うさこの冒険

usako

これは、詩人で友人でもある「しーや」との、かわりばんこ創作です。
しーやがmixi日記に書いた短文を読んだわたくしが、コメント欄に何となく続きを書いたことに端を発し、しばらくの間やりとりが続きました。
2005年5月29日~同年11月19日のことです。
完結したわけではなく、「つづく」になったままなので、またいつの日にか再開されるやもしれませぬ。
あらかじめ決められたストーリーがあるわけじゃなく、お互いの書いたものに触発されて次をというスタイルで、ジャズやロックの即興演奏みたいに楽しんで書きました。
しーや、ありがとう!

しーやの詩ブログ  歳寒三友


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シナモンの香りのする家に
花柄のワンピースの女の子が住んでいます
窓からは赤い花が見える

彼女はもう二度恋人と別れていて
赤い花を見ながら窓辺で
彼等との想い出を思うことに
もうすっかり退屈していたので
赤い花だけを見る事にしました

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t:
それからしばらくのあいだ
赤い花をみつづけていると
瞳が朱に染まってしまったので
その色を洗い流すために海へと向かいました
こうしてまた彼女の旅ははじまったのです

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s:
海へ向かう坂道の途中にりんごの木があって
しろい花びらが風に舞って飛んでいました
彼女は少しいい気分でした
海からの風が前髪を飛ばしておでこをなでるから

坂道をくだりきった月極駐車場の前の交差点で立ち止まると
つまさきのさきに青い軍手が片っぽ落ちていました

切り落とされた左手と思うのはあまりにもナンセンスなので
リクアオヒトデという名前をつけてあげました

リクアオヒトデは嬉しくなって彼女にお礼を言いました
それから、恥ずかしそうに真っ赤になって
あなたは因幡の素兎の生まれ変わりではないですか?
わたしは大国主神の生まれ変わりなんですと言いました

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t:
そのとたん彼女の目の中で光がはじけ
水音がきこえはじめました
頬に風を感じて
しばらくそのままでいると
まばゆい光がすっと収束し
彼女は、自分が大きな河のほとりにたたずんでいることに気づいたのです

ふと流れをみると
岸から近い水中に、キラリと光るものが水のくねりをとおして見えました
彼女ははいていた靴をぬぎ、流れに入りました
水は心地よい冷たさで
彼女の形のよい白い足先から駆け上がってきました

彼女が水中から拾い上げたもの
それは一振りの剣でした

彼女には予感がありました
これから
ちょっとばかり
勇気をためされることが
自分の身にふりかかってくるのだと

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s:
「あ、剣!ナイス!」とうさぎは言いました。大きな河には鰐鮫がうじゃうじゃしています。その中のリーダー格っぽい奴が「おう、あんときのうさぎがまた来とる、なんじゃいワレ」と言いました。

「大国主神が青い軍手になって月極駐車場の前に落ちてる様な世の中になったんはあんたらのせいじゃアホ」とうさちゃんは、アップルパイみたいな匂いを振りまいてハハンと笑いながら言いました。

「懲りない奴じゃいてこましたる」とリーダー
「多勢に無勢だけど、べつにいいよ」とうさちゃん
「だって昔からずっとそうだった。あんたたちみたく群れてる醜い奴らをあたしは憎んでた。八十神までもが群れて寄ってたかってあたしを塩水に浸けたんだし、嘘吐いた罰、欺きの苦汁をたっぷり飲んだよ。ハッキリ言ってあんたたちなんか怖くないもん」

すると剣は、光を放ちながらちょうど手のひらに収まるくらいの大きさの輝く石に変わりました。
「ほら、これがほんとのあたしの姿」

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t:
うさは小さな前足で光る石をつかみ、高く捧げました。石からの光は七色に変化して鰐鮫らのまなこを次々と射ました。
リーダーが声色を変えて言いました。
「おめえを好きになったわけじゃねえが、いてこます理由もなくなった」
うさは、せせら笑って、ぺっと地面にツバを吐きました。
「どういう風の吹き回しかしら」
「風じゃねえ、光だあな。たぶん石の光にやられちまったのさ。おめえにとっても悪くねえ展開だろうが」
「あたしだけでも、あんたらなんかに」
「減らず口を叩くな、このうさ公め。いいかよく聞け。もうじきこの川岸に八岐大蛇(やまたのおろち)が水を飲みにくる。いつも酒を飲んでいるから、喉がかわくんやろ。うさ公、おめえ八岐大蛇のこたあ知っとるけ? ほおずきのような紅い目をもち、1つの胴体に頭と尾がそれぞれ8つずつついとる。その身体には、苔や桧、杉などが生い茂ってとる。体長は、8つの谷と8つの峰にわたるほど大きく、腹部は、真っ赤にただれ、いつも血が流れて」
「うるさいわね」とうさは、うんざりした顔で言った。
「そのくらい知ってるわよ」
「あそ。そんなら話は早え。悪いこたあいわねえ、逃げた方が身のためやで」
「逃げるって、どこへ」
「海へ」
リーダーがそう言ったとたんに鰐鮫たちは体をクルリと反転させると、いっせいに精液を放出し始めました。精液は濃霧のように辺りに立ちこめ、うさは、まるでブラチスラバの黄昏みたいと思いました。
「これでしばらくは、こいつらがおめえを襲うこともねえだろう。さあ、乗れ」
「乗れって、何に乗るのさ」
うさが言い終わらないうちに、鰐鮫たちは機敏な動作で隊列を組み、一艘のイカダが出来ていました。
そのとき遠くの方から、地響きが聞こえ始めました。
「さ、はよう」
「はっ」
気合いとともにうさが飛び乗るが早いか、イカダは猛烈な勢いで川を下り始めました。

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“わにざめいかだ”のスピードは思ったより早く、うさこは
「いけーいけーわにざめ号!すすめーすすめーわにざめ号!」
と浮かれて歌を歌いました。

「八岐大蛇がいるってことはここは簸川?」
すっかり観光気分でいかだの上に寝っころがって空を見上げています。どこまでも澄んだ晴天の空はあっけらかんとして、うさこを少し物悲しい様なセンチメンタルな気分にさせました。
不意にいつも窓から眺めていた赤い花を思い出し
「サウダージ…」とつぶやくと、うさこの声は激しい川の流れに混ざって消えた。

「昔ね友達が、おんなは港おとこは船だ。わかるか?って言ったんだけどあたしよくわかんない」鰐鮫のなかのひとりがクスリと笑って「そいつはおとこのロマンって奴だ」と独り言を言いました。「おとこのロマンってなーに?」「まぁおめさんみたいに生意気な小娘にはわかんないね」「へーそうなんだ」「そういうもんだ」

うさこはちょっぴりイライラしました「鰐鮫って猛悪なんじゃなかったけ?」「おうよ」やっぱりこの程度の悪に流れるのって簡単なんだわ。

うさこはすっくと立ち上がり「まあ、いろいろありがと。やっぱりあたし八岐大蛇に会ってみる」と言うや否やザバンと川に飛び込んでしまいました。

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t:
飛び込んだはいいが、全身を水におおわれたとたん、うさこは自分が泳げないことを思い出しました。こりゃヤバイと、うさこは十数秒ほど時間をさかのぼって “わにざめいかだ”の上に立つと、今度は岸に飛び移りました。そしてその勢いのまま、得意のぴょんぴょん跳ね走法で川上に戻っていきました。

元いた場所に近づくにつれてドシン、ドスンという振動が強くなってきました。でも、とくに怖くはありません。うさこにとっては、好奇心の方が恐怖心よりも甘味なのです。カメラを持って来なかったことが悔やまれます。

川をさらにさかのぼると辺りに霧が立ちこめ始めました。おっ、雰囲気でてきたじゃん、とうさこは嬉しくなりました。

川のカーブを曲がったとき、突風が吹いて一瞬霧が晴れ、目の前にそいつがそびえていました。苔緑色をした巨大な胴体から八つの鎌首を持ちあげて、クリムゾンレッドな血走った目をかっと見開いています。なんで首は八つなんやろ、ラッキー7という言葉もあるやん、とうさこは思いました。

