四弦憂歌

female-bassist

 低音が好きなのは、たぶん生まれつきだ。より大地に近い音だからかもしれない。あるいは心音に似ているから。それとも子宮に届く唯一の音だから? 
 その日、仕事を終えて河原町通りを上がって行くと、荒神口にある中古楽器店のウィンドウ内にブロンド色のベースギターが展示してあった。フェンダー社のテレキャスターベースだった。価格は25万。高くてとても買えない。アッシュボディ+メイプルネック+ハムバッキングピックアップの組み合わせは、きっとパワフルな重低音がするだろう。それにネックが細くて弾きやすそうだ。あたしは、ベースが発火しかねないくらいの熱いまなざしを注いだあと、ため息を一つついてから、その場を離れた。
 それから河原町通りを北上し、今出川通りとの交差点を右折して賀茂大橋を渡った。暮れゆく空をバックに東山如意ヶ嶽の支峰である大文字山が見える。突然、あたしの頭の中で大文字送り火の夜のことがフラッシュバックし始めた。
 盆地の八月は蒸し暑く、あたしとシドはクーラーなどない彼の部屋の開け放した窓際に立っていた。汗を吸ったTシャツの下はノーブラで、足下にはスカートと下着が落ちている。あたしの背後にいるシドは生まれたままの姿で、あたしたちは一点でつながりながら、暗い山の斜面で妖しくゆらめく橙色の光を眺めていた。
 ベースを始めたのはシドの影響だった。あたしと由香とで京大西部講堂に出かけたとき、お目当ての一つ前のバンドでベースを弾いてたのが彼だった。あたしは一目惚れして、演奏が終わると迷わずバックステージに向かった。すぐにあたしはシドの女になったけど、彼自身に惚れたのか、その長い指先から弾き出されるセクシーな低音に参ったのか、今となっては定かではない。
 あたしは通ってた大学の軽音に入り、女だけのバンドを組んだ。シドにお古のベースをもらい、ついでに弾き方も習った。あたしは彼に没頭しつつ、ベースにも夢中になった。半年ばかり練習してから、無謀にも老舗のライブハウス磔磔まで出演交渉に行った。デモ演奏の入ったCDを手に必死で食い下がるあたしたちに、オーナーは笑いながらOKを出した。後日わかったことだけど、どうやらシドが口を利いてくれたらしい。
 ある菜種梅雨の夜、バンド練習が急に中止になったので、シドのアパートまで行った。キャンパス近くの花屋の店先に青いニゲラがあったから、彼の部屋に飾りたいと思ったのだ。
 いつものように鉄製の階段を登ってドアの前に立つと、隙間から明りが漏れていた。おかしいな、バイトに行ってるはずなのに。そう思いながら鍵を差し込みドアを開けると、見覚えのあるロングブーツがきちんと揃えられていた。同時に、奥の部屋から声が届いた。あたしは土足のままキッチンを横切って引き戸を開け、電灯のスイッチを入れた。シドに跨っているのは由香で、目を閉じたまま咆哮している二人は、しばらくあたしに気づかなかった。ニゲラの花言葉が当惑だと知ったのは、ずっと後のことだった。
 賀茂大橋を渡り終えると、あたしの中に不思議な感情が芽生えてきた。長いこと囚われていた澱んだ河をようやく越えた気がした。シドと別れてから何度か恋愛をしたけど、心のどこかに彼を基準とする思いがあった。結局誰とも長続きしなかったのが、そのせいかどうかはわからない。あたしは何だか可笑しくなってきて一人でクツクツ笑った。そして踵を返すと、ふたたび橋を渡った。荒神口の楽器屋で、あのベースを買うつもりだった。とりあえず手付け金を払って、残りは何とか工面しようと決めた。
 明日からさっそくメンバー探しや。ピック弾きだけやのうて、2フィンガーもマスターせなあかんな。

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