らなかった。仮に容疑者が捕まったとしても、第一物的証拠が無かった。
 この一連の事件は大きな社会的混乱を招いたが、社会全体が恐怖におののいたというわけではなかった。テロのような無差別殺傷ではなく、社会常識的な行動を取っているうちは何の問題もないということが周知されたからだ。
 ある意味、人間の行動をこのような大いなる力のコントロールに委ねることは楽なことだった。たとえそれが恐怖によるものだとしても、その審判の基準が理不尽なものでない限り、安心して任せることができるだろう。人として真っ当に生きるということが決して損なことではないと思えるだろう。歴史上このような状況を実現させた存在が果たしていただろうか。
 日本におけるこのような状況は他の国でも話題を呼び、各国から取材記者が続々と来日した。自分の国にもスサノオが現れて腐り切った世の中をまともにして欲しいと発言する記者も多かった。

 さやは、こんな世の中の反応をしばらくのあいだ観察していた。犠牲者のうち死者の割合が減ったことに、広瀬の思いを感じた。実際に犯罪激減などの効果も現れているようだった。しかし、さやはどうしても彼の行動を支持することはできないと思った。なぜなら、それは宇宙の流れから逸脱したことのように感じられてならなかったからだ。
 人類は歴史において神という存在を認識し崇めてきた。だが、神は一度として具体的に何かをしてはくれなかった。神は何もしない。ならば広瀬は神ではない。神でなければ人であるか、あるいは神以上のものかもしれなかった。
 さやは広瀬とは別の方向でイメージの力を使っていくという課題に取り組んでいたが、なかなか糸口がつかめずにいた。肉体ではなく魂に働きかけることも考えてみた。魂を操作して、人間から暴力性や残虐性を無くすことはできないだろうかと思案した。しかし、その行為と広瀬のそれとの間にどれほどの差があるだろう。やはりこれも宇宙の流れから逸脱した行為には違いない、とさやは思った。

 広瀬は月香と共に研究所を去り、都内のホテルに滞在していた。搬入したノートパソコンを使って、インターネット上のサイトから処罰対象者を選ぶ際の基本情報を得た。その情報に基づいて、必要があれば月香が資料集めに奔走した。
 今回の一連の事件が海外でも話題になっていることを広瀬は知っていた。いずれはアメリカを始めとする世界各国で日本と同様なことを行いたいと思っていた。
 警察は相変わらすスサノオ逮捕に向けて捜査を続けていたが、その対応は腰砕けだった。警察の上層部からして、いつ自分に天誅が下されるやもしれぬとびくびくしていた。しかし、警察の本分として捜査を打ち切るわけにもいかず、苦境に立たされていた。
 広瀬と月香は適当な間隔で都内のホテルを移動した。今回移ってきたのは台場にあるホテルだった。部屋から海が見え、視線を上に転じると、夕映えの中に未来的な都市の景観があった。
 広瀬はシャワーを使ったあと、テラスの椅子に座ってビールを飲んだ。湿気を帯びた温い風が吹いており、眼下の海面には数隻の白い船が黄金色に輝く波間に浮かんでいた。
 やがて月香も浴室から出てきた。洗髪した髪をタオルでくるんでいる。
「いいわね、ビール。あたしも頂こうかな」
「冷蔵庫にあるから」
 月香は缶ビールを持ってテラスにやって来た。
「こんなにのんびりするのって久々」
「そうだな。ここんとこ緊張の日々だったからな」
 月香は缶を傾け喉を鳴らすと、美味しい、と言った。
「さやさん、何してるかしら」
「気になるのか?」
「そりゃ気になるよ」
「そうか」
 広瀬は、しだいに透明な青に変化していく風景を見ていた。
「あんな形で研究所を出てしまったから」
「後悔しているのか?」
「そうじゃないけど」
「月ちゃんは、なぜ残らなかった」
「あなたと一緒にいたかったからよ」
「おれは殺人者だ」
「あたしも共犯よ」
「君が直接手を下したわけではない」
「でも、さやさんのように反対もしてないわ。実際に人が死ぬという事実を見ないようにしているの。その動機についてはシンパシーを感じるけど」
 月香は缶を片手に、波に漂う水鳥を見つめた。その白い羽がゆっくりと揺らめく様に、月香はなぜか永遠をみた。
「もしおれが暴走を始めたら、少なくとも君がそう感じたら、君の手によっておれを解体してくれ」と広瀬は唐突に言った。
 月香は驚いて聞き返す。
「いまなんて?」
「だから、おれを解体」
「ちょっと待って。何を言い出すのかと思えば。もっとましなジョークにしてね」
 月香は少し腹を立てていた。
「ジョークではない。いま急にそんな予感がした」
「そんな」
「なぜだろう。なぜかな」
「あなた疲れてるのよ。いくらアズロの助けがあるにしても生身の人間がすることだもの。イメージを駆使するって、もしかしたら肉体にもかなりのダメージを与えているかもね。それに、肉体だけじゃなく魂へのダメージも大きいのかもしれない」
「そうだな」
「着替えて食事に行き、戻ったら早めに休みましょう」
「そうするよ」
 広瀬は素直に言って、飲みかけのビールを飲み干した。

 もう少し召し上がりませんか、とコック長の中川が勧めてくれた。
「いえ、けっこうよ。ありがとう」
 さやはデザート用スプーンを置いて言った。
「では、食後のお飲物をお持ちします」
 そう言って中川は厨房に戻っていった。
 さやが一人で食事をとるようになっても、彼はそのことについておくびにも出さなかった。ただ毎日、心のこもった料理をテーブルの上に並べてくれた。