八岐大蛇は、うさこをじっと凝視したあと、ねらいをさだめて今にもうさこに襲いかからんばかりです。こりゃちょっとヤバイかも、とうさこはとんずら体勢に入りました。

そのときシュルシュルという音とともに八岐大蛇の胴体の一部が割れ、飛行機のタラップのようなものが地上に届きました。

うさこが驚いて見ていると、胴体の内部から人影が降りてきました。人影はうさこに近づくと「はーい、ハニー」と言いました。それはカラフルな衣装をまとった若い女でした。

あんた誰や? と訊くうさこ。
「わらわはプリンセス・クシナーダ」
「なんや、それ」
「ま、いいではないか。それより、そなたはなかなかユニークなキャラをしておるようじゃ。ちょうど茶飲みトモダチがほしいと思っていたとこ。どうじゃ、ちょっと中に入って紅茶でもいかが?」
「中って、なんのこっちゃ?」
「これは、わらわの移動住居、つまりキャンピングカーみたいなものじゃ。空も飛べるけど」
「八岐大蛇じゃないの?」
「そうとも呼ばれておるが、これはロボットで、いわばガンダムみたいなものじゃよ」

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「それではおじゃましまーす」
うさこはクシナーダ姫の後に続いてタラップを登りました。タラップは木造で、かなり手の込んだ彫刻が細部にまで施してあります。たぶん国宝級です。
「素晴らしいタラップですね」
うさこは乱暴な口をきいていたのが恥ずかしくなって、丁寧な言葉使いで言いました。
「ふふ、緊張しないでいいの。あなたこういうの好き?ダンナの趣味なんだけどね、今こんな浮彫できる職人は世界中探したって皆無よ。あーノド乾いちゃった、紅茶じゃなくってビールでもいいかしら?」
姫はスイスイ奥に入っていってしまいました。

うさこはバカラのグラスでベルギービールをもらいました。なんだか知らないけど、姫っていうだけあってお金持ちなんだなー。よく見ると世間離れした美人だもんね。手とか指なんてきれい過ぎて別の生き物みたい…。笑顔にしろ…声にしろ…独特で…不思議な…魅力…の…。広いリビングの大きなふかふかのソファーは心地よく、空きっ腹のビールも効いてうさこは気持ち良くなって眠ってしまいました。

おいしそうないい匂いがしてうさこは目を覚ましました。匂いを頼りにキッチンを覗くと、姫がごはんを作っていました。
「よく眠ってたわね、お腹空いたでしょ?もうすぐできるからお風呂に入ってらっしゃいな」
「うんありがと」
寝起きでぼんやりしたままエスカレーターで地下3階の“天の岩屋戸温泉”に行くと、お風呂場は真っ暗で静かなゴツゴツした岩風呂でした。わにざめいかだから岸に飛び移った時に草で切った後ろ足が少し痛みましたが、うさこは黙ってお湯に浸かりました。ここは本当に真っ暗で静かだなぁ、鰐鮫のおっさん達、こんないい温泉があるの知らないんだから本当に因果だわ。なんて考えながら…。

食堂には10人いても食べきれない程のごちそうがテーブルの上に用意されていました。
「さぁ食べましょ。ワインはどれがいいかしら?これにしましょ!」
姫はものすごくはしゃいでいる様に見えました。ピュリニーモンラッシェの栓をポンと抜いて
「さあさ食べましょ、沢山食べてね遠慮しちゃダメよ」
「あの、あの、すいません、失礼かもしれませんが他の人は?ダンナさんとか」
うさこは飲んだことも見たことも無い高級ブルゴーニュ白ワインにビビりながら、ボッタクられたらどうしよう…逃げるなら今の内かも…とドギマギしました。

「ダンナはね、いま新羅に行ってて留守なの。誰かと食事するなんて本当に久し振りで嬉しくって…たくさん作り過ぎたかしら?」
食事中、クシナーダ姫は饒舌になってしゃべり続けた。本当に誰とも会ってなくて、話し相手がいなくて、こんなに広くて豪華な家にひとりぼっちでずーっといて、こんなにきれいな人なのに、とっても淋しかったんだなぁとうさこは思いました(疑ったりしてごめんなさい)。

それに姫の作ってくれた料理は、全てが完璧で何から何まで細やかな心遣いが行き届いていました。何もかもが丁寧で優しくて美味しくて、うさこは喉の奥に丸めたティッシュペーパーが詰まった様な感じになって思わず涙が出そうになりました。

こんな事で泣いたりしたらせっかくのお食事が台無しになると思い涙をこらえましたが、とうとうポトリ、ポトリとリチャード・ジノリの真っ白なスープのお皿に大粒の涙がこぼれてしまいました。
「うさこちゃん、ごめんなさい、わたし何か変な事言ったかしら?」
「いいえ、違うんです。お料理があんまり美味しいので…」
「そう、なら良かった。本当に沢山食べて力をつけなくてはダメよ、あなたはまだまだこれから旅を続けるんでしょう?わたし、うさこちゃんの事スキよ。がんばってね」
「うん。どうもありがとう。あたし、姫みたいにきれいで優しくて素敵な人に初めて会いました。あなたのこと一生忘れない」

うさこはごちそうになったお礼にお皿を洗おうと思い立ってキッチンへ行ってみましたが、すっかりきれいに片付いておなべもお皿もぴかぴかに磨き上げられ大事に大事にきれいにきちんと棚に収まっていました。

その晩は姫のネグリジェを借りて寝ることになりました。いい匂いがしてうさこは幸せな気分でした。姫が明日の朝「うちの子になる?」って聞いてくれたらいいのに…とちょっとだけ思いました。

次の日の朝、タラップでうさこはクシナーダ姫と別れました。
「お手紙ちょうだいね」
「うん、お世話になりましたどうもありがと」
「また遊びにおいでね」
「うん、ありがとうまたね」
うさこは後ろを振り向きませんでした。
姫の様に気高く美しく丁寧に生きようと心に誓いました。

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うさこはキッと前を向いたまま川のカーブのところまで歩きました。カーブを回りきったとき、うさこの胸に突然寂しさと哀しみが込み上げてきました。姫。もう一度だけ顔を見ておきたい。その思いはとても強く、うさこは耐えきれずにクシナーダ姫と別れた場所に駆け戻りました。でも、そこには何もなく誰もいませんでした。ただ強めの川風が吹いているのみでした。

うさこは涙をポロポロこぼしました。あたしは夢を見ていたのかしら? ひとしきり泣いたあと、うさこが河原に生えたアシの根本を見ると、銀色に光る箱があるのに気づきました。近寄ってみると、箱の上に封筒が乗っていました。薄い水色の封筒でした。うさこは、これは自分宛のものに違いないと直感し、封を開けました。便箋を開くと、空にかかる虹のような文字が並んでいました。クシナーダ姫がうさこに宛てた手紙でした。

『ハニー、ゆうべは楽しかったわ。また遊ぼうね。わたし今からちょっと出かけてくるの。ムー大陸にすむお友達のとこよ。この家はタイムマシン機能もあるから、大昔にもひとっ飛びなの。そうそう、さっきお土産渡すの忘れたから、この箱に入れておくね。腕時計型のミニタイムマシンよ。ただし使い捨てタイプだから2回しか使えないの。つまり、ある時代に行って、また戻ってくるだけ。あ、もちろん、帰って来なくていいのだったら、二つの時代に行けるけどね。わたしを追いかけてムーに来てくれてもいいけど、もしかするとお友達を乗っけて、すぐに違う時代に飛ぶかもしれないからなぁ。とにかく使ってみてね。また会おうよ。with love クシナーダ』

うさこは箱の中から腕時計型タイムマシンを取り出して、腕にはめてみました。少し大きめでしたが、大きさの割にはとても軽く、クロームメッキの部分がとてもいい感じに輝いています。ディスプレイの一部にはマイクのようなものがあり、その横にボタンが付いています。うさこは、それを見てピンときました。つまり、ボタンを押しながらマイクに向かって、自分の行きたい時代と場所を喋ると、タイムマシンが作動するということをです。なぜそう思ったのかは、わかりません。

うさこはワクワクと同時に、切ない気持になりました。なぜなら別れた二人の恋人のことを思いだしたからです。タイムマシンがあるなら、うまくいっていた時代に帰って、もう一度やり直せるかもしれない。今度こそうまくいくかもしれない。でも、でも、いったいどちらの恋人の元に帰るの?

