ベビールースの落下 5

babyruth

 ぼくは今や、人類に向けて初めて原子爆弾を投下した者たちを憎んでいた。ぼくは憎しみという、言葉の上だけで知っていて実際には味わったことのない感情を、生まれて初めて体験していた。そしてこの感情こそが、過去における人間に苦しみや惨めさを味あわせてきた張本人だと知った。
 そこにどんな理由があろうと、おまえはおまえの側で正しく俺はおれの側で正しいといった認識があろうと、人類が繰り返してきたジェノサイドの一つに過ぎないという意見があろうと、ぼくはこの行為を許すわけにはいかない。なぜなら、ぼくの愛する人が殺されるから。そして実は、ぼくのこの思いは、同様な誰かの思いでもあるだろう。誰だって愛する人を殺されたくはない。
 この人類史上初めての原子爆弾の使用は、その後の人類に多大な影響を及ぼした。現代にいるぼくにとっても、もちろん無関係ではない。原子爆弾はその後、水素爆弾や中性子爆弾などに発展し、使用方法も航空機からの投下からミサイル搭載へと変化した。そしてある日、世界中に林立するミサイルが空を飛び交い、ついに世界は統一された。異種のものがいなくなったから、争いも無くなるはずだった。しかし平和が続いたのはしばらくの間で、人々はまた争い始めた。
 あるとき一部のエリートが人間の脳にチップを埋め込むことを協議し、それは実行された。人口が少な目な今が好機だと判断されたとか。当然、ぼくの脳内にもチップが入っているはずだ。
 そう思ったとき、ぼくは愕然とした。ぼくは人間の頭上に原子爆弾を投下した者たちを憎んでいる自分に気づいたが、チップがある限りそんな感情を抱くはずがなかった。ぼくの体は狂い始めているのだろうか。今回のアクセスが終わりしだい検査を受けてみようと思った。でも、憎しみという感情は人の心を捉えて離さない魔力があるということにも、ぼくは気づいていた。
 今回のアクセスがこれまでのように成功すれば、ぼくは再び彼女に会える。もっと言えば、今後もアクセスの度に会うことができる。ぼくは年老いるが、彼女は永遠に彼女のままだ。理屈はそうだ。理屈はそうだけど、ぼくはふと、彼女に会えるのはこれが最後になるような気がした。どうしてだかはわからない。
 ぼくは明日のアクセスに向けて調査の仕上げをした。ポール・ティベッツのことをもっと知りたいと思ったので、彼についていろいろ調べた。実際に原爆を投下した人間たちのリーダーだった男が気になったからだ。調べていくうちに、彼がパイロットになろうと決心したエピソードがとても印象に残った。
 ポール・ティベッツが十二歳だったある日、彼はパイロットと同乗してオープン・コックピットの複葉機上にいた。発売されたばかりの『ベビールース』というキャンディバーを、宣伝用にばらまくためだった。彼の父親が菓子類の卸を生業にしていた関係で、この企画が実現したのだった。パイロットの提案で、ベビールースに小さな紙のパラシュートが取り付けられた。複葉機が競馬場の観覧席上空に差し掛ったとき、彼は空中にベビールースを放り投げた。いくつものキャンディバーは、パラシュートを開いて空中を漂いながら落ちていった。
 このエピソードを知ったとき、パッケージに陽光を反射させながらゆっくりと落下していくベビールースを、じっと見つめている十二歳のポール・ティベッツが、ぼくの脳裏に浮かんできた。この日を境に彼の人生は変わったのだ。
 アクセスの朝、ぼくは8時過ぎには家を出た。ずいぶん早いのね、と出がけに母が言った。今日はとても大事な日だからと応えて、いつもより長めに母の顔を見た。夕飯までには戻りなさいよという母の声を背中で聞いて、ぼくは図書館に向かった。
 ぼくは7時40分にアクセスを開始した。アクセスは順調に進んで、ぼくはまた病室の天井近くにランディングした。壁の時計を見た。7時46分だった。前回はたしか7時44分だったから2分のずれが出たことになる。
 前二回と同様に、ワゴンを押した彼女が病室に入ってきた。ぼくは今回はずっと一緒にいようと思っていた。例えて言えば、守護天使のように彼女に寄り添い見守っていたかった。ぼくはトレイを配り終えて病室を出る彼女の後を追った。調理室に戻った彼女は新しいトレイをワゴンに乗せ、他の病室に向かった。そうして、もう二室への配膳を済ませた彼女は、手術室の前に立ち、辺りを見回したあと中に入った。そして手紙を読み、涙を流した。いったいどんな悲しみが彼女を捕えているのだろう。ぼくの目の奥にも温かい泉が生じた。手紙をしまった彼女は調理室に戻り、ワゴンを押してトレイの回収に向かった。

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