 さやは思う。広瀬や月香が身近にいるときには意識しなかったけど、こうして独りになってみると、いま自分が置かれている状況に改めて驚きを感じる。ほんの二年半前までは、山と海の狭間にある小さな町で平穏に暮らしていたのだ。きっかけがあったにせよ、なぜわたしはあの穏やかな日々を後にしたのだろう。特別不幸というわけでもなかったし、家族の中に居場所がなかったわけでもない。広瀬という男に女として惹かれたのは確かだったが、それだけの理由でふたたび故郷を離れたとは思えない。アズロに象徴されるあの世的な力との出会いが、わたしの心の奥深く眠っていた何かを目覚めさせてしまったのだろうか。あるいはもっとシンプルに、生来の好奇心の強さがすべての原因だったかもしれない。わたしはわたしをもっと識りたかったのかもしれない。
「お待たせしました。今夜はカモミールティーにいたしましたが、よろしかったでしょうか」
 中川はテーブルの上にカップやポットの乗ったトレイを置いた。
「ありがとう。そんな感じのものがちょうど欲しかったの」
「ではミルクも添えてありますので、お好みでどうぞ」
 中川は一礼すると立ち去った。
 立ちのぼる香りを楽しみながら、さやは熱いハーブティーをゆっくりと飲んだ。

 広瀬と月香が、ホテルの外にあるレストランで食事をしたあとプロムナードを歩いていると、近くにあるテレビ局のビルの方に大勢の若者たちが向かっていくのに出くわした。あたりは、すっかり暮れていた。二人は、なんとは無しにその流れに加わって歩いていった。ビルに続く長い階段を登っていくと、上がりきったあたりに大きなスクリーンが設置されており、音楽番組が放映されていた。どうやら東京ドームで行われている有名なアイドルグループのコンサートの生中継らしかった。チケットを入手できなかった連中が、しかたなくここで観ているのかもしれない。広瀬と月香も若者たちに混じって、しばらくのあいだスクリーンを眺めた。
 東京ドームの一ヶ所にステージが組まれ、無数のライトが当てられていた。赤、青、黄、緑などの照明に彩られたステージ上を、アイドルたちが歌い、踊り、跳ねていた。彼らを見つめる五万人規模の観客は、ドーム内をびっしりと埋め尽くしていた。ステージ上だけでなく、ときおり観客席の様子も映しだされた。アイドル達と同じようなヘアスタイルをし、同じような格好をした若者たちが、全員同じ仕草で腕を突き上げ、同じタイミングで叫んだ。
 広瀬はそんな様子を眺めながら、強い違和感を覚えた。こいつらは、まるでブロイラーだ。独立した個を持った尊厳ある存在なんかじゃない。もっと違った在り方はできないものか。しかし、彼はすぐに、そんな若者たちの有様は彼らだけのせいではなく先達としての大人にも責任の一端はあるだろう、と思い直した。
 純粋に音楽を楽しんでいる彼らにしてみれば、そんな一人のおやじの勝手な言い種を聞く耳など持たないだろう。自分で稼いだにせよ、親からせしめたにせよ、きちんとチケットを買い、きちんと並び、そして今、好きなアイドルを前にして陶酔した時間を過ごしているのだ。誰からも文句をつけられる筋合いはないはずだった。
「ホテルに戻ろうか」
 広瀬はスクリーンに見入っている月香に言った。
「それとも、もう少し観るかい?」
「もういいわ」
「君はまだ二十代だから、ああいったのが好きなのかな」
「あたしの好みは、もっと大人っぽいやつ。それに、あたしはロック少女だったから、アイドルには興味がないわ」
「へえ」
 広瀬は月香を促して階段を降り始めた。
「おれは農業系の大学に通ってたんだが、いたなそういえば、バンドやってる奴らが。あまりそういうのが似合う学校じゃなかったけどさ」
 月香は笑って言った。
「あなたは何をしていたの?」
「女の尻を追いかけてたよ」
「まっ」と月香が目をむく。
「冗談だ。もしそうだったなら、もっとまともな男になれたのだが。実際には植物と宇宙に現を抜かしてたってところだ」
「そうなの」
 月香は、この人にもそんなときがあったんだと感無量だった。
「ねえ、急に静かになったんじゃない」
 月香は階段の上方にあるスクリーンを振り返った。
 熱狂に渦巻く客席の一角が突然ぽこっとへこんだ。まるで麦畑に現れるミステリーサークルのように。何が起きているのか誰も気づかない。一瞬のちに、また離れた場所がへこむ。そしてまた別の場所が。へこんだ場所には衣服や靴が折り重なって落ちていた。そのようにして客席のすべてがへこんでいった。嵐のような歓声がしだいに収まり、最後には演奏する音だけになったとき、歌っていたアイドルグループのリーダーは異変に気づく。そのとき右隣で歌う仲間の体がふっと崩れ落ちるように見えなくなった。足下には、自分とお揃いのステージ衣装と靴が、まるで抜け殻のように落ちていた。


      16

 月香が帰ってきた。すっかりやつれて目の下は隈になっていた。ろくに眠っていないに違いなかった。
 さやはあえて何も訊かずにソファに横にならせ、熱いココアを作って飲ませた。飲み終えた月香は、さやがブラインドを下ろして部屋を薄暗くすると、やがて寝息を立て始めた。
 さやは月香にまた会えただけでも嬉しかった。彼女に恨みはなかった。いや、むしろ愛していると言った方が当たっていた。かけがえのない魂の妹だった。
 ここ数日間で何が起きたのかは、ある程度わかっていた。世の中の動きを把握しておくために、テレビ、ラジオ、ウェブ、新聞、雑誌などからの情報収集に努めていたからだ。東京ドームで起きた集団失踪事件も知っていた。五万人の人間が一瞬のうちに消え去っていた。五万人といえば、さやの生まれた町の人口とほぼ同じだった。
 事件に広瀬が関わっていることは間違いなかった。しかし、急に理由のない殺戮に向かったとも思えなかった。彼の天誅プロジェクトはその是非はともかく、かなりの成果を上げていたからだ。しかし、天誅の対象が無差別となると話は別になる。月香が目覚めたら、じっくりと詳しい話を聞かなくてはと思った。
 夕方になってから、さやは中川に頼んでスープ主体の胃に優しい食事を作ってもらい、月香の目覚めを待った。眠る月香のそばに座っていると、かつて奈良近辺に遊んだことが思い返された。どこか風光明媚な土地で三人一緒に平凡に暮らせたらと、ふと思った。わたしたちは、もう引き返せないところにまで来てしまったのだろうか。