いいえ、あたしは過去になんか囚われないわ。突然うさこは決心しました。あたしは好奇心の強い女よ。未知を求めてイケイケGOGOだわ。ほんの数秒考えたあと、うさこはボタンを押して、マイクに向かいました。

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…。
うさこはボタンから手を離し
「…まあ、戻るんだったらタカシよりヒトシよね、ヒトシの方が一緒に踊ってて楽しかったもん」とひとりごとを言った。

「でもヒトシはウナギとお刺身が嫌いだったんだ!あぁやっぱり考えられない!ウナギとお刺身が食卓にのぼらない人生なんて!最悪!!タカシは好き嫌いがなかったけど雑食すぎ!節操のカケラもなく趣味も頭も悪そうなオンナノコ達にちやほやされていい気になってガキまで作りやがって!最低!!」
と一気に大声でわめき、ふぅーっと大きく深呼吸した。

あーあ、ホントにせっかくタイムマシンをもらったっていうのに、こんなチンケで貧しい発想しか浮かばない自分が情けない。姫の様に颯爽と時代も場所も移動したいものだわ…。そうだ!じゃあ一番好きな場所へ行こう!一番憧れる時代へ行こう!うさこは意気込み、もういちどボタンを押してマイクに向かいました。

…。
うさこは力なくボタンから手を離した。ヘナヘナペタンと河原にしゃがみ込んだ。
行きたい場所がない。行きたい時代もない。あたまがまっしろだ。
一番好きな場所ってなあに?一番憧れる時代ってなあに?うさこは自問自答を繰り返し、うさこ自身がうさこ自身でうさこ自身を深い深い穴へ突き落としたされた。

「突き落としたされた」とつぶやいたらまたポロポロ涙が出てきた。もういやだ。こんな自分。世の中のひとはみんな好きな場所や憧れの時代があって、タイムマシーンがあったら意気揚々と期待と希望でワクワク胸をふくらませて颯爽と出かけていくんだろうな。あたしは一体なんだ、バカみたい。バカみたいバカみたいバカみたいバッカみたい。いい気になってるのはあたしだ。最悪で最低だ。

「はずかしくてかなしい」とつぶやいた。
あたしは過去も今も愛していないから未来を信じる事ができないのだ。フランス革命、ナポレオン、ヘレンケラー、アインシュタイン、アルキメデス、ジーザス、シッダールダ、ヴァスコダガマ、ウィルキンソン、エジソン、ロドリゲス、野口英世、坂本竜馬、津田梅子、いかりや長介…みんな未来を信じて大切に愛した。たぶん。

「クシナーダ姫ありがとう、それからごめんなさい」
うさこはタイムマシーンを腕から外すとポイと川に投げた。ポチャンと魚がはねた様な軽い音がした。顔を上げて音の方を見るとそこには木でできた一艘のちいさな小舟が浮かんでいた。うさこは黙ってそのちいさな小舟に横になり目を閉じた。強い風が吹き小舟はゆっくりと動き出す。

うさこは日比谷の映画館で見た白黒の映画を思い出していた。ジョニーデップが主役でニールヤングのギターがずっとながれている映画。水が流れる音を聞きながら頭の中でデッドマンのサントラがかかっている。こんなにはずかしくてかなしいのになんてナルシストなんだろう…。ふざけてるなぁ。花柄のワンピースの女の子はひざを抱えるようにして小舟の中で小さく丸くなった。

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板一枚をへだてたところにある水の流れを感じながら、うさこは意識がすーっと遠のいていくのを、こちら側から見ていました。瞼の裏にサイケな色彩が現れては消えていきました。やがてあたりは真っ暗になったり、ストロボの点滅みたいに強い光が踊ったりしました。そして再び暗黒になったかと思うと、細かいパズルが合わさるように視界が開けてきたのです。

こちら側のうさこは、小さな家の窓辺で外を眺めている女の子を見ていました。窓の外には赤い花が咲いています。なんや、誰かとおもたらあたしやんか、ははーん、どうやら夢をみているみたいやね、とうさこは思いました。そんなに時はたっていないはずなのに、幼い頃の自分を見ているような気がして、うさこは「へんなの」とつぶやきました。

うさこが自分からふっと目を離したとき、空間がシュワっと弾けて一冊のノートと、ペンを持っている手があらわれました。白く細い指の美しい手でした。うさこが見ていると、手はつつーと動き始め、ノートに文字を書き始めました。うさこがノートに意識を向けると、望遠レンズが動くみたいにぐぐっとノートが近づいてきました。同時にペンを持つ手は動きを止めて、急いでノートを閉じようとしました。うさこの視界にノートが迫り、かろうじてワンセンテンスを読むことができました。そこには、こう書いてありました。『こうしてまた彼女の旅ははじまったのです』

いったいどうなってるの? と、外出の支度を始めた自分を見ながらうさこは思いました。そのとき目の前で光がバーンと弾けて、うさこの目は何も見えなくなりました。まるで輝ける闇のようです。その白い闇の中に小さな点が出現したかと思うと、その点はジグザクに動きながらちょっとずつ大きさを増してきました。ヒラヒラ、ヒラリヒラヒラ、、、それは信じられないほど綺麗な色をした一匹の蝶でした。

ブルーモルフォだわ! 世界でいちばん美しいといわれる青い蝶。うさこは、むかし恋人と観た「The Blue Butterfly」という映画を思い出しました。が、隣の席で一緒に観たはずの恋人の顔がどうしても浮かんできませんでした。えと、えーっと、誰だったけな?

そのとき、うさこの耳に太鼓の音が聞こえてきました。始めはかすかに、そしてしだいにそれは大きくなってきて、しかもその音に混じって鳥や動物の鳴き声のようなものが聞こえてきたのです。ウギャー、ウギャー、クゥイクゥイクゥイクゥイ、キキッ、キキッ、、、。それとともに、うさこの体は熱気に包まれました。暑いだけじゃなく、ウエットな感じです。うさこの目は舞い続けるブルーモルフォを追っていました。

はっと気がつくと、うさこは小舟の上で横になっていました。あ、モルフォは? そう思って、急いで上半身を起こすと、回りには見慣れない景色が広がっていました。川の両側は、うっそうとしたジャングルでした。鳴き声がした方向を見ると、手の長い猿が高い木から木へと飛び移るところでした。岸の方からの水音は、大きな鰐が川に入る音でした。

川には流れがあって、小舟はゆっくりと流されて行きました。モルフォは小舟の前方を優雅に飛んでいます。しばらく流れたあと、右手に船着き場が見えてきました。ボートが2艘、波に漂っています。船着き場の奥には複数の小屋が見えました。どうやら小さな村になっているみたいです。モルフォは船着き場の上を旋回し、その動きに導かれるかのように、小舟は船着き場に近づいていきました。うさこは多少の不安とともに、持ち前の好奇心がムクムクムクリと頭をもたげるのを感じていました。

「いったい、あたいは、これからどうなるんやろ」
うさこは、情感たっぷりにそう言うと、カメラ目線で村の方を見やりました。まるで映画のヒロインのようにして。

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あおい空に突き刺さっていくように高く伸びたヤシの木からするすると子供が降り小屋へ走ってゆくのが見えた。小さくなってゆくやせて日に焼けた背中を見つめていると、ふとったハチが「ぶん」と低い羽音をたてて目の前をかすめ、突然うさこの太腿ほどもある巨大な魚が飛び跳ねそのハチを食べた。
「どぼん」とも「ばしゃん」とも違う重い音が響き、水しぶきが立ち小舟が大きく揺れた。

うさこは腰も抜けない程のショックで呆然と立ち尽くす。何?今の?もう一度スローモーションで見てみると、巨大魚のうろこは足の親指大ほどもあった。うさこは咄嗟に自分で自分をさわりまくり、欠けている部分が無いか確認した。顔、耳、頭、首、肩、腕、手、指、胸、お腹、お尻…大丈夫生きてる。むせるほど濃密な空気がゆっくりと漂う。花の蜜、厚い葉のつややかな深い緑、湿って濡れた土の黒。頭の奥がしびれる様な、鼻腔に絡み付く様な強い存在感で景色全体がうさこを迎え入れていた。

うさこは欄干に手をかけて小舟から陸に上がると、さっきの子供が小屋から飛び出しこちらに走ってくるのが見えた。軽やかで力強い筋肉が小さな爆発を繰り返す様な走り方は美しい。

「アニーダ ケテ コモン カテロ イロンダ」
子供は1m手前でピタリと止まりうさこをまっすぐ見据えそう言った。
うさこがきょとんとしていると、もう一度ゆっくりくりかえした。
「アニーダ  ケテ  コモン  カテロ  イロンダ」
「…イロンダ?」
とりあえずまねをして語尾を繰り返すと子供はうなずきてのひらを差し出した。ちいさなてのひらの上には葉っぱで何かを包んだ様な消しゴム大の物が載っていて、子供は手を口元へ近付ける動作を繰り返し「カテロ カテロ」とその包みを差し出す。
「カテロ?」
うさこが包みを受け取り、葉っぱをはがそうとすると
「ニカラ!ガロ ガロ!」
と激しく怒った様子を見せたので、うさこはそれをそのまま口に放り込みました。

