かすみ草の咲く頃に
ベルの音が遠くで鳴っている。そして次第に近づいてくる。とうとう耳元までやってきた。智也は目を閉じたまま、腕を伸ばして時計をつかもうとする。その手に何か柔らかく暖かいものが触れた。同時にベルが鳴り止む。目を開けると、茉莉がこちらを見て笑っていた。
「おはよう」
「起きてたの?」
「さっきね。ずっとあなたの寝顔をみてたの。以外と可愛いいのね」
「可愛いもんか」
「ねえ、今日お仕事でしょ?」
「ああ、もう起きなきゃ」
「休むわけにいかないの?」
智也はちょっと考えてから答える。
「無理だな。配達は俺一人しかいないからなあ」
「そう」
茉莉は残念そうな顔をする。智也は手の指で茉莉の少し栗色がかった細い髪を梳いてみる。昨夕やってきた彼女はめずらしく泊まっていった。夫は仕事で地方に出かけたらしい。
「でも一緒に眠れたからいいわ」
「あまり寝かせてくれなかったくせに」
智也がそう言うと、茉莉は優美に含み笑いをして彼の鼻筋に沿って指を這わせた。
いつもそばにいれる訳ではない二人にとって、今朝のようなひとときは貴重なはずだった。アルバイトの一日や二日休んだって大したことじゃないと考えることもできたろうに、智也にはどこか融通のきかない面があった。仕事先に迷惑をかけたくないという律儀さだけでなく、いったん思い込んだことは曲げにくい頭の固さがあった。相手より自分の気持を優先する人と思われても仕方なかった。
「またこんど配達に連れていってね」
「弁当屋のバンなんて茉莉には似合わないよ」
「どんな車でもいいの。あなたと一緒なら」
かつて配達途中に茉莉を乗っけて町を走り回ったことがある。花屋の前を通りかかったとき彼女は、ちょっと待っててね、と中に入っていった。しばらくして彼女は両手いっぱいにかすみ草の花束を抱えて現れた。
「部屋に飾ってね」
「こんなにたくさん買っちゃって」
「いいの」
「まいったな。でも、ありがと」
その時の花束はドライフラワーになって、今も壁から逆さまにぶら下がっている。
智也はベッドから出て、素裸のままコーヒーを煎れた。まだシーツにくるまっている茉莉にカップを手渡す。
「いい香りね」
「モカだけど」
「わたし好きよ」
二人でゆっくり目覚めのコーヒーを飲んだあと、智也は出かける用意をする。
「もう一泊してく?」
「夕方には帰らなきゃ」
「そうか」
「ごめんね」
「いや。ゆっくりしていってよ。鍵はいつものとこに」
そう言いながら智也は、もしかしたらこのことで先々悔やむことになるかもしれない、とふと思った。
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