 月香が目覚めたのは午後八時を過ぎていた。よほど疲れていたに違いなかった。さやは料理を温め直して月香に食べさせた。最初は食欲がないようだったが、とりあえずスープを飲んでもらったら少しずつ食べれるようになった。食事を終えて一息ついたとき、さやは月香に話ができるかと訊いた。もしまだ疲れていたり、その気にならなければ、明日でもいいと言った。彼女はソファにもたれたまま、大丈夫です、と言って話し始めた。

 月香が階段の上方にあるスクリーンを振り返ったとき、歓声はすっかりなくなっていた。すぐに歌声も途切れて、バックの演奏も一部のシーケンス楽器を除いて聞こえなくなった。スタジオにいるアナウンサーは、どうしたんでしょう、機械の故障でしょうか、などと言ったあと、いったん生中継を中止すると告げた。
 月香は、何かあったのかしら、と広瀬を見て言った。広瀬は表情が変わっており、部屋に戻ろう、と言って歩き始めた。どうかしたの? と訊くと、ちょっと気分が悪くなったから部屋で横になりたいんだ、と言った。
 ホテルに戻ってベッドに入った広瀬は、そのまま昏睡状態になった。彼は寝入る間際に、決して医者など呼ばないように月香に言い置いた。それからずっと眠り続け、ときどき大きくうなされた。
 結局、広瀬は丸二日間目覚めなかった。月香は、ろくに眠らずに付き添っていた。
 起きているとき、月香はテレビと新聞をチェックして、東京ドームでの集団失踪事件を知った。あの巨大な建物の内部にいたあらゆる人間が行方不明になっていた。奇妙なことに、各人が身に着けていたと思われるもの、つまり衣服、アクセサリー、腕時計、ベルトなどはすべて残されていた。衣服には下着も含まれていて、上着の内部に収まったままだった。要するに人間の中身だけが忽然と消え失せたように思われた。
 マスコミは当然のごとく、この奇妙な事件とスサノオとの関連性を騒ぎ立てていた。しかし、スサノオの天誅に対し好意的な見方をしていた者達は、これはスサノオではなく他の何者かの仕業だろうというコメントを述べていた。
 月香は待った。広瀬に訊きたいことが胸に溢れていたが、ただひらすら無事に目覚めるのを待った。
 そして二日後、広瀬は目を開けた。月香は涙を流しながら、よかった、よかった、と何度もつぶやいた。広瀬はかなり弱っていたが、月香の肩を借りて小用を足し、水を飲んだ。月香はルームサービスで野菜スープとパンを頼んで広瀬に食べさせた。
 それからさらに一日かけて寝たり起きたりしながら、広瀬は徐々に体力を回復させていった。月香は合間合間に、東京ドームでの事件のことを広瀬に話した。彼は黙って聞いていた。そして、いろいろ訊きたいこともあるだろうが少し考えを整理する時間が欲しい、と言った。さらに、月ちゃんもほとんど寝ないで看病してくれたのだから、ここいらでぐっすり眠った方がいい、と提案した。
 月香はバスタブに湯を張り、ハーブの入浴剤を入れてゆっくりと浸かった。そして体と神経がほぐれてきたところで、ベッドに入った。月香は広瀬がどこか遠くに行ってしまうような気がして、あたしのそばに来て腕枕をして、と言った。そうすれば安心して眠ることができるだろう。広瀬は月香の横に来て軽くキスをした。そうして、自分の腕に彼女の頭を乗せ、そっと抱きしめた。
 月香は深い眠りに落ちるまでのまどろみの中で太鼓の音を聴いた。香ばしい草の焼ける匂いがして、視界がだんだんと明瞭になってきた。
 月香は大勢の人間と一緒に草地に座っていた。あたりを見回すと、日に焼けた肌をした老若男女が一つの方向に顔を向けていた。みな一様に髪を長く伸ばし、カラフルなヘアバンドをしている。人々の視線の先には少し小高くなっている場所があり、その草の上に上半身裸の男が胡座をかいて目を閉じていた。精悍な横顔を見て、月香は、広瀬の若いときはあんな顔をしていたんじゃないかと思った。
 彼は部族一の勇者だった。その勇者が、どうしても避けられない事情で生け贄になろうとしていた。部族の長老たちはテントの中に籠もって話し合いを続けていた。彼は、どのような決定が下されようとそれに従う覚悟でいた。長老たちをはじめ部族の皆が彼の犠牲を望んではいなかった。しかし、勇者であるが故に、彼以外の適役は他にいなかったのである。
 やがてテントから長老たちが現れ、彼の前に歩み寄った。彼らの目には深い悲しみがあった。その目を見て、彼は自らの運命を悟った。彼は先頭に立って小高い丘を登っていった。月香も部族の皆と彼の後を追った。今まさに地平線に日が沈もうとしていた。西の空一面に夕焼けがあった。見たこともない鮮やかな血の色だった。
 彼は平たい岩の上に横たわり、静かに目を閉じた。その周りを部族の者たちが取り囲んで祈り始めた。月香もそれを見習って目を閉じた。一人の男が鋭いナイフを手にして彼のそばに立った。月香はなぜ自分が泣いているのかわからなかった。祈りながらひとしきり泣いて目を開けると、夕焼けをバックに一人の男が彼を見下ろしていた。あたりを見回すと、部族の者たちは大地にひざまずいて祈り続けていた。草の焼ける匂いが静寂の中を漂ってきた。その時、男の持つナイフが彼の心臓めがけて突き立てられた。
 月香は自らが上げた叫び声で目を覚ました。全身にびっしょりと汗をかいていた。目の前に夕焼けはなく、薄暗い部屋があった。伸ばした手の先に広瀬はいなかった。月香は急に不安になり布団に潜り込んだ。すると急激に睡魔が襲ってきて、ふたたびあの夕焼けの丘に戻りそうな気がした。そうすれば二度と広瀬に会えなくなると思った。月香は、いやよ、と声を出して跳ね起きた。つまずきながら部屋の灯りを点けると、室内に広瀬の姿はなかった。どれくらいのあいだ眠っていたのだろう。遮光カーテンのわずかな隙間から一筋の光が射し入っていた。そして、その光が照らすテーブルの上に折りたたんだ便箋が乗っていた。