ぐわがっしゃんぐわがっしゃんういーんぐぁしゃん
ひどいノイズが鼻の穴から毛穴のひとつひとつ、穴という穴から、口からも空気と一緒になって溢れる様に体内に入り込み、脳の奥で繋がって、血管の内側で暴れまわり、聴覚にたどり着いて目が覚めた。目の奥が痛い。うっすら目を開けるとTOSHIBAの扇風機がゆっくり首を振っていた。窓際の事務机に水色の作業服を着た初老の男性が見える。半そでの袖ぐりに“東京ミンチ”と山吹色の糸で社名が刺繍されていた。

「うー」
うさこは何かしゃべろうとしましたが舌も喉も痺れて声がうまく出ません。初老の男性が気付いて近付いてきました。
「おじょうさんは日本の方かな?」
火曜サスペンス劇場のセットにでてくるような黒い革のソファ。
「東京ミンチの笹岡と申します」
黄ばんだ名刺を差し出した。
「うーうーうー」
「大丈夫心配しないで下さい。私は悪人ではないですよ」

笹岡さんは“東京ミンチ”のポンガケテラ島工場の工場長及び経理、事務、作業員であり、倹約家で発明家で、たったひとりでこの工場を取り仕切り、たったひとりでこの工場に住んでいるのでした。“東京ミンチ”は世界中から注文が来るひき肉卸業者で東証一部上場企業になったのは笹岡さんの発明のおかげなのだそうです。

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「おなか空いてないかね?」
笹岡さんがそう訊くと同時に、うさこのハラがグゥと鳴りました。
「ははは、何か作ってあげよう」
笹岡さんは事務所の片隅にある小さなキッチンに立つと、冷蔵庫から食材を出して調理を始めました。フンフンフンと鼻歌を歌いながら楽しそうに包丁を操っています。
「米と赤豆を炊いて、さらに炒めて作るアロス・コン・フリホレスという料理を作るよ」
「あーいーうー」
 うさこの舌はまだまだ痺れており、うまく話せません。
「え? レシピを知りたいって? ようがす、教えてしんぜよう。いつか結婚したときに役に立つよ、きっと」
笹岡さんは一人合点すると、まな板の上でニンニクを刻みながら話し始めました。トントンという音に笹岡さんの声色が混じり合います。
「作り方は簡単なんだよ。まず、レッドビーンズを水でもどし、米と一緒に炊くんだ。次に、炊き上がった御飯に、ニンニクのみじん切りと玉葱とピーマンのさいの目切りを加えて炒め、塩と胡椒とトマトと唐辛子で作ったサルサソースで味付けをするんだ」

出来上がったアロス・コン・フリホレスからいい匂いが立ち上がって、とってもおいしそうです。笹岡さん、なかなかやるじゃん、とうさこは思いました。彼は平皿に盛ったアロス・コン・フリホレスにスプーンを添えて、ソファの前にある応接テーブルの上に置きました。
「ささ、食べなさい」
笹岡さんは、うさこの向かいに座ると、満足そうな笑顔を見せています。
「えーおー」
うさこは、舌がまだ痺れているのに、サルサソースを食べたら、口から火を吹くかもしれへんと考えながらも、せっかくの厚意を無駄にしたくもなかったので、スプーンを手にゆっくりと食べ出しました。味はよくわからないけど、とりあえず火は吹かないみたい。

うさこが食べ出すのを待っていたかのように笹岡さんが喋り始めました。

私はこの仕事に誇りを持っているのです。一生を捧げたといっても過言ではない。もうじき定年だし、最後まで無事に勤め上げたいと願っとります。しかし、ここにきて困った問題が持ち上がってね。いや、初対面のあなたにこんなことを言っても面食らうのはわかっています。わかっちゃいるけど、何か自分だけの胸にしまっておくのが苦しくなってさぁ。

実は我が東京ミンチは、世界最高峰のミンチング技術を持っています。その技術を、このポンガケテラ島から南へ2千キロほど行ったところにある某国の政府が欲しがっているのです。この国は老人の安楽死についての研究で名を馳せている新興国ですが、最近新しい法律ができようとしているらしい。凄まじい人口の増加による食料不足と、安楽死の問題を一石二鳥に解決する名案を思い付いたらしいけど、私は到底賛成できないよ。おじょうさん、ソイレントグリーンて映画観たことあるかな。あんな世界が現実ものになってきたんだよ。おっと、食事中に話す話題じゃなかったね。すまんすまん。

すまんすまんと言われても、うさこは別のことを考えてて、笹岡さんの話は右の耳から左の耳へと。

あの子供どこにいったのかなぁ。

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「ごひほーはまれしたー」
辛さに刺激されたのか少し声帯が反応するようになりましたが、うさこは満腹でまたうとうと眠くなってしまいました。からだがぽかぽかあったかい。くはーっしあわせー!!眠りに落ちる直前のこの瞬間の感覚!!何よりも好き!くふふ。

じりりりりりりりりりりりりりりりりりりん
じりりりりりりりりりりりいりりりりりりん
じりりりりりりりりりりりりりりりりりりん

「はい、はぁ、はぁ、はぁ、まって、じゃすともーめんとぷりーず、ぬきてぱ、イエス、とーきょーみんちこーぽれーしょん、ヤー、ムッシュササオカ、うい」

寝起きでおもわず電話に出てしまったうさこは、未知の言語に三ヶ国語で彼女なりに誠実な対応をしてみせた。
「ささおかさーん、でんわですよー、さ さ お か さーん」

工場にいるのかな?事務所のドアを開けて廊下を覗く。機械の音だけがうるさく響きわたっている。電話の脇に学校の放送室にあるような赤や黄色のスイッチがついたマイクロフォンがあった。使えるのかな?これ?えーとON。コホン。

「業務連絡業務連絡、工場長及び経理、事務、作業員の笹岡さんお電話です。至急事務所までお戻り下さい」
くわあーんとハウリながらうわあーんと響くマイクの音…。

「あろー、エクスキュゼモア、ただいまミスターササオカは席を外しておりますので折り返します。さ さ お か さ ん は る す です。ソー、テレフォンナンバープリーズ、ぬめろ、ぬめろどぅてれふぉん…」
ツー、ツー、ツー…、うさこの努力は実らず、電話は切れてしまった。はぁ、困った。大事な電話だったらどうしよう。出ない方が良かったかなぁ。あとで笹岡さんに謝らなくっちゃ…。

事務机の上には電話、マイクロフォン、東京ミンチの社名入りブロックメモ、粗品の箱に入ったままのボールペン、武富士のポケットティッシュ、備前焼の湯飲み、写真立て、Pontguaketera-Spanish-Englishの辞書が、一見自然なように、しかし一定の秩序を伴って置かれていた。うさこが机の前の椅子に腰掛けてみると右側にある写真立ての中から太って体格のいい日本のおばちゃんが明るい笑顔を投げかけた。古い写真は日に焼けて色彩がとんでしまっている。きっと長い間ずーっとこの窓際の机に飾ってあるんだ。奥さんかなぁ…。

ちょうど窓枠の影がおばちゃんの笑顔の上に落ち、顔の半分で光と影のコントラストをつくっている。そのせいか少し泣いている様にも見える。うさこは写真立ての手前のブロックメモに目を移した。

ニゲロ

その文字が目に入った瞬間、窓の外に視線を感じ黒い影が動いた。
「だれ?」
赤いボールペンで走り書きされた文字。
ボールペンは机の下に放り投げられたまま転がっていた。

☆*゚ ゜゚*☆*゚ ゜゚*☆*゚ ゜゚*☆*゚ ゜゚*☆*゚ ゜゚*☆
t:
うさこが見ると、黒い影はすっと収縮し、元の日射しが机の上にアンニュイな日だまりをつくっていた。

コンコン、、、
どう考えてもあれはノックの音ね、、、と、うさこはすばやく思考をめぐらせた。笹岡さんならわざわざノックするはずもないし、、、となると、、、。うさこは自分の中に恐怖心とともに好奇心が生じたのを感じていた。やれやれ、あたしの好奇心ときたら、まったくぅ。
コンコン、、、
うさこがドアを開けると、黒髪で青い目の長身の青年が立っていた。
「ボンジュール、マドモワゼル」
 うさこは、それが、こんにちはお嬢さんという意味なのをかろうじて理解した。やっぱ、しーや先生の超簡単おふらんす語通信講座を受けといてよかったわ、とうさこは心から思った。

