ベビールースの落下 1

babyruth

 ルルルルル。腕に付けた携帯テレビ電話が小さく鳴った。同時にディスプレイ上に顔が現れ、ブースが空きましたと言った。図書館司書の女性だった。
 ぼくはソファから立ち上がり、受付に行った。たったいま見たばかりの女性が、微笑みながら認証キーを差し出した。ぼくはキーを受け取り、レファレンスルームのドアを開けて中に入った。20メートル四方の天井の高い部屋には、中央に大きな円筒形のマシンがあり、その周囲に四つのブースが設置されていた。ぼくは指定されたブースに入ると、椅子に座りヘッドセットを装着した。
 ヘッドセットはヘルメット型で、内部にはバーチャルスクリーンが設置されている。ヘッドセットを被ると同時にスクリーンが明るくなり、メニューが現れた。メニューの操作は視線で行う。視点の位置のボタンがアクティブになり、それを押すには押すというイメージを抱くだけでよい。いわば念でクリックするということだ。ぼくはトップメニューにある栞を選んで、保存してある作業中のワークを呼び出した。
 ぼくはスクールでの基礎課程を終え、専門課程として歴史を学び始めたところだ。過去の出来事を知り、そこから得たものを現在や未来の社会にどう生かしていくかというのが、ぼくに与えられた課題だった。ぼくの家は裕福ではなかったけど、ぼくの特性を低年齢で見出すことができたため、国の特待生としてスクールの一員になることができた。
 今や選ばれた一部の者にだけ、学ぶことが託されていた。その他大勢の人間にとって、それは必要のないことだった。人々は脳内にチップを埋め込まれており、そのチップからの情報によって生きていた。自分であれこれ考える必要もなく、不安や不満を抱くことのないように統制されていた。どんな境遇にあろうと、脳内に快楽物質のDが適宜に分泌される設定になっていた。
 作業中のワークを呼び出す指示を受け取ったマシンは、微妙な振動を伝えながら動き始めた。今回のサーチは自由飛翔ではなく、マーキングしておいた時と場所に飛ぶものだった。自由飛翔していて、ある時代に興味を抱き、その時と場所に再び飛びたいと思ったならば、マーキングしておく必要がある。そうしないと、今のマシンの性能では任意の時と場所にアクセスするのは不可能だった。
 マシンは昔の言い方でいうとタイムマシンで、時空を超えて過去や未来にアクセスすることができる。ただ、未来へのアクセスは禁止されており、自由飛翔は過去だけに限られていた。そして、時空を超えるといっても三次元の肉体がではなく、いわば意識体が移動するにとどまっていた。
 振動がひときわ大きくなったかと思うと急に静かになり、目の前に前回見た光景が現れた。そこは室内で、六つのベッドが置かれ、人が横たわっていた。病室らしかった。室内は明るく、開け放たれた窓から光が射し入っていた。部屋の壁には時計が掛かっていて、時刻は7時44分だった。彼らは白人ではなく、東洋系の顔をしていた。ぼくは、あの人にまた会えるだろうかと思った。
 前回ここにアクセスしたとき、しばらく室内を見ていると、白い服と白いストッキング、そして白の帽子を身に着けた女性が、小さなワゴンを押しながら部屋に入ってきた。彼女は食物が乗ったトレイをベッドサイドにある机に置いて回った。口を動かして何かを言っていたけど、残念ながら音は聞こえない。
 そのとき、ぼくの視点は天井近くの室内を見下ろす位置にあった。彼女はぼくより幾つか年上のように思えた。といっても二十歳を越えているようには見えなかった。とても綺麗な顔立ちをしていて細身だった。
 その人は部屋を出るとき、ふと天井を見上げた。優しい眼差がぼくを見つめた。いや、ぼくの姿は見えないはずだから、ぼくを見つめたのではないだろうけど、なんだかドキドキしてしまった。ぼくはまだ女性と付き合ったことがない。
 見上げていたのは、ほんの数秒のことだった。でも、ぼくはその瞬間に、その人に恋をしてしまっていた。
 それからしばらくの間、ぼくは室内を観察しながら彼女を待ってみた。もう少し待てば、また部屋に戻ってくるかもしれないと思ったからだ。患者は、いずれも老女だった。どの顔も深い皺に覆われて、目には表情がなかった。
 タイムリミットが迫っていた。時空を超えるためにマシンは莫大なエネルギーを消費するから、アクセス時間は30分と決められていた。
 リミットがあと2分になったとき、先程と同じワゴンを押して彼女が部屋に入ってきた。食べ終わった食器を片づけに来たのだろう。患者に一人ずつ声をかけながら、食器の乗ったトレイをワゴンに収め始めた。彼女が話しかけると、それまで生気を失っていた老婆たちの表情が明るくなるのがわかった。嬉しそうに彼女の顔をじっと見つめている。

chapter 2
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