「すいませんが、お水をください」と月香はさやに頼んだ。
「ついでに、あたしのバッグもお願いします。その中に便箋が入っているんです」
「わかった。ちょっと待っててね」
 さやはグラスにミネラルウォーターを入れて戻ってきた。そしてハンドバッグと一緒に月香に手渡す。彼女は旨そうに水を飲み干すとグラスをさやに渡し、バッグから便箋を取り出した。それはマークが入ったホテル備え付けのもので、ボールペンで書かれてあった。月香は便箋をさやに差し出した。
「読んでみてください。広瀬さんは、さやさんにも読んでもらうつもりで書いています」
 さやは折り畳まれた便箋を受け取って広げた。青空に直に書いているような闊達な筆跡が紙面に踊っていた。さやの胸に切なさがこみ上げてくる。
『高原さや様。池谷月香様。単刀直入に話します。結論から言うと、非常に困難な状況におちいってしまった。おれはどうやら自分自身を制御することが不可能になってしまったようだ。
 おれが一瞬でも思い描いたイメージは、その時点で力を保ったままおれ自身から離れていき、想像を絶する規模にまで勢力を拡大して発現してしまう。あの東京ドームでの一件がそのいい例だ。
 思い返すに、アイドル達のライブをスクリーンで観ていて違和感を覚えたのは確かだ。世界に目を向けると理不尽で悲惨な人生を送っている子供や若者が大勢存在するのに、こいつらはいったい何をやっているのだろうと思った。しかし、その思いが直ちに彼らへの憎悪に変わったという覚えはない。だが、結果的にあのような事態を引き起こしてしまった。五万人の人間は原子にまで解体されたんだよ。ただ肉体は霧散したが、魂はどうなったのかおれにはわからない。
 いま憎悪はなかったと書いたが、もしかしたら、ほんの一瞬でも彼らの消滅をイメージしたのかもしれない。無意識でそう願ったのかもしれない。そうなると厄介なことになる。俺は一切ネガティブなことを考えてはならないことになるからだ。しかし、おれも人間だから、ポジティブなことだけというのは不可能だよ。このままでは同様のことが起きるだろう。それでも構わないということでない限り、それを防ぐには二つの方法しかない。一つはおれ自身を解体すること、もう一つはこの能力の大本であるアズロを解体することだ。その場合は、君たちの能力も奪ってしまうことになると思うが。
 それから東京ドームの件で気づいたのだが、あんな形でイメージの力を使うと、使った本人も消耗してしまうらしい。あのとき、おれはぼろぼろになった。だから今後同様のことが多発すると、おれ自身無事では済まないだろう。
 そんなわけで、おれはアズロを解体しようと試みた。だが、奴の中にイメージで侵入することができなかった。この手紙を読んでくれた時点で君たちも試してみるといい。恐らくそれは不可能だろう。理由はわからない。何らかのバリアを張っているのかもしれない。おれ自身のパワーが足りないせいかもしれない。
 今から、おれはもう一度滝に行ってくる。精神を鋭利にして再度アズロに挑むつもりだ。しかし、万一それに失敗したら、そのときは君たちの力でおれを解体してほしい。
 いつか月香が言っていたバランスということが、やっとおれにも理解できたような気がする。つまり、どんな生物も無生物も不自然な形で消滅させることはできないということだ。人類のみを地球上から無理に消してしまえば、他のものも無傷では済まないだろう。どんな存在も一抜けたができない仕組みに、どうやらこの世はなっているらしい。ただ宇宙の大いなる流れに任せるしかないのだとも思う。ではまた。広瀬孝之』
 手紙を読み終えたさやは、文中で広瀬が言っていたようにアズロに意識を向けてみた。すると体の表面で拒まれることもなく内部に入ることができた。ただ、彼を構成しているものが何なのか見当もつかなかった。原子の単位で認識しようとしても、つかみ所がなかった。
「いまアズロの中に入ってみたのだけど」
 さやは便箋をたたんで月香に言った。
「どうもよくわからないの」
「あたしも手紙を読んですぐに試してみたんです。でも同じく、よくわかりませんでした」と月香が言う。
「なら、どうして広瀬だけが」
さやは月香に訊くというより自問するようにつぶやいた。
「これから、どうしたらいいんでしょう。あたしなりにいろいろ考えてみたけど、混乱するばかりで」と月香が苦しそうに言う。
「とにかく冷静になるのよ。きっといい考えが浮かぶわ」
「はい」
「いいこと。今すぐにでも研究室に入ってアズロと対面したいのは山々よね。あなたも恐らくそう思っているでしょう。でも今日は止めよう。これはわたしの直観だけど、今は気持ちを静めて自分を見つめた方がいいように思うの。この不思議な出会いの意味を考えながら一晩待ちましょう。広瀬のことは彼自身にまかせて余計な心配をしないことが、結局彼のためにはいいと思うの。あなたもできるだけ努力して体と心を休めてちょうだい。明日からが正念場よ。いいわね」
 さやはきっぱりとそう言うと、さあ、あなたの部屋まで付き添うわ、と月香の体に手をかけた。
 翌日は快晴で爽やかな朝だった。ダイニングルームで朝食をとったあと、さやは気持ちを調えて研究室に上がった。月香はまだ眠っているようだった。ほのかな明るさに保たれた室内の片隅には、いつものようにアイスブルーの光で全身を包んだアズロがいた。
 やあアズロ、とさやは話しかけてみる。世間では、とんでもないことが起きているの知ってる? いいわね、あなたはいつもそうやって静かでいれて。ちょっと訊くけど、あなたはいったい何のために広瀬の前に現れたの? 人間を試すため? 思いというものはエネルギーであり力があるんだということを人間に教えるため? その思いの力を使いこなせるかどうかを見届けるため? 