青年はとてもハンサムだった。男優でいうと、ジュード・ロウかアラン・ドロンかといったマスクだ。だばん、、、せれれがんす、、、とうさこは呟いてみる。
「○×△*○×△*○×△*」
あかん、もうわからへん、とうさこは肩をすくめた。
「ミスター笹岡がお待ちです。さ、私と一緒に参りましょう」
ジュード・ドロンは突然流暢な日本語でそう言った。
あんた日本語話せるやん、なら最初からそうしいな、とうさこは毒づいた。
「あんた誰?」
「申し遅れました。私はモローと申します。一応、科学者です」
「ジャンヌ・モローの親戚かなんか?」
「いえ。私の家系は代々科学者を輩出しています。でも、父は銀行員で、祖父はサーカスのオーナーでしたが」
「そなの? で、あたしに何の用?」
うさこは、こいつハンサムやけど何となく胡散臭いなぁ、と思いながら青年の青い瞳を覗き込んだ。
「ミスター笹岡があなたに会いたがっています。これからあなたを彼の元へご案内します」
「笹岡さんなら、ついさっきまでここにいたわ」
「いえ、そんなはずはありません。彼が私の島に来てからすでに半年になります」
「な、あほな」
「とにかく、あなたをお連れしないわけにはいかないのです」

目を合わせていたモローの瞳が金色に変わり、瞳孔が縦長になったような気がして、うさこは強くまばたきをした。再度見ると、もとの美しい青い目がそこにあった。こうなりゃ、どこにでも行ってやる、とうさこは心を決めた。あたりに笹岡さんの気配もないし、それに、、、うさこは、モローに惹かれ始めている自分に気づいていた。いったいモローのどこに、、、。

工場の前には大型のホバークラフトがとめてあった。モローはうさこを中に案内し、助手席に座らせてシートベルトを装着した。そして自分も運転席に座ると、エンジンに火を入れた。豪快なエンジン音とともに船体は振動を始め、すぐに猛スピードで動き始めた。うさこが小舟でやってきた川を下り、たちまちのうちに海に出ると、波の上を飛ぶように走り続けた。

島に着いたのは、水平線に巨大な夕陽が沈んだあとだった。日没を追いかけるように走っていたから、西に向かっているのだけはわかった。残照が水平線から上空を照らし、濃いオレンジ色に焼けた雲のさらに上部は、うっとりするような透明なブルーだった。村上龍は、こんな光景から小説を着想したのかもしれへんな、とうさこは思った。

海面からそのまま砂浜に上がり、さらに内陸に進んだホバークラフトは、とある建物の前に着陸した。
「疲れたでしょう。さあ、中に入りましょう」
もろーはうさこをエスコートして船から降ろすと、建物の入口の方に歩き出した。

ブキキキキ、、、
突然、暗がりから何かが飛び出してきた。うさこは、さすがにキャッと声をあげて立ち止まった。それは一匹のブタだった。正確にいうとブタに似ていた。ブタと何かの雑種かもしれなかった。
「怖がることはありません。害は加えませんから」
「それより笹岡さんは?」
「あとで会えますよ。さ、中に」
モローはドアを開けて、うさこを促した。

ブキキキキ、、、
そのとたん、うさこはブタの眼差しを思い出した。あれは、、、笹岡さんの目だ!

☆*゚ ゜゚*☆*゚ ゜゚*☆*゚ ゜゚*☆*゚ ゜゚*☆*゚ ゜゚*☆
s:
「笹りん!!」
(うさこは勝手にあだ名をつける癖があります。笹りん=笹岡さん)
アロス・コン・フリホレスのいい匂い、軽やかに心地よいリズムでニンニクを刻む包丁の音、楽しそうな鼻歌「いつか結婚したときに役に立つよ、きっと…」うさこの脳裏に笹岡さんのリラックスしたやさしいムードがよみがえって目頭が自然に熱くなってきた。

「プキーッ…」
うさこの足元に走り寄る“笹りん”をモローは足蹴にした。にぶい音と共に冷たく硬い大理石の敷石に横腹をひどく打ちつけたブタの様な生き物は苦しそうに小さくいなないた。

「汚らわしいブタが…」
彼は品の良い麻のパンツの裾をぱんぱんとはたき、見た事も無いような残酷さで笹りんを一瞥した。
「趣味の悪い建物、動物虐待、あなたすっごく性格悪そう」
うさこは込み上げる不快な怒りを顔に出さない様出来るだけ冷静に振舞い、さっさとドアの中に入っていった。

紳士的な対応とは裏腹に彼はプライドが傷付いたのか急に無口になった。それにしても成金趣味の部屋というのは本当に居心地が悪い。愛情がない、物はあふれているのに全体の中身はからっぽで嘘くさい。

「言っておくが、私の趣味ではありません」
「そんなこと、聞いてない、どーだっていー、はやく笹岡さんに会わせてよ!」
「どうでも良くない!これは私たち一族が繰り返してきた人類への冒涜の表れだ!!」
モローは険しい表情になり、ルイ16世風のライオンの足をかたどった立派なテーブルの上をこぶしで何度も強く叩いた。肩がわなないている。
「本当に笹岡さんをあんな動物に変えてしまったって言う訳?あなたこそ彼の技術を欲しがっているっていうどっかの政府のまわし者なんじゃないの?」
いかにも北欧インテリアという感じの椅子があるかと思うとエミールガレの花瓶があり、そのうえアンディーウォーホールのリトグラフと月岡芳年の浮世絵が無造作に所狭しと掛けてあって気が狂いそうである。
「こうなると私の口から何を言っても信じてもらえないでしょう。こちらへ…」

部屋を出てまっすぐに続く長い廊下の途中にはたくさんの部屋があったが暗く人の気配はなかった。廊下の突き当たりを右に曲がると大きな天窓からいちめんの星空が見えた。わぁすごい!と思わず言いそうになったうさこはすぐ異変に気づいた。空の色が赤くなったり青くなったりサイケデリックにゆらゆらと煙のようにたなびいているのだ。なんなの?一体?また目眩が…先を進んでいたモローがいちばん奥の扉をノックしている。

「リエさん、いる?」
「モー坊ちゃん?」
ガチャリと重い鍵を開ける音が聞こえ、顔を覗かせたのは笹岡さんの机の上に飾ってあった写真のおばちゃんだった。写真よりも若く見えるが痩せて顔色が悪い。
「こちらリエさん、笹岡さんと出会う前は私の父の愛人だった。今は笹岡さんの奥さんであるけれど、変わらず私の母でいてくれている。が、いろいろあってね、ここには家政婦さんという名目でいてもらってるんだ」

