さらば、ともよ
新しくできた自動車専用道路を空港方面出口で下りて、智は空港のそばにある公園の駐車場に向かった。このハンドルを握るのが、もうあと数分限りだということを頭ではわかっていても、長年かかってできた体と車体との一体感がそう簡単に消え失せるはずもなかった。
空港の建物を左手に見て直進すると公園に至る坂があり、それを上がりきると、駐車場の一角に銀色のポルシェが停まっていた。近県からこの車を受け取りに来た取引相手のはずだった。
智がその隣の駐車スペースに乗り入れると、同行してくれた友人の車がポルシェを挟んだ反対側に停まった。車を渡したあと彼が家まで送ってくれることになっていた。智はエンジンを切るためにキーに手を伸ばした。
この車と初めて対面したとき、おれに乗りこなせるだろうかと智は思った。金持ちやヤクザの乗る車だという先入観があったし、何よりその押し出しの強いフロントビューが、彼を弱気にさせた。傍らに立つ岸本が「いい車でしょ?」と言い、智は「ええ」と曖昧に答えた。
岸本は環八沿いにある外車販売店のオーナーで、車を探していた智が店のサイトをネットで目にして問い合わせた。何度かメールで遣り取りする内に、岸本が趣味でドラムを叩いていることを知り、自身もバンド経験がある智と岸本は意気投合した。初めての外車で、できればずっと乗れるものを探してて、予算はわずかだと言うと、これがベストでしょうと岸本が勧めてくれたのがW124と呼ばれる93年式のこの車だった。
智は購入を決めて東京まで受け取りに行き、千キロを走って持ち帰った。途中さっそく覆面パトに捕まったりしたが、道中ずっと運転する喜びを味わっていた。人間と物との間にも相性があるとしたら、まさにこの車とおれはしっくりくると智は思った。
以来、大したトラブルもなく乗り続けていたある日、車以外のことでトラブルが起こり、金の工面の一環で愛車を手放すことにした。そうしたくはなかったが、生きていると、どうしようもないこともある。
車外に出ると、ポルシェの運転席から男が下りてきた。会うのは初めてだった。
「こんちは」と智が言い、男は軽く会釈した。
「遠いところをお疲れです」
「いい天気だし、高速を下りてからの道も快適でしたし。帰りが楽しみです」
男はW124を見ながらニカッと笑った。
男のことを好ましく思いながらも、智の内に複雑な感情が立ち上がってきた。それは嫉妬と羨望と諦めが混じり合ったような、病み上がりに飲むブラックコーヒーのような、そんな思いだった。
「気に入ってもらえると嬉しいですが」
「画像で見るより全然いいですね。やはり質感が違う。ドアを閉めるときのドスッという音が車の中からでも聞こえましたよ」
「95年式までは、作れば作るだけ赤字になると言われたくらいに手をかけてたみたいですし」
「うん、それを実感しました」
男は車に近づき、ボンネットを右手で軽く叩いた。智がよくやる仕草だった。こいつは持ち主が変わろうとしていることを知っているだろうかと思いながら、智は男に言った。
「じゃあ、キーと書類を渡します」
「あ、そうそう、それを済まさなきゃね」
男は車に引き返して、助手席の女性から紙包みを受け取り、智に手渡した。その手応えに智は思わず涙ぐんだ。少ない金額ではなかったが、たったそれだけの重さを得るために、おれはかけがえのないものを手放そうとしていると思った。
「大事に乗りますから」
男は運転席に乗り込むとエンジンをかけた。
いよいよお別れだった。智はいつものようにボンネットをポンポンと叩いた。そのときエンジンの響きの向こうから、さらば、ともよ、と言う声が聞こえたような気がした。
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