ほんとのきもち
気が進まないなあとチラっと思っても、いろんな言い訳を考え出して、やる方向に行ってしまうことって誰にもあるんじゃないかな。その結果、自分にとっても自分の大切な人たちにとっても、いい事にはならないんだと最近痛感している。ほんとのきもちを尊重すれば、困難な状況にあっても中心はぶれないし、何より喜びがある。
気が進まないなあとチラっと思っても、いろんな言い訳を考え出して、やる方向に行ってしまうことって誰にもあるんじゃないかな。その結果、自分にとっても自分の大切な人たちにとっても、いい事にはならないんだと最近痛感している。ほんとのきもちを尊重すれば、困難な状況にあっても中心はぶれないし、何より喜びがある。
ある本に、人間の全ての行為は思考から始まる、それが現実の本質である、という意味のことが書いてあった。思考は無数に浮かんでくるが、その全てが行為に結びつくわけではない。では、残りの思考は消滅してしまうのだろうか? あるいは、そうなったかもしれない可能性として飛び立ち、どこか別の世界に姿を現すのだろうか?
目が覚めてベッドの中でしみじみ思った。あの時あの人に出会わなければ現況はなかった、あのクリックをしなければ今に続く人の縁は生じなかった、そんなことは誰にとってもあるのだろうなと。そう考えると、人生で無駄に出会う人なんていないのかもしれないが、それをどう感じるかは、今が幸せかどうかに左右されそうだね。
視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚を五感といい、人間はこれらの感覚によって外界の状態を認識しているわけだが、五感は、あなたが確信し受け入れるところの現実を知覚するという説がある。つまり、確信し受け入れているものを変えれば、自分の感じ方も変化していくということになる。感覚は決して受動的なものじゃないのかも。
好天の水源地で満開の桜を見た。人々が地面に座って花見をしていた。帰宅すると遠方の妹からメールが届いており、17年間共に暮らした愛猫が危篤だという。飼い主の故郷の桜を見せてやれとメール添付で写真を送った。半日後に返事が来て、今日が猫の命日になったと書いてあった。そのとき一片の花びらが枝から風に乗った。
純粋に他者を思いやるのは難しい。相手のためと言いながら実は自分の気持を楽にするためだったりするからだ。真にその人のためになると信じるならば、わかってもらえない哀しみや、その人が苦しむのを見ることにも耐えねばならない。何かを選択するとき、それが愛に基づくものであるかどうかを常に自問して生きたいものだ。