 広瀬は今、その力によって窮地に立たされているのよ。人も大勢死んだわ。この瞬間にも殺戮は行われているかもしれない。広瀬は自己をコントロールできなくなってしまったの。アズロ、あなたの助けがいるわ。彼の能力をリセットして。普通の人間に戻して。もちろん彼だけじゃなく、わたしや月ちゃんもリセットして。
 わたしもイメージの力が使えるようになって有頂天になった。この力で何ができるのだろうとわくわくしたわ。でも、いろいろ試してみてわかったの。今の人間にはまだ使いこなせない。一部の者だけが使える能力では意味がないと思うの。だからお返しするわ。広瀬の暴走を止めたいの。彼自身たしかに思い上がった行動をとったと思うわ。一時は人類絶滅を願っていたのも確かよ。だけど彼も学んだわ。今では地球も含めたすべてものが共存していくしか道はないと思い始めているの。アズロ、お願いよ。
 さやはアズロに話しかけながら、いつの間にか泣いていた。頬を伝う涙の滴に、アズロの発する青い光が映って煌めいた。さやはアズロに意識を向けて彼の中を覗き込んでみた。しかし、相変わらずその内部には無限の空間が広がっていた。
 さやはそんなふうにアズロと向き合っていたが、やがて月香がいつまでたっても姿を現さないことに気づいた。さやは研究室を出て月香の部屋に行き、ドアをノックした。何度かノックしても返事が無く、しかも気配も感じられないので、彼女はドアノブを回してみた。鍵はかかっておらず、一瞬ためらったあと、さやは中に入った。室内に月香の姿はなかった。机の上に白いA4サイズの紙と黒の水性ペンが載っており、ごめんなさい滝へ行きます、と書かれてあった。


      17

 さやの運転する86年式メルセデス500SLは、中央道を名古屋方面に向かっていた。古い車だったが、腕のいいメカニックにより整備されており、調子は上々だった。広瀬と何か車を買おうという話になったとき、さやは以前からそのスタイルが好きだったこの車を希望した。広瀬があちこち手を尽くして程度のいい中古車を見つけ、金に糸目をつけずに最高の状態にまでチューンナップしてくれたのだった。
 梅雨が近づいていたが、雨の続く日々にはまだ間があった。庭先や野にある紫陽花の株は、開花の準備に余念がないことだろう。高速道路から望める山の斜面は、色合いの異なった緑のパッチワークだった。普段ならば快適なドライブが楽しめたはずだった。
 さやが何気なくカーラジオをつけると、先日の東京ドームでのことを話題にして、何人かが交互に発言していた。どうやら緊急特番が組まれたようだ。恐らく日本中が、いや世界的規模で、この事件に注目していることだろう。コメンテーターの一人が、新種の大量破壊兵器ではないかと言った。他の一人は、いや冗談抜きでこれはアルマゲドンの前兆かもしれない、と不安げな声を出した。さらには、タイムスリップかもしれないと言い出す者まで現れた。とにかく遺体が皆無なので犠牲者の正確な身元確認は不可能だった。ただ大量の衣服などが残されており、それを元に作業が進められているようだった。日本近辺の国々でも、この事件によって一気に緊張が高まっていた。
 さやは東京を発つ前に故郷の両親に電話を入れて無事を伝えた。これまでめったに連絡しなかったのだが、なぜか声を聴かせて安心させたいと思ったのだった。
 カーナビをオンにして中央道を順調に走った500SLは、中津川インターを下りて国道19号線を北東に進み、木曽福島方面に向かった。さらに木曽福島の川合で左折して、御嶽山方面に登っていった。王滝村に入り、清滝入口を過ぎてしばらく登ると、道路脇の空き地に見覚えのある車が二台とまっていた。一台は広瀬の四輪駆動車、もう一台は月香のワゴンタイプのスポーツカーだった。さやもその隣に車をとめる。
 ドアを開けて車から出ると、清々しい山の空気があたりに満ちていた。前に広瀬から聞いた新滝は、ここを少し下ったところにあるはずだった。さやは見当をつけて細い山道を下り始めた。ある程度地形を予想して、ジーンズにワークブーツという装いだった。広瀬は、あのときと同じように滝に打たれているのだろうか。月香は、はるばる駆けつけて何をしようとしたのだろう。そしてこのわたしは。
 九十九折りの山道を下るに連れて、水の落下する波動が伝わってきた。ごーっという音がしだいに大きくなる。岩角を曲がると、目の前に壮大な滝があった。切り立った崖を背景に白い飛沫の帯が天と地を結んでいた。そして、水の砕け散る滝壺の中に一人の男が立っていた。広瀬だった。
 彼は、かなりの高みから落ちてくる大量の水を身じろぎもせずに全身に受けていた。見ているさやの方が息苦しくなってきた。さやは以前広瀬から聞いたことを思い出した。滝から出るのにも体力を要し、力を使い果たすと水の壁から外に出られなくなってしまうのだと。さやは急に不安になってきた。もしかしたら広瀬は、滝から出るにでれなくなっているのではないか。あんな凄まじい水流の中に長時間とどまっていたら死んでしまう。何とかしなくては。そう思いつめたさやの視線が、滝壺からそそり立つ水柱をとらえた。それはまるで白い竜が天に向けて飛翔しているかのようだった。さやは一瞬アズロに意識を飛ばし、次いで竜の全身に照準を合わせた。彼女は竜の体の原子単位にまでイメージで分け入ると、それを解体した。数秒の間水流がとだえ、あたりに静寂が広がった。広瀬がかっと目を見開くのがわかった。彼はさやを認めると、立っていた平岩からすっと降りた。とたんに広瀬の背後に轟音と共にふたたび水の壁ができた。白い褌のみを身にまとった広瀬は、滝壺を渡ってさやの方に歩いてきた。
「来たのか」
 広瀬は全身から滴を垂らしながらさやを見つめた。唇が紫に変色しており、顔は不精髭に覆われていた。
