ベビールースの落下 2
彼女は髪を頭の後ろに結い上げ、その上に帽子を乗せていた。ぼくの位置から細く白い首すじと髪のほつれが見え、ぼくは体が急に熱くなるのを感じた。
ワゴンを押して部屋を出ようとしたとき、彼女はまた上を向いた。その視線を捉えようとした瞬間、視界がすっと暗くなり、アクセスが終了したのだった。
そして今、ぼくは二度目のアクセスをしている。今のところマーキングの精度に問題はなく、前回と同じ時と場所に飛ぶことができた。飛ぶといっても人間の意識が時空を移動するのであって、五感を持った生身の肉体が出現するわけではない。だから、音も聞こえないし、匂いもなく、ただ視覚だけが時空を超える。どういう仕組みになっているのか、ぼくにはわからない。
病室のベッドには、前回と同様に六人の入院患者が横になっている。身に付けているのは粗末な布製の衣服で、ボタン留めではなく、胸の前で左右の布が合わさっている。いったい何という名の服だろう。
窓からの陽光は病室の床に反射して、室内を光の粒子で満たしていた。射し入る角度からすると太陽はまだ低い位置にあり、おそらく朝日だろうと思われた。いったい今はいつで、ここは何処なのか? ぼくは時代特定作業を始めなきゃなと頭の中で呟いた。
ランダムに飛翔して、ある時代にランディングしたとき、目に映る情報のみで判断しなければならない。いったんランディングしたら、そこから時が刻まれる。しかし空間的に自由に移動して、また元の場所に戻ることは、今のマシンの性能ではできなかった。それが可能な範囲は、最初のランディングポイントから起算して、360度方向にせいぜい30メートルだった。
ぼくは、さっそく移動してみようとしたけれど、もう彼女が部屋に入ってくるはずだと思い直した。彼女が老婆たちに食事を配り終えて部屋を出ていき、ふたたび戻ってくるまでの間に、この辺りの探索をしよう。
そして彼女は、こないだと同じように慈愛に満ちた目をして部屋に入ってきた。ワゴンから食事の乗ったトレイを出して、一人ずつの横に置いていった。老婆たちは彼女の顔を見て、軽く頷きながら頬をゆるめた。そのとき、開いた窓からの風がカーテンをあおり、室内に吹き込んだ。その風は彼女にまといつき、首筋のほつれ毛を小さく揺らした。
ぼくは、それを見て胸に感動が込み上げてきた。ただ存在しているだけで美しいものがあることを初めて実感したと思った。彼女はトレイを配り終えると、病室から出て行った。
ぼくは彼女がまた戻ってくるまでに時代特定作業をしようと、空間移動モードに入った。視線の向かう方向に視点が動き、それに連れて見える景色が変化していく。肉体ではないので、壁などの固体も通過できる。ぼくは彼女の去った方向に進んでみた。
廊下を行くと、前方から彼女と同じような服装の女性が二人歩いて来て、白いコートを着た中年の男がそれに続いていた。彼らはぼくの眼下を通り過ぎ、廊下の奥の部屋に入って行った。
さらに進むと、明るい光が射し込んでいる縦長の枠があった。近づくにつれて、それはドアが開かれた出入り口だとわかった。その右手には長椅子が置いてあり、そこに老齢の男と、子供連れの女が座っていた。子供の髪は目の上で真横に切りそろえられ、短いスカートを穿いていた。
ぼくは日射しの中に出ていった。建物の外部は光に溢れていて、目が慣れるまで少し時間がかかった。道路を挟んだ向かいの建物の前に、赤く塗られた高さ一メートルほどの円筒形の置物があった。ぼくは少しばかり高度を上げてみた。一帯は低い家々が連なっていて、二階建ての一階部分の屋根に看板を出している家や、建物の前にクルクルと回るオブジェを取り付けている家などがあった。オブジェは赤、白、青の帯が溶け合って回っていた。そしてそれらの家々が面する通りには、半袖の衣服を着た人々が行き交っていた。
ぼくは一通り辺りを見回すと、そうだ病院の外観を見なくてはと振り返った。斜めに見下ろす形で病院の全景が目に入ってきた。一辺が40メートルくらいの四角形の敷地に、中庭をコの字形に囲むようにして、煉瓦造りで二階建ての建物があった。
正面の入口に看板が掲げてあったので、それを見るために視点の高度を下げた。看板には文字が書かれてあり、それは象形文字だった。ぼくはバーチャルスクリーン上にあるツールメニューからカメラを起動し、看板をフレーム内に捉えた。そして『島外科』という象形文字を中心に据えて撮影した。今回のアクセスを終えたらすぐに文字の意味を調べようと思った。
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