☆*゚ ゜゚*☆*゚ ゜゚*☆*゚ ゜゚*☆*゚ ゜゚*☆*゚ ゜゚*☆
t:
「お嬢ちゃん、いらっしゃい、よーこそ」
 モローにリエと呼ばれた笹妻(うさこには勝手にあだ名をつける癖がある。笹妻=笹岡さんの奥さん)は、かつての妖艶さの名残がある眼差で言った。
「こんにちは」
 うさこは、モローと笹妻の関係性に素速く思いを巡らせながら軽く会釈した。
「ポンガケテラ島からご足労願ったのです。しばらくここに滞在することになると思います。リエさんには、いろいろお世話をしていただくことになりますが」
「心得ました」
「ちょ、ちょっと待ってよ。あたしはこんなとこに長居するつもりなんてないわ」
 うさこはモローをキッと睨みながら言った。
「こんなところとは御挨拶だね。キミが嫌でもいてもらわねばならん」
「勝手なこと言わないでよ。それより笹岡さんに会わせてくれる約束でしょ?」
 もう既に会っているのかもしれないとの思いを胸に、うさこはモローに詰め寄った。
「夕食が済んでからということにしたら? お嬢ちゃん」
 笹妻は有無を言わせない猫撫で声で言うと、先に立って歩き始めた。モローもそれに従ったので、しかたなくうさこも彼らに続いた。
 間接照明の薄暗い廊下をしばらく歩くと、笹妻は立ち止まって右手のドアを開けた。開口部から白銀色の光が漏れ出して、うさこの目を射た。うさこが目を細めながら部屋に入ると、そこは漆喰壁の天井の高い部屋で、天井部分には暗めの色彩で龍が描かれてあった。うさこがしばし見上げていると、笹妻の声がした。
「素晴らしいでしょ? 私はいつの日かあれに乗って空をかけてみたいのさ」
 うさこが声のした方を見ると、笹妻がうっとりした顔で龍の絵を見上げていた。
「まあ、座りたまえ」
 モローはさっさとソファに腰を下ろすと、うさこに顎で示して着席を勧めた。笹妻は靴音を響かせて別室に消えた。うさこはしばらく立ったままでいたが、急に疲れを覚えてソファに座った。
「どうだい、素晴らしい部屋だろう」とモローが自慢げな顔をして言った。
「あんたの美的感覚を疑うわ」
 うさこは大袈裟に肩をすくめてみせる。
「なんでもミックスすればいいってもんじゃないのよ」
「フン、異種なものを混合するのは我が家系の伝統だからな」とモローは鼻を鳴らした。
「そんなことより」
「笹岡さんに会わせろだろ?」
「わかってるなら早くしてよ」
「OK、まもなく会えるだろう」
 モローの言葉が終らないうちに、ドアが開いて、料理の乗ったワゴンを押しながら二人の人間が部屋に入ってきた。一人は笹妻で、もう一人は笹岡だった。
「笹りん!」
 うさこは驚きのあまり思わずソファから立ち上がった。
「無事だったのね」
 しかし次の瞬間、うさこは笹りんが無事でないことを知った。その男は笹岡の姿形をしていたが、別人だった。目が違った。別人というよりも、別の何かだった。
「てめえ!」
 うさこはサイドテーブルに置いてあるガラスの花瓶を掴むと、差してある血のように赤い花もろともモローに向けて投げつけた。花瓶は時速700キロでモローの顔をめがけて飛翔した。
 バシッ、という音がして、花瓶はモローの手に握られていた。しかし花瓶から飛び出した花と水は、モローの顔面をまともに襲った。
「笹りんをどうしやがった!」
「そんなに興奮すると。せっかくの綺麗な顔が台無しになる」
 モローは落ち着き払って、顔に貼り付いた花を払い落とした。
「キミという存在は何が決定していると思う? キミの肉体か? それとも意識か? あるいはキミ自身ではなく、キミ以外のものがキミをキミとして存在させているのか?」
「あんた、あたしをバカにしてんの?」
「いや、馬鹿にどころか、その威勢のよさにほとんど惚れかかっているよ」
 モローは上着の内ポケットから小型の拳銃を取り出すと、銃口をうさこに向けた。
「さあ、おとなしく座ってもらおう。いっておくが、これはオモチャではない」
 言うが早いか、モローは銃口を少しずらせて、うさこの斜め後ろにある陶器の壺に向けて発砲した。
バーーーン。

☆*゚ ゜゚*☆*゚ ゜゚*☆*゚ ゜゚*☆*゚ ゜゚*☆*゚ ゜゚*☆
s:
「正直に言うなら、これは私の唯一の贅沢と言って良いだろう。発明、発見する頭脳が私の唯一の救いなのだ」

モローは鼻の穴をヒクヒクさせながらそう言った。高くも低くもない声。フラットな。こいつは…“芝刈り機だ”とうさこは直感した。飛び出た杭を打つ様な手間も惜しむが、それ以前に杭が飛び出ている事に嫌悪さえ抱かず、なだらかに生え揃った緑のカーペットが平和な世界だと信じている。除草剤がどんな匂いがするかたまには嗅いでみたらいいわ。

「殺るならやれば?あたしなんか殺したところでなんにも起きないわよ。それに…」
「それに笹岡はもう以前の笹岡ではありません」
間髪入れずに笹妻が言った。
「そこでだ、僕が君に頭を下げる」
偉そうにモローが赤い花をうさこに差し出した。

「頼みがあるんだ」
「あそ、人に物を頼む時はどうするか教わらなかったの?」
笹りんは黙々と食事の支度をしていた。高級レストランの給仕の様に、りえさんのフォークとナイフを並べている、頬と頬があと数十センチで触れ合う距離で。こんなに遠い数十センチは本当はどこにでもあるのだと気付く。ちょっとした振れ具合で永遠に平行線を辿る運命にある震えが、向かいに座っているうさこにも届いた。笹りんの動きが一瞬止まった。笹妻の顔をじっと見る。
「奥様、鼻が曲がっていますよ」
ビー玉みたいな目で、笹りんは真面目に言った。
言って、微笑み、一歩下がる。
ゆっくりとおじぎをして、今度はうさこの横へ近付いた。

もしかして、もしかして、笹りんは誰よりも一枚上手なのかもしれないという期待でうさこの胸は高まった。ゆっくりと銀のカトラリーが静かに静かに並べられていく。それは雪が舞っている様だった。笹りんが笹りんでなくて、ここが素晴らしいレストランだったらそれは感動を呼んだだろう。
天井の龍はよく見ると鱗を縁取った金箔が剥げ落ちている。それはうさこがずっと昔、毎日ぼんやりと眺めていた窓の外を思い出させた。

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t:
 窓から外を眺めることを、あたしはどのくらいの間続けただろう。そのときの気持を思い起こすのは簡単だと思ってた。手を伸ばせば届く距離にあると思ってた。でも今そうしてみても、そのときの気持はもはや甦らないことに気づいた。
 これはいったいどういうこと? うさこは天井を見上げながら小さく呟いた。あたしは、あのときのあたしからそんなに遠くなってしまったのかしら?
「鼻血でも出たのかね?」
 ふいにモローの声がした。
「涙よ」とうさこは答えた。
「Kyu Sakamotoの歌知らないの? 涙は空を仰いで止めるものよ」
「知らないな。Ryuichi Sakamotoなら知っているが。たららりら、、、たららりらり、、、たららりら♪」
 モローは調子外れなハミングを始めた。
 ハンサムな男が音痴なのは、ほとんど罪悪に近いとうさこは思った。
「さあ、いただきましょう」とりえさんが言った。
「せっかくの御馳走が冷めてしまうわ」
「Let’s eat」
 モローも小鼻を膨らませて同意した。
 食事が始まった。
 うさこは食卓に並び始めた料理を前に躊躇していた。何の食材を使っているかわかったものではないと思ったからだ。そのとき笹りんがうさこのそばに来て、皿に湯気の立つスープを注いだ。うさこが顔を上げて笹りんを見ると、彼もうさこを見つめた。ビー玉の目は変わらず、その奥の表情を読みとることはできなかったが、うさこの心のスクリーンに、ハミングをしながら自分のために料理を作ってくれている笹りんの姿が浮かび上がった。いいわ、とうさこは思った。この食材が何であれ、そこに笹りんが関わっているのなら、そしてもし笹りんが笹りんでなかったとしても、あたしが笹りんという存在をこの胸に宿しているのなら、それは笹りんに他ならないだろう。
 うさこは銀のスプーンでスープをすくうと、ゆっくりと口に運んだ。

 食事が終ると、今日はゆっくりと休みなさいとモローが言い、うさこはゲストルームに通された。モローの趣味が及んでいないかのようなシンプルで上品な内装だった。ただ室内には窓がなく、その閉塞感を内装の趣味のよさでごまかしている節があった。
 うさこは靴を脱いでベッドに横たわった。薄いクリーム色に塗られた天井の中央に控えめな大きさのシャンデリアがあり、光量は下げられていた。うさこは目を閉じ長かった一日を思い返していたが、急に誰かの視線を感じて目を開けた。薄ぼんやりとした室内を見回したけれど、誰がいるわけでもなかった。うさこはふたたび目を閉じた。しかし身体にまとわりつくような視線は消えなかった。うさこは目を閉じたまま視線の来る方向に顔を向け、おもむろに目を開けた。自分の視線の届く先には一枚の絵画があった。
 それはエル・グレコのThe Knight with His Hand on His Breast という作品だった。髭をたくわえた騎士の黒い瞳がキラっと光った。そのとき、うさこに閃くものがあった。カメラだ! 瞳の輝きはレンズが光を反射したからに違いない。うさこはベッドから起き上がって、サイドテーブルに置いてある水差しをカメラに向けて投げつけようとしたが、自分の激昂した気持を必死で押さえつけた。
 気づかないふりをして、奴らを安心させた方が賢明だわ。このまま何気ない態度でいて、夜中になったら屋敷内をくまなく探検しようと決めた。うさこはゆっくりと起き上がってバスルームに行った。浴室内のカメラが気になったので、うさこはしばらく熱いシャワーを出しっぱなしにして中を湯気で満たし、その中で脱衣してバスタオルで身体を包み、脱いだ服を脱衣室に出した。
 シャワーを使ったあと、さっぱりした気分でガウンをまとい、うさこは備え付けの冷蔵庫を開けてみた、中にはボルヴィックの水ボトルと、ウィルキンソンのジンジャーエールと、見たことのない缶ビールが数本ずつ入っていた、ビールはローカルなものかもしれなかった。うさこはボルヴィックのボトルを開けると、グビグビグビと喉を鳴らして飲んだ。 飲みながら、うさこは考えていた。カメラといい、窓のないことといい、おそらくドアには鍵がかかっていることだろう。では、どうするか。
 うさこは室内の照明を落としてベッドに戻ると、ガウンのままシーツの下に潜り込んだ。シーツは少しカビ臭かった。仰向けになって目を閉じていると、突然インスピレーションがきた。
「壁抜けだわ」
 うさこは小さく呟いた。
 この部屋を抜け出すには、それしかないような気がした。そんなことが可能かどうかわからなかったが、以前読んだ本の中に壁抜けをする男のことが書いてあった。壁の向こうに自分が切望するものを想像すると、原子の単位でのすり抜けができるらしい。
 ただ、そのときには全裸にならなくてはいけないと書いてあったことを思い出した。