「来たわ」
 さやは広瀬と向かい合って立っていた。久しぶりに見る広瀬の顔だった。
「あまり時間がない。手短に話そう」
「どういうこと?」
「また滝に入らねばならん」
「なぜ?」
「おれ自身の意識を保つためだ。滝に打たれると何とか自分自身でいられる。滝から出ると、まもなくおれは消えてしまう」
「あなた、何を言っているの?」
「おれの無意識がおれを支配するんだ。そいつはおれ自身ではあるが、おれの手には負えない」
 広瀬の全身が細かく震え始めた。
「あなた寒いんじゃないの?」
「いや寒いからではない。とにかく、あまり時間がない」
「無意識が支配すると、どうなるの?」
「奴は自分の望みを叶えようとする」
「望み?」
「人類の一掃だよ」
「まさか」
 さやは一歩踏み出して、震えの止まらない広瀬を両腕に抱きしめた。
「濡れるから」
「いいの」
 さやの体から柔らかさと暖かさが伝わってきた。広瀬は徐々に薄れていく理性的な自己を必死で保ちながら言った。
「さや、よく聞いてくれ。大切な話だ。いま言ったように、おれの無意識はこの地球を人類のいない楽園にしようとしている。この望み自体は、おれがずっと昔から持っていたことだ。単純に人間がいなくなれば、おれの愛する植物や自然が侵されることもなく、地上はずっと平和になるだろうと思い続けていた。しかし今では、すべての存在の共存によってしか地上の楽園はあり得ないということに気づいている。だが、おれの無意識は、どうやらそんなことは信じていないらしい。イメージの力を使って奴は勝手に暴走を始めたんだ。それに気づいたのは東京ドームでの一件だった。あのあと、おれは極端に体調が悪くなって寝込んでしまった。まる二日眠り続けていたらしい。目が覚めたとき、月香が何が起こったのか教えてくれた」
「月ちゃん? そういえば月ちゃん、どこにいるの?」
「あとで話すよ。先に話を聞いてくれ」
「わかったわ」
「おれは月香から聞いたことで気づいたんだ。おれであっておれでないものが、おれを支配しようとしていると。おれは直感で、このままでは取り返しのつかないことになると思い、自分を保つために滝に打たれることにした。かつての体験がよみがえってきて、あれなら何とかなるんじゃないかと思えたんだ。おれは置き手紙をして、ここに来た。
 来る道すがら、なぜこんなことが起こったのかをずっと考えていた。たぶん、おれが一連の天誅を行ったことが最大の原因だろうと思った。それらの行為によって、おれが感じた以上のものをおれの無意識は感じてしまい、理性によって辛うじて保たれていた巨大なダムが決壊を始めたのかもしれない。
 滝に打たれてみると最初はいい感じだった。意識がシャープに研ぎ澄まされる思いだった。しかし、滝から出てしばらくすると、何かがおれをじわじわと侵食してくるのを感じた。そこでまた滝に打たれると、おれ自身がよみがえるような気がした。そんなことを繰り返しているうちに、おれはあることに気づいて絶望的な気分になった。意識が保たれる時間が少しずつ短くなっていたんだ。そんな折りに、月香がやって来た。滝に入る寸前に、つまりその時点での侵食が最大だったときだった」
「月ちゃんがどうかしたの?」
 さやは急に胸騒ぎがして、広瀬の背中に回していた両腕を外すと、彼の顔を見た。
「ついておいで」
 そう言って広瀬は石段を登り始めた。さやもあとに続く。少し行くと小屋があった。滝行をする行者が着替えに使う小屋らしかった。広瀬は中に入って脱衣籠を持ってきた。差し出された籠には見覚えのある服とパンツとブーツが入っていた。月香のものだった。さらによく見ると、籠の隅に下着とアクセサリーがあった。
「月ちゃんは?」
 さやは広瀬を見すえて訊いた。
「天に還った」
「嘘、嘘でしょ?」
「嘘ではない。仕方がなかった」
「うそよ」
 さやは叫び声を上げた。
 広瀬は左手に籠を抱えたまま、右手でさやを抱きしめた。さやは空いた右手の拳で広瀬の肩や胸を打ちながら叫び続けた。広瀬はじっと彼女を抱きしめていた。さやと、広瀬と、月香の服。それは三者が身近に集った最後の場面だった。やがて、さやは少し落ち着いてきた。反対に広瀬の震えは増していた。
「あのとき」と広瀬はさやを抱いたまま話し始めた。
「おれは自分を見失う寸前だった。滝の落下点にある平石に足を乗せようとした瞬間、自分の名前を呼ばれたような気がした。さらに今度は、はっきりと呼ばれた。振り向くと、月香がこちらに向かって手を振っていた。おれは驚いて、一歩月香の方に踏み出した。とたんにおれは彼女を解体しなくてはと思った。おれは、馬鹿な、月香を解体するなんてと思った。するとおれは、彼女もイメージの力が使えるから、おれは解体されるかもしれないと思った。
 危機的状況なのは自分でわかっていた。分裂が激しくなっていた。
 おれは、月香がそんなことをするはずがないし、万一解体されたとしても、おれは別にかまわないと思った。おれは、そんなことをさせてたまるか、おれの邪魔は決してさせないと強く思った。おれは危険を感じて滝の方に向き直り、平岩に足をかけて瀑布の中に入った。しばらく激しい水流に全身を打たれていると自分が戻ってくるのがわかった。
 頃合いを見計らって滝から出てみると、月香の姿は無かった。おれは、よろめきながら彼女の立っていたあたりに歩いて行った。流れのそばの岩場に月香の服と靴があった」
 話し終わると、広瀬は呻きながら、さやを抱いていた腕を外して籠をさやに渡した。そうして小走りに滝壺まで引き返し、滝の中に入った。
