スタック


 果樹園に着くと、ヤスは奥まった場所の小道にバックで車を乗り入れた。降りしきる雨で後方の視界が悪い。見当をつけて車を進めると、すぐに彼は体の平衡感覚に違和感を覚えた。
「なんか変じゃ」
 ヤスは助手席の裕美子に言った。
「傾いとるよ」と彼女が返す。
 トランスミッションをPにしてサイドブレーキをかけると、ヤスは車の外に出た。途端に雨が顔に降りかかる。車の後ろに回ると、道を外れて傾いている車体をテールライトが照らしていた。
「なんてこった」
 彼は、ひとりごちると車内に入った。
「どうしたん」と裕美子が訊く。
「脱輪しよった」
 そう答えながらヤスはギアをLに入れ、サイドブレーキを外してアクセルを踏み込んだ。簡単に抜け出せると思っていたが、後輪が空回りしている音がするばかりで、車は動かない。FFなら脱出できたのにFRだからな、とヤスは心の中で舌打ちした。
「心配いらん」
「なんか手伝おうか?」
 裕美子が、のんびりした声で言った。
「おれが押すけえ、運転してくれ」
「ええよ」
 甘い夜になるはずだったのにと思いながら、ヤスは外に出た。
 そうや、懐中電灯が要るな。彼が再びドアを開けると、裕美子が尻を運転席に移し、助手席に残った脚を持ち上げるところだった。スカートがめくれて、白い太股が露わになった。ヤスは視線をはぎ取るようにしてドアを閉め、後ろのドアを開けて床マットを取った。次に、トランクに積んである工具箱からスパナを出した。それで後輪の前側を掘ってマットを差し込み、タイヤの空転を止めるつもりだった。
 彼はマットをセットして裕美子に合図し、渾身の力で車の後部を押した。彼女はアクセルをふかし始めたが、後輪は濡れた泥を跳ね上げるばかりだった。
「まいったな」
 ヤスは再び、ひとりごちた。
 夜が明けて、大勢の人間が傾いた車を取り囲んでいる情景が脳裏に浮かんだ。こんな場所で何しとったんか。まさか雨の日にUFO見物でもあるまいて。彼らはニヤニヤしながら、口々に勝手なことを言っている。ヤスは、そんな想像を追い払うように頭を振った。そして懐中電灯で照らしながら、さらにタイヤの前側を掘り、泥まみれのマットをしっかりと差し入れた。
 運転席のドアを開けると、裕美子は既に助手席に戻っていた。ヤスは濡れた髪を掻き上げ、ハンドルに手をかけて右に切りながらアクセルをふかしていった。
 空回り。危機感の共有は難しい。
 今度は思い切って左にハンドルを切った。左方は脱輪側だが、何となくうまくいくような気がした。アクセルをふかすと車体がグアッと持ち上がり、タイヤが地面に食い込む振動が伝わってきた。やった! ヤスは透かさずハンドルを回して、小道の中央に車を進めた。ギアをPに入れてサイドブレーキをかけると、彼は大きく息を吐き出した。
「やったね」
 裕美子が弾んだ声で言った。
 ああ、と応えようとして、ヤスは口の中がからからなのに気づいた。それと同時に、ある種の喜びが身中を満たすのを感じていた。
 結局、と彼は思う。こんな危機とも言えんような危機を一つ一つクリアしていくんが、生きる目的みちょうになってもうた。
「心配したか?」
 ヤスは裕美子に訊いてみる。
「何とか切り抜けると思っとった」
「そうなんか」
「うん」
 切り抜けられんようになる日が、いつかくるかもしれん。まあ、そん時はそん時じゃ。 ヤスは左手を伸ばして裕美子のうなじに触れた。柔らかな髪が指をくすぐったとき、両手が泥まみれなことを思い出した。
「手、汚ねえや」
「別にいいよ」
 裕美子は言いながらヤスの手を取って、人差し指の辺りをぺろっと舐めた。彼女の舌の感触が官能の矢と化して彼の中心を射貫く。ヤスは、ゆっくりと裕美子を引き寄せた。

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