☆*゚ ゜゚*☆*゚ ゜゚*☆*゚ ゜゚*☆*゚ ゜゚*☆*゚ ゜゚*☆
s:
ひかえめに、ためらうように、洗濯のりでゴワついたシーツの隙間でガウンを脱いだ。白い綿の毛羽立ちがチクチク肌を刺す。

ショッキングピンクのネオンがやけに明るい国道沿いの安いモーテルも窓がなくてブラックライトで浮き立つマンハッタンの夜景がひらぺったく広がってた。18才の頃、高校の同じクラスのケイコちゃんに誘われて変態のおじさんのお相手をするアルバイトの事務所に行ったことがある。日本橋の雑居ビルの入り口にはモデルクラブの看板が出てた。そこにも監視カメラがあった。誰が何を見る為のカメラなのか、向こう側はどこにつながっているのか、閉鎖された空間とそこに閉じ込められる人間と人を閉じ込めて監視する人間がいて気持ち悪い。五感のひとつを突如無理矢理に剥奪されたようで気分が悪い。こうやって意気消沈させてじわじわ体力を弱めていくつもりの作戦なんでしょう?軽く、拷問じゃないの。愛がないじゃない。愛が。愛のないサディストは自滅するのよ。

「よし、やりますか」
うさこはすっくとベッドの上に立ち上がり、思いっきりジャンプしてシャンデリアに飛びつきぶらさがった。ジャラジャラときらめくガラスのしずくが音を立て、真鍮の鎖がミシミシきしんだ。
「ア~アア~」
ターザンの雄叫びをあげながら脚をぶらんぶらんさせるとシャンデリアは嬉しそうに大きくかたむいて落下し天井に大きな穴を開けた。
まあ、上出来。と思いながらもシャンデリアの下敷きになってしまった右の足首がヌルヌルしている。

コツコツとノックの音がして救急箱を持った笹妻が扉を開いた。
「何をしてるのですか?」
「あ、うん。ちょっと運動してたらはしゃぎすぎちゃった」
「まぁ、運動を、全裸で?」
「はい、なんていうか、まぁ、日課なので…」
「シャンデリアなんかにぶらさがる人がありますか」
りえさんが少し厳しい口調で言ったので、もしかしたら誰かが大切にしていたシャンデリアだったのかもしれないと思って、叱られた猫のような気分で反省した。マキロンは冷たくて清潔な匂いがして、手早く白い包帯を巻いてもらうのは少し気持ち良かった。

「はい、おしまい。さ、ボンヤリしていないでさっさとガウン着なさいカゼひくから」
「はい。どうもありがとう」
なんだ、笹妻も人の子。結構ふつうのおばちゃんなんだ。

「ねえ、ちょっとあたしの部屋で飲まない?キズの手当のお礼に一杯付き合ってよ」
誘いの微笑の中に狡猾さが見えるのはたぶんこのひとの魅力なんだろうけど、一体どんな心情でこの家にいることができるんだろう?人間関係の難しさが昼の連続ドラマ以上だから、泣いたり、喚いたり、恨んだり、憎んだり、愛したり、という事が大げさに表現できないのかな?それとも笹妻も笹りんと同じように以前の彼女じゃないのかな?
「極上のラムがあるのよ。いらっしゃいな」
ドアを開けたまま笹妻は、暗い廊下を静かに歩いて行った。

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t:
 極上のラムという言葉は大袈裟じゃなかったと思わせるほど、妖しい液体はうさこの舌を惑わせ、喉を愛撫した。
「こりゃ、うめえ」と、りゃの音を巻き舌で発音したうさこは、笹妻ことリエさんの部屋のソファに座って、すっかりくつろいでいた。
「あなたって、ほんとにヘン」
 リエさんは、うさこの向かいに座ってグラスを傾けつつ言った。
「ヘンて、何が?」とうさこは訊き返す。
「そんなカワイイ顔をして、男みたいな口の利き方をするし。全裸で体操したりとかね」
「そぉーお?」
「そぉーよ」
 リエさんはうさこの口調を真似て言い、すぐにプッと吹き出した。
「ヘンと言えば、リエさんだって変じゃない」
「私のどこがヘンなの?」
「だってさ、こんなヘンな所に、モローみたいなヘンな奴と一緒に暮らしているじゃない」
 モローの名前を出した途端に、リエさんの表情は微妙に変化した。それは愛と憎しみを内包した表情のようにうさこには思われた。
「モローってのはラストネームなのよ。彼のファーストネームはPYGなの。スペルは一部変えてあるけどPIGのもじりよ」
「へえ。どしてそんな名前にしたのかしら。でも、よく似合ってるけど。あ、失礼」
 うさこは、ぺろっと舌を出した。
「彼の父親がコンバットというTVドラマに出てたVIC MORROWのファンだったの。あなたは知らないだろうけど、サンダース軍曹の役をやった俳優なのよ。それで息子にも同じ名を付けようとしたのだけど、それじゃあまりに芸がないというので悪のりしてピッグ・モローにしたというわけ」
「おもろそうなおっさんじゃない」
「まあね。でも息子にしてみれば、いい迷惑で、物心ついてその意味を知ってからは、彼すっかりいじけちゃって」
 さもありなんと思いつつ、うさこは小さく頷いた。
「おまけに父親がすごく才能と魅力のある男性だったから、どうがんばっても父親を越えられないというコンプレックスの塊になってしまったの」
 モローの父親の話をするときリエさんの目が艶っぽくなることに、うさこは気づいていた。
「その魅力的なおっさんはどうしたの?」
 うさこがそう訊いたとたん、リエさんの目の輝きは暗転した。
「死んだわ」
「そうなんだ。交通事故かなにかで?」
 言いながら、こんなところで交通事故もないか、とうさこは思った。
「そうじゃないの。ブタに食われて死んだのよ」
「!」
 その言葉を聞いた一瞬に、リエさんの顔がブタに見えたのはきっと目の錯覚に違いない。
「いったいどうして?」
「腹を減らしたブタ小屋の檻の中に落ちたのよ。まさにエサをやろうとしていた矢先だったらしいけど、誤って落ちて、自分がエサになったって話よ」
 うさこは、もしかしてモローに突き落とされたんじゃないかと、ふと思った。
「そのときリエさんは、ここにいなかったの?」
「私は、もうすでに笹岡の妻になっていたからねえ」
「そなの? なんでそゆことになったの?」
「ここの豚肉を笹岡が管理してたミンチ工場に納品してた関係で、モローの父親と笹岡は顔見知りだったのよ。で、笹岡が誰かいい人はいないかってモローの父親に頼んだの。それで、私は笹岡リエになったってわけ」
「でも、リエさんは、こう言っちゃなんだけど、愛人だったわけでしょ? モローのパパの」
「次の愛人が控えてたからね」
「な、アホな」
「でも、あの人は悔やんでたみたい。あたしとの方がしっくりいったって、ポンガケテラ島に顔を出したときに、そっと耳元で呟いたのよ」
 リエさんは、ちょっと嬉しそうな顔で言った。
「でもなぜ、リエさんはポンガケテラ島を去ったん?」
「モローを、ほっとけなくなったからよ。私にはなついてくれてたし、父親を亡くして以来、実験室に閉じ籠もりっきりだったから」
「モローを愛しているのね」
 うさこが訊くと、リエさんはしばらく考えてから言った。
「息子同然に思ってきたからさ」
 そう言ってから、リエさんはグラスに入ったラム酒を一気にあおった。