 さやは月香の服に顔を埋めて泣いた。微かに彼女の香りがした。秘書採用の面接のときに初めて会って以来の日々が思い起こされた。これが彼女の人生だったというのだろうか。何らかの力によって、本来の流れから強引に引き離されたのではなかろうか。自分の愛する男の手に懸かって果てたのは、不幸なことだったのか、それとも幸せだったのか。
 さやは月香への愛を改めて感じていた。あなたの魂は今わたしの魂と融合したわ。あなたはわたしで、わたしはあなたよ。さやは月香の服を籠から出して小脇に抱えると、滝壺の方に下りていった。
 広瀬は滝の中にいた。すでに体力の限界を超えていた。普通の人間が、そうそう長いこと滝に打たれていれるはずがなかった。
 おれももうじき終わりだと広瀬は思った。こうして滝の中にいても、ときどき、おれでないおれが顔を出し始めていた。アズロに意識を向けると、奴は変わらすそこにいた。ただ内部にアクセスしようとしても無駄だった。
 広瀬は、おれがおれでいれるうちに、さやの手によって解体されたいと思った。遅かれ早かれおれは死ぬ。このまま意識を保てたとしても、もう体がもたないだろう。あるいは、それまでにおれはおれでなくなるかもしれない。そうなった時、おれでない者が人類の解体を実行したとしたら、生身の肉体を持ったおれもまた無事では済まないだろう。
 さやは月香の服を抱えたまま水に入り、もうこれ以上悲しい思いをするのはたくさんだと思いながら広瀬の方に近づいていった。彼女は自分の力で広瀬の危機をなんとか救えないものかと思案していた。広瀬が自分の無意識に乗っ取られて、その結果人類の一掃が行われ、広瀬と二人きりになったってかまわないとさえ思った。
「さや」
 水の壁の向こうから広瀬の声がした。
「さや」
 もう一度、声がした。
「ここにいるわ」
 さやは声のする方へ一歩進んだ。
「いいか、さや、よく聞いてくれ」
 広瀬は流れから顔を突きだして声を上げた。一区切り喋ると、また壁の向こうに引っ込む。
「もう滝の中でしか」
「おれ自身を保てない。それも」
「もうじき。さや」
「おれを解体」
「してくれ」
 広瀬は途切れ途切れに、先程考えたことをさやに説明した。どのみちおれは助からない。ならばさやの手によって解体され、宇宙に還っていきたいのだと。人間への天誅が中途半端になってしまったが、そんなものを必要とする程度の人類ならば、いずれそれなりの結果がでることだろう。おれは余計なことをしたのかもしれないな。もう時間がない。おれがおれであるうちに。
「さあ、はやく」
「いやよ」
 さやは大声で叫んだ。
「あなたまで失うなんて耐えられない」
「失いはしない。おれは」
「おまえの一部になるんだ」
「できない」
「頼む、さや。わ」
「わかって」
「く」
 沈黙があった。しばらくして滝の中で人影が動き、広瀬が水の壁を割って出てきた。彼はさやに一瞥もくれずに彼女の横を通って岸に上がり、岩に座り込んだ。両膝の上に両肘を乗せて、そのままの格好でじっとしていた。
 さやは水に入ったまま、男を見つめた。姿形は広瀬に違いなかったが、それはさやのよく知る広瀬ではなかった。広瀬という人間を通してたどり着ける遙かに遠く深い場所にあるなにかが、広瀬というこの世への出口までやって来ているといった感じだった。
 彼は自分の無意識に敗れ去ったのだろうか。もし生きながらにして自己というものが肉体から消滅すれば、それはもう自分ではないことになるのだろうか。もしそうなら、肉体というものはただの容器に過ぎないことになる。自己というものは魂と同じものだろうか。今の広瀬は自分の無意識に支配されているらしい。この場合でも魂は独自に広瀬の肉体に宿っているのだろうか。
「あなたなの?」
 さやは男に近づきながら声をかけた。
「体力の消耗が激しい」
 ふいに男が口を開いた。広瀬と同じ声色だったが、何かが違っていた。さやは、かつてギターを弾く友人から聞いた言葉を思い出した。楽器ってさ、同じものを弾いても弾く人によって全然音色が違ってくるんだ。これにはびっくりするね。  
「少し回復させないと難しい」
「何が難しいの?」
 さやは流れに立ったまま、そう訊いた。
「奴らは数が多すぎる」
「奴らって誰?」
「もうじき六十五億になろうとしている」
「だから誰なの?」
「人間」
 男は地面を見つめていた視線をさやの方に向けた。そのまなざしは幻のように捉え所がなかった。
「あなたも人間じゃないの」
「おれは小さい頃から人間でいるのが苦痛だった。なぜおれは花や木でないんだろうと思っていた」
「あなたがなりたかった花や木は人間を殺そうとなんかしないわ。彼らはただ育ち、花を咲かせ、ふたたび大地に還っていくわ」
「おれは花や木には、なれない。だからせめて彼らに代わって大地や空の環境を汚す奴らを駆除したいと思ってきた」
「それはあなたの手前勝手な言い分よ。この地球上には一つの例外もなく不必要な生き物はいないわ」
「いや、おれはそうは思わない。人間はこの地球には必要ない存在だ。奴らは唯一地球を破壊できる存在だ。おれが思うに、人類はどこか他からやってきたのだろう。奴らは早く還りたいんだ。こんなところに居たくないんだよ。奴らに、地球に対しての、他の生物に対しての愛がないのがその証拠だ」
 さやは男の言うことにも一理あると思いながら聞いていた。
「もし仮にそうだとしたら、故郷に還れるように手助けをすればいいじゃない」
「だめだ。そうすれば他のものが犠牲になる。何も人間だけが特別ではないんだよ。微生物も、メダカも、野の花も、空を舞う鷲も、みんな宇宙の奇跡だ。おれは、この美しい青い星を守りたいだけだ」
 さやは男の目に複雑な愛憎の光が宿っているのを見た。彼は本当に人間を見限ってしまったのだろうか。
「あなたは誰なの?」とさやは訊いた。
「おれは、おれは広瀬という男だ」
 彼は他人事のように答えた。
