ベビールースの落下 6

babyruth

 病室を出るとき、彼女は上を見た。ぼくはじっと彼女の顔を見つめた。いつもなら彼女は、また視線を下げてワゴンを押し、部屋から出ていくはずだった。でも、彼女はそうする代わりに不思議そうな表情になった。そして、そのままこちらを見続けていた。ぼくは自分を見られているような気がして、胸がドキドキし始めた。もしかしたらほんとに、ぼくたちは見つめ合っているのだろうか?
 ふいに彼女が微笑んだ。まるで空間に光の花が咲いたようだった。ぼくは死ぬまで、その笑顔に包まれていたいと思った。そのとき急に彼女は不安げな表情になり、天井を見上げた。ぼくは胸騒ぎを覚えた。不意に芽生えた嫌な予感は急速に膨張し、ある確信へと変わっていった。壁の時計を見ると8時15分になろうとしていた。
 ぼくは決心した。リスクは大きかったが、そうせずにはおれなかった。ぼくはバーチャルスクリーン上にあるメニューから自由飛翔モードを選んだ。このモードにするとマーキングが解除される。時間と空間の移動がフレキシブルになり、突然他の時代に転移するかもしれなかった。しかし反面、空間移動の自由度が増すはずだった。
 ぼくは顔を上げて、遙か上空に意識を飛ばした。次の瞬間、ぼくは青一色の空間にいた。眼下には緑の山と群青色の海に囲まれた三角洲があった。空には薄い雲が広がっていたけれど、日射しは強烈だった。天空を仰いだぼくの視線の先に三機の飛行機があった。そのとき、一機から芥子粒ほどの黒い物体が離れ、こちらに向かって落ちてきた。その瞬間ぼくの脳裏に、操縦桿を操作して旋回を始めながら、落下していく原子爆弾と、それにダブるベビールースを想像しているポール・ティベッツの姿が浮かんだ。おそらく彼の目には、落下したキャンディバーを味わう人々の笑顔は見えても、もう一つの落下の結果を味わう人々の顔は見えないのだろう。
 ぼくは即座に、彼女と一緒にいようと心を決めた。そして元の場所に戻れるよう祈りながら、地表目指して数千メートルを一気に飛翔した。祈りは叶えられ、ぼくはふたたび病室にいた。
 不安そうな顔で彼女は上を向いていた。ぼくが見つめると安心したような表情になり、すぐに微笑みが戻った。彼女には、ぼくが見えている! それは間違いのない事実だと思った。きっと心の目で見ているんだ。この世にはそういうこともあるんだなと、ぼくは感動していた。ぼくたちの魂は時空を超えて一つに溶け合ったに違いない。
 ここのとこずっと学んでいた知識がリアルに立ち上がってきた。いくら意識のみがここにあるといっても、無事に済むとはとうてい思えない。生まれて初めて好きになった愛しい人と一緒に、ぼくはたぶん死ぬだろう。母は悲しむだろうかと考えて、ぼくは苦笑した。ぼくたちの時代には悲しみも怒りもない。そういった感情はチップが適切に処理してくれる。そして今、ぼくは理解している。怒りも悲しみもない代わりに喜びもないということを。彼女の時代とぼくの時代、原子爆弾と脳内に埋め込まれたチップの中間に、人類はバランスのいい地点を見つけることはできないのだろうか?

『航法士の記録。午前8時12分、IP(進入点)通過。進路264(真西より6度南)。機外気温マイナス22℃。高度3万1060フィート(9470メートル)。港に船舶8隻を認める。午前8時15分17秒、爆弾投下。43秒後に爆発。』

 島病院の上空567メートルまで落下した原子爆弾の内部で、二つのウランの固まりが激突し核分裂が始まる。
 この瞬間を基点とし、0秒から100万分の一秒の間で中性子が発生し地表を襲う。中性子はあらゆる物質を通過し、人体にも多大なダメージを与える。このとき爆弾の内部温度は250万度。
 100万分の1秒後に爆弾本体が炸裂し、火球が出現。
 100万分の15秒後の火球の直径20メートル、表面温度40万度。
 0コンマ2秒後の火球の直径310メートル、表面温度6千度。
 太陽の表面温度も6千度。地上からわずか412メートルの位置に太陽が出現。
 火球が発する熱線と衝撃波、そしてガンマ線などの放射線が地上を襲う。
 爆発の3秒から10秒後、衝撃波により半径4キロが壊滅。
 そして、さらに……。

 了

chapter 5
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