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s:
「悪乗りしすぎたのねぇ…自分で言うのもなんだけど、
 幸か不幸かあたしと一緒にいる男はみんな出世するのよ」
「で、一緒にいなくなった途端に転落するんだ。リエさんって
 こわーい、それ知ってたの?」
「そおねぇ、自分で気づいたのは14歳の頃かしら、なんか他の
 子と違うんじゃないかって…」
「そーじゅくだねー、それにしてもさー、リエさんってオバハン
 なのにびじんだよねー、うん、びじんだよぉ、あたひ、こんな
 にびじんなオバハンみたことないよぉ、じょゆーとかなればよ
 かったのにねーもったなぁ…」

滑らかな褐色の液体は心地よく、からだをあたため、徐々にうさこをおっさん(または幼児)化させていた。

「さ、遅いしもう寝ましょ、つき合ってくれてありがとね」
「えーーー!やーーだー!もっとおはなしするーーーーーー」
「じゃあ、そんなに飲むのよしなさい、ケガしてるんだし…」
「やーーーーだーーーー!のーーーーーーむーーーーー!!」
「だってそんなに酔っぱらったら部屋に帰れないでしょう?」
「いーーーーのーーーー!ここでねるのーーーーーーー!!」
「そう、じゃあ、本を読んであげるから、もう横になりなさい」
「ふあーーーーーーい」

「むかしむかしあるところに背が高く、胸板の厚い…」
「リエさーん、それ、ヘン、ぜぇったいヘンだよぉ“むないたの
 あつい”って、ヘーン」
「いいのよ、そう書いてあるんだから…」
「なーにーそのほーーーーーん」
「ポンガケテラのむかしばなしって本よ」
「ふーん…ほれで?」

「むかしむかしあるところに背が高く、胸板の厚い、たくましく
 美しい、りっぱな青年がおりました」
「リエさーん、ちょっとほめすぎーーーーーそんなせいねんみた
 ことないよーーーー」
「いいのよ、お話なんだから…」
「そのひとなんてなまえ?」
「誰?作者?」
「ちがーーーーう、ちがーーーう、そのせーねん!」

「青年の名は、ザムザといいました」
「へんななまえーーーーーーーー!」

「ザムザは豚飼いでした」
「へんななまえーーーーーーーー!」

「ザムザは自分のちいさな豚達ををたいへん愛して大事に大事に
 育てておりました」
「ザムザいいやつーーーーーーー!」

「ポンガケテラの豚達は小さくて黒くて丈夫でなんでも食べまし
 たので、日照りと雨期でまともな農業ができないこの島の人び
 とが自立した暮らしを営むためたいへん役立っておりました」
「ザムザはーーーーーーーーーー?」

「ザムザや島の若い男たちは木曜日にポンガケテラより大きな島
 の市場まで船で肉を売りに行きました。そこで薬やノートやえ
 んぴつを買って戻り、ちいさな島の弟や妹達のため、すべて学
 校へ贈られました。これは島の全員で決めたことでした。ポン
 ガケテラでは、なんでも全員で話し合って決めるのです。ひと
 りでも、反対の意見の者があるときは、もういちど、全員では
 じめから話し合うのは昔からのやりかたです。そして、そのや
 りかたは本当に“いちばんいいやりかた”だとみんな全員一致で
 信じておりました。豚の他には雨期の間にだけ咲く美しい花が
 売れました。この花はとてもめずらしいのでお金持ちが欲しが
 るのでしたが、お金持ちは気まぐれなので、決して安定した収
 入にはなりませんでした。それなので、ザムザたちは細々と、
 小さくて丈夫でゴミでも虫でも何でも食べてくれる島の豚達を
 大切に育て殖やし、大切に殺し、必要なものと交換しました」

「…あらあらやっと静かに聞いていると思ったら寝てるんじゃな
 い、まったくこの子は…」
リエさんは膝の上で静かに本を閉じた。

革張りの、この古い本は何度読んだだろうか、すでに年期が入って黒光りしてる。三十年も前、笹岡が初めて読んで聞かせてくれた時、私も酔っぱらっていたのを思い出した。

「いいかい、この本を読むのは夜だけにすること。これはポンガ
 ケテラの語り部が月の光の下で口承してきた昔話なんだから」
笹岡は私の耳元でそっとささやいてやさしく笑った。なんてロマンチックな人なんだろうと思ったのを今でもよく覚えてる。

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「こんな夜には思い出がよみがえるものさ」
 入口の方から懐かしい声がした。リエさんが驚いて顔を向けると、そこに笹岡が立っていた。
「あなた」とリエさんはかすれた声で言った。
「どうしてここに?」
「ドアの鍵はかけておくもんだ」
「かけたわ」
「そうかい」
 笹岡は上着のポケットから鍵の束を取り出して、ベッドの上に放り投げた。
「合い鍵ね」
 それには答えず、笹岡はソファに腰を下ろした。
「いったいどうしたの?」
 リエさんは内心の動揺を押さえながらそう訊き、次の瞬間、あることに気づいて愕然とした。かつての笹岡に戻っている。
「リエ、一刻も早くここを出るんだ」
「どういうこと?」
「詳しく話してる余裕はない」
「理由もわからずに動けないわ」
「わしを信用してくれ」
 リエさんが何か言おうとするのを制して、笹岡が続けた。
「実は、三か月ほど前に宇宙が収縮に転じた。そのことに気づいたのはわしだけだと思っていたのだが、どうやらモローもそれに気づいたらしい。なぜだかはわからない。そしてモローは、かねてから研究中だったアンチエイジング装置に、その収縮のエネルギーを取り込むことに成功したんだ」
「ちょ、ちょっと待って。いったい何のことだか」
 リエさんは、かつての笹岡に戻ったと思ったのは錯覚だったんだわ、と思いながら言った。こんな荒唐無稽なことを、あの笹岡が言うはずがない。
 笹岡は、リエさんの言葉を無視するかのように、話を続けた。
「アンチエイジングってどういうことだかわかるかね。要するに若返るんだよ。しかし、細胞が若返るというよりも、時間が遡るんだ。その装置の影響が及ぶ範囲内に存在する全ての物の時間が逆行する。人間でいうと、老人から若者へ、若者から子供へ、子供から赤ん坊に、赤ん坊から生まれる前へと。だから、リエ、早くこの島を去るんだ」
「若返るのなら、願ったり叶ったりじゃない。特に女性にとっては夢のような話よ」
 リエさんは、ベッドの上で半身を起こしたままの格好から、床に足を下ろしてベッドの端に腰掛けた。
「おまえさんは、わかってない」と笹岡は溜息まじりで言った。
「時間が逆行するということが、どういうことなのか。そのとき何が起きるのか、全然わかっていない」
「ええ、わからないわ。いったいあなたが何を言ってるのか」
「とにかく、わしと一緒にこの島を出よう。すぐに支度をするんだ」
 笹岡は、そう言って立ち上がった。
「でも」とリエさんは躊躇する。
「さあ、早く」
「この子を残して行けないわ」
 リエさんは、ベッドに横たわってスースー寝息をたてているうさこを見て言った。
「なぜだ?」
「だって、とってもいい子なんですもの」
「それは、わかっとる」
「なら」
「わかっとるが」と笹岡はイライラした口振りになった。
「ジェットスキーは二人乗りなんじゃ」
「それじゃあ、この子を連れていって。ここにいると危険なんでしょ? それにモローの身にも危険が」
「危険の発生源はモローじゃよ」
 そう言った笹岡のビー玉のような目が一瞬真紅に染まったように、リエさんには思えた。
「なぜモローが危険なの?」
「奴は自分の過去を消滅させたいんだよ。これまでの人生を無かったことにしたいのさ。そのための切り札がアンチエイジング装置ってわけだ」
「もう一度赤ちゃんから再スタートを切るのね。だったら、誰か世話をする者が必要じゃないの」
「そうだな。でも、リエ、おまえさんにはできないよ」
「どうして? わたしもうんと若返って、昔の美貌を取り戻して、モローのオムツを替えるわ」
「おまえがおまえでなくなるからさ」
 笹岡は、この世の悲しみを一手に引き受けたような表情になった。
「う、うーん」
 そのとき、大きく伸びをして、うさこが目を覚ました。

(つづく)

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