「さあ、少し力が戻ってきた。ちょっと試してみよう」
 男はすっくと立ち上がると目を閉じ、顔を少しうつむけた。十数秒後に男は大きく深呼吸をした。そして足元をわずかにふらつかせながら、ふたたび岩に腰を下ろした。
「何をしたの?」
 さやは、なにか嫌な感じがして訊いた。
「君の故郷を、おれのでもあるが、自然に戻した」
「なんですって?」
「東京ドームのときとほぼ同じ人口だからな。試すのには手頃だった」
 さやは怒りで目の前が真っ白になった。冷静にならなければと頭の一部では思いながらも、自分の育ってきた町の様子や、両親、友人などの顔が蘇ってきて、絶望的な怒りが身を震わせた。意識を故郷に向けてみたが、そこには海風の吹く荒野があるのみだった。
「許せない」
 さやは男を解体しようと決意した。アズロに意識を飛ばしたが、彼はそこにいなかった。さやは動揺した。アズロ、あなたはいったい。彼女は研究所の内部、近辺、東京、日本、地球全体にと次々に意識を向けてみたが、アズロにアクセスすることはできなかった。
「どうして?」
 わたしは独りぼっちになってしまった。わたしを助けてくれる者は誰もいない。月香も、広瀬も、アズロも、両親も、友人たちも、みんないなくなってしまった。さやはそう思うと泣けてきた。涙が次から次へと頬を伝った。彼女の足下には落下した滝の流れがあった。履いているブーツに水が浸入し、下半身が冷え始めていた。
「君も自然に還れ」
 男はさやを見てそう言った。
「おれもいずれ、いや遠からずそうなる」
 さやは、もはや死ぬのは怖くなかった。月香や広瀬のいるところへ早く行きたいと思った。しかし、この男を許すわけにはいかなかった。
「いやよ」
 さやは月香の服を左手に抱え、右手の甲で涙をぬぐった。
「あなたを解体する」
「残念だが、君にその力はない」
「なぜそんなことがわかるの?」
「わかるんだよ」
 そう言って男は立ち上がった。
 やられる、とさやは思った。左手の服を見た。目を閉じて月香に話しかけた。月ちゃん、わたしどうしたらいい? わたしにはもう誰もいない。アズロもいなくなって、わたしにはもう力がないの。
 大丈夫、と月香の声がした。あなたは独りじゃない。あなたの得た力は健在よ。
 男がゆらりと一歩前に出て、立ったまま目を閉じ、頭を垂れた。
 さやは身体を右に回して、流れ落ちる滝を見すえた。落下が始まる地点から下方の平岩に激突する地点までを一瞬にしてとらえ、先程と同じようにして水を解体した。滝壺の周辺から静けさが流れ込む。
 できた。さやはすかさず男に向き直り、男の全身から内部に分け入ろうとした。体の細胞を構成する原子の単位までをイメージして、その結合を解くのだ。しかし、男の内部には何も無かった。アズロのときと同じだった。
 滝壺では、ふたたび激しい水音が立ち始めた。
「無駄だ」
 ふいに男が声を上げた。
「観念して祈りを捧げているのかと思い、せめてそれが終わるまで待とうとしていたのだが」
「あなたとアズロとはどんな関係なの? 彼はいったい何者なの? 教えて」
 男はそれには答えず、ふたたび目を閉じた。
 なんとかしなくては。さやは気を静めようと目を閉じた。ふいに広瀬の声が心の中に響き渡った。失いはしない。おれはおまえの一部になるんだ。あのとき広瀬は切に望んでいた。おれがおれである内に、おまえの手で解体されたいと。そうすることで、おれはおまえの一部になることができると。
 わかったわ、とさやは広瀬に言った。ならば、わたしはあの時に戻って、あなたを解体する。そして、あなたとわたしは一つになる。いいえ、あなたとわたしだけじゃなく、月ちゃんも一緒よ。あなたも月ちゃんも、わたしと共に生きるのよ。そして、いずれわたしたちはまた会えるわ。
 目を閉じたままのさやの目の前に、白い飛沫と水の壁があった。その向こうに人影があり、さやにはそれが広瀬だとわかった。懐かしい波動が伝わってきて、さやは思わず涙ぐんだ。
 広瀬は流れから顔を突きだして声を上げた。
「失いはしない。おれは」
 そして一区切り喋ると、また壁の向こうに引っ込む。
「おまえの一部になるんだ」
 彼はまた顔を突き出すと、そう言った。
「わかった」
 さやは壁の向こうに引っ込む寸前の広瀬の目を見つめた。わかったという声を聞いたからなのか、広瀬の目には安堵の光があった。
 さやは広瀬の肉体をイメージし、細胞をイメージし、原子をイメージし、そしてそれを解体した。
 さやが目を開けると、左手に月香の服を持ったまま流れの中に佇んでいた。滝壺の平岩に人影はなく、ただ永遠の水の落下があるばかりだった。
 さやは岸に上がった。男が立っていたあたりに白い布が落ちていた。男の、いや広瀬のしていた褌だった。
 さやは右手でその白い布を拾い、左手の月香の服と合わせて胸の前に抱いた。そうすることで二人との一体感を得ようとした。しかし、胸に込み上げてきたのは孤独感だった。自分一人が生き残ったという現実に打ちのめされた。
 突然、さやの脳裏にビジョンが浮かんだ。それは広瀬と同じように自分の意識が何らかの存在に侵食されている姿だった。広瀬や月香が去った今、自分の暴走を止められる者は誰もいない、とさやは思った。
 いや、そうはさせない。たとえ自らの手で生を終えようとも、わたしは自分自身を決して明け渡しはしない。さやは強く強く、そう誓った。
 さやは空を見上げた。山の稜線ぎりぎりに太陽が覗いていた。壮大な夕焼けだった。紅に染まった空に誘われるように、彼女は細い山道を登り始めた。
 やがて九十九折りの山道を上り詰めたとき、さやは前方に気配を感じた。正面に駐車してある三台の車が見え、その前の地面に何かが横たわっていた。しだいに暮れていく風景
の中に水色の光が浮かび上がった。